September 16, 2008

新聞休刊日にリーマン破綻について語る元ライブドア・堀江氏

こういう日に、新聞休刊日にあたっているからって日本では朝刊は全部休みかい。経済的には大事件があったとはいえ、急に出社して輪転機回すなんてできねーだろと言われれば確かにそうだし、それはネットがあるだろと言われれば、確かにその通り。

だが、やはりそんなとこ見てても、紙ベースの新聞は今後長くないなあという気がするし、大半の若者が新聞読まないなんて聞いてもへーそうだろねとしか思わない。だってだるいもんね。

もしも紙ベースの新聞の価値に拘泥するなら、こういう緊急時の体制について、しっかり考えていかないとだめだろう。もちろんがんばって出社して社員が輪転まわせとか、編集委員が駅前で号外を配れとは言わない。言わないけれど、ネットを含めての現代的な報道機関としてのあり方全般。その結果の紙からの撤退がもしあるのであれば、それはそれ。負け犬的な撤退ではないと言えるような形。

で、負け犬ではない堀江氏の話。

元ライブドア堀江氏が、旧友の藤田氏のサイバーエージェントでアメブロによる「六本木で働いていた元社長のブログを復活させて話題になっているが、折りよくというか折り悪くというかおきた、リーマンブラザーズの破綻。今日16日には「リーマン破綻でメール取材受けるもボツになったので」 という記事でリーマンの破綻について感想を語っている。何でもタイトルどおり、メールで受けた取材がボツになったからという理由。

要点は3つで

(1)これはやっぱり大変なことだ

まあ、全米4位の投資銀行ってことで、1位になるべく、上位の会社よりリスクをとっていたでしょうから、サブプライム問題による住宅バブル崩壊に影響され やすい立場にあっただろうことは、容易に予測でき、特段の驚きはありません。ただ世界経済に与える影響は日本の(*1)山一が破綻したときときとは比べ物になりま せん。

(2)あの時リーマンがやってくれたことはリスクテイクではない

リーマンはMSCBの引受をやってくれました。それ自体はライブドア株の流動性は高かったので特にリスクが大きいということはありません。MSCBは簡単にいうと一旦リーマンが資金を出し株を借りて、借りた株を市場で売って資金を回収するという手法です。

That's simple.......

(3)今後の展望

リーマンその他の破綻した、あるいはしそうな金融機関のプリンシパル投資が引き上げられたり株が売られたりして会社の価値が、暴落するので、M&Aしやすくなって、暫くしたら活発化するのではないでしょうか。いま手元流動性を沢山持っている会社はチャンスです。

確かに日本企業の手元資金は潤沢であるといわれており、海外企業の買収は今年非常にハイペースで進行しているとか。リーマン救済については日本の金融機関にも働きかけがあったと聞くが、ここからしばらく、アメリカの金融機関が軒並みどれだけボロボロになるかは想像もつかず。

日本企業が米国企業を救済するという、何だかなあの、いつか見た悪夢みたいなデジャブが展開されるかもしれない。

しかし、堀江さんに「チャンスです」って言われてもなあ。

どうなの。


(*1)加筆
Wikipedia「山一證券」によれば

破産宣告後の手続は、債権者の多さや、海外資産の整理に手間取ったために長引いたが、最終的に2005年1月26日の債権者集会をもって終了した。同年2月に破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年あまりが経過しての終焉であった。最終的に、日銀特融のうち1,111億円が返済不能となった。

なんだ、あれはたった1000億ちょっとの話だったのかなどと思ってしまう、イケナイ今日この頃。

2008 09 16 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

May 25, 2008

「優秀な」日本と「憐むべき」警戒心

何とか猛々しいではないけれど、国連事務総長の必死の説得に高慢に応じる形で、ビルマ軍政は海外からの人的支援を受け入れることをやっと承諾した。決断には、内政への政治的介入を行わないこととといった条件がつけられており、皮肉にもビルマのサイクロン被害者を救おうという国際社会の善意が、政治的に逆手に取られた形になった。

間もなくビルマでは、アウン・サン・スーチー氏の自宅軟禁がさらに延長されるかどうかという重要な期限を迎える。軍政がこれを延長するのはほぼ確実とみられており、これに対して抗議の声を上げることが、少なくとも国連レベルでは困難になった。懸念されていたように、政治的取引として外国からの援助さえも、自国民の生命と一緒に人質に取られたとしか言いようがない。ここまでして権力にしがみつこうとする、意志とは一体何か。その負のエネルギーには呆れるとともに、空恐ろしいものさえ感じる。

それはともかく、今朝の朝日新聞を見ていたら、これを受けて早くも日本の医療チームの先遣隊が、今日ビルマに出発するらしい。近隣以外の諸外国では異例の早さのようで、このたりは正直ほーと思う。このあたりは比較の問題なのだが、確かに日本は海外への災害支援対応については、卓越したスピードを持っているように思う。常日頃、自分の国に関して褒めた試しはないのだが、そうした点はやはり、相対的に優秀なのだろうと思うし、日本人にはそれを可能にする地力も、思いもあるのだろうと思う。

四川の大地震で日本の災害救助隊は敏速に活動を行うことがかなわず、被害者の救助はできなかったが、遺体に対して黙祷を捧げる日本隊の姿は中国でも大きく報道され、好意的な反応が多く見られたというが、さて、はたして中国の多くの人たちは日本人がこうした活動に関して、特に現場は大変に誠実に、利益を度外視して動く民族であるということを知らなかっただろうか。きっと知らなかったのだろうな。

直接に日本人とのつきあいのある少数の中国人は除いて、あるいは多くの人にとって、日本人は中国を侵した野蛮な民族であり、上海で大虐殺を図った民族であり、成り上がりにあぐらをかいて、アメリカにすり寄るアジアのならず者というステレオタイプに見えているのかもしれない。(もちろんこの誤解は双方にありうるのだが。)

だが、我々は知っている。多くの日本人、特に医療災害の現場に働く人たちのなんと誠実で勤勉であることかを。いったん事が起きた時に、被害者が日本人であるからとか、中国人であるとかいう理由で彼らが区別などするわけもない。不眠不休であらゆる知恵を出そうとする。簡単にはあきらめない。それが日本人であるし、その勤勉さには、我々はもっと自信を持っていくべきなのだろう。もちろんこれは、日本だけではない。民間レベルではどこの国の人々であっても資質の方向こそ違え、独特の長を持っていると信じているのだが。

少なくともビルマの軍政が気にしているように、「援助に名を借りた不当な政治的介入」など、少なくとも日本の災害援助・医療関係者が行うべくもないしまた、言葉の誤解を恐れずに言えば、政府にもその「器量」もない。しかし百戦錬磨の外交の場となってくると話は変わってくるだろう。

欧米のNPOやNGOの中には、海外援助を表看板にしながら、国家的・政治的「意志」と裏で結びついている団体も少なくないと聞く。ビルマ軍政が外国の人的な「侵攻」に極端にも思える警戒心を持つのも、そうしたところに由来しているのかもしれない。

それを口実に彼らの「憐むべき警戒心」を正当化する気はさらさらないが。

2008 05 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

September 30, 2007

更新

更新しました。

インターネットを遮断したミャンマー軍事政権とブロガーの戦い(CNET Japan IT'sBig Bang!)

2007 09 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

September 27, 2007

乱数表で死刑を執行したらどうかと言った鳩山法相

新聞等の見出しでは「署名なしで死刑を」となっていたが、「署名なしで、乱数表か何かで死刑を」ということだったらしい。

死刑を受けるべき人間は執行されないといけないが、(法相は)誰だって判子をついて死刑を執行したいと思わない」と発言。執行の順番について「ベルトコンベヤーって言ってはいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば、次は誰かという議論にならない(鳩山法相)

俺は執行したくないというのであれば、執行書に署名をしなければいい。杉浦正健元法相は在任中には、ついに死刑執行命令書にサインしなかったらしいが、記憶が朧だが他にもそのような「粘った」法相が過去に何人かいたはずだ。死刑に対する言論的な批判は当然あるべきであろうと思うし、法相になったことにより、直ちに例外なく死刑執行書への署名を拒めない、つまり無条件の法順守しかないとまでは私は思えない。死刑反対論であれば、堂々とその主張を立法の場で展開すればいいだろう。その上で国務大臣の執行義務との関係も議論すればいい。あるいは辞することになることも当然あろう。

ところが、彼がここで言っているのは死刑執行廃止論ではない。死刑執行の最後のボタンを自分が押すのは嫌だと言っているのであり、またその行為を最後の一人に委託するのは酷だと言っているようだ。では、一体誰が一人の人間の命を奪うことの最終責任をとるのか。それを乱数表に委ねるというのは悪質な責任放棄であろう。

そもそも鳩山氏に誰かがその役割を強制したわけではない。その役務がつらいというなら、彼は法相を引き受けるべきではないし、その自由がある。

「とてもあんなもの署名はできないなあ、寝覚めが悪くてなあ」
「うん、そうだなあ、くじか抽選で決めてくれれば楽だよなあ」

などという次元の会話は、庶民には許されようが、国政の重要な一端を担うもの、それも政府内の、法務大臣としては許されないお粗末な発言であ る。報道ではあまり追及されていないようであるが、私はこの発言一つをとっただけで、鳩山氏は法務大臣として不適格であると思う。さすがに後から乱数云々 は不適切だったとして取り消したが、取り消せばいいという問題ではない。一時的にしろこの程度の認識を公に吐露した鳩山氏は猛省すべきだ。


先日辞任した安倍前総理の例をまた引くわけではないが、そもそも何を思って彼らは重職を引き受けるのか。その覚悟が感じられない。私はある意味で、閣僚で なくても、政治家は1人の人間であることすら、一端は超越しなければならない局面があると思っている。政治には元来人を人として見詰めた末に、そこから離 れなければより大きな非道を招く恐れのある事態に対して、自分の人間としての苦しみを棚に上げても執行しなければならない局面があるはずである。その苛酷 を引き受けてくれるがゆえに、国民は彼らに社会的敬意を払い、待遇を保証する。政治家になろうとするものなら常識的な覚悟であると思えるが、それすらも危 うい政治家が多すぎると思う。これを「苦労知らずの坊ちゃん」と呼ぶのは易いが、安倍氏や鳩山氏のような「出自の卑しくない」政治家だけに限られたことで はないように思う。果たして政治家の苦しみを引き受けずに、特権だけを享受しようと言う傾向があまりにも強すぎるのではないか。

その観点からMr_Rancelotが言われた

よろしいか。大臣は国家を背負っているのだ。その意味が鳩山法相にはお分かりでないようだ。機能としての自分を掲げることが出来ぬならば、政府になど入るべきではなかろう。(「死刑」/green

 

には全く同意である。

誰もあなたに、あなたの意に染まない行為を強制しているわけではない。責任を負いたくなければその場所に立つべきではない。立ち去ればよい。あなたにはその自由があるはずだ。

2007 09 27 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

September 20, 2007

麻生氏はやはり情報を開示すべきだった。----密室禅譲の時代の終わり

麻生氏が、いち早く安倍総理の辞任の意志を聞いていたにも関わらず、自分の胸に2日も秘したことがどうとか言われているけれど、そしてどうも本当に知っていたのが彼だけなのかどうかも疑わしいというようなことが言われているけれど、このことを国家のコンプライアンスと言うか、危機における情報開示という観点から考えると、やはり問題があったように思う。
現状として、そのことが総裁選における、彼の失点のひとつとして利用されていることは事実であるし、実際安倍首相が麻生氏に打ち明けたときの状況を思えば、相当切羽詰った局面であると思わざるを得ない。であれば、麻生氏としてはまず国家的な観点からも、次には自民党的観点からも、一刻の猶予もおかず、まずは政権の中枢にいる官房長官、あるいは自民党の幹部、そして派閥の領袖にも報告をすべきではなかったか。

というのも、一般の企業ですら危機管理の観点、社会的責務の観点からネガティブなポイントについては一刻も早く情報開示することが厳しく求められる時勢にあって、いわんや国政の重大問題に関してをや、と思うからである。現実的な話で考えても、もしも麻生氏が「然るべく」動いていれば、今日の総裁選における状況は変わっていた可能性もあったと思うからであり、ここでの重大な判断ミスはやはり無視できないと思うからである。

もっとも、わかる部分、あるいは想像できる部分もあって、あるいは密室において総理から辞意を告げられたとき、麻生氏の頭の中にはあるいはその密室性そのものが、次期政権を託された証であるという思い込みはなかったか。特権的に示された情報が、あるいは次期の政権の奪取を保障する印籠のように思ってしまうところはなかったか。

ここで小渕恵三元首相の突然の死去に際しての後継森政権の「禅譲」における不透明さが世論から批判された記憶を思い出したが、ともあれ森氏は「密室における」あったかなかったか不明な小渕元首相からの「禅譲」を周囲に納得させて一度は政権に就いた。
ただその時代から年月は流れているわけであり、民間においての企業の危機管理がこれほど厳しく言われている現状を見れば、麻生氏の処し方も、違っていても良かったのではなかったと、私は思うし、つまりは政権を取れる、取れないという境目は実に微妙なものだなあとも思う。

2007 09 20 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

September 13, 2007

安倍首相辞任を表明----凄惨を知らぬ「美しい国」は弱かった

テロ対策特別措置法の継続がならなかった場合、実質的に辞任を示唆した「職を賭して」発言の時には、これは民主党を相手にした、ぎりぎりのブラフかと思った。民主党が「国際公約」に反して、再三の米国からの働きかけにも関わらず、同法の延長に反対するなら、安倍は首相を辞める。当然ながら政治には空白ができるし、対米国においても、日本は苦境に追い込まれる。それでもよければ反対してみろという、賭けかと思えたのである。

ところが、今日の急な辞任を受けて関係者の発言を聞いていると、すでに参院選の敗北以後、首相の心身は限界に達しており、どうも先の発言も深い思惑からではなく、既に政治的な決断能力を失っていたからであるという見方が強いという。

民主党の小沢代表と会談できなかったことを、最後まで首相は言及し、あたかも民主党の非妥協的な姿勢が、辞任に繋がったが如くであったが、小沢代表によれば、民主党への申し入れは腹を据えた勝負を挑むものではなく、「ご挨拶をしたい」などという曖昧なものであり、代表質問の前に何を悠長なと、小沢代表は会談を断ったという。

要は、諸所で安倍氏の判断力は破綻しており、正常な判断ができなかったというのが実際のところであったようだ。このタイミングでの辞任発表は政治的責任からすれば最悪であろうが、松岡元農相の例もある。実に無責任な軽挙ではあるが、あるいは在任中に最悪の事態になる恐れすらあったかもしれない。自ら職を辞するぎりぎりの力がまだこの人に残っていたことをもって、我らは次善の事態とすべきかもしれない。

それにしても、安倍氏の精神が、あるいは首相の激務には向かなかっただけではなく、その信条である「美しい国」も今となっては空しい理念に思える。「美しい国」どころか、自ら実に美しくない去り際を安倍氏は見せていったわけであるが、その言葉と裏腹に「テロとの断固とした対決」など、おおよそ、彼には土台無理だったろう。

先日、インド洋で給油活動に協力する自衛隊員の取材VTRを見た。どんなときに一番喜びを感じるかと聞かれて、給油した他国の船舶に感謝されるときと述べたときの、若い隊員たちの表情は確かに純粋であり、「美しかった」かもしれない。だが、テロとの対決とは、油を差しただけで終わるわけではないのだ。給油した船は、やがて洋上で敵にまみえるかもしれない。戦闘状態の中で相手を殺傷する場合も当然あるだろう。自衛隊員の給油した燃料は、殺傷のための環境を「友軍」に提供する、きわめて戦闘性の高い行為である。
洋上の夕日に輝く隊員たちの汗は確かに美しかろうが、美しさはそこで美しさとして完結されるわけではないのである。つまり表面的な「美しさ」はこの世界の「醜悪」や「凄惨」と表裏の関係にある。
もちろん、内政でも同様であり、先の小泉前首相が「痛みを伴った改革」と言ったときほどにも、この甘いマスクの首相に「痛み」の意味がわかっていたか。美しさの向こうにある凄惨が見えていたか。

決して米国の為政者を賛美するわけではないが、少なくとも彼の国には、この凄惨から目を逸らして空虚な「美」を唱える大統領はいないだろう。そこが、我々の国に欠けている決定的な覚悟であり、最後に涙目になって小沢氏の非情に恨み言を言いながらこの場を去った安倍首相は、まさにその「甘さ」を体現していたかもしれない。

真に凄惨を見つめて、なお美を唱えることが出来るなら。せめて今はそうした次の傑を望むのみである。

2007 09 13 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

July 09, 2007

赤城農相の問題に安倍首相の空を思う----真に「美しくない」者ほど、虚な「美しさ」を唱えるのか。

赤城農相の政治団体「赤城徳彦後援会」が事務所として届けていた、農相の両親が住む実家の実態について、赤城農相の両親が行ったコメントは迷走を重ね、実に苦しい、それでいて苦笑ばかりもできないものであった。誰もが思うように、メディアの取材を受けた時に母親が漏らした言葉が、おそらく実態にもっとも近いものであり、両親の実感に近いものであったろう。それがおそらく真実に近い形であり、安倍首相が言うような、「うちも祖父の代からの政治家であり、自宅を事務所として使うことは自然なことである」というようなことでもないのは一目瞭然である。

最初の両親の反応や、近隣の人々の証言通り、赤城農相の自宅は、昔はともかくここ何年も政治的活動の機能は持っていなかったのだろう。それでも、ことここに至っては親は息子を庇わざるを得ない。が、おそらく善人なのだろう。メディアの取材突っ込まれると絶句する母親の姿は時の大臣の親御さんにそぐわず、痛々しい。

それにしても、松岡元農相のあれほどの事件があったのに、「ナントカ還元水」のときとほとんど変わらない口先の擁護を繰り返す安倍首相の姿こそ、実に寒々しい。この人の頭の中には、反省であるとか、あるいは成長だとか、そういう言葉はないのだろうか。宰相に就いた時から感じていたのは、この人物の言葉の恐ろしいほどの寒々しさと不誠実な言語である。

「人生いろいろ会社もいろいろ」と言ってのけた小泉前首相も相当なものだったが、それでもやれやれと苦笑させる「人間的」要素も現れていたと思う。人々は敏感にそれを感じ、それでもこの人を支持した。安倍首相が、任命権者としてぎりぎりまで大臣を庇うのはいいとしても、ベタに同じ言葉を繰り返す表面的擁護ではなく、「批判的に庇う」政治戦略もこの世界にはあるはずである。

赤城農相の陥った蹉跌は、実は政治家だけのものではない。自宅に会社をおいて、諸経費を経費処理している経営者も沢山あるだろう。家族と食事してそれを原価に算入している社長も星の数ほどあるだろう。これらはもちろん望ましくない。だが、企業経営者は少なくとも領収書は公開しなければならないし、企業業績で株主の裁断を受けねばならない。
巨額の政党助成金をはじめ、国民の税金を基本的財源として政治活動を行わなければならない政治家には、中小企業経営者に遙かに優る公開責任があるはずである。ところが首相の態度は、それを報告することを推奨する、あるいは不適切な法規は改正することを志向する方向に行かず、政治活動の秘匿性のような、前時代の遺物がそれに先立って優先される政治家の体質を、ただ盲目的に庇うだけである。首相は最高権力を付託された一個の人間として、はっきりとこの問題と向き合う必要があるだろう。

ところが彼の言葉には、一昔前の役場の窓口にふんぞり返った小役人にも劣る、紋切の建前論しか感じられないのである。

大事な近しい者をできるだけ庇おうとする気持ちも、それだけならば、それはそれで「美しさ」だとは思う。
それを貶めてしまう「状況」を作り出した農相のなんと親不孝なことかとも思う。
安倍総理の「擁護」が「そのようなこと」をご両親に強いる結果になることを安倍総理自身はどう感じるのだろう。
今の日本で「美しさ」が失われつつある状況というのはあるのかもしれない。
しかし、それはまさに安倍首相自身が「当然」と思っていること、「しかたがない」と思っていることの中にある。(
美しい日本の難しさ(NairFessメモ帳)

FairNess氏の言うように、「美しい国」を唱えたのは安倍首相である。人が係累を庇う当たり前の人情を、正直にモノを言えない苦しい状況との板挟みに追い込んでいるこの国の政治の「醜さ」、そして実際にそれが幾多の政治家自身をも追い込み、滅ぼしてきたという非人間的な過酷と現実を、この人の眼は果たしてとらえているのだろうか。

「美しくない」者ほど、空虚な「美しさ」を中身のない言葉で過剰に言いたてるのかもしれない。この人物を見ているとつくづくそう思う。

2007 07 09 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (7) | トラックバック

June 30, 2007

朝鮮総連問題---緒方元長官逮捕への疑問

緒方元長官が、詐欺容疑で逮捕というのは実に意外である。てっきり朝鮮総連が結託して競売逃れのための偽装売買を行ったという方向に行くかと思っていたら、緒方元長官が「代金を払う気がないのに」ありもしない投資話をもちかけて、総連から建物を騙し取ろうとしたという。また緒方長官に投資話を持ちかけたという投資家も、投資を確約したわけではないという。

実に不可解である。そもそも緒方元長官のような法律の専門家が、支払いもできない不動産取引を行って、建物を搾取することができるなどと、本気で思うだろうか。また、緒方氏は取引直後に、代金決済ができない場合には登記を抹消するという誓約書を差し入れている。つまり、登記移転後に代金が決済できなければ、当然のごとく登記が現状復帰されることを熟知していたし、事実その手続を行っている。

また、逮捕も実に性急な印象がある。果たして当初緒方元長官に資金の提供を申し出たとされた投資家の男性の発言の裏を、どこまで検察はとっているのだろうか。資金提供を明言したとまでいかなくても、巧みにほのめかしたとすれば、むしろ詐欺を働いたのはこの男性で、緒方氏は被害者になるはずだが。

緒方元長官、詐欺容疑で逮捕…朝鮮総連建物売買で(中央日報)

検察はまた朝鮮総連の依頼で取引を仲介した不動産会社の元社長(73)ら2人に対しても同じ容疑で逮捕した。朝鮮総連中央本部会館売却件と関連して検察に逮捕されたのは今回が初めてだ。これによって取引を主導した朝鮮総連許宗萬(ホ・ジョンマン)副議長が検察の刃を避けることができるかどうかに関心が集まっている。

さらに言えば、検察が朝鮮総連から建物は奪い取るが、責任者・許宗萬氏の身柄を押さえることは見送ったという、総連を含めた出来レースの匂いを感じてしまうのは自然な流れではないだろうか。万一そういう謀略があるとすれば、緒方氏はスケープゴートにされたことになるのだが。

この件、注視していたい。

2007 06 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

June 17, 2007

年金不備データ5000万件はどうやって生まれたか。怪しい計算でこじつける。

一般的にデータベースで、そのレコードが同一人物のものであることをどこで峻別するか。最良なのは、もちろんkeyとしてのIDを全人物に振ることであるが、それが難しければ、生年月日や電話番号、姓名ふりがな、あるいは住所や電子メールアドレス等の複合だろうか。レコードの量が、数百、数千、あるいは数万程度であれば、keyとしての統一IDがなくても、ある程度はこれで管理することができる。ところが、年金の支払受給記録のような、全国民を対象にするような巨大なデータベースの場合、どういうことが起きるか。戯れにモデルとして単純化して試算してみよう。

個人識別の手段としてもっとも使われやすい生年月日で考えてみる。対象は、この80年間に生まれたすべての国民とする。生年月日の組み合わせは幾通りあるか。(ここではうるう年はモデルから除く。また昨年生まれたばかりの乳幼児が自分で年金を支払うわけがないが、成人後にはその乳幼児のデータも問題になる可能性があるということで数値に含ませる。)1年間の生年月日は365通りであるから、80年間ではこれに年数をかければよいので、365X80=29200通りである。この80年間に生まれた国民が仮に1億人いるとすれば、1億人のすべてがこのどれかの誕生日に属していることになる。同一の誕生日に平均何人の国民が集中しているかというと1億÷29200≒3425人となる。

※以下怪しい計算が延々と続く。数字が超苦手な人と超得意な人はどちらも読まないように。。。

さて、この3425人の中に、同姓同名がどのくらいいるだろうか。簡単には試算できないけれども、敢えて強引に論を展開しよう。通常200名程度の1学年の生徒の中に同姓同名が1組いるかいないかだが、400名いれば1組はいるのではないかといういい加減な「生活実感」に基づくと、およそ同姓同名率は0.1%強。で、ここでも0.1%としてしまおう(笑)。3425名に対して3.4人。それを29200通りの誕生日に配分すると、29200X3.4=99280人。っていうか、これなら最初から1億人の0.1%で計算する10万人という結果とほぼ変わらないことになるか。まあ、そもそも「生活実感」から算出するための回り道だったということでご勘弁。

#あるべき場所にいけば、同姓同名率なんて簡単に導き出せるんだろうねっていうか、本当に導き出せるんだろうか。

面倒くさいが先を続けよう。この10万人に対しては、生年月日と姓名というフィルターでは、レコードの固有性が証明できないことになるので、次のフィルター、つまり電話番号や住所で同一性を見つけなければならないことになる。

#姓名というのも曲者で、特に女性の場合、旧姓と新姓のひもづけが正しくなされていないと、別人格として年金記録が照合される危険性があり、実際既に指摘されているわけであるが、これも話を単純化させるためにひとまずおく。

当然移転していたり、電話番号が複数あったり、という事情が出てくるので、この10万人に対して同一人物であるか、異なる人物であるかを判断する手間はここで急に煩雑になってくる。ともあれ、同一人物を他人と判断したり、その逆を行う危険性の最大値が、このモデルでは10万人あるということだ。これはこのままにしよう。

さらに、これは姓名の読みが正しくなされていて、入力の際のミスが皆無であるということを前提としている。先ごろ行われた社保庁のサンプリング調査では、3090件に対して入力ミスが5件、誤入力が20数件あったという。併せて25件がミスとして、出現率は約1%弱。先の10万人に重ならないように、この誤入力が、レコードの同一性の確認に何らかの影響を与えるとすれば、1億X1%=100万人。お、急に大きな数字が出てきた。しかし、誤入力が必ず年金の受給記録に影響を与えるとは言い難いので・・・・・。うーん。この100万人をそのまま危険数値とするのは違うだろうな・・・。だが面倒くさいので、そのままさっきの同姓同名リスクと単純に足してしまうと、110万人。

ここまで考えてきても、現在問題となっている5000万件といわれるデータ不備の現状に迫ることはなかなかできない。

そうか、この110万人からの「危険予備軍」を長年放置し続けたと考えるとどうだろうか。仮に30年間こうした現状が繰り返されてきたとする。1年間に生まれてくる子どもの数は1970年代前半には、およそ200万人だったのが、最近では110万人程度に減少しているということなので、間をとって(乱暴だ!)毎年150万人が生まれ、そのうちのえーと(疲れてきた)1%がミス入力の予備軍、0.1%が同姓同名の予備軍として1万6000人の「新危険データ」これが30年間続いて・・でも亡くなっていく方もいるなあ・・まいいや。ここでも乱暴に単純に足していく。(いいのか?いいことにしよう。)

それでも48万人。先の数字に足してしまっても158万人。

そうだ、考えてみれば5000万件のデータは5000万人のものではなく重複があるのだろう。転職を繰り返すたびに、1人につき新たな不備データが生まれる可能性もあったわけだから、そうだ、1人につき5件程度の不良データが「量産」されたことにしよう。すると158万人X5で790万件。うーん。だいぶ大きくすることができたけれど、これでも5000万件には程遠い。

引っ越しさせるか。そうだ。転職だけではなく、移転のたんびにわかんなくなっちゃったことにしよう。(いったい何をやっているんだか)これらの「危険予備軍」が平均6回引っ越して住所が変わり、それがすべて名寄せできない不備データになってしまえばいいんだ(いいんだって何よ)。これで大幅に稼げるぞ。790万件X6=4740万件!!

やった!これで5000万件の不備データ数にかなり近づけた!めでたい(か?)

で、何だっけ、これを1年間で再調査して解決するんだっけ?えーと1日に・・・

(疲れたので以下略)

※いやあ、これは「はてな」の方でやればよかったかな・・・

2007 06 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (9) | トラックバック

April 12, 2007

更新

更新しました。

ダルフール紛争をGoogle Earthで見る----Googleの苦いプレゼンテーションは有効だ。(CNET Japan IT's Big Bang!)

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April 07, 2007

都知事選で選管が映像削除要求---ではYouTubeに公平に投稿したらどうなる

選挙になれば、YouTubeの存在が波紋となるであろうことは前から予想されていたわけであるが、東京都知事選で「ある候補者」の政見放送(ご存じの方はご存じの通り)が「爆発的ヒット」となり、ついに選管を動かす事態となっている。

東京都知事選に立候補したある候補者の政見放送が、3月末にYouTubeに投稿された。当選の可能性が薄い“泡沫候補”だったが、特徴的な外見や話し方、過激な内容がネット上で話題になり、再生回数は、削除されるまでの約1週間で50万回以上に上った。削除後も同じ動画がさまざまな動画投稿サイトにアップされ、それぞれ数万回~10万回ほど再生されている。

選管困惑…都知事選“泡沫候補”がYouTubeで浮上 Web2.0が選挙を変える?(iza)

で、ついに削除依頼がされた。

都選管は5日夜、AmebaVisionとYouTubeに投稿された政見放送動画計65件を削除するよう申し入れた。AmebaVisionを運営するサイバーエージェントは6日、「特定の候補者の政見放送だけが自由に閲覧できる状況は不公平」などとし、該当の動画を削除した。

 東京都選挙管理委員会(都選管)は4月5日夜、動画投稿サイト「YouTube」「AmebaVision」に対して、両サイトに投稿されている都知事選候補者の政見放送を削除するよう申し入れた。AmebaVisionを運営するサイバーエージェントは6日、「特定の候補者の政見放送だけが自由に閲覧できる状況は不公平」などとし、該当の動画を削除した。


AmebaVisionで政見放送削除 都選管が依頼、YouTubeも(ITmedia)

「特定の候補者の政見放送」だけが自由に見られることが問題になるのであれば、全候補者の政見放送をアップしてしまえば、問題は消えるのだろうか。と考えたのは私だけではないはずであるが、そういう問題だけではないらしい。

法規的に問題となると考えられるのは、公職選挙法の2つの条文(146条、151条)。前者は、ネット選挙自由化の観点から、かねてから改正が唱えられているが、昨年の異様な盛り上がりが覚めたのか、参院選までの隠し玉なのか、結局実施されずに今日に至っているおなじみの条項。

(文書図画の頒布又は掲示につき禁止を免れる行為の制限)

第146条 何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問わず、第142条(文書図画の頒布)又は第143条(文書図画の掲示)の禁止を免れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する文書図画を頒布し又は掲示することができない。

都知事選に見られるように、選挙期間内にマニフェストはくるくる変えることができても、ホームページを更新することが実質上できないという馬鹿げた事態が続いているくらいだからね。しかしウェブサイトは「文書図画の配布」にあたるという解釈が苦しいながらも流通していたわけだが、YouTubeが「文書図画」であるという解釈は難しかろう。

そこで、むしろ151条が問題になろう。

(選挙運動放送の制限)

第151条の5 何人も、この法律に規定する場合を除く外、放送設備(広告放送設備、共同聴取用放送設備その他の有線電気通信設備を含む。)を使用して、選挙運動のために放送をし又は放送をさせることができない

しかしここでも問題がある。では、YouTubeのような動画サイトは放送設備なのか?投稿された動画を誰にでも閲覧できるような状態にはしているが、これは「放送設備を利用して放送する」という概念には馴染まないように思われる。そもそもYouTubeを「放送設備」を備えた放送局であると断じれば、放送法の兼ね合いが出てくるから、ややこしいことになってくる。公職選挙法以前に放送法に違反してるじゃんとね。

そこで選管が持ち出してきたのが

「特定の候補者の政見放送だけが自由に閲覧できる状況は不公平」

というクレーム。教育的指導みたいなもんか。まあ、やめておいてくださいよというような感じ。ただ、これも先に述べたように「公平性が実現」されてしまえば、突っ込みどころがなくなる。ニヤニヤして眺めてばかりいてもしょうがないのだが。


本日現在、YouTubeを見る限り、「問題の候補」の政見放送が84件も依然としてアップされている状況である。(AmebaVisionではすべて削除されているようである)

夏の参院選の前に、はっきりとした法的整備が求められていると思う。

【参考リンク】

●世耕vs鈴木vsひろゆきネット選挙座談会---茨の道でも進むしかないのだ(BigBang)

2007 04 07 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

March 17, 2007

堀江被告に懲役2年6ケ月の実刑判決---「無反省」と「脅迫」

執行猶予なしの実刑判決は、最近の日興コーディアルの例などから見ても、重すぎるという声が多いようであるが、判決要旨からまとめてみた。

(1)ライブドアの自社株売却益の利益計上・架空売上計上について

→投資事業組合は脱法目的に結成されたものであり、売上計上の許されない自社株売却益を記載した虚偽の有価証券報告書を提出、架空売上を前提とした連結経常利益が記載された虚偽の有価証券報告書を提出することを認識、認容し、宮内被告との間に共謀が成立する。

(2)ライブドアマーケティング(LDM)における虚偽事実の公表について

→LDMがマネーライフ社との株式交換に関して行った04年10月25日の公表の一部に虚偽。11月9日の公表も虚偽。堀江被告は虚偽事実に基づく業績状況を公表することを認識、認容し宮内被告との間で共謀が成立する。

(3)宮内被告と検察との「黙契」が成立しているという弁護側の主張を退ける

→検察官と宮内被告らとの間で、別件を公訴提起しない代わりに検察官の主張に沿った供述をする約束が成立しているという弁護側の主張を、第三者による宮内被告供述の裏づけにより、退けられるとして否定する。

(4)意図の悪質さ

→粉飾額自体はそれほど大きくないが、証券市場の公正性を害する極めて悪質な行為として認定。投資事業組合を介在させるという手口の巧妙さなど、企業利益のみを追求し一般投資家を犠牲にする犯罪として悪質である。

(5)堀江被告の権限

→堀江は、ライブドアの創業者であり、唯一代表権を有する代表取締役であり、トップとして絶大な権限を有していた。いずれの犯行も被告の指示・了承無しには実行はあり得なかった。

(6)無反省な被告

→被告は公判廷でも不自然な。不合理的な弁解に終始し、株主や一般投資家に対して謝罪の弁も述べない。反省の情が全く感じられない。

(7)各犯行を主導とまでは認められないが、実刑に値する

→いずれの犯行も宮内が中心となって計画したものであり、検察の言うように被告が最高責任者として犯行を主導したとまでは認められないが、そうした斟酌の事情を最大限に考慮しても実刑をもって望まざるを得ない。

目に付くところとしては、まず(1)において、投資事業組合を脱法目的であるとして断定し、自社株売上計上を違法と断定したところがみられる。かつて堀江は保釈後に「サンデープロジェクト」に出演してこのように語っていた。

堀江:(投資事業組合の金の流れについて)いや、それはこんなのを粉飾だということ自体がまずおかしいよという話です。そもそも我々、投資事業組合、僕が知ってる知らないは別として、客観的事実を前提にしても、これはファンドにまず実態があってダミーなんていうものじゃないよと。(検察がダミーといっているのは)彼らの定義であって、我々は実態があると思っている。検察はライブドアのダミーだと言っているが、そうじゃなくて独立した存在であってライブドアが支配しているわけではない。まったく別個の存在であると。だから連結する必要ないでしょうと。連結をしてない会社からの分配金なんだからそれは売り上げに計上していいでしょうと。客観的事実についてもこれは粉飾ではないと言っているわけですよ。堀江貴文の「サンデープロジェクト」出演について(BigBang)」)

本来ライブドア連結の対象ではない投資事業組合の活動を質すること自体がおかしいとする堀江側の主張は取り入れられなかった。また、投資事業組合によるライブドア株取引を、売上に計上するという手法が、当時の法規に照らして本当に違法であるかどうかは、議論が分かれた箇所である。


田原:で、公認会計士たちも違法じゃないって言ってるわけですね。

堀江:ものすごく難しい仕組みなんですから、本当は。要は難しくって会計士だってこれが100%正しいっていう風に言えないんですよ。検察の言い分が100%正しいって言う事が出来ないくらい会計的な専門的なことなのに、しかも会計士が大丈夫って言ってるのに我々会計の素人が違法だ合法だの判断が出来るわけないじゃないですか、そもそも。 (同上)

当時の公認会計士が大丈夫と言っていたとあるが、港陽監査法人で、当時ライブドアを担当していた田中慎一氏の「ライブドア監査人の告白」を読むとだいぶ様子が違う。


著者は、1999年から今年1月にライブドア事件が起きるまで、同社の監査を任されていた港陽監査法人の公認会計士である。同監査法人からは在宅起訴された者も出たが、著者は同社の犯した偽計取引や風説の流布、あるいは粉飾決算の疑いに直接手を貸した人間とは見なされず、訴追を免れた。しかしながら自らの意思で公認会計士の資格を返上し、今後は会計関連の職には関わらないと宣言した。同社の犯罪行為を見抜けなかったことへの“けじめ”だと言う。

本書を執筆したのもけじめの1つであろう。ライブドアの内幕を知る人間として、子細な具体例を示しつつ容赦なく糾弾していく。堀江貴文被告を含む旧経営陣に対しても同様に厳しい評価を加える。架空取引による粉飾会計については、事件の前から「何かがおかしい」と感じ取っていたにもかかわらず正せなかったと猛省しつつも、「シロかクロかはっきりせず、どこまでいってもグレーのまま。当局の捜査とは違って会計士の監査手続きでは限界がある」と弁明する。(Amazon書評から)

この本の帯には「投資事業組合を解散しなければ監査を降ります」と印刷されているが、事実筆者はそうした「脅迫」を何度も駆使して宮内を揺さぶらざるを得なかった。監査人が降りることは、それほどライブドアにとって大きな圧力となり得たのである。

つまり田中氏は、存在する「らしい」投資事業組合の存在を、極めて疑義の深い監査上問題のある存在であるとして、繰り返し内情報告を求めていたのであるが、宮内らによって、別組織であり連結対象外の組合の実態を明らかにするいわれはないとして、突っぱねられている。

問題は、こうした「突っぱね」に対抗する有効な手段を監査人が持ち得なかったことは事実であるということであり、こうした意味で当時の法制度の中での真空地帯であったという見方もできる。果たして投資事業組合は、「実質的にライブドアに支配されて」おり、「自社株売却による利益操作組織」として完全にライブドアに従属していたといえるのか。現在までの経緯を見ると、僕は、この点に関して堀江の認識はかなり曖昧であったような印象があり、組合は専ら宮内の「私的利益のための操作装置」として稼動していたのではないかという印象がある。この点に関する法解釈や認識が今回の判決で厳密にされたとは言い難い。ここは残念に思うが、おそらく掘江側の弁護団は控訴審において、この法的不整備の問題を突いてくると思われるので、引き続き注視したいと思う。

もっとも、田中氏はこの本の中でで監査人としての力不足も同時に痛感したと告白しており、最高経営者としての責任すらも、裁判に影響があるからと明確にしない堀江被告の姿勢とは遠いのも印象的であり、「反省」の表面的な表明すらしない堀江の態度を正直ととるか、傲慢と取るか。ここでの世間の評価は、容易に予想されてしかるべきものである。

思うに、形式的反省であっても、それは反省の表明には変わらないのであり、その裏における哲学や人生観などは、所詮形式では表明できないものなのだ。その人間を人間として許せるか、許せないかは法を超えたもっと深い部分に繋がっていると思われ、その暗がりへの訴求が困難である以上、人は所詮形式による表明の次元にしか、合理的批判を集中できないのではないかと思われるからである。

その次元で戦う堀江を支持する動きもあるのは理解するが、彼の今後の人生を考えれば、徒労感は否めない。もちろん合理的な部分では事実関係をしっかりと争えばいいのであり、そうした姿勢と反省謝罪の姿勢は、両立するし、またさせていかなければならないものではないかと思う。

2007 03 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

February 15, 2007

ブログ性善説とマーケティングへの信頼

まあ、そりゃそうだろな。考えてみれば大変に常識的な受け止め方。

企業がブロガーに宣伝のための報酬を支払う行為を反対しているのは44.5%--ビルコム調査(Web担当者フォーラム)

調査の結果、企業がブロガーにプレスリリースなどで積極的に情報開示することについて72.0%が「賛成」と回答。その理由として、79.5%が 「企業の最新情報を知ることができる」と答える一方、反対派の74.1%が「よい情報しか開示しないことが多く、信用できないから」と答えた。また、企業 のプレスリリースを見たことが「ある」と回答したのは、40.8%だった。

企業がブロガーに、宣伝のために金銭を支払う行為について44.5%が「反対」、55.5%が「賛成」と回答。「反対」の理由として「お金をもらっ てブログを書いたのか、本当に書き手がよいと思ったのかがわからず読者の混乱を招くから」(79.8%)、「賛成」の理由として「企業のために書いた記事 の報酬を受け取るのは当然だから」(68.0%)を挙げた。


こっそり企業から金銭をもらっていたことで、炎上した女子大生のブログもあったようだけれど、「ブログプロモーション」がこれからは有効だともてはやされたのが、ここ1年であったわけだが、それはそういうことではなくて、ベタで金銭を書き手に上げちゃうってのは、もlともこもないでしょ。やはり違うかなあと思う。

実際、それが白日の下に晒されれば、相当の反発が予想されるし、場合によっては見事なアンチプロモーションになる。かといって、最初から正直にそれをことわって書いていれば信頼されるというものでもない。そのへんは何ともかんとも。

また、「自社商品(サービス)のオススメを書いてもらうため、企業がブロガーにお金を払う場合があります。そのことを知っていましたか?」という問 いに対し、41.3%が「知っている」と回答。そのうち「企業からお金をもらって書いている友人・知人のオススメ商品(サービス)を信用しますか?」とい う問いに対し、63.0%が「信用しない」と回答した。

そりゃしないよねって。

しかし、口コミマーケティングというジャンルは、ブログの登場よりだいぶ前からあって、ちょっと前だと、女子高校生マーケティングとか言って、原宿かどっかの裏通りのマンションに女子高生とか集めて、あーでもねーこーでもねーと語らせて、じゃあ商品作っちゃうから宣伝してねみたいなのがあった。あれはあれでアリだったよね。今からすれば。

それに対して、ブログで金銭を媒介にして行われていることの何がうさんくさいかというと、こういう商品の生成みたいなところに関わっているようでその実関わっていなくて、結果的に最終成果物たる商品をぽんと渡されて、さあ書いてくれ。宣伝してくれたらいくらですみたいなやり方をするからではないだろうか。

女子高生マーケティングのほうも、もちろんある種の「半成果物」は渡されるんだけれど、一種のモニター性と合わせて、勘違いかもしれないけど参加型クリエーター性みたいなのが彼女たちによって演出されていたと思う。(うん、あれはもちろん演出なんだけれど)で、帰りにいくらかお金渡されて、それで友達に宣伝にこれ努めたところで、ブログのケースほど胡散臭くないっていうか、敢えて言ってしまえば、信頼され得ていたように思う。

その点、アフィリエィターというジャンルで、自分で商品を選び使い、その感想を書いていくようなスタイルで稼いでいるような人は結構いるけれど、これは、まだましなような気がするんだよね。少なくとも商品のチョイスを自分で行うことで参加している主体性が、まだある。

こう考えてくると、その商品のできるだけ原初的なところから主体的に関わってきていれば、例えお金をもらって宣伝を書いても共感できるし、そうではなくて、商品選択性も薄く、一方通行な宣伝依頼を受けて書いたベタなブログによるマーケティングは信頼が薄いとそういうことかなあ。

でも、これも考えてみれば不思議な話で、すべからく広告のプロは、もちろん企業からお金をもらい、商品を渡されてポスターだのCMなどつくる。そうした宣伝広報行為は、当然の「プロの仕事」として評価され、それで結構商品も売れ、非プロのブロガーのささやかな報酬によって支えられる、ささやかな宣伝文が信頼されないのであれば、このあたりにも何か好意的なブログマーケティングを切り開くキーがありそうだ。プロとアマチュアの違いと言えばそれまでなのだけれど、ブログという媒体の特殊性のようなものも、ちらと見えるな。

ブログ生善説。ブロガー嘘つかない。みたいな信仰もどこかあるのかなあ。

などと色々考える。

2007 02 15 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

January 08, 2007

オーマイニュース----内部通報にあたって実名を推奨するのは時代の趨勢に反する

既にこのサイトでは何度か触れたが、オーマイニュースの鳥越編集長が、下記の発言をしておられる。

●僕らではわからない専門的な記事もありますから、そういう人が来てくれればしめたものかなぁと。中央官庁の役人が、実名で内部の腐敗を書いてもらえると活気付くと思いますね。鳥越俊太郎に聞く(2) ネットでも実名文化がいい

内部腐敗を告発する「実名」の公務員が出てくれると活気付くという氏独特の信条の吐露であるが、前のエントリーで指摘した、公務員の守秘義務との関連以外にも、内部告発の投稿を「実名」で行うように薦める流れは、明らかに時代の趨勢に反している非現実的な発言である。

それは「公益通報者保護法」との関連である。

参照:公益通報者保護制度ウェブサイト

公益通報者保護法(平成18年4月1日に施行)は「公益通報(内部告発)が一定の要件を満たして行われた場合、その通報者に解雇等の不利益な扱いが生じないように法律で保護をして、事業者の法令遵守を促進させるための法律」である。
つまり、「企業等が法令で定める義務に違反している場合、行政機関やマスコミ等へ公益通報(内部告発)されやすい仕組みであるが、企業だけではなく、行政機関等に従事する職員からの内部通報も対象にしている。

さらに、「公益通報者保護法」では、国の行政機関の内部通報のガイドラインとして匿名の通報者に関して明文化されている。

通報の受付にあたっては、

「通報者の秘密保持に配慮しつつ、通報者の氏名及び連絡先並びに通報の内容となる事実を把握するとともに、通報者に対する不利益扱いのないこと及び通報者の秘密は保持されることを、通報者に対して説明する。

とされている。通報の中身の真偽を検証するためには、通報を受けた機関が通報者の所在を確認することは当然であるが、その秘密は細心の注意をもって扱われるとされている。

また通報を調査するプロセスにおいては

利害関係人の秘密、信用、名誉及びプライバシー等に配慮して進めることが明記されている。

こうしたことが明文化されている理由は、言うまでも無く、通報したことにより通報者が当該所属機関から不利益な扱いをされることを防ぐ目的があるからである。通報をしようと思っても、その後で左遷や解雇、あるいは対抗訴訟といった、「報復」を恐れて通報者が尻込みをしないように配慮されたガイドラインである。

同サイト内のQ&Aでは

Q1 匿名の通報でも保護の対象になりますか

匿名の通報であれば、通常は通報者本人が特定されず、不利益取扱いを受けないため保護する必要が生じません。
ただし、通報時には匿名でも、何らかの事情により、通報者本人が特定され、解雇その他の不利益取扱いを受けた場合には、保護の対象になります

とされている。つまり、保護対象にするためには、通報者の身元が特定されていなければならない。しかしこれは当然のことであり、通報者の身分が不明確なところでは関係機関が保護処置をとることができないための但書であり、決して公共に対しての実名通報を推奨しているわけではない。事実、匿名の通報であっても「通報者が特定され不利益を受けた場合」には保護の対象になるとされている。

ガイドラインでは、この他にも「通報者の保護」に関して細かな規定を設けているので関心のある方はご覧になるといいと思う。

鳥越編集長や、一部の実名主義をとっておられる方は、内部通報が実名で投稿されることを、あたかも推奨するような論を張っておられるが、元来「公益通報者保護法」は、組織内からの匿名の通報をしやすくするために、整備された法律である。不正の検証や調査には、通報者の実在の確認を必要とするし、身分を明らかにする必要があるが、これは鳥越氏の言う「実名で内部の腐敗を書いてもらえると活気付くと思いますね。」という認識とは180度異なる。

むしろ、通報者に不利益が生じないように、実名で通報がなされた場合にも、通報者の機密が守られるよう、あらゆる努力を払うようにすべきであるとされているのである。要は実名匿名は、通報の内部的な処理のプロセスにおける
問題であり、「実名でメディアに投稿する」などという行為が推奨されているという理解は著しく現実に反する。
おそらくこのあたりは、旧メディア人独特の「スクープ感」を重視しての発言だと思われるが、個人情報の保護に関してあまりに鈍感であり無責任であると思う。

オーマイニュースのようなメディアの長が、この流れを無視して実名主義を持ち上げ、不特定多数が閲覧する場所へ「実名投稿」することを推奨し、匿名の通報者があたかも実名通報者に比べて、信頼性が薄いかのような印象を与えることは、厳に慎まなければならないと言えるだろう。通報者の保護に関して配慮が足りないと考えるが、反論があれば伺いたいところである。

2007 01 08 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

January 04, 2007

オーマイニュースを巡る匿名性の問題について(2)---小倉弁護士に答える/ 心苦しいが鳥越編集長には勇退をお奨めする。

この件に関して、小倉弁護士から再度の反対エントリーをいただいた。

オーマイニュースに2ちゃんねるの亜流になることを望んでどうなるのか。(la_causette

誰もそんなことは言っていないし、望んでもいないわけで。

そういう意味では、「市民記者が望むならば対読者匿名性を保障すべきだ」という批判は、安易に取材源を秘匿する既存の日本のマスメディアの無責任さをオーマイニュースにも押し付けようとしているにすぎないものだということができます。ファクト系の記事に関していえば、「実名が重んじられ、匿名が軽んじられる」ことは、当然のことなのです。

対読者匿名性を保障する意味は、自己の安全性を保障しながらも、匿名で社会的に異議のある「ファクト」を提示しようという言論を保護するためのものである。なぜそれが自動的に「既存マスメディアの無責任さをオーマイに押し付けることになり」「実名が重んじられるのは当然のこと」となるのか。
氏は「安易に」と作為的に語を補足しておられるが、「安易な」措置に関する批判は両論に成立するのであって、「安易でない=熟考された匿名(実名)主義が相互の議論の基本となる。(それにも関わらず鳥越編集長の実名主義は「安易」であり、それは後に触れる)
このあたりは小倉弁護士の個人的立場が実名主義であるから、そこから導き出された意図的な論理であり、これを応用して私が「匿名保護」の反対言説を張った場合「水掛け論」になると思う。

「取材源を秘匿する」という約束は、そのような約束をしてでもその情報を報道する価値があるという例外的な場合以外にはすべきではないし、そのような約束をした場合にはこれによる不利益は記者や報道機関が負うというのが、アメリカン・スタンダードです。)。オーマイニュースは、韓国版からスタートし、英語版が日本語版に先行していますから、日本語版においてもこの「市民記者の実名原則」が採用されることは、鳥越編集長の意向にかかわらず、既定路線だったと思われます

「アメリカン・スタンダードがそうである」とか、「先行する韓国版がそうであるからとかいう理屈は、議論の本質を不明確にするだけであり、意味がないと考えられる。私は何も、韓国や米国のオーマイニュースの運営方針を日本では適用するべきではないと言っているのではない。この件に関する、乱雑で感情的な編集部の説明に関して批判している。

米国や韓国がそうであるから、ではなく、

・なぜオーマイニュースは実名を推奨するに至ったか
・実名の内部告発者や通報者がいた場合、どのように保護されるか
・善意の匿名の言論に対する考え方

について説明を明確にした上で、悪意の言論者への対抗措置をすればいいのであり、それを冷静に合理的に説くこともなく、「卑怯な匿名の2ちゃんねらー」などという発言で、オーマイニュースを「アンチ2ちゃんねらーの巣窟」レベルに堕したのは、他ならぬオーマイニュース編集部の責任である。

今になって、それも全く部外者の小倉弁護士がいくらオーマイニュースの立場を擁護しようとも、ナンバー2と目される平野日出木さんがようやく

OhmyNews:【極私的2006年回顧】 言われたら、言い返そうぜ Web2.0

言いたいことは言っていこうと元旦に決心された段階。このレベルでは、オーマイニュースの「匿名保護」の決意の真摯度を信じろというほうが無理である。

また

「見解の分かれる政治的な問題を論評した」からといって罵倒を浴びたり人格攻撃を受けたりすること甘受しなければならない理由はないわけです。また、揚げ足を取られる余地が全くないとまではない記事を書いたからといって罵倒を浴びたり人格攻撃を受けたりすること甘受しなければならない理由はないわけです。

「甘受しなければならない」のではなく、対応すべきは対応し、ひどいものはスルーするなり、削除なりすればいい話。ひどいものにはアクセス禁止や名誉毀損による対抗訴訟もありうるだろう。そういう「試練」の元に、論壇系ブロガーは皆日々発言を行っている。小倉さんもそうしているだろう。なぜ言論組織(この場合はオーマイニュース)に属した途端に保護されなければならないか。

そもそも、市民記者は「ジャーナリスト」ではなかったのか?薄謝とは言え、報酬を受けるプロであろう。「ジャーナリスト」であれば取材の過程でそうした「攻撃」をされることへの、技術的・かつ精神的な修練と、対応能力を持つことは要求されるのではないか。「市民記者」だから、あるいは「アマチュアのようなものだから」過剰に攻撃するのはおかしいというのであれば、公的空間で論議を呼ぶ記事を投稿することを最初から編集部は市民記者に求めず、記者も身辺雑記にとどめればよい。
匿名の発言者を封じて、こうした「攻撃」を封じ込められたとして、そのような安全な水槽の中で発言を続けることにどれほどの意味があるのか。それを感受する「ネットジャーナリズム」とは何なのか。ネットで発信することへの覚悟が足りないのではないか。

※Wikiについては別次元の議論になるのでここでは割愛する。

つまるところ(小倉弁護士のサイトのコメント欄で触れてくれている方がいるが、)私の立場は、前回のエントリーで書いた

問題は記事やコメントの質であり、実名・匿名の問題ではない。匿名で口汚い投稿が増えるリスクを唱えるなら、それに対峙して実名では思い切った発言や記事が寄せられにくくなるという、市民メディアの理念の根本に関わる問題、そして記者や投稿者の立場保全の問題が同時に語られなければバランスを欠くが、これまでのところ鳥越編集長にはその姿勢が感じられないと思う。

に尽きるのである。一方的な匿名論に立っているわけではない。実名のメリットとデメリット、匿名のメリットとデメリットには、それぞれネット上でも行われた膨大な議論がある。

実名とハンドル名の狭間における確執纏め(適宜覚書はてな異本)

おそらくネット上の議論の流れなど全く追っていないと思われる、鳥越編集長が匿名言論に対して、不用心で配慮を欠く一方的な感情的不快感を表明した。それが問題の出発点であり、オーマイニュースに対して、匿名主義をとれなどと言うつもりもないし、それは無意味なことである。
そうではなく、実名主義をとるに至った思考の基盤を明らかにするべきであるということである。先行する韓国や米国の状況を事例として並べても、それは論理基盤とはなりえない。

小倉弁護士は、整然とした(少なくとも鳥越さんに比して、であるが)明らかな実名主義の言論を張っておられるが、これはこれでわかる。わかるが、これも一般的実名主義の言論の一隅でしかないのであり、オーマイニュースの編集部の主張ではない。小倉弁護士は、オーマイニュース側の考え方を代弁する当事者の立場にはないからである。

実名主義をとるならとるで、その理由をオーマイニュースはもっと明確に、しかもスマートに明らかにすべきであった。どうしても編集長の個人的資質に(ネットでの情報発信に関するリテラシーの致命的な欠如)因を求めてしまうが、時系列でざっとこの問題に関する鳥越編集長の発言を追ってみても、それは明確である。

●2chはネガティブ情報の方がどちらかというと多い。2ch見ていると罵詈雑言が多い。それはそれ で、人間の負の部分のはけ口だから、ごみためとしてそういう部分があっても仕方ない。ぼくらはごみためでは困るので、日本の社会を良くしたい、変えたい。 変えるための1つの場にしたいという気持ちがあると思う。(Itmedia岡田記者の起こした鳥越氏への取材テープから


●「あそこまでヒステリックな対応があるとは思っていなかった。ゴミ溜めというのは・・・ここにITmediaの人いる・・・?いない?・・・僕は確か全部じゃなくて一部のって言ったと思うんだけどなあ。」
人間が本来持っているネガティブなパッションが、匿名になったとたんに出てしまう。2ちゃんの女子アナサイトを見たら(スレのことか)ひどかった。レイプ寸前のことが書いてある。で、これは人間のゴミで捨てなければならない場所になっていると。決して全体をそう言ったわけではない。」(早大におけるブロガーとの対話シンポジウムでの発言(ITmediaはその後反論))

 


匿名の書き込み掲示板「2ちゃんねる」のいわゆる「2ちゃんねらー」と称する輩に敢然と正面か ら論戦を挑んだ音羽記者の「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイトの卑劣さを考える」が出色ですね。この記事のいいところは、感情的にならずに自分が分からないとこ ろは「分からない」と言いつつ、「2ちゃんねらー」の言い分の最大の卑劣さを「君たちは心臓病の恐怖を一度でも味わったことはあるのか?」というかたち で、間違いなく今病気に冒されている患者のことを推測と憶測だけで攻撃する「2ちゃんねらー」と称する連中の弱点をずばっと切っている点ですね。(10月の月間市民記者賞に音羽記者を選出した時の発言
 


●---編集長が自ら匿名の掲示板を批判する発言も反感を買いました。
「あそこに書かれていることは本当にひどい。彼らが反発してくるのは想定内で、僕の挑発に乗ったな、という感じだ」(12月17日朝日新聞

果たしてこれが「バランスのとれた」発言といえるだろうか。いずれも匿名=悪であり無責任、実名=責任のとれる発言という先入観、自説のリピートでしかない。

「実名」で堂々とモノが言える時代は確かに素晴らしい。そうした社会がやってくれば、確かに理想的に「フラット化された世界」が実現されるのかもしれない。しかし、現状は違う。誰もが特権的に言説に伴うリスクを担保されるわけではない。その過渡的(かもしれない)社会において、リスクを背負えと人に言うなら、それを呼び掛ける側も然るべき体制を整えてから、あるいは少なくともその方向性を示してから、それを言うべきである。そうでなければ、それこそ「言いっぱなし」の既存メディアと変わらない。

直近のJ-CASTニュースのインタビューでは、鳥越編集長はこのように発言している。

●僕らではわからない専門的な記事もありますから、そういう人が来てくれればしめたものかなぁと。中央官庁の役人が、実名で内部の腐敗を書いてもらえると活気付くと思いますね。鳥越俊太郎に聞く(2) ネットでも実名文化がいい

中央官庁の役人は言うまでも無く、国家公務員である。国家公務員が実名でそのような行動に出た場合、おそらく公務員の守秘義務違反で国家から訴訟を受ける恐れがある。その場合、オーマイニュースは、どのような対処をとる覚悟があるのか。仮に裁判で負け、50万円を超える膨大な損害賠償請求をされた場合どうするのか。金銭の問題以外にも、メディアとしての姿勢が社会から厳しく問われることになろうが、そうした点についてはどう考えているのか。この部分については鳥越編集長は「実名」でと言っている。「ペンネームでもいいから」とも「場合によっては匿名でもいいから」とも言っていない。

鳥越俊太郎氏という一人の人間に特化して発言を批判的に追いすぎると、あるいは小倉さんは言うかもしれない。しかし、彼はオーマイニュースの編集長である。あなたは部外者である。また、オーマイニュース編集部でこの点に関して有効な言論を提出しているのは、「コンサルタント」の佐々木俊尚さん以外には見当たらない。

僕は「旧メディア」における鳥越俊太郎という「ジャーナリスト」の過去の功績には敬意を持っている。氏自身も誇りにしておられるようであるが、桶川ストーカー事件における、「ザ・スクープ」での鳥越さんの粘りは見事だったし、喝采を送ったほどである。
しかしながら、はっきり申し上げるが、過去のご薫陶にも関わらず、私は鳥越俊太郎氏には、一刻も早くオーマイニュースから勇退されるのが、ご本人のためにも、オーマイニュースのためにも有益であると思う。鳥越さんが病の中から、使命感を持って、参加型ジャーナリズムの未来に、あのご年齢からエネルギーを注がれようとされている姿勢は、後塵を拝す者としては最大限の敬意を感じるが、何しろネットリテラシーがなさすぎる。

ネットリテラシーがないということの意味は、単にぶくまのやり方がわからないとか、「たまたま」JanJanを見たことが無かったというだけにはとどまらない。つまりそれは、ここ数年ネット界において繰り広げられた主たるトピックや言論の流れ(例えば実名匿名論は専らネット内で展開されている)に、ほとんど無知のまま、ネット言論の中心的媒体となることが期待されている(いた)オーマイニュースの総司令を委ねられたということである。初期のトンデモ発言の数々は、鳥越さんのジャーナリストとしての全体的な資質から来たものではなく、ひとえにネットリテラシーの欠如と、それによって引き起こされている「無知」によるものである。


編集長はメディアの顔である。編集長が発言した内容は、個人的な意味を超えてそのメディアによるメッセージであるという受け止め方をされる。
どうか、後続の有能な人材に編集長の座を禅譲されて、経験豊かなアドバイザーか論説委員という立場から、ネットジャーナリズムの発展に尽力をされることを望む次第である。


【参考リンク】
●鳥越氏の無責任な「責任ある参加」論(木走日記)
●書評 - 怪文書(404 Blog Not Found)

2007 01 04 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

December 30, 2006

オーマイニュースを巡る匿名性の問題について---小倉弁護士に答える

私の記事「朝日に報じられたオーマイニュース苦戦の深刻----問題はアクセス数激減だけではない」に小倉秀夫弁護士からコメントをいただき、さらにエントリーも立てていただいたので、それについて触れようと思う。

 しかし、オーマイニュース日本版のオピニオン会員によるコメントには、内部告発や危険水域からの匿名での発言なんてものはなかったわけです。むしろ、匿名性の高いコメントを可能とすることによって、自分とは相容れない思想傾向の記事を掲載する市民記者に対して執拗にネガティブな言葉を投げつけることによってその種の市民記者がさらなる記事を投稿する意欲を奪おうという一種の言論封じのためにコメント欄が活用されたとすらいいうる(bigbanさんの言い回しを借用するならば「最初から匿名が許容されることによって封じられる記事がありますが、言論機関の長であるが故にその点を斟酌せざるを得なくなったということでしょう。)。さらにいえば、オピニオン会員は、少なくとも編集部との関係で「どこの誰であるのか」が明らかにされていなければ、コメントにより市民記者または第三者との間に訴訟問題が起きた場合のリスクを負わなくて済むわけです。 (コメント欄もwikipediaも内部告発の場ではない(la_causette))

問題はオピニオン会員のコメント権を実名化したことにあるのではない。オーマイニュースは、創刊当時から、「匿名投稿」を排除し、「実名投稿」を推奨する姿勢を持っていた。それが、鳥越氏の一連の2ちゃんねる批判に繋がったし、その延長に、コメント欄の炎上があり、オピニオン会員制度の見直しがある。汚いコメントが飛び交ったので、実名推奨したのではない。順序が違うと思う。このメディアはスタート当初から実名を重んじ匿名を嫌う立場のメディアなのである。理由は「信頼できないから」「無責任だから」「悪意の投稿があるから」としているが、その発想のベースには「2ちゃんねらー」への敵意がある。これは鳥越氏の経験的実感から形成されたものであり、創刊当時、あるいは創刊前にまで遡ると思う。
小倉弁護士は、「オーマイニュース日本版のオピニオン会員によるコメントには、内部告発や危険水域からの匿名での発言なんてものはなかったわけです。」と言われるが、これは「オピニオン会員」によるコメント欄の方向転換当時から限定して考えるべきものではなく、むしろ市民記者を募集した当時から、オーマイニュースが匿名投稿に対して極めてネガティブであったことまで遡らなければならない。

また、「内部告発や危険水域からの発言」が無かった理由は明快であり、オーマイニュースが表面的にはそうした「スクープ」を口では志向、推奨しつつも、これらの投稿が市民記者からされるための、あるいはコメンターに対しての環境を整えたり、彼らを防衛したりする意志が全くと言っていいほど、なかったからであることの当然の帰結ともいえる。そして今後も、そうした記事やコメントは、ほとんど望めないであろう。

問題は記事やコメントの質であり、実名・匿名の問題ではない。匿名で口汚い投稿が増えるリスクを唱えるなら、それに対峙して実名では思い切った発言や記事が寄せられにくくなるという、市民メディアの理念の根本に関わる問題、そして記者や投稿者の立場保全の問題が同時に語られなければバランスを欠くが、これまでのところ鳥越編集長にはその姿勢が感じられないと思う。

さらにいえば、全てのCGMが内部告発や危険水域からの匿名での発言を行う場である必要はないわけです。オーマイニュース日本版のコメント欄(正確にいえば「この記事にひと言」欄)についていえば、市民記者による個別具体的な「記事」に対する「感想や意見交換、質問など」を行うための場であって、内部告発や危険水域からの匿名での発言を行う場として用意されているものではそもそもありません。市民記者に対する「感想や意見交換、質問など」を正常に行うにあたって匿名である必要はないし、むしろ、市民記者に対する「感想や意見交換、質問など」は理性を保った状態でなされた方が建設的で有益であるといえます。

匿名が許されないのは、「コメント欄」に限定された問題だけではない。※1本編の市民記者の記事に関しても、実質上匿名でのエントリーは書けないのであり、それに加えてオピニオン会員への措置があるのである。つまり論者も評者も実名を晒す勇気がないとオーマイニュースには関わることができない。その問題も、上記の考察からはすっぽりと抜けているように思う。(加筆参照)

これは発言者の「勇気の問題」ではない。もとより、弁護士であるとか、あるいは大メディアの記者であるとかいう場合なら、組織や法的立場の強さ、あるいは成熟した対抗の精神やテクニックを持っているのであり、一般市民よりは遥かに悪意から保護されやすい環境にある。自営業者(私もそうであるが)も自分の責任である程度の発言をすることができる。
しかし、これが一般的な職場の勤め人であれば、どうか。実名で、自分の職場や関連する官公庁などの問題を扱うことができるか。それでなくても人の実名をネット晒して言論に圧力をかけることに異様なエネルギーを持つ人たちが横行している昨今である。それを押し切って実名で発言しろと主張すること自体が最初から無理がある。

やはりオーマイニュースにも、小倉弁護士にも、このあたりの水域から発言する人たちの微妙な立場への理解は少ないように思えてならない。現状、告発の発言が少ないことをもってそれらのウォンツが少ないと早々に諦めるなら、それこそ何のための市民ジャーナリズムなのかと思う。

記事にしろコメントにしろ、問題は「質」なのである。それを実名匿名の問題に一元的に落とし込んで、表面的な見え方を一時的に整えても、何の解決にもならないと思う。

自分とは相容れない思想傾向の記事を掲載する市民記者に対して執拗にネガティブな言葉を投げつけることによってその種の市民記者がさらなる記事を投稿する意欲を奪おうという一種の言論封じのためにコメント欄が活用されたとすらいいうる。

「コメント欄の罵倒によって投稿意欲がなくなった」という市民記者の「悲鳴」は私も何度か耳にしたが、それではこうした記者に伺いたいのは、一体何を期待してオーマイニュースに登録して記事を「目立つところで」書かれたのかということである。こうしたメディアで、見解の分かれる政治的な問題を論評したり、甘い論理の記事を投稿したりすれば、攻撃の言葉を浴びるのはあらかじめ覚悟を決めてかかるべきなのであり、それによって「やる気がなくなる」なら、その記者の発信のモチベーションが、元々その程度のものであった、それなら無理に発信するほどのものではあるまい。と言えば言い過ぎだろうか。

口汚く荒れるコメント欄への対応ということなら、オピニオン会員制度の改革などという、制度的かつ小手先の対応ではなく、これらに対応する技術や精神的面での向上、記事を書くということがどういうことなのかという、市民記者の意識向上、そしてネット上での議論スキル、適切なスルー力といった、これまでネットで語られてきた基本が、粛々と再確認されるべきであったのではないだろうか。

加えてWikipediaの問題。

「wikipedia」もまた、内部告発や危険水域からの匿名での発言などというものを掲載する場ではありません。むしろ「『内部告発された事実』という編集者等が容易に検証することが不可能な記述をwikipediaに持ち込まれてもそれは困りものだとすらいえます。そういう意味では、wikipediaにおいて匿名性を維持する必要はないし、むしろ、匿名性が保たれた環境ではその党派性を剥き出しにする人が少なくない我が国においては、wikipediaにおいて匿名性を維持する限り、イデオロギー闘争の場として編集合戦が行われるという悲劇が発生する虞が高度にさえあります。

これも少々論理がおかしいと思う。「編集者等が容易に検証することが不可能な記述」は匿名によってのみなされるわけではない。Wikipedia編集においても、歴史的な事象はともかく、現実的なテーマに関するディープな情報提供は、むしろ事象に関わる利益を持つ、あらかじめ推定可能な人物によってなされる場合が多いのであり、それらの利害対立から問題がゆがめられることはあるが、匿名だからといって提供される情報が「検証しづらい」わけではない。ここでも実名性と情報の質との相関関係はそれほど単純ではないのである。つまり情報の「検証しやすさ」と投稿者の「実名性」の関連を必然化するには考察が足りないと思う。

いずれのケースにおいても実名の人物は信頼できて匿名は信頼できないという先入観が先行し、「情報の質を検証する」という、より重要なプロセスへの考察が後回しにされているところが気になるのであり、「悪意の匿名の2ちゃんねらーたち」はその理論構築ためのツールに使われているように思えてならない。



【12/31加筆】

※1 この部分に関して、投稿に際しては「ペンネーム」は認めているので、「匿名でエントリーは全く書けない」というのは事実誤認であるというご指摘が市民記者に登録されている方からあった。確かに「場合によっては実名以外で投稿することもできます。」とは、既に早大のシンポジウムでオーマイ側から説明があったように記憶しているが、それが実際に運用されているかどうかについて認識が無かった。加筆訂正させていただきます。オーマイの編集部に実名を重んじ、匿名を排除しようとする姿勢があることは変わりがないので、全体的な記事のトーンは修正しない。

2006 12 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

December 17, 2006

朝日に報じられたオーマイニュース苦戦の深刻----問題はアクセス数激減だけではない

12月17日の朝日新聞に「オーマイニュース苦戦」という記事が掲載さされた。

詳細は、文中の引用を見てもらいたいが、鳥越編集長の「僕の挑発に・・」発言。この方は骨の髄から「匿名」が気に入らないのだろうなと思う。「匿名」からも様々なオピニオンが寄せられているという、正当な「峻別」がない。つまり「卑怯な発言」「低俗な発言」「誹謗中傷」は、実名でもなされる場合があり、「匿名」であっても、考慮に値する「批判」があるという、その場所まで降りてから、批判は緻密化されるべきであろう・・あるいは発言者の安全担保などということは今更言うまでもなく当然のことだと思われるのだが、気がつく限りその視点を包含した発言が何一つ見当たらない。このあたりは見事な程である。

---サイトへのアクセスが伸び悩んでます。

「広告収入にもつながらない。1年で結果を出さないといけない」
「匿名だったらもっと増えたが、責任ある実名文化を築くためにやっているのだから、それは選ばない。ただ、量的な拡大は必要だ。」

---寄せられる記事の質はどう評価しますか。

「初めて取材するのだから、身の回りのことから書き始めるのは仕方がないが、少し『意見』が多すぎる。やはり事実を示すのがニュース」
「記者クラブにこもっている記者が書けない独自の記事が出てきている。後はスクープが必要」

---記事が偏っているなどの理由でコメント欄の「炎上」が続きました。

「韓国発祥のサイトということで反感もあるようだが、日本と韓国の間の問題について議論することは大事だと思う。ただ、あしざまな中傷は論外。記者は実名で書いているのにコメント欄は匿名で中傷を書く。後ろから切りつけるようなものだ」

---編集長が自ら匿名の掲示板を批判する発言も反感を買いました。

「あそこに書かれていることは本当にひどい。
彼らが反発してくるのは想定内で、僕の挑発に乗ったな、という感じだ」

(朝日新聞12月17日朝刊「オーマイニュース苦戦」鳥越編集長へのインタビューより)

彼は、ただひたすらに「匿名」からの「卑怯な発言」の巣窟としての「2ちゃんねる」を謗るばかりである。それどころか余計な挑発発言までしてしまっている。(やれやれ。こんなことを言って何の意味があるのか)

その発想の延長に、コメント欄を登録会員に限定するという最近の変更処置があったわけであるが、朝日の記事によると、その影響でコメントは激減し、アクセス数も減っているという。事実Alexaによれば当初は炎上も話題性の一助となり、相当のアクセス数を記録したものの、今ではアクセスは明らかに激減している。

それから2ヶ月。オーマイニュースがネット上で話題に上ることもすっかり少なくなった。この「話題の減少ぶり」は、オーマイニュースへのアクセス数の推移にも現れている。インターネット上のトラフィックを分析しているサイト「Alexa」で、アクセス状況をグラフ表示させてみると、8月末のオープン時が突出している。その後大きく落ちこみ、それからは微減か横ばい。グラフの現在の「山の高さ」は、オープン時に比べると8分の1から9分の1だ。オーマイニュース広報担当によると、現在は1日20万のページビューがあるという。
   韓国の「本家」でも、「Alexa」によると04年を境にアクセスは減少を続け、最近では日本版の2倍弱程度で推移しており、06年11月1日の米ビジネスウィーク誌は「06年は赤字転落か」と報じている。(「オーマイニュース」 日本も韓国も苦戦中 J-CASTニュース

【参考】
直近6ヶ月の「オーマイニュース」「newsing」「JanJan」のアクセス数をAlexaで表示して比較してみた。(図はクリックすると大きくなります)

Ohmy_access

こうなるとどんな話題性でもいいから欲しいところであり、「スクープ」でなくても、スキャンダラスな要素であっても欲しいところであろう。

しかし、ここで忘れられている重要な視点がある。これはオーマイに限ったことではないのだが「ネット広告の効果」についての話である。アクセス数の少ないサイトは、確かに広告効果がないことは言うまでもない。そのサイトを訪れる絶対母数が不足しているのだから、こういうサイトには広告は入らない。それは当然である。

では、アクセス数が多ければいいのか。否。アクセス数と広告効果は比例するとは言えない。それは広告には「好感度」という視点があるからである。

ユーザーは訪れたサイトに貼ってあるバナーを、どんなときにも一律にクリックし、均一に商品を購入するわけではなく、好感度の高いサイトに張ってある広告には反応し、好感度の低いサイトの広告には反応は鈍くなる。これは、実証的なデータを探すことは今ちょっとできないでいるが、ユーザーは自分のサーフィン行為を考えてみれば容易に想像できることである。日常的に利用するスタートページなどのポータルは、基本的にはある程度の親近感や好感度を持っているサイトであることが普通だし、そういうサイトであるからこそ、クリック→クライアントの広告提示→時には購入という流れが生まれる。

一方、頻繁に訪れるが、自分が批判的であるサイト、あるいは反感を持っているサイトについて想像してもらいたい。

(例えば、私のサイトに張ってある広告からさいこたんが、何らかのCDを購入するなどということがあるであろうか?あるいはその逆は?答は言うまでもなかろう。あるいは事件後のライブドアポータルを考えてもらえばいい)

つまり広告効果は、そのサイトへの好感度が重要な判断基準になるのであり、アクセス数に単純比例するわけではないということは、広告の基本を学んだものであれば、誰でも知っている。それを考えれば、スキャンダラスな要因で一時的にアクセス数が増えても、それよりも遥かに「好感度」をゲットしていると思われる他サイトに広告出稿したほうが、企業は多くの広告効果を期待できる。それは広報関係者には釈迦に説法である。

この観点から考えると、ここまで様々な批判が顕在化しているオーマイの直面している問題は深刻であることが、改めてわかってくる。鳥越編集長は、ネットジャーナリズムというもののビジョンを根本的に誤解しているように私は思っているが、コマーシャリズムの根本の原理にも気がついていないように思える。そうでも考えないと、数々の挑発的かつ軽率な発言は理解できない。

ここまでの「匿名」コメント者への一律的かつ無作為な批判は、そうとでも考えないと理解できないし、来年は相当の体制変革を行わない限り、オーマイニュースの将来は暗いように思える。

2006 12 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (14) | トラックバック

November 26, 2006

オーマイニュースの編集長講評に思う。---「2ちゃんねらーという輩」とは一体誰なのか。

オーマイニュースは、毎月1回「市民記者の記事の中から特に秀逸の記事を発表する「月間市民記者賞」」の発表を行っているが、先ごろ10月分の発表が行われた。そのうち、音羽理史記者の以下の記事を松本洋平記者と併せて「編集長賞」に選出した。

       10月の「月間市民記者賞」発表  編集長賞は音羽記者と松本記者に
       (オーマイニュース)

■音羽理史記者
「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト」の卑劣さを考える
「死ぬ死ぬ詐欺」記事の反響に答える
「死ぬ死ぬ詐欺」問題で見えてきたこと
★受賞理由……3本を一連の記事として見ました。コメント欄での批判や雑言などにひるむことなく自分の主張を貫き、生命の尊厳を訴えた説得力ある内容を高く評価しました。

とあり、その後鳥越編集長が以下のコメントをつけている。

■音羽記者の受賞記事について

 匿名の書き込み掲示板「2ちゃんねる」のいわゆる「2ちゃんねらー」と称する輩に敢然と正面から論戦を挑んだ音羽記者の「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイトの卑劣さを考える」が出色ですね。この記事のいいところは、感情的にならずに自分が分からないところは「分からない」と言いつつ、「2ちゃんねらー」の言い分の最大の卑劣さを「君たちは心臓病の恐怖を一度でも味わったことはあるのか?」というかたちで、間違いなく今病気に冒されている患者のことを推測と憶測だけで攻撃する「2ちゃんねらー」と称する連中の弱点をずばっと切っている点ですね。(■■鳥越俊太郎編集長・講評■■より)

鳥越編集長の反2ちゃんねらーぶりが遺憾なく発揮された講評であり、短い講評の中で「いわゆる2ちゃんねらーと称する輩」「2ちゃんねらーの言い分の最大の卑劣さ」「2ちゃんねらーと称する連中の弱点」など3度にわたって「2ちゃんねらー」への敵対的とも思える表現が使われている。編集長賞の理由は、この鳥越氏の「敵」2ちゃんねらーに対して果敢に戦いを挑んで一歩も引かなかった音羽記者を評価したというような趣旨であるといってよかろう。

僕は、いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」の件に関して、それほど仔細に追っているわけではない。「難病」に犯されたわが子を助けたい藁にもすがる家族の思いという「絶対の正義」の行為の裏で、「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト」などというものが作られ、家族の私生活や年収、資産などといったプライバシーが槍玉にあげられて批判される風潮は、言いがたい抵抗を感じるし、音羽記者の記事の基本的な問題意識に大きな異議はない。


しかし、この騒動は「私」と「公共」に関する奥深い問題点を表象している面も否めない。つまり、私的な困難に遭遇したとき、我々一般市民はどこまで公共からの援助を期待できるか、それも手法として半私的な活動(募金など)によって手術資金を得ることが、絶対の是として社会的に受け入れられるのかという問題である。

ネットでは既に過去になったと言ってもよい騒動であり、追っていないといいながらこれ以上、この件の仔細に踏み込むのはやめるが、要は「死ぬ死ぬ詐欺」という一見野卑な言葉が表象しているところにも、一定の社会的議論の成立する余地はあると思うのである。

ところが、鳥越講評では、これらの公・私の境界領域における問題意識をとらえず、ただひたすら「罵倒する命を軽視する2ちゃんねらーという輩」と一言で切り捨ててしまっている。まあ、この件に関してこの人にいくら批判をしてもせんないことは、以前の「2ちゃんゴミ捨て場」発言で露呈しているのであるが、それにしても非常に違和感を感じるのは、鳥越氏に「輩」呼ばわりされている多くは、音羽記者の記事にコメントをつけた人たちであり、彼らが確かに「2ちゃんねらーという輩」に分類される共通の属性を所持し、時には論外の質の低いコメントを繰り返したとしても、一方で彼らはオーマイニュースの読者であり、また「オピニオン会員」というポジションを与えたのは編集部自身であるという点である。
また、音羽記者に寄せられたコメントの全てが、罵倒コメントではなく、中には先にあげたような議論に発展できる余地のあるものも含まれている。その人々を一刀両断に「2ちゃんねらーという輩」などといった紋切り型の表現で切って捨てていいものだろうか。


※オーマイニュースでは今、このコメントが許されるオピニオン会員を、市民記者に統合していこうという動きの中で大騒ぎになっており、ここでもオピニオン会員=匿名の卑怯な言論者(2ちゃんねらーに通じる)を封じていこうという動きが見られる。このあたりの動きは「非常勤編集委員」である佐々木氏の以下の記事に詳しいが、また別の機会に触れる。


CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:平野日出木さん、本当にそれでいいんですか?(上)(下)
http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2006/11/post_8.html
http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2006/11/post_9.html

2ちゃんねるで誰ともつかない匿名の言論者に罵倒を浴びることや、個人情報をばら撒かれる不快感は、僕自身も最近嫌というほど味わっており、これらの行為の温床となっている2ちゃんねるの根源的欠点については、非常に問題点を感じている者であるが、それでも私は2ちゃんねるで発言している人たちを十羽一絡げに「2ちゃんねらーという輩」などという乱暴な属性付与で表現しようとは思わない。

どのようなコミュニティにあっても、非難されるべき行動に出るのはごく一部の人々であり、それらをもって、あるいはそれらを許した制度的問題点が仮に2ちゃんねるというコミュニティにあったとしても、そこに集う全ての人々に同じレッテルを付与するがごとき言動が、公的なシーンで編集長の口から無防備に出てくるというのは、いかにもまずいしお粗末ですらある。
なぜこの機をとらえて、より公的領域に議論を止揚・昇華できないかと、そこが残念でたまらない。

おおよそ、国家や民族といったレイヤーに場面を変えて考えてみれば「ユダヤ人といった輩」とか「在日朝鮮人などという連中は」と語っているに等しく、そうしたレイヤーで語られれば、自分が如何に乱暴な思考停止を行っているか、鳥越編集長にもわかりそうなものであるが。

それがジャーナリストとしての想像力というものではないのか。


「輩」とは一体誰なのか。

2006 11 26 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (7) | トラックバック

November 01, 2006

ソフトバンク問題・あれ、こんなところに阿多さんが-----携帯電話市場に住む魔物

今日になって、ソフトバンクからの転出がトラブルの主原因になっていたことを、ソフトバンクは正式に認め、その数が2万減であることを明らかにした。ドコモとKDDIの「剣幕」に推された形。やはり初動であたかも自社に転入顧客が殺到してきているような「印象操作」をしたのはよろしくなかった。

【続報】ソフトバンクのシステム障害,MNPの転出処理が原因(ITpro)  

10月30日,ソフトバンクモバイルは28日,29日と続いたモバイル番号ポータビリティに関する申し込み業務の停止について,当初の原因は「ポートアウト」,つまりソフトバンクモバイルから他社への転出処理だったことを明らかにした。  ただし転入数と転出数については公表しなかった。孫正義・代表執行役社長(写真)は「24日と25日の2日間は事実上(新料金プランである)ゴールドプランの発売はしていない。26日以降の本格的な発売」であるとし,その後のMNPシステム停止などもあり「イレギュラーな形になっている」と説明。数値についての発表は控えた。なお,KDDIはMNP開始1週間で8万純増,ドコモは29日時点で6万純減であることを公表しており,ソフトバンクモバイルはおおよそ2万の純減と推定できる

ところでこの記事で懐かしい人のお名前を目にした。

阿多専務執行役は,MNPの転出処理が遅くなった原因として家族割引の契約者の例を挙げた。家族割引の「主回線」の契約者が解約した場合,「副回線」が「主回線」に“昇格”する。その後元々副回線だった契約者の解約処理が発生した場合,「副が主に変わっているので(自社の業務システムと実際に送られてくる契約者データの情報に異なる点があり),手間取った」(阿多専務執行役)。今後の対応として,「主副は,実際の請求時にステータスがはっきりすればよい」(同)とし,料金請求時に対応することとした。

おわかりになるだろうか。元マイクロソフト日本法人の代表取締役であった、阿多親市氏である(現ソフトバンク・専務執行役情報システム・CS統括本部長兼カスタマーサービス本部長)。

あれ。阿多さんはソフトバンクに行かれたのだったか。知らなかった。調べてみると、2003年の6月にマイクロソフト日本法人の社長を辞された後、すぐにソフトバンクBBに入社されていたのだった。ご存知でしたか。そうですか。

阿多元マイクロソフト社長が、ソフトバンクBB入り。「孫社長の大義に共鳴し」取締役に

阿多さんという人は、日本マイクロソフトの歴代経営者の中でも、古川さんや成毛さんに比べて地味な印象のある方だが、僕にとっては恩人である。確か阿多さんはまだマイクロソフトの販促部長をしておられたと記憶しているが、Windows95の上陸直前、1994年前後に販促の仕事でお世話になった。というか食わせてもらった。あちらはおそらく覚えておられないであろうが、独立したばかりの私には願ってもないクライアントだった。

マイクロソフトという会社がまだ一般的に日本では認知されていなかったころで、オフィスも笹塚の地味なビルだったのだが、阿多さんは確か販売促進のプロとしてアイワから入社され、Windows95上陸という大きな節目の中で、マイクロソフト日本法人の初期の足回りを支えた立役者である。

その功によりついに社長にまでなられたのだが、Windows95の上陸という一大マイクロソフトブームが吹く中で、次第にマイクロソフトとの縁は遠くなった。

気がつけば、恩をすっかり忘れ、それどころか立派なアンチマイクロソフト。おまけにソフトバンクのことも勝手なことを言って評しているが、この記事で阿多さんが「頭を下げて」おられる様子を見て何やら神妙な気持ちにもなった。


しかしそれはともかく、阿多さんほどの販促のプロ中のプロがおられながら、今回のソフトバンクの失態はどうしたことだったのだろうか。今日、公取委が調査を行ったというニュースが流れたが、通常であれば、販促の責任者のみならず、何よりも広告代理店が、あの訴求方法の危うさには本能的に気がつくはずである。それも素通ししてしまうほどの、孫CEOの独走だったのか、あるいは代理店サイドもそうした「本能」が弱くなっているのか。

マイクロソフトという会社も、周知の通り相当に強引な手法で成長してきた会社であるが、こうした類の「失態」を演じたことは記憶の限り、少なくとも日本市場においては、ない。強い商品を持つ会社の戒めとして、他社にも劣らぬほど、そうしたところに綻びを見せぬよう、早くから社内には隙がなかったように記憶している。

ソフトバンクが、今猛烈に「チャレンジャブル」であることは、孫氏の今までの戦略を見れば、理解できないことではないのだが、あるいは携帯電話という商品は、広告にしろ、販促にしろ、経営戦略にしろ、従来の蓄積が役に立たない「魔物」が住んでいるのかもしれない。あるいはその魔物が十分な経験を持つはずの人の心にも「魔」をもたらしたか。いや組織的カタストロフィか。

おそらく今苦悩しておられるであろう、阿多さんの姿を見ながらそんなことを思った。

2006 11 01 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

October 30, 2006

ソフトバンクのシステムトラブルは「解約殺到」が原因?-----予想外割のギリギリ落とし穴

僕の携帯はauだし、NTTドコモにそれほど親近感を抱いているわけではないが、今回は社長と「気があった」ようで。

「孫社長は言いたい放題で、いい加減」NTTドコモ社長、会見で苦言(IT Plus)

 NTTドコモの中村維夫社長は27日 都内で会見し、2006年9月中間期の連結決算を発表した。会見では、ソフトバンクモバイルの孫正義社長が26日に始めた新しい料金プランに質問が集中、 中村社長はソフトバンクの新聞広告を手に掲げながら、「孫社長は23日に会見したときから言いたい放題言いっぱなしだが、あまりにいい加減で怒りを覚え る」と苦言を呈した。主な一問一答は以下の通り。

   (中略)

――23日以降のソフトバンクの発表の仕方はどうか。

 (ソフトバンクが出した新聞広告を示しながら)ゼロ円、ゼロ円、2880円なんて大きく書いてある。それに対し て、かなり重要な条件が欄外にいっぱい書いてある。「ソフトバンク孫正義」と大きく書いてあるのに注釈の字は小さい。法律的にはよく分からないが、これを 見ただけで加入した顧客は請求書を見てびっくりするのではないか。

で、それよりも驚いたニュース。

ソフトバンクの携帯契約、また停止…総務省聴取へ (YOMIURI ONLINE)

ソフトバンクモバイルによると、28日に全面停止した契約業務を、29日午前9時にいったん再開した。ところが、契約変更の申し込みが平日の3倍以上に達し、システムの処理速度が再び遅れるようになった。 このため、携帯電話会社をドコモ、KDDIの2社との間で切り替える契約変更の受け付けを正午すぎに再停止した。新規加入と機種変更の手続きは通常通り受け付けた。

顧客が殺到したので、契約受付を一時休止したとのニュースだから、今の時節、ソフトバンクへの顧客の殺到かと思いきや、このシステムトラブルにauやドコモが怒っているというので何だか変だなと思っていたら、ドコモのサイトを見るとなんとこれ。

流出=解約なんじゃないの。「流入」じゃなくて・・・

ソフトバンクモバイルとのMNP新規受付停止について  2006年10月29日

平素は、弊社のサービス・商品をご利用いただき、誠にありがとうございます。

昨日10月28日に引き続き、ソフトバンクモバイル社(以下、SBM社)から弊社へ移転されるお客様の増加に伴い、SBM社のシステム処理遅延障害が発生したため、弊社携帯電話へのMNP受付を停止しております。
また、弊社からSBM社へのMNP受付につきましても現在停止しております。

現在弊社からSBM社へ厳重な抗議を行い、システム回復に向けた早期対策と、抜本的な対応を求めています。
今後につきましては、SBM社のシステム回復を確認のうえ、受付を再開することといたします。

お客様に対しましては、再度ご迷惑をお掛けいたしましたことをお詫び申し上げます。

 

何だか感情的な文面ですね。
 

auのサイトでもほぼ同文が掲げられている。ドコモとauが示し合わせて嘘をついていなければ、今回のシステムダウンがソフトバンクへの乗り換え客の殺到による・・というメディアの報道は違うようである。

さて、ソフトバンクを巡る混乱、収まるか。

2006 10 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

October 29, 2006

ソフトバンクのCMは今も「ボーダーフォン」-----予想外割のギリギリ落とし穴

よく消費者金融や、生命保険のCMを見ていると、最終画面の下のほうに、米粒のように小さい文字が数秒映っていることがある。言うまでもなく、あそこには、契約関連で明記しなければならない条項や、例えば消費者金融であれば「借りすぎに注意しましょう」とか、告知する企業にとっては、余り言いたくないけれど、一応書いておかないと怒られるので、書いておきますよみたいなことが書いてある。

で、「通話料・メール代 \0」を繰り返し言っているソフトバンクの「予想外割」TVCMである。画面下のほうを見ると、米粒どころかノミかシラミくらいの大きさの文字が並んでいる。しかも5秒どころか3秒くらいでぱっと消える。およそ人類には全く読むことができない。絶対誰も読むことのできないものを、絶対読むことのできないような表示の仕方で表示して、あれで何かがクリアされるということ自体が不思議だが、ソフトバンクの「予想外割」の告知の仕方は、「ボーダーフォンボーダフォン」を引き継いだからでもないだろうが、それこそ「ボーダー」である。

実際には通話やメールが無料であるなどということは、ほとんどない。ということが、あの下の小さい文字にゴニュゴニょ書いてあるわけで、まあ詳しいことはここ↓

ソフトバンクの「予想外割」は本当に安いのか(ケイタイWatch)

あたりを読んでもらえればわかると思うが、要点をまとめてみる。

月額2,880円で音声通話無料、メールも無料というのが、「予想外割」のウリであるが、ざっと4箇所くらいはすぐに問題点が目につく。


(1)予想外割の核=「ゴールドプラン」は、本来、月額9,600円でソフトバンク携帯電話同士の通話が基本無料となる料金プラン。他の携帯電話会社に対しては適用されない。ソフトバンク同士のみで通話を行ない(一部時間帯を除く)、ソフトバンク同士のSMSと携帯電話番号を使ったMMSしか利用しない場合に限られる。


(2)ではなぜ月額9,600円のものが2,880円になるのかというと、2006年10月26日~2007年1月15日にかけて実施される「ソフトバンク大創業祭キャンペーン」の期間中に契約した場合の料金である。 その後はおそらく9,600円。(はっきりしない)


(3)メールが無料という言い方もおかしいのであって、正確にはSMSとMMSのみである。これをメールとひとまとめに言ってしまうのは、きわめて誤解が生じる可能性が高い。


(4)しかも時間帯にも問題がある。「無料」が適用されるのは、1日のうち約20時間。21時~24時59分の約4時間は完全な無料ではなく、この時間帯の1カ月間の累計通話時間が200分(3時間20分)を超える場合、30秒毎に21円の通話料金が発生する。

特に(4)の例外枠とされる、「高額時間帯」は、要注意である。1ケ月でたったの3時間20分。1日あたりに換算すれば、わずか7分程度でしかない。しかもこの時間帯は、若者であれば、ちょうど恋人同士だとか、友人同士で長話をしたい時間帯であろう。「安いはずの」ソフトバンクの携帯同士で長話を毎日30分程度したとすれば、オーバー分は月に700分。この700分には30秒で21円の通話料金が適用されるから、何の割引も他に使わなければ、28,000円以上もの通話料金が発生する。

『予想外割』、すべてのメール代を0円に!」というキャッチも、最初に聞くと非常にインパクトがあるけれども、実際には前述どおり、SMSやMMSのみ。「すべての」という表現は、適切であるとは言えない。


他社向け通話料は、今までの通常プランの一番安いバリューパックよりも高い設定。無料通話もない。ウィルコム定額プランと比較して、1.25倍(深夜2時~朝7時)~2.32倍(土日祝・昼間)(対固定の場合は、1.6倍~2.9倍)
ソフトバンク・ゴールドプラン(予想外割)の落とし穴 

まあ、その他にもスーパーボーナスプランの問題点とか、いろいろネットには出揃っているから参考にしてもらいたいけれど、ここで一言触れておきたいのは、広告表現として、誇大で不正確の部類に属さないだろうかということ。

例えば、社団法人日本広告審査機構は、広告のウソ、誇大、わかりにくいなどの苦情を受け付け、審査する機関。 (公正取引委員会の様に法的措置を取るのではなく、制作者に注意を呼びかける。とされている)今回のソフトバンクのメール0円CMあたりは、料金制度の例外規定の細かさを全くといっていいほど訴求できていないために、相当ボーダーラインであると感じるが、同審査機構たりで、何らかの働きかけをしてもいいのではないだろうか。

全ての消費者が、商品をネット、ブログ等で十分比較研究してから購入するべきであるといえば、その通りなのだが、特に携帯電話は若年層がヘビーユーザーであるだけに、CMなどで何度も繰り返される「美味しい部分」だけに惹かれて購入する可能性は高い。誤解を誘いやすいわかりにくい広告であることには間違いはない。

携帯電話では、複雑な機能や料金体系が、一目では理解できないことが多くなってきているだけに、情緒や雰囲気で訴求することは、大変に危険である。高校生の子供を持つ家庭に聞いたところでは、最近の一般の高校生の1ケ月のパケット料金は、割引適用前(定額制の料金プランを適用しないとすれば)だと、数十万円にも及ぶことが普通にみられるという。

今回のソフトバンクに関してウソ広告とまでは言わないが、関連機関は、改善勧告なり警告なりをを出してもいいケースのようにさえ思う。

【加筆】
引継ぎ会社はXボーダーフォン→○ボーダフォンという指摘を受けましたので修正しました。記事タイトルは、記事の趣旨として書いたものなので変更しません。

2006 10 29 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

October 20, 2006

mixiの画像表示に関する脆弱性と、上場企業としての対応のあり方

これはちょっと驚いた。

この欠陥は、mixi内でアップロードされた画像が、mixiにログインしていなくても画像のURLを指定すれば誰にでも閲覧できてしまうというもの。もっとも、数百万人の会員がいるとされるmixiでは、いずれにせよ誰にでも見られるのに等しいのだから問題じゃないという考え方もあろう。しかし、「友人まで公開」に設定している日記の画像はどうだろうか。普通のユーザなら、写真画像も「友人まで公開」だと信じて貼り付けるのではなかろうか。(ミクシィ、画像に認可制御なしの欠陥を改修できず、ヘルプで弁解(スラッシュドットジャパン)

mixiのメインコンテンツは mixi.jp ドメインで提供されているけれど、画像は img1.mixi.jp ドメインで提供されているため、正常に Cookie が飛ばないといったあたりがネックになって、なかなか改善に至らないのではないかと思います…が、いろいろやり方はあるだろうにと思います。([SECURITY] mixi にアップロードした画像ファイルが認証なしに閲覧可能な件について(葉っぱ日記)

mixiをやっている人は実験してみればいいと思うけれど、確かに画像表示には認証がかかっていない。記事投稿サーバのドメインと画像投稿のサーバのホストドメインが異なることから、cookieの共有ができないために起きる現象のよう。これについて、mixiはいったん改善を試みたが、IE以外のブラウザで見たときに認証不能などの障害が発生しており、

mixiの仕様変更でN901iSのフルブラウザなどでパソコン向けページが閲覧不能


結局ヘルプページで以下の掲示をすることでIPAの対応は終了ということになったようだが、この処理にもそう簡単に納得がいくものではないし、そもそもどれほどmixiのユーザーに認知されているのだろうか。

「Q.掲載した画像のURL をログアウトした状態でクリックしても、画像
を見ることができる?」

> A. mixi は会員のみが見ることの出来る招待制サイトですが、mixi にアップした画像は、
> そのURLからmixi の外でも画像を見ることが出来てしまいます。ブロック機能実装に向け改善と検証を重ねている状況ですが、他人と共有する可能性のある画像を、100%外部から保護することはできないというのがインターネットの現状とも言えます。
>
> ユーザーの皆さまにおかれましては、mixi にアップする画像につきましても、
> 上記の可能性を踏まえた上で掲載していただければ幸いです。
http://mixi.jp/help.pl#3g

という文言を掲載させて頂いております。

友人だけに公開と思ってアップした顔写真などは、URLを特定されれば、友人どころかmixiに登録していない一般ネットユーザーにも全部晒されることになり、悪意によって、特定の個人の顔写真やプライベートな写真が流出する危険を招くことになる。
最近mixiで重大な個人画像情報の掲示がなされて問題になっているだけに、なぜこの欠陥を改善できないのか、IPAも及び腰過ぎだと思う。

ちなみに、以前gooブログで起きていた、「記事を削除しても、その記事はメイン画面から非表示になるだけで、絶対URLを指定されれば見えてしまう」現象が、mixiにも起きていないかと思って実験したが、さすがにそれはなかった。(つまり記事を削除すれば、別ドメイン上の画像も削除される)

他のコメンターも言っているが、なぜ画像を別ドメインに置いたのか。おそらく、急激に増加する会員数にシステムの拡張がついていかなかったために、ディスク容量不足を別ホスト名のサーバで補おうとしたものと思われるが、今からでも遅くないので、同一ホスト名の大容量サーバに移転することで、あるいは認証セッションを管理する別の仕組みを導入すること等で問題は解決できるはずではないか。

そのために一時的にサービスを停止したり、更なる不具合の呼び水になることを恐れているのかもしれないし、表面に出ない技術的事情があるのかもしれないが、ヘルプファイルへの注意事項掲示だけでは、とても上場企業としての責務を果たしているとは思えないが、どうだろうか。

2006 10 20 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

October 12, 2006

北朝鮮核実験に寄せて・電波な予測になればいいけど予測する今後の朝鮮半島

果たして、中国の動向が鍵になるのはその通りだと思う。国連の制裁決議に反対さえしていてくれれば、変な言い方だけれど落ち着くのだけれど、ここのところに来ての、ビミョーな立ち居振る舞いは、妙に気になる。

電波な予測だと言われることを覚悟して言えば、中国の南下=北朝鮮への侵攻は本当にあり得ないのだろうか。

北の核弾頭の限界は、予測によれば4.5トン。大陸間を通すためには、1.5トンまで下げることが必要で、そのために必要な時間は、たとえ今回の実験が失敗であったとしても、100年よりは短く、いや10年よりも短いだろう。
仮に10年としても、そしてその間に北が軟着陸崩壊する幸せな乙があるかもしれないにしても、西海岸を核が射程に納める事態を、果たして米国は看過できるか。

そういっている間に、ニッッポン核武装しました。ヨロピクなんて事態はとりあえずないとして論じれば、GoogleMapを見ながら(爆)ブッシュが先制攻撃を計画し始めたとしても、それほど異常な行為とは思えない。だってイラクより断然リスク高いもの。少なくともイラクは西海岸を核で狙ったりはしなかった。で、その場合爆撃機は一体どこから飛んでいくのかと考えれば、呑気なわが国民も寝付かれない。当然フツーに考えれば、沖縄だかグアムだかそのへんから、怖い飛行機が飛んでいくことになり、ドンパチやって、南朝鮮&米国主導の半島統一。中国、それはどうよ?と。

歴史を紐解けば、朝鮮半島にいつも決定的な影響を及ぼしてきたのは、1に中国2に中国、3,4がなくて5に蒙古、6にようやく日本かな?

とすれば、豆満江を超えて、現キムさん何でもありよ政権とナシをつけて、北に一気に入り、朝鮮民族自治区を作り、キムさんに時間限定で自治支配を追認し、そのかわり核はなしよと。現状維持を20年続けた後に、気が向けば統一もありかな?みたいな中国方式。

これで、少なくとも韓国=米国の威が豆満江まで迫ることは避けられ、緊急対応として、国連もま、しょうがないかあ?ということで、朝鮮半島の発展的(ん?)分断継続。北朝鮮狂犬国家はXXナシで継続。キムさん、お命は保障しましょうと。

こうなれば全く朝鮮戦争の新しい形。朝鮮民族の分断の悲劇はさらに先延ばしされ、米国がしょうーがねーかな、ゆっくり考えるかあ?とソウルを火の海にするよりはましだろボケナスなんて言いはじめた日には・・・・

アリなのかい
ナシなのかい

ドッチなんだい!!

ああ・・これは電波かな?ならばなれ。電波であれと願う秋の夜。
少し酔ってはいたかもしれぬ。

2006 10 12 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

September 29, 2006

「民主主義」を巡る切れ切れの話---自由と平等と2.0

民主主義が、ある種の「大衆主義」「衆愚主義」として捉えられ、選民的なエリート思想と対比されることはしばしばなされてきた。歴史的には、「君主制」の圧制を打ち破るために蜂起した「人民」主導の「人民による政治制度」=民政を君主制に対抗する政治的システムとして位置づけたのであり、その延長として暴力的な「衆愚」に陥る道程の危険があることは、民主主義を批判する論者がしばしば唱えてきた視点であり、目新しい視点ではない。(ここでも選民思想2.0とくると、またかと思う。またかと何度も思っていることも何度も書いてきたが。)

Web2.0の背景にある考え方。(備忘録ことのはインフォーマル )

選民思想2.0または少衆主義(404 Blog Not Found)

ちとまいったかな(finalventの日記)

おそらくあまり噛み合わないが、少し。


元来は、エリート=治める側としての支配階級が、蜂起する人民によって雪崩を打ったように進行した19-20世紀の「革命前夜」の不安の中で、その流れに抑制を唱えようとして衆愚の危険、人民革命の暴力性と反秩序的行為、衝動的破壊への警鐘を鳴らしたという流れの中で、当時の「保守主義者」と呼ばれた思想家が頻繁に戦略的に口にしてきたものであるし、そのギミックは形を変えて現代の社会にも残っている。

中国共産党が、西側の諸国により、人権を抑圧し、「非民主的な」体制であると批判されているのに反し、しばしば自らの体制を「民主」あるいは「民主主義」という言葉で語ることは米国からすれば奇異に極まるであろうが、その歴史的流れからすれば矛盾が無い。つまり支配階級=資本家に対抗する労働者=民衆の集団的権力統合である共産党を、「民主」の先鋭的な政治制度、政治的前衛としているのであり、彼らの中では驚くべきことに共産党と「民主主義」とがイデオロギーとして並立しているのである。

もちろん、文革のようなヒステリックな大衆の暴走(もちろん操られた上での)を見る向きもそうした「悪夢」を恐れ、衆愚を唾棄するであろうし、現代中国の社会にもそれに対する恐怖はあるだろうし、おそらく天安門事件などは、中国共産党に言わせれば「民主化」などではなく「衆愚」の暴力行為だったのだろう。

しかし中国の「歪んだ民主主義」はともかく、民主主義は、単なる政治制度ではなく歴史的に「思想」=イデオロギーとして機能してきたことを我らは忘れてはならないだろう。

つまり民主主義とは、

●フランス革命に端を発する民衆蜂起(革命)=権力の人民への移管(奪取)と、アンシャンレジュームの破壊=「平等」を推進する流れ(旧体制を引き摺り下ろすことにより実現される)

●職業を自由に選択し、自由な経済的競争を具現化し、自由な政治参加を可能にする自由の体制=「自由」を推進する流れ(政治的・経済的開放により実現される)

の2つのストリームが繰り返し、繰り返し「通じ合うことなく」語られてきた。それぞれが民主主義を撫でるとき、像の体を撫でるがごときであるという見方もここに起因する。

中国の言う「民主」とは言うまでもなく前者=平等(ともあれ)であり、「中東の民主化」のために、未曾有の軍事国家を東に差し向けている国の言う「民主主義」とは明らかに後者=自由の実現(それも経済的な)である。

私の師、関嘉彦氏は、近代~現代の左右両翼の思想が、そして諸国家が陥った悲劇として、この「自由」と「平等」という相反する価値を、終に「民主主義」が統合することが出来なかったことを、一つの思想的原因として言及しておられた。できなかったというよりも、それらは根源的に別の価値なのではないかとも。

今「自由で平等な社会」なるものが、「民主主義」の名の元に軽薄に語られるとすれば、それが政治的スローガンであっても、思想的プロパガンダであっても私はそれに違和感を覚えるし、歴史的にも統合の立場こそが実現されたことは一度としてないのみならず、今後もなされ得ないと考えるのが順当であるように思える。つまり自由と平等の両輪は同時には永遠に回りえないのではないか。

小泉政治の推進したものは、今更「民主主義」という言葉を纏わなかったが、「新自由主義」と呼ばれる米国ネオコンに起源を持つ、「より自由で」「より格差を広げる」社会の構築であることは言うまでもないが、これは上記の区分では明らかに「平等」よりも「経済的自由」の偏重にあるとして、また元来の民主主義を歪めるものであろう。

「戦い獲得する価値」としての民主主義がとうに終焉を迎えていることは、我らはおそらくみな体感しているはずであり、そうした奪い取る価値としての民主主義が崩壊した後で世界に残るものが「民主主義という名の平等的奴隷制」と「民主主義という名の過度の経済的マキャベリズム」のみにならないことを期すべきであり、現代版のアリストクラシーや表層的な選民主義を衆愚へのストッパーのように扱う前に、あるいはなんたら2.0などとぶち上げる前に、考えることはあるように思う。

実際多くの「なんとか2.0論」の最大の特徴は表層的であること、そして軽薄な経済的自由主義を称える別の言い方であるという風にも思う。IT的側面からの解釈に心酔している方もいるが。

そもそもこれはまたこの記事の本論とは別の話だし、待っていればどうせ消え失せる程度のものだから別にいいのだけれど。

2006 09 29 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (8) | トラックバック

September 23, 2006

なぜ君が代を歌わないと処罰されるのか(3)----東京都教育委員会の10.23通達に地裁違憲判決

当ブログでは、国旗掲揚と国歌斉唱に関する事実上の教職員への強制を定めた、都教委の、いわゆる10.23通達について、「強制は違法、違憲」であるという見解をかねてより表明してきた。その流れにおいて、今回の東京地裁の判決は歓迎している。

但し、一部の言論では、この判決の位置づけをいささか誤解している向きもあるように思われるのでちょっと書いておこうと思う。

国旗国歌:都教委の「強制は違憲」東京地裁が判決 

 入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制するのは憲法で保障された思想・良心の自由を侵害するとして、東京都立高の教職員ら約400人が都教育委員会を相手取り、起立や斉唱の義務が存在しないことの確認を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「強制は違法、違憲」と判断し、起立や斉唱の義務がないことを確認したうえ、一人当たり3万円の慰謝料の支払いを命じる判決を言い渡した。
 都教委は03年10月23日、都立学校の各校長に「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」という文書を通達。国旗に向かって起立 ▽国歌斉唱▽その際のピアノ伴奏▽こうした職務命令に従わない場合に服務上の責任を問われることを教職員に周知--との内容で、これに従わず懲戒処分を受けた教職員らが提訴していた。
 判決では、「国旗掲揚、国歌斉唱に反対する者も少なからずおり、このような主義主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する権利。起立や斉唱の義務を課すことは思想・良心の自由を侵害する」と判断。
 さらに、「通達や都教委の一連の指導は、教職員に対し、一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項で定めた『不当な支配』に該当し違法」と指摘した。(毎日新聞 2006年9月21日 16時21分)

特筆すべき点は2点であると思う。

(1)今回の判決は東京都教育委員会の10.23通達に基づく教職員への一連の指導を「違法」としたものである。

(2)「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」とした憲法19条への違憲性を言及したのみならず、同通達が教育基本法10条1項に定められた「不当な支配」に該当するとした

ここであらためて東京都教育委員会の10.23通達について言及する。

東京都教育委員会の10.23通達(2003.10.23)

東京都教育委員会教育長横山洋吉名による「学校行事等における『国旗・国歌』の実施」通達(10.23通達)が都立高校、都立養護学校・盲ろう学校校長に対して出された。通達には、

・教職員の服装・座席の指定
・教職員は「国旗」に向かって正面に位置し「国歌」斉唱
・校長は文書で職務命令を出すこと
・職務命令に従わない教職員は処分

などを含み、国旗の掲揚位置や「国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行う」などを事細かに指示する実施方針が記されている。

繰り返しになるがこの記事が問題としているのは、国旗や国歌の正当性ではないし、天皇制に関する思想の問題でもない。現行憲法に明らかに違反するとしか思えない、東京都教育委員会の一通達が、権威化され、あたかも確定法のように扱われて、実際に今日も現場の教職員や生徒に不利益と精神的苦痛を与えている実態を問題にしている。

なぜ君が代を歌わないと処罰されるのか(1)----東京都教育委員会の違憲行動

今回の判決に際しては、国旗や国歌への忠誠心や国旗・国歌法の合憲性そのものが言及されているわけではない。「違憲」とされたのは、あくまでも、10.23通達に基づく「指導」「強制」とその延長にある「処分」であり、それ以上でも以下でもない。国旗・国歌法自体に正当性があったとしても、東京都教育委の10.23通達は、その「正当性」を大きく踏み出している不当な強制であると判決は判断している。

元より、憲法19条に定められた「思想及び良心の自由」の価値は極めて重いことは言うまでも無い。すべからく公務員であれば憲法遵守を義務として負うわけであるが、その歴史的・思想的重要性に比べて地方公共団体関連の委員会の出した、一職務通達にしか過ぎない10.23通達が比較考量の対象になり得るとは到底思えない。
憲法19条に抵触する可能性をも考慮して、「優先されるべき」緊急性が、この通達の趣旨に存在しているとは考えられないと言うべきであろう。

まして、同通達は教職員に対して強制力を持ち、同通達を根拠にして、罰則としての研修まで現場でなされているということを考えればまさに「一公共団体の暴走」とも断じられる事態だった。この流れでは通達を教育基本法10条に言う「不当な支配」と断じた地裁の判断は極めて妥当であると思う。

議論が国旗や国歌への忠誠、国家観や、国旗・国歌法の全体としての妥当性に中心を置くならそれは今回判決の趣旨からは逸脱するものであり、別途に論議されるべきであろう。
おそらく当事案は高裁に場を移して継続審議されるであろうが、この通達を後押しした石原都政のバランス感覚の欠如は猛省を要すると考える。

【参考:教育基本法10条】

(教育行政)
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

【参考記事】

なぜ君が代を歌わないと処罰されるのか(1)----東京都教育委員会の違憲行動(BigBang)

なぜ君が代を歌わないと処罰されるのか(2)----東京都教育委員会の違憲行動(BigBang)

2006 09 23 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

September 11, 2006

オーマイニュースの広報感覚はどうだったのか---シンポジウムに関してもう少し

さて、先日のオーマイニュースのシンポジウムは、事前の告知を見る限り、

4.主催・協力 オーマイニュース、早稲田大学GITI・境研究室、Future Planning Network(フューチャープランニングネットワーク)、ブロガー有志ほか

となっている。
まず、一体主催はどこであったのかという問題があって、ここに羅列された全ての団体が主催なのか、それとも主催は当然オーマイニュースであって他の団体は協力と言うことであったのか、シンポジウムに出席した私にも、そのへん定かではないのだが、ともあれオーマイニュースを主体としながらも、多分にボランティアードな運営がなされていたようである。

とはいえ、だ。

本来、広報コンサルのプロフェッショナルであるはずの平野日出木編集次長を擁しながらの仕切りの悪さについては、下記のエントリーでも触れられている。

いずれ消えゆく人 3(黒崎夜話)

編集次長の平野氏は、広報コンサルが得意であると言われるが
(#黒崎夜話:コメント欄参照:http://kurosaki-yowa.seesaa.net/article/22825303.html#comment)、
意図的かどうか、今回の早稲田でのシンポにおいてそれは全く機能していなかった。
意図的でないとすればその腕も問われよう。
佐々木氏の発言を抑えることもできず、ボスである鳥越氏に対しても公の場で一枚岩でないことを繰り返し暗示している。
実質的に冷笑を浴びせるような誘導もある。
果たしてこれが広報の重要な目的のひとつでもある「ブランド戦略」に沿うものか、私ははなはだ疑問であった。
通常の組織、ある程度お堅い会社であるならば、その責は後に問われても不思議ではない。

全く同意である。

実際聴衆の前での鳥越氏、佐々木氏、そして平野氏の方向性があまりにもバラバラであるのみならず、互いの感情的な行き違いも、如実にネガティブプレゼンすることになってしまった、企業広報の観点ではお粗末極まりない。

オーマイニュースに対しては、非常に大きな注目が集まっている時期であり、創刊直後の非常に大事な時期である。(その意味では理由はどうあれ、鳥越氏の途中退席というのもいただけなかった)

企画に尽力されたというガ島氏と佐々木氏、そして運営を支える中心になったFPNの徳力氏の努力を軽んじるわけではないが、このシンポジウムの重要性が果たして、正しくオーマイニュース側で認識されていたかどうか。実際のところ鳥越氏にしても、それほどこのシンポジウムを重視していなかったのではないか。
このシンポジウムでのオーマイニュースの足元の乱れがこのように広くネットに発信されて認識されるに至る構造を果たして事前に意識していたかどうか。

広報という点では、オーマイ側の核は平野氏なのだと思われるが、鳥越氏もメディアリレーションの重要性は経験の中で十分に認識されているはずである。(あるいは鳥越氏のメディア観にはネットは入っていないかもしれないが、それもまた頓珍漢なことになる)
これほどまでに重要なポイントとなるシンポジウムを、なぜ明らかに事前の互いの刷り合わせを欠いた状態で、しかも運営の根本を「素人仕事」に委ねた形で強行してしまったか。

会場となった早稲田大学の教室は狭く、100人の来場者で身動きもできない状態であり、また個々のパネラーの顔も、フラットで立ち上げのないステージのためろくに見ることもできなかった。韓国に始まり世界を「驚嘆させた」メディアの日本上陸、そして「読者」たるブロガーやネットワーカーとの最初の対面であると言う、緊張感、高揚感はまるで感じられなかった。外見的には、それこそどこかの学生サークルか何かの小じんまりとした、そして「混乱した」集まりにしか感じられなかった。そして、オーマイ側のあの足並みの乱れである。

代表のオ・ヨンホ氏は会場の後方に窮屈気味に座り、横に座った通訳の逐次通訳の声は常に会場に響き、幾度か聴衆は怪訝な顔で後ろを振り返っていた。

佐々木氏は幾度か「編集部の論争をそのまま見せてしまうのがいいのではないか」という言葉を連発していた。ガ島氏にもそうした雰囲気が感じられた。おそらく事前の作為を嫌い、ことをありのままに見せることをむしろ重視したのであろう。それはわからぬでもないが、オーマイの企業広報と言う観点で考えた場合、相当まずい演出であったと言わざるを得ない。あるいはこれは広報ではなかったか。

一言で言えばこの規模の企業にしてみれば、貧弱な演出なのである。気を入れるなら然るべき会場、然るべき見せ方、然るべき運営があったのではないか。

再度、ここで誤解されないように願うが、ガ島氏や佐々木氏にケチをつけるものではない。彼らの発案があったからこそ実現した企画であろうし、その角度からは、明らかに「有益であった」。だが、企業としてのオーマイニュース側としては、これで良かったとはとても思えないということだ。7億からの資金がソフトバンクから注入された企業のプレゼンテーションとしては、極めてお粗末であったと言わざるを得ないといことなのである。これは、運営に尽力された方たちの問題ではなく、こういうスタイルを選択したオーマイ側の意識の問題であるように思う。

まあ、ガ島氏や佐々木氏は元々現状のオーマイに批判的な立場であるから、この人達に主導権を預けた時点で、ある意味予想された展開であったとも言える。

ついでに言ってしまえば、これがオーマイがネットを、そしてブロガーを、どれほど重視しているかの試金石だったように思う。つまり明らかにそれを軽く見ていたとしか思えない。
ここで見せ方を誤れば、決定的な悪評がまたたく間にネットに広がる。それは何としても防がなければならない。メディアのブランドイメージを著しく損なう危険がある。そのことの重要性に対して認識が無かったとすれば誠に残念なことである。

まあプロセスをそのまま見せてしまうことがブログ的ということであり、オーマイはここだけは非常に正しく2.0的だったという(苦笑)皮肉な見方もあろうが、結果的にオーマイのブランドイメージにいい効果をもたらしたとは思えない。

その中でも典型的な出来事が、当日のネット中継の突然の中止である。これについては早稲田の状況と合わせて、僕はちょっと別にいろいろ思うことがあるのであるが、その話は次のエントリーで書くことにする。

2006 09 11 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

September 03, 2006

「ブロガーXオーマイニュース『市民メディアの可能性』」レポート(2)

20060902_535

鳥越氏退場後、10分ほど休憩。

この間に、佐々木さんに声をかけようと思ったが見つからず。ナーバスな私は会場をきょろきょろ見回すが、知った顔はいない。どうしようかな、徳力さんと話そうかな。しかし徳力さんは忙しそうだな。

ガ島さんに挨拶でもしようかな。・・・まいっか。

などとぐだぐだしておりました。

で、シンポジウム再開。

冒頭で

平野氏
「準備ブログと本番ブログでは運用の方針を変えておりまして・・・諸々説明」
「実名については、(鳥越さんはああ言っていましたが)我々はかなり柔軟に考えています」

佐々木氏
「はっきり言いましてねえ、ちょっと(鳥越さんとは)1億光年の隔たりがある感じで・・・」(場内爆笑)
「ネット世界では言論がフラットになる。それがどういうことなのかを理解していないのではないか。果たして世界観を理解できるのかどうか?」
「今の編集体制っていうのは、本当に物足りない」
「編集部と言うのは「場」である。スフィアとの出会いがどういう状況になるかと言う意識を大事にして欲しい」
「世界をどう見ているかと言うこと。鳥越さんは、なんていうんですかね、田舎の人たちに書いてもらいたいみたいなそういう感じ。僕はもっと、専門家の集団っていうのかな、専門家って言っても、いろんな仕事に従事している人たち、そういうのを念頭においている」
「準備ブログの状況を見ていて、このままじゃまずいよね、変な方向に行ってしまうかもしれない。対立軸を作らなきゃとそういうことであの批判エントリーを書いたんだけれど、この掲載をめぐって、まあその(苦笑)一悶着ありまして。」

※横で平野氏が微妙な表情をしている。

「で、今回のイベントはガ島さんと一緒に企画して、まあブロガーとの接点と言うかオーマイとのスフィアの出会いみたいな・・」

山口氏
「韓国はみな実名だという背景があるんですね。匿名への懸念はわかるが・・。鳥越さんはコメントよりも記事書いてくれと。そういう立場ですね。」
「実名で徹底的討論する場と言うことなら、そういう場をつくってくもらいたい気もしますね。」
「もっと右の編集員も入れてね(笑)バトルとかもあるでしょう。」

ガ島氏
「現状分析としてですね、ライブドアニュースとJanJanとオーマイと、同じような人が参加しているような感じはありますよね」

磯野氏
「まず話題になることが必要。垂れ込みや内部告発とか」
「デスクチェックはどうなっているんでしょうか。大連の件であったんですが、自分のオヤジがどうとか、で、銀行には店長室じゃなくて支店長だとか、普通社長じゃなくて頭取だとか、表現一つ見ても事実とは違うんですよね。」

いちる氏
「鳥越さんは66歳ですね。戦争もぎりぎり経験している世代。知らなくても面白いという心は持っている。市民記者の開拓にとにかく熱心。。こういう66歳がいるということだけでも、オーマイニュースはすばらしいと思いますよ」
(会場拍手)

※このいちる氏の発言のニュアンスは微妙。皮肉じゃないですよね?私の再現も正確じゃないかも。もしもいちる氏読んでおられたらコメントいただければ幸い。

「まだ1週間ですよ。創刊して。こんなもんかなあという気もする」

ガ島氏
「みなさんは(パネラーに)市民記者登録しますか?」

磯野氏
「私は商売敵だと思ってるんで。笑 登録しません」

山口氏
「いや間に合ってます(笑)表現の場は別にあるので。生活の場に必要がない」

いちる氏
「ニックネームを許さないというのがね」

ガ島氏
「ちょっと会場に聞いてみましょう。この中で市民記者にこれから登録しようと言う人」
※1名が手をあげる

「あれ?あんなに鳥越さんが売り込んでいたのに。笑」
「ではニックネームが許されるなら登録するという方」

※10名ほどが手を上げる。場内にやっぱりねえ・・みたいな空気。

※ここで会場からの質問

質問者
「トラックバックはなぜないのか」

平野氏
「全記事検索機能はこれからつけますし、コメントへのフォローを見てもらえれば・・云々。」
「実装予定は・・何とも」

※回答ははっきりしないが要は予定はないようである。平野氏は気鋭のジャーナリストであることは明確で実質的にオーマイの中心人物であると思われるが、トラックバックの意義を理解している様子がない。RSSのことも聞きたかった・・

質問者
「タブーに挑戦というキャッチがいつのまにか消えたが」

中台氏

「あれはその何かキャッチが必要と言うことで、思い付きと言うか(会場笑)・・そうでしたっけ?消えていたことにも気がついていませんでした。ごめんなさい。」

ガ島氏
「ところでタブーって何ですか」

中台氏
「すくなくとも新聞が書けないことじゃないですかねえ」
「たとえば押紙のことですが、みんな知っているんですが、どこも書かない。私が調べた限りでは、20年くらい前に熊本日日新聞が、西日本新聞のことでそういうことを書いた。それくらい」
「後はマスコミと権力の距離感とか・・」

平野氏
「(タブーに挑戦とは)掲げてまで出すことかなーと個人的には思う。ジャーナリズム=反権力ではない。正義の概念は昔と変わってきているのではないか。マスコミの権力化がむしろ批判されている。若い記者の型どおりの正義感というかそういうのを見ると違うよと言いたい。だから安易にキャッチにいれるべきではないと思う」
「もっとも鳥越さんのような人も編集部にはいますが」(会場笑)

佐々木氏
「編集部内でも違うんですよ。いろんな対立がある。それを表に出したほうがいいと思う。そうでないとステレオタイプに・・・」

※横から平野氏が何事か佐々木氏に言う。制止している?佐々木氏、いいじゃないかという表情で続ける。

「実際編集部ではすごい議論があるんですよ」
「タブーの概念も違う。市民運動の人が劣化ウランを取材してくれと毎日新聞に言ってきて、地方版だったし、扱わなかったら毎日新聞は権力寄りだとか言われた。たとえば韓国の悪口をなぜ書かないかとか(このあたり少しBBの記録曖昧)」

ガ島氏
「タブーと言うのはまあ、部落開放とか基地とかそういうものなのかと、そういうことなんでしょうか。たとえば子供の事故とかで、親も不注意だとか社説に書くと抗議が凄いですよ。電話が鳴りっぱなし。書けないんです。そういうことはタブーですね。新聞の。で、そのへんどうなのかと」

いちる氏
「グーグルニュースとかアルゴリズムで、いいですよね。僕はノーイデオロギーでとにかく晒せばいいと思うんですが」

会場から質問(徳力氏)
「どういうターゲットを考えているんですか?書き手じゃなくて読み手として。話が書き手の側からばかりなので・・今発信したい人は増えてきているが」

平野氏
「まあその・・大企業を出て、ベンチャーで企業を起こして会社を大きくしていくとか・・そういう人たちの・・発信の場が・・そういう体験を伝えたい」

※平野氏の回答、よくわからなかった。ここわかる人いればフォローをお願いします。僕も集中力が落ちてきていたかも。

会場から(女子大学生)

「企業ジャーナリズムな感じが強いがそのへんどうか。普段ネットを見ない人のことは考えているか」

平野氏
「企業ジャーナリズムと言うのは・・よくわかりませんがニュースバリューの概念の問題ではないでしょうか。あれはニュースではないとかオーマイの記事も言われなすが、ニュースの概念が違うというか。」
「ネットを見ないというのは、まあこういうオフ会のようなものもその一貫ですし」

会場質問者
「私は市民記者ですがアクセス数は?」

平野氏
「例の田中さんの、釣られちゃった記事ね(会場から笑)あれは初日で60,000行きました。まああれは我々も楽しませてくれたというか(爆笑)そうか、左よりの甘い言葉を散りばめた記事は釣りかもしれないとか、そういう読み方をするようになっちゃって(笑)作られていないかと要チェックとか(会場笑) いいのがあっても釣りじゃないかとか。」「目標としては市民記者年内5000人、PVで月1500万ですね。月400万PVいかないと広告が入らない。今はなんとか(話題になったので)そのペースは越えている。」

その他にも記事のオピニオンに関する扱いとかいくつか質問あり。

※ここでようやく私の質問の順番が回ってきた。私がしたのは次の質問。

「訴訟リスクと言うのがある。釣り記事もそうだが、実名で書いて個人の周囲の人間が特定されるということがある。事実の確認も大切だが、そうしたリスク回避にどのような体制で臨んでいるのか。何人の人間が何時間かけているのか、分業なのか全体会議を毎日やっているのかとかそういう具体的なことを知りたい」

平野氏
「編集体制は、今9名。そのうち取材に2人くらい行く。で、3-4名が全ての記事に目を通し、まあじっくり考えるということになる。で、とりあえずは「ニュースのたね」に入れて夕方1時間くらい協議して、翌日朝出すものを検討する。で、次の日朝8時か8時半にアップする。」
「至急扱いのものは急遽別扱いするがその他は1-2日の検討リサイクル。ただ実際は記事が予想以上に多く集まっているのでこの体制は維持できないかもしれない。少し変えなければいけないと思っている」

私の記録はここまで。


●時間はすでに予定時間を大幅に回っていて5時近くになっていた。最後まで全ての質問にどうにか答えてくださったのはよかったと思う。

●聞けば私のすぐ後ろにkatshiさんが座っていたそうで、ご挨拶できずに残念。

●なにしろテープではなく筆記したものを起こしたので、漏らした部分や表記が不十分な部分がある。そのあたりはオーマイニュースの公式記事や、他の参加者の記録も見てフォローしていただきたい。冒頭に書いたように記述ミスがあれば確認され次第訂正する。

●徳力さん、ご挨拶もしないですみませんでした。またこんど。

ふー。感想などはまた別に書く。

2006 09 03 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (17) | トラックバック

「ブロガーXオーマイニュース『市民メディアの可能性』」レポート(1)

2006090201jpg

早稲田大学での開催と言うことで、これは行かなければと開始時間を3分ほど回って会場を訪れてみると、満員の盛況。TBSのカメラも来ていて、既にシンポジウムは始まっていた。

シンポジウムの主な流れを再現する。

●なお、当日予定されていた実況中継は早稲田大学の回線側との技術的な問題があり、実施できないとの発表があった。司会のガ島氏より、もしも外に発信できる人がいれば、その旨流してくださいとアナウンスがあったので、携帯から僕もブログにアップした。

ブロガー×オーマイのシンポジウム・中継について(ガ島通信)

●来場者のうちおよそ20人程度が「ブロガーである」ということである。また後にも書くが市民記者は2-3人。観客の年代は20-60代と幅広い。

●関係者の発言はできるだけそのまま再現しているが、ニュアンスや、発言内容など問題がありましたら、発言者の方、指摘して下さい。修正します。

壇上(といってもフラットな床なので見づらい)にはパネラーとして

・鳥越俊太郎(オーマイニュース編集長)
・平野日出木(オーマイニュース編集次長)
・中台達也(オーマイニュース記者兼編集者)
・佐々木敏尚(オーマイニュース編集委員)

ここまでが一応オーマイニュース側。他にブロガー側として

・山口浩(H-Yamaguchi.net)
・磯野彰彦(@竹橋発)
・いちる(@小鳥ピヨピヨ)

そして司会は我らが

・藤代浩之(ガ島通信・NTTレゾナント)

(敬称略)

会場には企画元のFPN徳力氏の姿も。

2006090202jpg

※生・ガ島氏を初めて拝見したが、写真で見るよりもカッコイイね。司会ぶりはなかなか堂にいったもので、大したものでした。書き言葉よりも、話し言葉のほうがガ島さんは切れるねえ。(また余計なことを)
鳥越氏は体調もあまりよくないのだろうか、顔色がさえない。相当お疲れのご様子とお見受けした。

20060902_536

※後部座席にオ ヨンホ氏が座り、全ての発言の逐次通訳を受けていた。通訳の声が始終響きうるさかったが全て聞き漏らさずに聴こうと言う姿勢は、さすが。

まずは全員で順番にオーマイニュースへの雑感。ブロガー陣は全般に温度が低い。

ガ島氏
「週刊金曜日だと思った」と指摘。現状も厳しい認識。
「ちゃねらの遊び場と化している」
「あれなら有名ブロガーのサイトを読んでいたほうがまし」

いちる氏
「編集はどうやっているのか知りたい」

山口氏
「市民ジャーナリズムという属性で見られない」

佐々木氏からは矢継ぎ早に厳しい言葉。
「(物議を醸した批判エントリーの件もあり)私は今日コウモリの立場」
「左に寄っている」
「編集は今の仕事を日々一生懸命にやっていて過ぎていっているだけという印象」
「編集部はネットリテラシーが低い。はてなもmixiもブログもやったことのない人が集まっている」
「鳥越氏の2ちゃんねらー批判もおかしい。ひとからげに2ちゃんねらー呼ばわりやゴミ溜め扱いはおかしい」
「左翼型編集メディアとブロゴスフィアの衝突が現在の混乱状況だと受け止めている」

※シンポジウム全般を通して佐々木氏は「対立軸をつくるためだった」としながらも、件のエントリーの公開を巡って編集部とかなり激しい議論があったことを告白。また、佐々木氏の激しい内部暴露に、平野編集部副次長が発言をやんわりと制止しようとする場面もあった。内部対立は相当根深い印象。

中台氏
「20代の若造として錚々たる方々の間で緊張している」
「2ちゃんねらーに荒らされているという意識はない」
「とにかく人的ソースが足りない、コメントを返しきれないで流れているのが現状」

※中台氏は例の押紙問題を取り上げた記者である。

平野氏
「ブロガーVSオーマイという捉え方は微妙であり不本意」
「もっとみな冷ややかかと思ったが、たくさんの人が書いてくれてうれしくは思っている。創刊時はそういう人はいないかと思った」

鳥越氏
「(佐々木氏に向かって)(リテラシーが)低い低いといわれるけどさ、本当に(俺は)低いよね」
「去年、ブログって何?と娘に聞いたくらい。ほとんどブログは見ていなかった」
「糸井さんのほぼ日で、原稿を4年間書いていたけれど、ネット関連ではそのくらいしかない」

※鳥越氏からは、ネットリテラシーが低いどころか皆無ではないかと思われる発言が、この後も連発され、会場が凍りつく場面もあった。途中退室しなければならないため、前半は鳥越氏関連で集中的に行われた。

「検索するくらいしかインターネットはやらない」
「ブロガーリテラシーはほとんどない。すみません」
「(そんな調子だから)始めるにあたっては引き受けるかどうか悩んだが、全く既存のものとは違うメディアをつくりたかった」
「今の日本の政治は劇場型であり、参加型メディアを作ることは意義があると考えた。参加するというプロセスが大事。責任ある参加と言う面では実名が大事」

※例の実名論であるが、こだわっているのは編集部内でも鳥越氏だけのような印象。平野氏は後に「こだわっていない」と表明しているし、中台氏くらいの世代になると全く気にしていないように思われた。実名論については後半盛り上がったのでそこでまた。

鳥越氏の発言抜粋を続ける。

「(2ちゃんなど)今のネットでは匿名で傷つけることが横行している。僕なんかもうあちこちで韓国人などと言われている。韓国人でもいいが、事実と違うことを平気で書くのが匿名文化」
「今日もこんなに多くの人が来てくれるとは思わなかった。この中で市民記者に登録した人はいますか?」

※会場で2-3人の手が挙がる

「ぜひ登録してたとえオーマイへの批判記事でもいいから書いて欲しい」
「まさか創刊で市民記者登録が1000人を超えるとは思わなかった。今日現在で1600人。せいぜい100人かと。」
「右とか左とかは関係ない。小林よしのりのインタビューも考えている。オーマイの登場でそれ以前とは日本の現状が変わったと思っている」
「ブログの女王の真鍋かおりさんとかにもインタビューしたい(会場から笑)。後は王監督の癌闘病記とか、ぼくも癌なので」
「寝る間もなく頑張ってやっている。自由な言論のプラットフォームを作りたい」

ここでガ島氏発言

「準備ブログの炎上は相当なことだったと思うが、あれは鳥越氏の2ちゃんゴミ溜め発言への反応だと思うがそのあたりはどうか」

鳥越氏

「あそこまでヒステリックな対応があるとは思っていなかった。ゴミ溜めというのは・・・ここにITmediaの人いる・・・?いない?・・・僕は確か全部じゃなくて一部のって言ったと思うんだけどなあ。」
「人間が本来持っているネガティブなパッションが、匿名になったとたんに出てしまう。2ちゃんの女子アナサイトを見たら(スレのことか)ひどかった。レイプ寸前のことが書いてある。で、これは人間のゴミで捨てなければならない場所になっていると。決して全体をそう言ったわけではない。」
「オーマイはまだよちよち歩きの子供。いろいろまだこれからである」

※発言に誤って報道された部分があるなら、なぜ早めに訂正しなかったのかと直接聞きたかったが、鳥越氏の退席までに発言する機会がなかった。

佐々木氏

「その他にも小泉批判などは非常にイデオロギッシュ」
「もっとやったほうがいいテーマはあったのに、編集会議で通らなかった。ワーキングプアとか格差社会とか」

鳥越氏
「小泉批判がなぜイデオロギッシュなのか。それはおかしいよ」
「格差社会とかやらなかったのは難しい部分があるんだよ。」
「それなら佐々木さん、言葉だけではなくやってよ(会場笑)」

※ここで佐々木氏と鳥越氏で少々言い合いのような感じになる。

ガ島氏
「実名ブログと言うのもあるんですよ。責任あるメディアはオーマイが最初とかいうことはない」

山口氏
「2ちゃんには良心的な人もいる。ひとかたまりにされたのは問題。「一部の」ならわかるが重要なことではないか」

鳥越氏
「いや、あやまります。ITmediaが・・・まあネットのチェックしなかった。ぱっと載っちゃうでしょう・」

山口氏
「そういう人たちを味方につけなければならないんですよ」

いちる氏
「一般的には実名で発言するのは怖い。ニックネームでいいのではないか。またコメント欄はなくてもいいくらいだと思う。YouTubeのレスポンス機能というのもいい。サイト内トラックバックがあればコメントは要らないように思うが、その日のベストコメントをピックアップする方法もある。」
「コラムが多い印象。ファクトの記事を期待する」

鳥越氏
「私は45年報道をやってきた。テレビは新聞の後追いだったのを、新聞にできないことをやりたかった。桶川の事件では自分のところでやったのを後から新聞が追いかけた。オーマイニュースでは加藤紘一にはしっかりインタビューした。僕なりにファクトの提示をするつもりはある。」
「佐々木さんがもう少しやってくれれば 笑(と佐々木氏を見る)。とにかく人が足りない」

佐々木氏

「韓国ではすごい数の記者が登録して、いいスパイラルでファクトも出てきた。日本ではたった1500。ここで負けている」
「論評ではブログがある。田舎のオジさんがいきなり市民記者になってブログに勝つ論評を出せるか。ここでもも負けている。難しい」

平野氏

「ブログの存在は2002年に知っていたが、4回くらい書いて続かなかった。普通の人にはまだブログもハードルが高い。本は輪転機で印刷するが輪転機さえあればだれにでも本ができるわけではない」
「ブログは基本的にエリートのもの。オーマイはもっと裾野を広げた人たちのもの」

山口氏

「読み手とすればいい記事が欲しいだけ。ちょっと書いてみましたなんてのでいいのか。ファクトではなく、市民には世論を書いてもらうべきでは。それが市民メディア」

鳥越氏
「しきいを下げるにはまず一定の量に達しなければならない。数万に達しないと質的変化は望めない。」

※ここで会場から質問。今日出席している人たちがブロガーの代表だとは思わない。なぜこういう構図にしたのか。ブロガーリテラシーを説いてオーマイを教育するつもりかという質問。壇上のブロガーからは、別に代表できているわけではないとの声。

佐々木氏

「アルファブロガーといったって偉いわけでもなんでもない。R30が凄いとかとか言うけど、オウム真理教の問題で炎上したりした。」
「今回の会は、ガ島と佐々木でこんなのやれば面白いねということで、オーマイに持ちかけて実現した企画」
「やりたい人は自分たちで持ちかければいいんじゃない?(と会場の質問者に)」

鳥越氏
「いや、今日は驚いた。ブロガーにもいろんな意見があるんだねえ(会場から笑)一言では言えないもんなんだねえ。」

※再び会場から質問。JanJanなどとの違いは何か。

平野氏
「オーマイの編集部は20-40代。比較的若い。JanJanなどは政治に特化している印象だがオーマイは違う。」
「ライブドアニュースは、ライブドアがマスコミを買いにいったりしてマスコミ志向があるのではないか」

再び質問。
(1)オーマイはネット感覚で作られていない。
(2)ネット新聞の前例を踏まえているのか。
(3)鳥越さんでは弱いのではないか。引退して若い人にやらせたほうがいい。
(会場笑 鳥越さん渋い顔)

20060902_534

鳥越氏
「僕はJanJanもライブドアニュースも見たことが無いのでわかりません。(会場凍る)」「引退しろと言うならいつでもします。僕は癌で、医者も家族もみんな反対した。でも新しいことには好奇心がうずくし、とりあえず鳥越の名前なら相手も会ってくれる。立ち上げの広告塔のようなつもりで引き受けた。しがみつく気はない」

会場の鈴木氏

「現状分析が必要。韓国はネットで学生の体制批判が盛り上がった。マスコミ不信がある。IMF以後新自由主義が台頭。その流れでオーマイニュースが生まれた。」
「日本でのプラットホームの妥当性を検討したのか?」

鳥越氏
「オヨンホ氏と4月7日と21日に会った。3回目でOKした。」
「既存メディアは一方通行。国民の声を反映させれば日本は変わるんじゃないか。市民と言うと色が付くので迷ったが、私は全ての納税者が記者になるイメージ。子供も消費税を払ってる。」

「とにかく勉強させてください。僕はブログには無知ですが。何を書いても結構ですからとにかく市民記者の登録をお願いします!!」

(会場拍手・笑)

ここで鳥越氏退席。(2)へ続く。


【参考リンク】

※あわせて読んでもらうといいと思います。
       
鳥越編集長、引退の危機!?ブロガー×オーマイニュース
       

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August 31, 2006

「ゴミため」から投げつけられた毒饅頭----オーマイニュースは大丈夫なのか(2)

●堀江ライブドアと何が違うのか--自由の名のもとに

広告収入を確保するために、係累のアクセス数を確保する必要があり、そのために1人でも多くの市民記者を募っているに過ぎないと「オーマイニュース」を切って捨ててしまったらおそらく鳥越編集長からも、大株主の孫正義氏からも異論が出ることだろう。

孫正義氏は「Web2.0時代が呼んだ新メディア 自由のプラットホームづくりで意気投合」
という表題の記事の中で、このように語っている。

呉代表とお会いして早々、私たちは意気投合することができた。インターネットの将来性、そしてインターネットだからこそできる新しいメディアの形について議論し、あるべき理想像について語り合った。そして私は、呉代表の掲げるコンセプト、つまり「市民みんなが記者」、「21世紀における言論の自由のプラットホームをつくる」という考えに全面的に賛同し、オーマイニュース日本版の立ち上げに出資することを決めた。

Web2.0という言葉は大変に便利な言葉である。専門記者が独占していた言論や報道を、「全ての人」に開放し、相互に流通させさえすれば、Web2.0的であるということになり、何か特別な価値があるように見える。このように「特権」を一般に開放してしまうと、質はともかく、世に記事を書きたい人は ごまんといるから、表面上は活気が溢れ、あたかも何か新しい価値が実現化されている過程のように見える。社会をより活性化し、我々自身をも、よりよい方向に変えていってくれるようにも思える。だが、本当にそうなのだろうか。

かつてライブドアの堀江貴文氏は、ライブドアニュースの創設に当たって、こんなことを言っていた。

ライブドアは、「市民記者」を募集し、自らのサイトのニュースに自前の記事を載せ始めている。
その規模を拡大し、既存メディアの情報も取り込みつつ、ニュースサイトを充実させていくつもりだという。
そして、新聞を発行し、そこでアクセス数が多い記事を紙面に載せていく。
人気のある記事は大きく扱い、そうでないものは載らない。
その扱いは、もっぱらサイトの読者の人気ランキングにより、新聞社の価値判断は一切入れない。

(堀江氏)
「(新聞は)人気がなければ消えていく、人気が上がれば大きく扱われる。完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけ。」(「江川昭子ジャーナル-「新聞・テレビを殺します」 ~ライブドアのメディア戦略」)

その後ライブドアニュースは、ライブドア自体の崩壊と言う、堀江が予想しなかった大カタストロフィに直面し、それなりの役割を果たしたとは思っている。だが、旧メディアに身を置き、限りなくノーリスクの十分な資本とバックを有するネット報道機関の編集長に就任した鳥越氏は、一体今何を考えているのだろうか。あの騒動のとき、鳥越氏はライブドアを拝金主義として厳しく批判していたように記憶しているが、鳥越氏と堀江氏の考え方の差異がどこにあるのか、あるいはオーマイニュースとライブドアニュースの差異はどこなのか、これを読む限り俄かにはわからない。

いずれも「人気に応じて」掲載順位や場所が変わる。編集部の持っている統制力は既存メディアに比べて著しく低く、市場原理という新しい「神」が報道の倫理よりも重視される。原稿料は押さえられ、記事は自由の名の下に放任される。それがWeb2.0時代の参加型ジャーナリズムの避けられない共通の実態なのだろうか。

「オーマイニュース」の特徴は敢えて言えば、これに加えて、鳥越氏が盛んに「実名性」を持ち上げていることぐらいである。
一体、「実名性」が本当に記事の質を担保できると鳥越編集長は思っているのだろうか。「釣り疑惑記事」に関しても、「お粗末な留学生記事」に関しても、初日以来の混乱に関して編集部からの適切なメッセージは今のところ何一つ出ていないために、こうした事態への反省がどの程度部内で起きているのかも、窺うことができない。


●記事は一体どのようにチェックされているのか。リスクを許す編集姿勢。


「オーマイニュース」編集長の鳥越俊太郎氏ら、報道陣と一問一答 「政治的・思想的に偏りが生じる心配はない」

――誰でも市民記者として登録できるということだが、特定の団体・企業に所属する人が、自らの利益につながるような記事を投稿する可能性はないのか?

鳥越氏:可能性としてはある。編集部が、そういった記事を見逃すこともあるかもしれないが、ある程度は判断できる。ある一定の方向を持った記事が大量に投稿されたら、おかしいとわかるからだ。その際は何らかの処置が必要になる。その判断ができないようでは、我々もプロではない。

という鳥越氏の自信を見事に裏切り「ためにする記事」は堂々と「プロの」チェックを潜り抜けた。「大量に」投稿されなくても、記事一つ一つをしっかりとしたプロが厳しく読んでいさえすれば、おそらく当該の記事にしても「何かがおかしい」ことには気がついたはずだと思う。一体誰がどのように読んでいるのか。

これに関して驚いたのは、初日の「釣り疑惑記事」よりも、むしろその後出た、その疑惑を指摘する記事のほうである。それは編集部の「良心」を示すものであるから、というわけではない。その掲載までのスピードである。

問題の記事「 インターネット上ではびこる浅はかなナショナリズム この国の未来を支える若者の論理は・・・」は2006-08-28 09:00に掲載され、その疑惑を指摘する「2ちゃんねらーに釣られたオーマイニュース編集部」は2006-08-29 16:24 に掲載されている。
最初の記事の掲載から1日半ほどで、それと全く反対の事実を主張する記事が掲載されているのである。で、いずれも編集部が掲載許可を与えたものであることはもちろん言うまでもないだろう。
「2ちゃんねるに釣られた・・」は先の記事の重大な問題を指摘する記事にも関わらず、これもいとも簡単に掲載された。

そもそも、この掲載許可のシステムはどうなっているのだろうか。

糾弾の記事を書いた本名 広男と思われる人物は、その告発の証拠として、ネットに市民記者のログイン画面を公開している。(現在は見る事ができないようだが、市民記者に登録した人であればよくご存知だろう)
市民記者の記事投稿は、おそらくこの管理画面から行われ、このままだと非公開の状態であり、それを編集部が別の管理画面で下読みをするのだろう。下読みで問題がなければ、承認の手続きを行い、あらかじめ決まっているカテゴリーに従って、毎日一定量の記事が公開されていくのであろうと予測される。

問題は、この「下読み」の時間と、それを行うスタッフの人数と質である。その具体的なプロセスは公開されていないが、(つまりどのような観点で、何重のチェックがなされるのか等)鳥越編集長は、 「異なる意見戦う場に~創刊にあたって」でこう言っている。


 オーマイニュースの第一の合い言葉は「市民みんなが記者」です。とはいえ、これまで記事を書いた経験もなく果たして記者活動が出来るのだろうか? 先ずは皆がそう思いますよねぇ。何を書いたらいいのかしら?

 確かに新聞記者は少しづつ経験を積んでプロの記者になって行きます。私も記者一年目は何をどう書いていいものやら頭を悩ましていました。書いた原稿をデスクに赤字を入れられる位ならまだいい方で、何度も破り捨てられてクズ籠行きもありました。でも、どうでしょうか、書くという行為は普通の市民なら何らかの形でやっている行為ですよね。

 確かに同じ専門家といっても医者が手術をするように市民が手術をするというのはこりゃ、ちょっとありえませんがね。書くのなら別に事実関係がしっかりしていて文意が分かればいいんじゃないでしょうか?


「書くのなら別に事実関係がしっかりしていて文意が分かればいいんじゃないでしょうか?」 

本当にそうだろうか?

こうしたフレンドリーだけれど大甘な編集長の姿勢が、オーマイニュースで次から次へと凡記事を量産する、編集部の下読みのチェック体制の甘さに繋がってきていないだろうか。

むしろ自分が市民記者であれば、素人扱いされて「何でもいいからユー書いちゃいな」などと言われるよりも、長年プロフェッショナルの世界で戦ってきた鳥越氏他編集部のキャリアある記者たちの「厳しいチェックの目」を、環境を求めるのではないだろうか。少しの嘘でも見抜かれるぞ、力を抜いた記事、何が言いたいのかわからない記事、個人ブログの隅に書いておけばいいような記事は「オーマイニュース」には通用しないぞ。そういう緊張感を持たせることが必要なのではないだろうか。

そう思われることが、紙面のレベル向上に繋がり、さらには今回のような問題記事をみすみすスルーさせるような体たらくからの脱却に繋がり、結果的にオーマイニュースの長期的な発展につながるのではないだろうか。

実名論議よりも重要なことはあるのではないか。

リスクに関する話をもう少し続けようと思う。

2006 08 31 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック

August 30, 2006

「ゴミため」から投げつけられた毒饅頭----オーマイニュースは大丈夫なのか(1)

オーマイニュースで起きた、アクセストップ記事への「釣り疑惑」は未だ真偽は確定していないが、個人的には洒落にならない印象を持っている。
ここまでの経緯が報道されている通りであれば、鳥越氏が「ゴミため」と評した2ちゃんねるから、典型的な「左」を装った記事が作為的に市民記者=2ちゃんねらーから意図的に投稿がされ、幼稚な内容であったにも限らず、それがそのまま編集部のチェックを通ってしまい、あろうことか初日のアクセストップをとってしまったことになる。
(※この事実を指摘した記事のほうが「釣り」であるという説もある)

これはオーマイニュースの運営の基本と信頼を崩壊させかねない。重大な事態であると思う。この週末には、ブロガーとの懇談会も開催されるというが、この問題を考えるにあたって、そもそもオーマイニュースとは何なのか、今更ではあるが、自分の確認も含めて、あらためて全体を総覧してみた。

【参考】
2ちゃんねらーに釣られたオーマイニュース編集部(オーマイニュース)

オーマイニュースとは一体何なのか。

●日本版オーマイニュースの運営主体について

国内で「オーマイニュース」を運営するのは「オーマイニュース・インターナショナル株式会社」である。

韓国「オーマイニュース」にソフトバンクが出資--3月には日本法人も設立(CNET JAPAN 2006/02/22 )


ソフトバンクは2月22日、韓国Ohmynewsと同社の日本法人に出資すると発表した。韓国Ohmynewsが実施する520万米ドル(約6億 1000万円)の第三者割当増資を、ソフトバンクが全額引き受けるとともに、Ohmynewsが3月に設立する予定の日本法人オーマイニュース・インターナショナルへ6億9300万円出資することに合意した。

 Ohmynewsは2000年2月から、市民参加型ニュースサイト「OhmyNews(オーマイニュース)」のサービスを提供している。今回Ohmynewsが発行する新株数は5万1351株で、ソフトバンクの持分比率は12.95%となる。

 日本法人のオーマイニュース・インターナショナルは、3月設立当初はOhmynewsの100%出資で、資本金は1050万円、資本準備金は 1050万円となる予定だ。そして、3月中にソフトバンクが普通株式で900万円、転換社債型新株予約権付社債で6億8400万円出資する予定になっている。ソフトバンク出資後の資本金は1500万円、資本準備金は1500万円となり、持分比率はOhmynewsが70%、ソフトバンクが30%となる。オーマイニュース・インターナショナルは、ソフトバンクの支援を受けつつ、日本での市民参加型ニュースサイトの立ち上げを目指す。

 Ohmynewsでは、今回の増資で得た資金を、市民参加型インターネット放送である「OhmyTV(オーマイTV)」、現在世界65の国と地域の市民記者が参加する「OhmyNews International」の強化に投資する。

プレスリリース
韓国・Ohmynews Co., Ltd.および同社日本法人への出資について

つまりソフトバンクは、韓国のOhmynewsの増資を引き受け、12.95%の株式を持つと共に、その子会社である日本法人の30%の株式(6億9300万円)を所有することになったわけである。この日本法人が、オーマイニュース・インターナショナルである。


●オーマイニュースのビジネスモデルについて

ビジネスモデルとしては、広告モデルであることはもちろんだが、市民記者とその「係累」を中心にしてアクセスを稼ぐ構造であるため、市民記者の登録数が大きな鍵となる。韓国Ohmynewsでは登録数が4万人を超えている。日本法人が、当初から市民記者の登録数に過敏になっているのもこのためである。

その他に韓国では、日本法人ではまだ導入されていない、市民記者原稿料の“投げ銭(カンパ)”制度があって、1000ウォンから30000ウォン(116円~3495円/1ウォン=0.12円)を個人が寄付でき、その50%を手数料としてOhmynewsが取ることになっている。

原稿料は、韓国では基本的な原稿料は3段階に分かれていて、記事として採用された場合は2000ウォン(233円)、ある程度影響力があると判断した場合は10000ウォン(1165円)、トップ記事として掲載する場合は20000ウォン(2330円)を支払っている。。また海外からニュースを送信した場合は、プラスアルファーしている。
日本では、扱いの大小によって1本につき2,000円/1,000円/300円の3段階の原稿料となっている。(源泉引後)

要は単純化すればオーマイニュースのインカムは広告費であり、アウトは市民記者への原稿料、システム運用費、広告費等、その他事務所経費などであるが、常勤で抱える記者は既存のメディアに比べて相当少ないため、(韓国で現在40名程度とされている。常勤:非常勤(市民記者)の比率は1:1000にも達していることになる)固定費は相当少ないと予想される。また原稿料も、仮に試算として2,000円の原稿料を支払う記者が毎日50名発生したとしても、月額で300万円程度であるが、実際にはもっと少ないだろう。通常メディアで相当量を占めると思われる取材費は、市民記者の記事に関しては基本的に支払われないため、比重は少ない。かなり身軽な事業形態であることが予想される。

(登録する市民記者の立場からするとどうだろうか。採用率がどのくらいかはまだ不明だが、毎日熱心に投稿したとして、週に2本程度が採用されたとすれば、月額で僅か16,000円くらいにしかならない。ちなみに韓国ではどうかというと、報酬システムが違うので(投げ銭システムなど)何ともいえないが、最高で有名な大学の教授が書いたコラムに対して4000万ウォン(466万490円)が支払われたという記録があるというが、一般的にオーマイでは、「金銭よりも名誉」が重んじられるという。)

これも他でも言われていることだが、乱暴かつ単純に言ってしまえば、「オーマイニュース」とは、原稿を書いて掲載されることを「名誉」と考え、安い原稿料にめげずにせっせと投稿する市民記者と、それら市民記者の係累、友人などが生み出す膨大なアクセスに見合った広告料との差異を利益とするモデルであるということになる。市民参加型メディアなどと言われる一方で、こうしたある意味「調子のいい」利益構造を、オーマイニュースは根源的に持っている。

当初から鳥越編集長以下、編集部が「どんな記事でもいいですから市民記者になって書いてください」と呼びかけるのも必然であり、市民記者の投稿とそのアクセス数があってこそのオーマイニュースなのであり、質は置いておいても、とにかく市民記者の数が集まらない限りオーマイニュースは立ち行かない。
(そうして集まった市民記者でも公に通用する記事が書ける実力を持った者はごく少数であるのは明らかになっているが、その歩止まりを考えれば、なお一層数が必要になってくる)

ま、このあたりは復習の部類である。

今回大きな問題が発生したのは、投稿される原稿のレベルの管理に関わる件であると思われるが、そのリスクについて、次のエントリー以降で考察してみる。

参考資料:【特別企画】韓国市民記者ビジネスを追う――オーマイニュース( ASCII24)

2006 08 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

August 17, 2006

靖国神社はどうなのというかどうなんだ---常勤霊と非常勤霊とか

うーん。ネット外の私的出来事のストレスで、個人的には非常に調子が悪いのだが、というか最悪なのだけれど、このタイミングで書かないとまた1年になりそうなので、よっこらしょだけれど書いておこう。(貧家に火をつけないでもらいたいけれど、)首相の靖国参拝に関する見解は、すでに何度も書いていることもあり、もはや言うべき言葉もない。

一昨日の8月15日の小泉首相の参拝は、ここに至っては予想された事態であり、そのこと自体にそう新しい意味があるとは思えないし、中韓でも既に脱力と共に予想されていた範囲内の対応であったようで、小泉政権の末期に遭って、ほとほとこの首相の頑迷さには呆れ果てているのは不本意ながらこちらも同じであり、次政権に期待をつなぐしかないといったところ。

覚悟の中韓、視線はポスト小泉 靖国参拝
(前略) 首相参拝の前夜、韓国政府関係者の情報が、携帯メールで韓国の外交、メディア関係者に出回った。「朝7時 参拝。9時 外交通商省抗議声明。11時 駐韓大使招致 こんな段取りです」

 受けた一人は首をかしげた。「シナリオが決まっている外交摩擦とは、何とばかばかしい」

 韓国政府には14日までに「終戦の日の参拝決行濃厚」のサインが日本側から届いた。日本外務省幹部も15日、この日に首相が靖国を参拝する可能性があると中韓両国に事前に伝えていたことを明らかにした。 (後略)

(朝日新聞 2006年8月16日)

まあ、みんな疲れているわけで、中韓に決して同意するわけではないが、お疲れ様。(いかんなどうも今日は投げやりで)

それよりも、文芸春秋の上坂冬子氏と、靖国神社前宮司の湯澤貞氏の「禅問答」が愉快であったというか奇妙であった。湯澤氏に比べると上坂氏が、非常に「まともで現世的に」見えるからおかしい。

●上坂冬子連続対談「前宮司に問う「靖国神社の謎」(文芸春秋8月号)

【その1 イギリスとコソボ自治州】

(日露戦争で亡くなった常陸丸のイギリス人船長たちまで合祀しているのかという上坂氏の問いに対して)

湯澤「いえ、ジョン・キャンベル船長らは日本人ではありませんので、祀られてはおりません。乗船していた日本兵は本殿に祀られていますが。」

上坂「えっ。違うんですか。当時の新聞によれば、靖国に祀られたと報道されていましたよ」

湯澤「正確には、靖国神社の境内に、常陸丸の殉職記念碑があります。ご遺族が集まられると、記念碑の前に御霊をお招きしてお祀りし、その後にお帰りいただく・・・(後略)

上坂「その形式では、「靖国神社にお祀りされている」ことにはならないのですか。」

湯澤「イギリスの方の御霊が常に靖国におられるわけではないので、祀られているのとは異なります。」

上坂「では、同じ境内にある「鎮霊社」の場合はどうなります?(中略)さらに驚いたことには湾岸戦争やユーゴのコソボ自治州の紛争などで亡くなった、外国の犠牲者も鎮霊社に祀られている。(中略)コソボ自治州の方たちも、一時的に鎮霊社にお招きして、またお帰りいただくということですか」

湯澤「いえ、鎮霊社のお社にはずっとおられます。しかしこの場合も「靖国神社に祀られている」ということにはなりません。(後略)」

上坂「何が何だかわからなくなってきました(笑)(後略)」

【BigBangが学んだこと】

●靖国神社の境内にあるからといって、「靖国神社に祀られている」とは限らない。
●ジョン・キャンベル氏らイギリス人の霊は、必要なときだけ境内の殉職慰霊碑に「やってきて」「お招きして」「お帰りいただく」。
●コソボ自治州の被害者の霊などは「鎮霊社」に常駐しておられる。(コソボはイギリスよりも交通の便が悪いと見える。)
●BigBangも「何が何だかわからなくなってきました」

【その2 マンションと駐車場とビの字】

上坂「(靖国の敷地が3万坪と聞いて)たとえば隅の方にマンションを建てて、収入源とするのは禁止されているのでしょうか?(笑)」

湯澤「マンションは無理かと思いますが、駐車場は何箇所か経営しています。道路をはさんだ反対側の土地は、生命保険会社にお貸ししているので、その地代は蓄えています。」

上坂「じゃ、貧乏ではないんですね」

湯澤「貧乏のビの字くらいでしょうか。(笑)(後略)」

【BigBangが学んだこと】

●マンションは駄目だが駐車場で儲けるのは良い。
●生命保険料の一部が靖国神社の地代になっている。
●靖国神社は貧乏のビの字くらい。

【その3 立派な鳥居】

(上坂、靖国から神道色を外すことは考えられないかという問いに続けて)

上坂「せめて神社を象徴する鳥居だけ外すことは可能ですか。」

湯澤「それは無理ですね。あの大鳥居は先千年はもつといわれている立派なものですよ」
上坂「では鳥居はそのままで、靖国神社の敷地内に十字架や仏像を建てることは?」

湯澤「いや、敷地内は無理でしょう。お社の姿を変えてはなりませんから」

上坂「では隣の敷地をつなげるとか・・(後略)

湯澤「・・・(前略)ただ、現在の憲法下では難しいということはもう一度申し上げておきます」

【BigBangが学んだこと】

●靖国の大鳥居がもつかぎりは、鳥居は外せない。それはおそらくあと千年先。
●靖国の敷地内に十字架や仏像を建てることは「憲法違反」。(聞くほうも聞くほうだが)

結構面白いでしょ。

まあ、面白いところだけ抜粋したんだろうと言われればその傾向もあるが、関心のある向きは罰当たりなどと言わずお読みくだされ。

真面目に書くつもりでいたのだが、何だかネタ記事のようになってしまった。これも私的混乱の現われと看過されたし。真面目な記事(?)はむしろ以下を。↓ この件ほとほと疲れたよ。

【参考記事】(いずれもBigBang)

●ナショナリズムも合理的かつ未来志向で願いたい。--靖国神社参拝問題に関して
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2004/12/post_1.html

●横丁のオヤジの繰言は聞きたくない--靖国神社参拝問題に関して
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/05/post_a194.html

●靖国参拝は犬の散歩ではない----参拝私人論の不自然
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/10/post_3857.html

●ナベツネに何が起きているのか(1)----靖国で朝日と共闘宣言
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/01/post_75c7.html

●富田メモ・昭和天皇発言をどう読むか
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/07/post_e0a6.html

2006 08 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック

July 18, 2006

ギブ・コイズミ・チョコレート

何とも言い難い不快感を感じた映像であった。我らのコイズミは、米国大統領夫妻の前で、両手を挙げ、本人としてはプレスリーの真似であったらしいが、ゆらりと体を傾けて、ソーラン節のように不器用に体を揺らして見せた。
首相になる前、泡沫候補といわれながらも、総裁選に打って出て、頑強なまでに郵政民営化を主張した変人であるが、信念に満ちた男の姿は、もうどこにもなかった。

あっけにとられたような大統領の表情に、微かに、しかし明確な困惑が走ったのを、私達は確かに目撃した。

「・・・・・・・・・・・・・・」

いったいあれは、どんな悪夢だったのか。   

「あれ、気恥ずかしくて、どこか穴があったら入りたいという気持ちでしたよね」
小泉首相が米テネシー州メンフィスのプレスリー邸で、プレスリーの「猿まね」をしたテレビ報道を見た知り合いの主婦の感想である。今もアメリカの半植民地として位置づけられている一国の長が、アメリカの有名芸能人の猿まねをして、それを評価する国はどこにもないばかりか、軽蔑されるのは誰の目にも明らかだからだ。

(中略)

日本と犬猿の仲である中国、北朝鮮、かつてルックイースト(日本を見習え)の標語を掲げたアジア各国、アメリカ嫌いの南米諸国や欧州の人々に、この光景がどのように映ったかは想像に難くない。(朝日新聞 時流自論「エルビスの亡霊」藤原新也)

僕の幼い頃のアメリカは「ララミー牧場」であり、「ローハイド」であり、「コンバット」であり「奥様は魔女」であった。米国への圧倒的な憧れとまではいかない世代だが、それでもやはり、ホームドラマに映る米国一般家庭の食卓や台所のまぶしさは、今でも忘れない。

給食には臭い脱脂粉乳(GHQがかつて日本の栄養不良児童を救ったあの脱脂粉乳である)が並び、優勝するとJALパックの憧れのバッグが手渡されされる、クイズ番組のハワイ旅行はまるで月世界旅行のような扱いであった。

まして小泉首相である。 とは思う。

幼い頃、貧しい日本の社会から見上げた圧倒的豊かな米国の姿は、この人の脳裏を生涯去らないのであり、正直な人物であるだけにそれを隠そうともしない。決定的な貧しさと卑屈さ。それはある面では彼だけではなく、日本社会全体が未だに捨てることのできない、強烈な米国への従属意識であり、若者には単に「みっともない」「かっこ悪い」小泉首相のパフォーマンスも、年配になるほど見てはいけないものを見てしまったような、何ともいえない思いと共に目をそむけるのである。

日本が米国から離れて立つことの、困難さの深さを知った場面ではあった。
さらに

こういった極端なアメリカ化現象は、実際に進駐軍が入ってきた土地固有のものである。小泉首相の育ったあの横須賀もまったく同じ様相を呈していたであろうことは想像に難くない。同じ港町に育った私には、小泉首相のあの情景の”出自”が手に取るようにわかるのだ。

ただあの時と今回のそれとの違いは、助役の孫がプレスリーの猿まねをして見えを切っていたその周りには、ただの貧相なガキ達の羨望の眼差しがあっただけだが、プレスリー邸での小泉首相の周りにはブッシュ大統領以下世界各国のメディアが一歩引いた眼差しで見守っていた、ということである。(同上)

そして、心の中で静かにつぶやいたはずである。



Give  Koizumi chocolate!!   

と。

2006 07 18 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

July 03, 2006

残虐の北朝鮮政権に思う-----韓流スターと爆薬

金英男氏の会見は、予想されていたこととは言え、また深い失望を、横田めぐみさんの両親に強いるものであった。

このブログではかつて「平島筆子さんのこと----頭を上げよう。」で、こう書いた。

もちろん、この人の人生にどんなことがあったのか、真実はわからない。
だが少なくとも、脱北した後、中国から日本大使館に助けを求めたときの彼女の困窮は真実だったとしか思えない。日本人の多くが彼女に同情し、何とか助けてあげたいと思ったはずだ。自分もその1人だった。
何もできてはいない自分だけれど、それでも今回の彼女の「仕打ち」にはショックを受けたとしか言い様がない。どう考えても、彼女は「何らかの力」に負けて再び北へ戻った、あるいは戻らされたとしか思えず、その「何らかの力」が、平島さんと、平島さんの子供達などの安全を脅かす性質のものだったということは想像に難くない。

今、金英男氏の、明らかに北朝鮮に支配されたと思われる会見内容を聞くとき、平島さんのことが思い出される。人が自分の命であるとか、家族であるとか圧倒的な「担保」をとられた環境で心に背いた発言をさせることの無残さ、残酷さである。しかも、金氏の姉が、小さいころにめぐみさんの様子について「子供のころ、事故に遭って脳に深刻なけがをした記憶があると(本人が)語っていた」と明らかにしたことは、どれだけ深く横田夫妻の心を傷つけただろうと思う。親御さんとしての心情を思うと胸が詰まる。
言うまでもなく、めぐみさんが幼少時にもしもそのような怪我をしていたなら、当然両親が知っているはずである。調べれば簡単にわかる、明らかに虚言であるとわかるようなことを、なぜ言わせるのか。めぐみさんの自殺が事実であり、必然であったという誘導なのか、あるいは横田夫妻への人格攻撃なのか。めぐみさんの無事についても非常に憂慮される。

金氏の発言を聞いていると、脅されて言ってというよりも、まるでそうした「虚」を信じているかのように振舞っているようにも見える。ヘギョンさんの存在を考えれば、一定の時期にめぐみさんと何らかの関わりを持ったのは、全くの虚言ではないのだろうが、どこかで「幼い頃に頭に怪我をした日本の少女」という虚構の存在を、意識の底で信じ込まされているのか。会見の場に恫喝目的で北の工作員が同席しているとも言われているが、長い年月の間に、精神的にかけられた呪縛=洗脳の力が圧倒的なのだろうか。そもそも、めぐみさんの「拉致」についてのコメントは、金氏からは全くないが、どこまでを「知って」いるのか。あるいは「意識的に」、あるいは「強制されて」いるのだろうか。金氏自身が対韓国の工作に関わっていたという情報もあり、このあたりのレイヤーを見極めるのは難しい。

人間性の根本にまで立ち入って、こうした操作を行う北朝鮮という政権の非道、残虐は今更言うまでもないことであり、日本は今後も毅然とした態度をとるべきであろうが、金英男さんの件を見ても、この問題で韓国の理解を得、また歩調を合わせていくのは、大変に困難なことだということを改めて思わされた。

今日の韓国と北朝鮮を理解するにあたって、軍事的な問題は言うまでもなく必須であると思われるが、少し朝鮮戦争の経緯を振り返る。

1950年6月の朝鮮戦争当時、ソウルは開戦後たった3日間で北朝鮮軍に占領されている。軍事境界線からソウルまでは60Km足らず。日本で言えば、渋谷-熊谷間ほどの距離に匹敵する。金政権が時折口にする「ソウルを火の海に」は決して脅しだけの言葉ではない。

開戦直前の南北の軍事バランスは、北の有利であった。韓国軍は全土で8個師団6万5000人程度で、米韓軍事協定によって重装備が全く施されていなかったのに対し、朝鮮人民軍は陸軍が歩兵2個軍団10個師団と、第二次世界大戦時最強のソ連製T-34/85戦車150両を配した第105戦車旅団で合計兵力18万3000人、海軍は艦艇30隻と兵力1万4000人、空軍は120機のソ連製戦闘機と兵力2万人で、総計すると約22万人に及ぶ軍隊に成長していた。(Wikipedia 朝鮮戦争 から)

特に北朝鮮のソ連製T-34/85戦車は、韓国軍総崩れの主因となった。軍事境界線から突入した戦車軍を、重装備に劣る韓国軍は全く止めることができなかった。この経験は今でも尾を引いている。

現在もソウルから軍事境界線に至る道路には、奇妙な形をした広告塔が幾つも配置されている。板門店を訪れたとき、広告塔に、現代の韓流スターのポスターや映画の宣伝などが配されているのを目にしたが、実はこの広告塔には爆薬が仕掛けられており、北からの戦車が通過しようとすると爆破されることになっているという。テポドンなどの長距離ミサイルが配置されようという時代に、何とも場違いな気もするが、これも南側の朝鮮戦争のトラウマの一つであろう。

南北同一の民族であり、相互に多くの親族、いわゆる離散家族を持つ。一方で首都から手を伸ばせば届くところに世界最大の軍事密集地域を抱えている国。
聞けば、離散家族と、軍事的な捕虜、そして「拉致された」と思われる親族の再会やあるいは引渡しが、相互に、敢えて峻別されずに行われているのが日常であるという。

韓国とはそういう国家なのである。

日本という国家が抱えている「拉致問題」とは全く位相の異なる世界がそこにあることは、やはり理解しなければならないのであり、また同時に韓国を北朝鮮と日本との間に過酷に板ばさみにしようと思えば、韓国は、日本との協調よりもむしろ同胞としての北朝鮮との「統一」を最優先して動くであろうということも、やはり理解すべきであろう。
ここから先、残虐たる政権、北に対して一歩の甘い姿勢も見せるべきではないと思うが、韓国に対してはそうした事情も織り込みながら、外交的に粘り強く働きかけることにより、日本の立場への理解を繰り返し辛抱強く求めていくしかあるまい。

以前も書いたが朝鮮半島は日本のトラウマである。しかしトラウマではあるが「厳しさ」も「英知」も、その傷のために見えなくなってはならない。

全ては我らのアジアから、非道かつ残虐なる政権を、あらゆる手段を用いて消滅させるために。

何とか我らの世代のうちにそれが成し遂げられることを願う。

【加筆】
横田めぐみさんの遺骨に関して、大変に重要な指摘が「5号館のつぶやき」さんによってなされて、大きな反響を呼んでいるということを、この記事を書き終わった後で知った。別エントリーにするかどうかは読み込んでからと思い検討中だが、大変に重要な指摘だと思うので、ここで急遽リンクを紹介しておく。

政治に翻弄される科学者 (横田めぐみさん遺骨事件)
日曜だというのに津波アクセス

【加筆2】

簡単にではあるが、これについて、はてな支店のほうで触れた。

■重大な見落とし---横田めぐみさんの遺骨を巡って


【参考記事】
板門店へ行った(BigBang)

2006 07 03 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック

June 21, 2006

ビルゲイツはヒーローか悪玉か----東洋の貧者の穿った憶測

いささか前のニュースになるが、ビルゲイツの引退についてCNET JAPANに「B・ゲイツ氏退任表明:ブログや掲示板での反応」と題して、掲示板やブログに見られるこのニュースに関する受け止め方の典型例が類別されていた。それによればこのニュースに関してポジティブな見方をする「ヒーロー派」と素直に感動できない「悪人派」に分けられるという。それをちょっと紹介。

Gatesヒーロー派:「Bill Gates氏をその功績について常に尊敬してきた。他人が何と言おうと構わない。世界で最も人気のあるOSと『Office』製品の開発を指揮し、職場としても素晴しい会社を経営して成長させ(そう聞いている)、チーフソフトウェアアーキテクトとして日々の開発業務にも関わり続けてきたのは、素晴しいことだ」--mytton.netの特集記事「Gates時代の終わり」より

 Gates悪人派:「『悪の親玉兼Torvalds氏の最大の敵』という職種に応募するには履歴書のどの部分を書きかえればよいのだろうか。もう少しまじめに書くと、Gates氏に対するうっ積した嫌悪感を抱える人が多数存在する。移行は困難なものとなるだろう」--Slashdotへの Thunderstruckの書き込み

 Gatesヒーロー派:「Bill & Melinda Gates Foundationの仕事の継続に対し、ただただ感謝の意を表したい。Gates氏は自ら進んで活動に取り組んできた。GoogleやRed Hatの若い創始者たち、OracleのLarry Ellison氏、AppleのSteve Jobs氏など、ほかの超億万長者はその点ではGates氏の足元にも及ばない。彼らのすることといえば、戦闘機や船、スポーツチーム、そして大きな家を購入するだけだ。Bill、成功を祈る」--SlashdotへのAnonymous Cowardの書き込み

 Gates悪人派:「Gates氏は、Windows OSを使って自分の会社の力を濫用し、技術を食い物にした男として記憶に残るだろう。彼は魂の救済もお金で買えると考えているが、彼がこの世に残したのは、自身が不正かつ不法に破壊した技術やほかの企業だ。彼がいなくなればIT業界はもっと良いものになるだろう」--CNET News.comのTalkbackへのt8の書き込み

 Gatesヒーロー派:「『ブラボー、Bill』と言いたい。ここ30年間のMicrosoftの行動についてどう思うかは別にして、Billが世界をより良い場所にするために自らの金と時間を投入し、しかもそれを50歳という若さで実行していることに拍手を送る。Gates氏は本当に熱心で、(できれば)長続きするプラスの効果を生もうとしている。彼がMicrosoftで示したのと同じだけの知識とエネルギーと資金を世界の比較的困難な問題に向けることが出来れば、1000人の政府官僚よりも大きな影響力を発揮できると思う」--Phil Steinmeyer氏のブログより
(CNET JAPAN B・ゲイツ氏退任表明:ブログや掲示板での反応)

まあ、いずれも、ふむふむという感じ。
この件、古川さんあたりが何か面白いことを言っていないかと行ってみたけれど

ビルゲイツ君、とても良い選択をされたと思います。 2008年以降メリンダ・ゲイツ財団へ残りの人生とエネルギーを注ぐというのは、自然な着地点と思われます。(古川享ブログ 速報、ビルゲイツの引退)

なんて月並みなことしか言っていないのでなーんだと。

もう少し穿った見方をするへそ曲がりはいないのかと、あちこち探して見たのだけれど、総じて好意的な見方が多い。で、何で僕がこしょこしょこの件に興味を持っているのかと言うと、この引退が結果的に「本業」のマイクロソフトの業績を押し上げることになるシナリオはないのかと。(株価は一時的に引退を受けて下落しているが)
つまり、僕も広い意味では、素直にビルゲイツの篤志家への転進を信じられない派に属しているのかもしれないわけだが、このあたりから先は、確固とした調べがついていないので、何とも言えないけれど、少し書く。

ビルゲイツの個人資産は約500億ドルと言われており、2000年に夫人とともに設立したBill & Melinda Gates Foundationの資産は現在291億ドルに達している。
ビルが、マイクロソフトの一線から退き、会社から距離を置くということは、そのまま彼と彼の財団自身がマイクロソフトの最大の「外人部隊」=スーパーシンパになることを意味しないかと。

つまり、こう書くと非常にいやらしい言い方になるのだけれど、従来の会社の看板を正面から背負わなくて良くなる反面、かえって自由に豊富な資金でMSの商品イメージの推進を担う、強力な外部パートナーとして機能するのではないかということ。

そういう流れで理解しないと素直にビルの志を受け止められない私も、自分で何だかあまり快ではないし、この姿勢はジョブスに対するそれとはずいぶん違うなあとは我ながら思うのだけれど、Googleとの本格決戦が緊張の度を増し、次期OSのVistaがご存知の通りの困難な船出を強いられそうな昨今、このタイミングでの引退発表がどうも素直に受け止められない。何か想像を超えた商業的な計算が、ビルの頭の一翼にある可能性はないのだろうか。

どう思いますか。

実際調べて見るとBill & Melinda Gates Foundationは特にエイズなど医療関連の分野でかなりの寄付をこの数年続けており、その金で別にMSの製品を買っているとかそういう話をメインに考えるべき話でもないようだが(もちろん貧困層へのコンピュータの寄付などはやっているらしいが)。

どんな偽善でもやらないよりはいいという言葉もあった。などとまとめる自分は所詮島国の貧乏人であり、ビルの大志は遠くわからないのかもしれないが。

やだやだ。

2006 06 21 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

June 09, 2006

暴虐と矛盾に生きる。---村上世彰と新井将敬

で、それはともかく。

村上ファンドの一連の事件を見ていたら、あのことを思い出した。
新井将敬氏の自死についてである。

なぜ彼のことを思い出したのか。それは、時代も立場も違うとは言え、村上氏とのあまりの距離を、そして日本という国が歩いてきたこの何年かに、一体何が起こったのかについて、あらためて考え起こされたからかもしれない。新井氏にはもちろん面識はなかったが、当時は被差別者から立ち上がった「改革派のスター」として、メディアにもてはやされていた。
新井将敬が、「借名口座」でいったいいくらの額を調達しようとしたのかは、よく覚えていない。覚えてはいないが、罪状はやはり証券取引法違反である。さらにそれを超えて日興証券に利益追求していたとされ、逮捕直前に自ら命を絶った。あまりにもあっけない死であった。

あれこれ探していたら、新井の死から2ケ月後に書かれた黄英治氏のこの論説を見つけた。在日の貧しい被差別環境から「成り上がって」きた新井氏に、死をも選ばざるをえなかった、どんな事情があったかは知らない。誰かをかばおうとしたのかもしれない。あるいは「縄目」の屈辱に耐えられなかったのかもしれない。しかし、いずれであったにしろ、その「犯したとされる罪」が命をもって償わなければならないほどのことであったとは、わかっている事実からは考えられない。

新井将敬代議士が自死して、2ヶ月がたった。在日韓国人二世という出自を否定し、その激しい自己否定のエネルギーを推進力に、日本社会のエリート階段を上りつめようとして挫折。それでもなんとか再起を期そうとしていた矢先、株の不正取引が暴露され、証券取引法違反容疑者として逮捕が目前に迫った2月19日、自死という手段でこの無明世界からすり抜けていった新井将敬氏。

 この日本社会では特異な彼の出自と経歴、そして自死という衝撃的な結末のためか、この長くもない2ヶ月の間、彼の生と死に関してさまざまな言説が飛び交った。一方、3月25日には、彼に利益提供していた日興証券事件の初公判が開かれた。その被告席には、「弁明できぬ永遠の欠席者」に全責任を転嫁しようとする自己弁護者たちだけが座った。そして29日には、彼の選挙区の補欠選挙がおこなわれた。補欠選挙には、新井氏の妻が「主人の潔白を訴える」と立候補を表明したが、結局は断念するという、本番以上に緊迫感のある幕間劇をへて、東京の国政選挙では戦後最低の投票率で、新井氏と同じ自民党の候補者が当選した。このように、彼が「存在したこと」を彼方に押しやるような出来事も、この日々のなかで積み重ねられている。
新井将敬代議士の孤独な自死 黄英治

一連の証券スキャンダルでの借名口座による株取引が問題化。 更に日興証券に利益要求していたという疑惑も浮かび上がる。衆議院本会議で逮捕許諾が議決される直前に、真相が解明されないまま都内のホテル(ホテルパシフィック東京23階2338号室)で首を吊って自ら命を断った。部屋にはウイスキーの空き瓶が沢山落ちていた。ただ自殺には諸説あり、他殺の可能性もないとはいえない。山口節生は「新井将敬を殺したのは、他の政治家たちだ」と主張した。(Wikipediaより)

村上氏は、数千億のギャンブルマネーを使って世をかき回したあげく、「聞いちゃったと言えば聞いちゃったんだよねえ」と、口元に笑いさえ浮かべながら、会見会場を去り、その後逮捕された。村上の胸中が穏やかであるわけもないであろうが、外形的に見る限り、その動かした金額の巨額さに比べて、その態度は如何にも軽い。

そこにある違いは何なのだろうか。新井と村上の境遇の違いか。人間の違いか。逞しさの違いか。誠意の違いか。歩んだ道の違いか。絶望の深さの違いか。民族の違いか。あるいは生きていこうとする、どんなときにも生きていこうとする、奥底に流れる命の力の違いなのか。

村上世彰と新井将敬。

その二人を比べること自体が愚かなことなのかもしれない。どちらが正しいとか、強いとか、弱いとか、潔いとか、言葉は口に出した次の瞬間に、禍々しい偽物に変わっていくような気がする。

それでも、我々もまた、新井や村上ほどではないにしても、暴虐に晒され、失敗を謗られ、あるいは嫉妬され、あるいは自らと時代の暴力に晒されて生きている。

生きていく時間が長いものが勝つと言ってしまえば、あまりに即物的である。ではあるが、それでも死をもって贖う罪が、この世界にどれだけあるだろうか。逆説的に言えば、死をも想像される苦境に落とされながら生きている人々がどれだけいることか。
人が成功をするとき、自らの力だけで成功したのではないように、過ちの淵に落ちていくときもまた、自らの業のみによって落ちていくわけではないと思う。
何度でも這い上がればよいと言えば、その言葉もまた風に吹かれて、指の間から滑り落ちていく。

自分の内なる業も含めた、あらゆる矛盾と暴虐に耐えていくこと。
生きていくことはそういうことなのではないかと思う。

村上を見ていてそう思えたのである。

2006 06 09 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

May 30, 2006

ジャワ島大地震募金関連(備忘)

●Yahoo!ボランティア - ジャワ島地震 支援活動情報

●救援募金の受付始まる ジャワ地震(朝日新聞)

 ジャワ島中部地震の被災者を支援するため、国内でも緊急募金の動きが広まっている。連絡先などは次の通り。

 ◇財団法人「日本インドネシア協会」(03・3661・2956) 郵便振替で口座名義は同協会、口座番号は00130・9・196710。

 ◇日本赤十字社(03・3437・7081) 郵便振替で口座名義は「日本赤十字社」、口座番号は00110・2・5606。通信欄に「ジャワ地震」と明記。

 ◇日本ユニセフ協会(0120・881052) 郵便振替で口座名義は同協会、口座番号は00110・5・79500。振替用紙の通信欄に「ジャワ島」と明記。

 ◇国際医療NGO「AMDA」(086・284・7730) 郵便振替で口座名義は「AMDA」、口座番号は01250・2・40709。通信欄に「ジャワ島中部地震」と明記。

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May 26, 2006

人を殺さないITと2007年問題----海辺のプラントで考えた

今日は、海沿いのエネルギー関連大手企業の人材教育担当者を訪ねて、社員教育システムについて話を聞いてきた。

急速な景気回復を受けて、国内の大手製造業では雇用不足が顕在化している。この企業でも長く新規採用を控えてきたこともあり、現場作業者の年齢分布が高年齢化して50代になっている。40代後半より若い世代は極端に少なくなってきている。それに対して景気回復により、新規雇用は急速に拡大しているために、新たに現場配属になるのは前年度比5倍の人数。一方で退職者は、今後15年間で団塊の世代を中心に、現在の作業者の85%が退職する。

勢い、問題になってくるのが「技術の伝承」である。何十年にもわたって蓄積してきた大型プラントの操業技術などは、人から人に伝えられてきた「技」。なのだが、ここのところの長い不況とその後の極端なV字回復により、技術の継承に支障が出るような、世代の「ホール現象」が発生している。若年層の教育指導ができるような、熟練した工員の極端な不足が見込まれており、現場技術が低下する可能性がある。事故や操業停止などのトラブルがあれば、即賠償問題にも波及する。かつてない規模の人員の空洞化のしわ寄せがこのような形で懸念されているのである。全産業にわたって2007年を中心に多くの退職者が発生することから「2007年問題」とも呼ばれている。

少し調べてみた。

団塊の世代、中でもこの世代でもっとも多い1947年生まれの労働者たちが、2007年に60歳を迎え、定年退職することにより、企業活動に大きなダメージを与えるという問題をさします。この問題は、2005年度版の『ものづくり白書』でも取り上げられ、全産業の約22%、特に製造業では約31%の企業が危機感を感じているとの意識をもっているとされています。

 2007年問題として、つぎの三つが指摘されています。

(1)労働力不足の問題
 約300万人といわれるこの世代の労働者が一定期間の中で大量にリタイアしていくことで、深刻な労働力不足に陥ることが予想されています。日本企業は現在、労働力の不足を免れるために、積極的に新規採用を行っています。一時期よりも採用市場が好転したのは、このことも要因のひとつであると考えられます。

(2)ノウハウ、技術継承の問題

 ベテラン労働者の大量リタイアは、今日まで培われてきた高度な技術やノウハウの継承を途絶えさせる危険があります。欧米企業と比較して、組織内で属人的な働き方をする労働者が多い日本企業では、ノウハウを持つベテラン労働者がリタイアすると、その労働者と共にノウハウや技術が企業から失われてしまいます。また、経験から得られたいわゆる「暗黙知」についても同様です。これらをいかに企業の資産として残すかという課題に企業は取り組んでいますが、そのためには多くのコストを要し、困難を極めているというのが現状です。

(3)企業体力低下の問題
 大量に退職者が出ることに伴い、企業が支払う退職金も増加します。このことで、企業は自身の体力が奪われ、設備投資など積極的な戦略がとりづらくなってしまいます。

 この問題は、少子化やニートといった労働市場における問題とも連動し、日本企業に多大な影響を与えることが予想され、各企業の国際競争力の低下が危惧されています。

マーケティング用語集・2007年問題より)

ふーむ。

今回お会いした人材教育担当者は、この退職していく熟練工の代役として、彼ら自身の経験や知識をパッケージした教育システムを計画しており、その点に関して打ち合わせを重ねているのである。経験のない新人の現場作業者に、現場の危険や危機管理をシミュレーションしようということも考えている。

かつて、景気の下降局面において、僕たちは自嘲を込めてITを「人殺し産業」と呼んでいた。企業にシステム導入を売り込む一番のセールストークは、「これでXXX人の人員が削減できます」というものだった。つまり「何人殺せます」みたいなものだ。世に言うリストラであるが、人件費の節減は採用担当者にとってはもっとも目に見えやすい導入メリットであったからだ。導入を勧誘していてもどことなく後ろめたい思いがあった。これでまた何人の仕事がなくなるか、明確にわかるからだ。

ところが時代が変わり、かつての省力化と極端な人員削減を、今度はまたITシステムが埋めようとしている。しかも今度は人減らしの道具ではなく、極端までの人材節減・効率化と大量退職によって生じた、技術継承の「穴」を埋めるために導入されるという。

ITが主導して減らした人間の「つけ」を、今度はITが別側面から補う。何とも皮肉な話であるが、これもITのひとつの側面である。

2006 05 26 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

May 07, 2006

ブログジャーナリズムなんて必要なのか?----相次ぐ惨状に関して

どこからどう見ても、「ブログジャーナリズム」なるものは、戦線の後退に次ぐ後退を強いられているようにしか思えない。GripBlogの混乱ガ島通信の現在状況、「ネットは新聞を殺すのかblog」の瀕死寸前のスイカ状況etc.

「ブログジャーナリズム」について、概念的意見を披露する場はよく見かけるのだが、元来「ブログジャーナリズム」なるものは独自の価値やポジションを持ちうるモノなのであろうか?もっと簡単に言えば

そんなもの必要か?

あるいは

ジャーナリズムがブログを使ったくらいで何か別の価値を持てると考えること自体が、大いなる錯覚なのではないか。

確かに読者との相互コミュニケーションや、記事をアップするときのスピードなどなど、既存のメディアに比べて優れているところはあるにはある。しかしそれらは、どれも「ツール」としての利便性にしか過ぎず、本質的な問題とは無関係ではないか。

「ブログブーム」に乗っかり、Web2.0などと「持ち上げられ」、一時は過剰な期待を背負ったサイトが次々と失速している現状の中に、何か共通の問題点のようなものが、透けて見えていると言っては言い過ぎか。それははっきりとは僕も形には出来ていないのだけれど、「ツールと価値を転倒している」ことと、「現場感覚の欠如」が、その要因であるように思う。

ブログを使うジャーナリストは、どこまで言っても「ブログを使うジャーナリスト」にしか過ぎないのであり、そのこと自体に特別な価値はないということだ。そっち方面で多大な期待をしていくこと自体が、かえって発信者に「器を越えた」過大な負荷をかけることになっているのではないか。

そして、もう一つ。言い古されたことだが「現場感覚の欠如」である。

もちろん「ブログジャーナリズム」なるものが、「現場感覚」を失っているわけではない。表現の場がブログになっても、取材対象としてのリアルな場は失われているわけではないから。だが、上で列挙したサイトのいずれもにおいて、「現場」を見つめる目が、上滑っている例が多いように思うのは気のせいだろうか。概念論優先で、具象を飛ばしていると言ってもよい。システム屋的に言うと、エンジニアリング優先でユーザー価値の還元を忘れているとでも言うのだろうか。

というのも、ロンドンに赴任して再開された高田さんの「ニュースの現場で考えること」を読んでいて、次の一節につきあたったからだ。例の 公正取引委員会が新聞の特殊指定見直しについての記事である。

今の日本の言論の自由(が存在するとして)は、「宅配」によって担保されているのか? 「宅配」が無くなれば、言論の自由も消えるのか? じゃあ、宅配の無い国々(世界のほとんどはない)は言論の自由度が低いのか? 私が今住む英国の新聞は飛ばし記事から何から書き放題だけれども、宅配は事実上無い。新聞協会の会長は今度どっかの国に外遊する際は、相手国の業界長に「おたくの国には宅配が無いのですか? それじゃあ言論の自由度も低いでしょうし、大変ですな」と言った方がいいかもしれない。

私は若いころのほんの一時期だけれど、東京の新聞販売店に住み込み、専従になったことがある。
そのことは、だいぶん前にブログにも書いた。おそらく、宅配の現場は当時も今も、ほとんど変化はないだろう。これは私の経験のみから言うことだけれど、宅配の維持とは、今現在の設ける仕組みを維持することでしかない。それは同時に、すさまじい拡張競争や不当な値引き、劣悪な労働環境等々、宅配現場の種々のマイナスの実態を維持することにもつながる。

言論の自由は宅配に支えられているわけではないし、支えられるべきものでもない。そんなヤワなことを言っていると、たぶん、メディアを思い通りに使いたい人たちの思う壺である。(ニュースの現場で考えること 言論の自由と宅配制度をリンクさせるな

ここでロンドンにいる高田さんの、この問題における的確な記事が読めるのは確かにブログの力であるが、それ以上でも以下でもない。むしろ、宅配の現場経験を持つ、1新聞記者の、この問題に対する感覚が、数行に如実に表現されている、そのことに出会えていることが重要なのであり、努々手段と価値の転倒をすべきではない。

つまり、この記事はブログで伝えられているが将来はワンセグなどで伝えられるかもしれなくて、それはそれで別に構わないということなのだ。もちろん紙でも良い。非常に効率的な手段としてのブログ、そして読者との双方向のコミュニケーションといったブログ独自の価値は否定しないが、ここでは絶対ではないということだ。コミュニケーションの方策は何も当該ブログのコメント欄だけではない。

一次情報としての「良質の燃料」が確かにこの記事にはあるのであり、それが重要なのである。その質を欠いて概念を先行してブログジャーナリズムに立ち向かったサイトの相次ぐ惨状は、周知の通り。

もっとも、ここで忘れてはならないのは、

●高田氏が、あの「ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア」の最後の共著者であるということ。

●そして、幸いにも現在、氏が日本から遠く離れてロンドンから発信しておられること。


この2点を、残された最後の希望として、僥倖として受け止めたい。

#さらに、この記事が重要な宅配制度について、全く踏み込んでいないで、ここで終わってしまうことも読者にお詫びしておく。

2006 05 07 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (17) | トラックバック

April 30, 2006

議会制民主主義こそ二者択一ではなかったのか----徳保隆夫論の矛盾

徳保氏の「コミュニケーションへの冷淡」(氏自身の言葉である)は以前より承知しているので、スルーしようかと思ったが、


# 火中の栗拾いツアー企画(R30 さん)
# GripBlogインタビューを読んで----松永英明氏に誤解を謝罪する(BigBang さん)
# GripBlogインタビューを読んで(2)----R30は何者なのか(BigBang さん)

私は R30 さんの主張に共感します。BigBang さんは、何でも個別に考えて、それぞれに全然違う結論を与えることを是とされるようですね。その非常に恣意的な判断の根拠は、素朴な「常識」即ち「場を支配する多数派の価値観」。直接民主主義が社会の理想像というわけか。
私は個別の事象に対する大衆の判断を信じていない。「常識」側に立つ連中は、すぐに「非常識」を脅迫するのだもの。「社会的に抹殺されるか、こちらの価値観を受け入れるか、二者択一だ」というわけ。議会制民主主義のいいところは、少数派も「国民に選ばれた存在」として尊重されることだと思う。(趣味のWebデザイン備忘録 議会制民主主義のいいところ

さて、「何でも個別に考えて、それぞれに全然違う結論」とは何のことであろうか。文脈からすると、私が2つのエントリー・「松永英明氏に誤解を謝罪する」 と、「 GripBlogインタビューを読んで(2)----R30は何者なのか」の相互で、どんな「全然違う結論」を導き出し、そしてその根拠のどれが、「場を支配する多数派の価値 観」ということにるのであろうか?
この「全然違う結論」として対比されているような結論が、それぞれ何を指すのかがまず不可解。さらに「場を支配する多数派の価値観」とは何を指すのかが不可解。そもそも「多数派」に認定を受ける覚えもない。真に精緻にこの問題を追っておられるか。情動的に自説を展開してはおられないか。

私の主張が、仮に何かを根拠に「多数派の価値観と一致した」と徳保氏が判断したとしても、

多数であるがゆえに正しいとは常に言えない

と同様に

少数であるがゆえに正しいとも言えない

のは等しく真であるからである。これらは同価値であり、「多」と「少」を根拠に価値批判を展開すること自体に限界がある。多が少を「多であるがゆえに」圧しているというなら、数以外の観点から、「多の過ちについて」論じることを試みなければならぬ。

その上それが「議会制民主主義は少数を尊重する制度である」という展開なのだから、摩訶不思議として首を傾げる。

「常識」側に立つ連中は、すぐに「非常識」を脅迫するのだもの。

「常識」とは何であろうか。そして「非常識」とは何であろうか。私がもしも「大量殺戮」を「非常識」であるとして「法の支配」を「常識」であるとして論を唱えたとしても、「常識」は「常識」であるという理由で、氏は「非常識を脅迫している」とするのだろうか。では法治国家とはなにか。それも「常識」の「非常識」への圧力であったのではなかったか。

もしも松永さんの問題で、「社会」=常識とし、「松永さん」=非常識とした場合、(これは氏の視点に沿った類型である)社会(常識)は、何をもって松永さん(非常識)を脅迫しているのだろうか?そしてそれが「議会制民主主義」を持ち出すことによって何か瓦解する要素でもあるのだろうか?
私は現在なされている氏と氏を取り巻く人たちとの対話の試みに対して、このような論拠を持ち出す自体が意味を持つとは思えない。つまり、少なくとも私の議論の中で「意味のわからないものへの不快感」による集団的ヒステリー状態を指す箇所は見当たらないと思うからである。
社会への「経済的融合」を求めているのは、こちらの側ではない。ほかならぬ松永氏の側である(あったはず)からである。(これは「思想的融合」ではない、と前に書いた)
融合の方策を探ることにこの問題の困難があるのである。そこを読まれておられるか。

さらに氏は、この問題における「法の支配」という概念を全く考慮していないのみならず、「議会制民主主義」についても明らかな誤解をしている。

「議会制民主主義」とは、紛れもなく「多数をもって正義とする」政治制度なのである。少数派の意見の表明は、「言論の自由」によって保障されるが、永遠の議論は許されない。制度は多数決により、「多数を正義とする」と定めた意志決定制度なのであり、「少数派も尊重される」と読むのは、それこそ「恣意的」である。

ネットの状況に「直接民主主義の危険」を見たとして、それを→ネット=衆愚政治の否定→議会制民主主義の賛美 と誘導したいのかもしれないが、議会制民主主義の概念を理解していないところで、記事全体が「集団の虐めは良くないので議会制民主主義がよい」という、歪んだ方向性に走ってしまっている。

何よりも、ことのは問題を「常識の圧制」として論じないとすれば、何を議論の基準にしたら良いのか、どこに議論の問題があるのか。氏はそれを具体的に提示しなければならない。そうでなければ、「多数が少数を苛めるのは俺は好かん」という、それまでの話であり、そうした正義感のみで、小学校の苛めですら解決できないのは、それこそ「社会の常識」というものである。

もしも「それまでの話」だよというのであれば、私の「反論」(?)も「ここまでの話」である。

 

2006 04 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (9) | トラックバック

April 29, 2006

生き急ぐことととか、メリーゴーランドとか------堀江貴文氏の保釈

伸びた髪に、少し細くなった顔つき、深々と頭を下げて、喧騒の中でかき消されるのも構わず、報道陣に向かって挨拶を述べる姿は、かつての面影を取り戻したようであった。拘置所の中に入るということは、世間的に言えば当然絶望の淵に立たされたと考えるのが普通なのだけれど、一方で規則正しい生活と、栄養に無駄のない食事、世間の雑音からも隔絶されることで、この世で最も「クリーンな」空間に置かれるということでもある。この場合の「クリーンな」という言葉はもちろん世俗的には逆説的ではあるが。

 一方、保釈前日ごろには拘置所生活を振り返り、「僕は生き急いだのかもしれませんね……。ゆっくり人生を考える時間が持てました」と話し、「ライブドアの経営にかかわるつもりはない」と言明していた。(2006年4月29日9時53分  読売新聞)

かなりの資産をまだ有しており、暴落したとは言え、ライブドアの筆頭株主。保釈金3億円をさっと払ったことから見てもその余裕は知れるが、一方で公判での追求は言うに及ばず、巨額の株主代表訴訟が彼を待つ。

 14日に上場廃止となるライブドア、ライブドアマーケティングの株を巡り、個人株主が両社などに損害賠償を求める集団訴訟について、「ライブドア株主被害弁護団」(米川長平団長)は13日、東京都内で会見し、原告数が1000人を超える見通しを明らかにした
 1人当たりの損害額は平均約400万円で、請求総額は40億円以上になるとみられる。5月末にも東京地裁に提訴する。大規模な同種訴訟としては、2004年に上場廃止した西武鉄道株を巡り提訴したケースがあるが、この訴訟では、株主が計285人と2法人で、請求額は計約4億8000万円だった。今回のように個人株主の1000人規模は極めて異例だ。
 弁護団によると、これまでに2社の株主、元株主約1700人から、提訴の意思表示があった。このうち事件の影響で損害を受け、原告の資格があると判断した約1200人に、委任状提出を求めている。(2006年4月14日  読売新聞)

弁護団は、微罪を認めて相対的勝利を勝ち取るというよりも、宮内被告の単独責任として、全面的無罪を主張する戦略だという。海外の堀江「隠し口座」についても、検察は決定的な不正の証拠を押さえられなかったという説もあり、裁判の行方は予断を許さない。

万一、代表取締役でありライブドアの実質的な筆頭株主である堀江が無罪となった場合、いくら宮内他、取締役の不法行為が認められたとしても、強制捜査に踏み切り、実質上ライブドアを奈落に落とす結果となった検察への批判が高まるのは必然。そうした意味では、検察としては絶対有罪を勝ち取りたいところであろう。
「拝金主義にストップを」かける必要があった。などと発言している検察関係者もいるようだが、検察はそんな「思想哲学」は語らなくて宜しい。それはほかの人の仕事である。
粛々と「法の前の正義」を愚直に主張して納得させてもらいたい。

それにしても、まだ判断するのは早いとはいえ、すっかり様相が変わって現れた堀江氏を見ていると、思いが浮かぶ。つらつら書くと、人生は最後までわからないということ、どんなところからでもやり直しは効くといくこと、人から見れば最大の敗北と見えるその刹那からも、人はチャンスを掴むことがあるのではないかということ。彼が精悍さを取り戻しつつあるとすれば、まだ人は彼の言葉を聞くであろうということ。

もしも堀江氏が変わることがあったとすれば。

もしも堀江氏が、あの若さだけが武器であった時代を、今回のことを契機に、本当に思い出したとすれば。

この人物に見切りをつけてしまうのは、まだまだ早いかもしれず、今度こそ「恐ろしい」経営者となって復活してくるかもしれない。

しかし一方で、人生の時間にしても社会にしても、世界の時計は、ただ同じことを果てしなく、ぐるぐる、ぐるぐる懲りもせずに、メリーゴーランドのように繰り返し続けるだけなのかもしれないのである。その空虚はいつも我らの足下にぽっかりと口を開けている。

例え、あなたや私が生き急ごうとしようが、しなかろうが、それにすら世界にとっては何の意味もないのかもしれないである。

2006 04 29 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

April 21, 2006

業界パーティでもたまには面白い話に出会う

業界の立食パーティなんて、行ったってどうせ適宜に飲んで、適宜に食べて、そんなことばかりしていると気が引けるので、思い出したように名刺交換して、自己満足して。その後それが何かの仕事に繋がったなんて経験はないし、どうせそんなもんよということなのだけれど、先日某所でお会いした社長の話は面白く、立ったまま長話をして聞き入ってしまった。

というのも、彼の会社では、いわゆる「ニート」だとか「引きこもり」だとか言われる若者たちに会社を「フリースクール」的に開放し、一定の水準を取得するとそのまま全員採用するという、摩訶不思議な採用方法というか、社会貢献というか、そういうことをしているというのだ。

その話によれば、その会社に通うことを希望した若者は、机とパソコン、そしてネット接続を提供される。原則として毎日通ってくるように言われるが、もちろ ん拘束はない。給与も出ない。1日中パソコンで遊んでいてもいいが、社員プログラマーから少しずつプログラミングの基礎を学んで、一定の時間経過後にその スキルを認められれば就職と、そういう仕組みだ。若者にしてみれば、コンピュータの専門学校に行けば高額の授業料がかかるところが、無料で技術が学べ、就 職までできる。会社側としてみれば、一発勝負の面接で決めるよりも、長い期間その人物を見ることができるので、安心感があるという。

会社内にそうしてブラブラした若者を迎える社員の側はどうかと言えば、最初は戸惑いがあったようだけれど、最近はすっかり慣れてしまったということだ。もちろん現業が優先なので、忙しいときには、指導ができない。そういうときには、「ちょっと待ってて」「わかりました」となる。若者は、先輩社員が手があくまで、横でゲームなどしながら待っていたりする。へー。なんとも想像するだに不思議な、しかしどこか暖かい風景ではないか。

ニートや引きこもりだけではない。先日は工業高校の校長を定年退職した方が、この仕組みで見事に60代を超えてプログラマーとして採用されたそうだ。これを20人足らずの企業で行っているというから、実際には大変なことだと思う。

そんな話を聞いて、なんとなく気になったので帰ってから検索してみたら、いくつか記事が出てきた。

企業宣伝のためのヨイショ記事だと思われると良くないので、敢えてこのサイトでは会社名は伏せる。下記の記事に書かれているのが、僕が話を聞いた社長の企業だ。

「性別、年齢はもちろん、職歴に空白期間がどれだけあろうと一切問わない」。XXX市のシステム開発会社「XXXX」社長のXXXXXは言い切る。若者の就業支援に取り組む地元の民間非営利団体(NPO)の活動に共鳴。言葉通りに門戸を開いた採用を2005年2月から始めた。
 試験はなし。希望者は社員を先生役に基本的なプログラムが組めるようになるまで研修、意欲と気合が見えれば正社員に迎える。若者四人を採用したが「朝礼で話すのがつらい」「優秀な後輩が入社した」と二人辞め、一人は勉強をやり直したいとして「研修生」に逆戻り。二十二歳の元専門学校生だけが残った。
 「正社員になることを意気に感じる世代ではない。定着率も高くない」。XXは難しさを認めながらも「一度辞めても帰ってくればいい。門は常に開いている」と話す。毎朝出勤できるか、仲間として一緒に働けるか。能力ではなく社会人としての「規範」を守れるかを気にかける。現在も十三人の研修生を抱え、試行錯誤が続く。
(中国新聞より)

この会社は小さい会社なのだけれど、大企業がこの仕組みで採用を始めるとずいぶん多くの若者が、新たに雇用のチャンスを得るのではないか。優秀な開発者は企業からは常に必要とされているが、キャリアパスを手に入れるのは容易ではない。職を持っていない若者が自費で高度なプログラミング技術を手に入れられるわけでもない。
ほんの少し企業が姿勢を変えてくれるだけでも、互いにとってずいぶんと視界が開けてくるなら、こうした試みが広がることは歓迎すべきことだと思った。日本の技術者不足を解決する上でも有益だし、また既に就社している技術者に指導をさせることで、コミュニケーション能力を高める効果も期待できるではないか。だが残念ながら、社長の話によればこの仕組みを採用している企業は大小問わずほとんどないそうだ。

どうだろう。考えてみては。

(学生インターンは類似の制度だが、少し実質が違う)

2006 04 21 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

April 18, 2006

ライブドアさんから直接謝っていただきました。

今、ライブドアさんからお電話がありまして、今回の事件でBigBangさんには大変にご迷惑をおかけしました。と直々に謝っていただきました。電話ですから相手が誰かはわかりませんが、役員クラスの方のようです。私のライブドア関連の一連の批判エントリーを読まれてのことのようです。直接謝罪を受けて気が済んだのでもうライブドアを批判するエントリーーは書かないことにしました。

って・・・嘘です。あるわけないでしょ。

単に飛び込みで営業の電話をかけてこられた方が、冒頭に決まり文句のようにおっしゃっただけです。

まだ4月1日気分。

しかし大変ですね。営業さんも。1日何百回も謝りながら電話をかけている女の子(営業は女性だった)がこの世には今日も存在するんですね。それこそ本人の責任なんて問えるものではないですが、それでもこの謙虚な姿勢・・。(いや別に言いたいことなんてほかにはないですよ。ないですって。邪推しないように)

【加筆】
謙虚なんじゃない。ただの営業行為だろっ。という予測される突っ込みは無しにしてください。

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April 16, 2006

アイフル業務停止に思う-----稼ぐ「渡鳥不良社員」の実態に目を向けるべきだ

金融庁、アイフル全店の業務停止命令へ・3―25日間

一般に言われる「上場企業の社会的責任」といった企業倫理を遵守できるかどうかのポイントの一つは、「成績の良い不良社員」に対して、企業の経営層がどのような厳しく的確な評価を与えることができるかにかかる。
今回摘発されたヤクザ紛いの回収を行った社員はおそらく一部であり、大半の社員がみなあの類の脅迫的取立てをしているわけではないと思うし、組織的にそうした命令が出されていたとはと思い難いが、得てしてこうした強引な回収方法を行う社員のほうが、実直な社員よりも数字的実績をとってくる場合が多い。彼らの雇用形態は、多くの場合極端な歩合制の契約社員である場合が多い。ひとつの企業に長く身を置かず2,3年で次の職場を探す。

これは、消費者金融業界に限ったことはなく、たとえば訪販を中心にした教材販売会社においても、格段の成績をあげる営業社員グループといったものが存在することを私は知っているし、新聞販売のセールスにおいても「そうしたグループ」が存在する。外部からも時には内部からも眉をひそめられながらも、数字的成績のいい社員はなかなか組織から自発的に切り捨てることができない。企業内部に、相当強固なモラル規定とチェックシステム、罰則条項が成文化されていなければ無理である。

こうした輩にとっては、実は企業の看板などはどうでもいいのであり、関心は自分の手取りだけである。今回のアイフル関連で公開された録音テープなどを聴く限り、アイフルの企業イメージや公開企業としてのコンプライアンスなどは、念頭にない。元来実績を武器に企業から企業へ渡り歩く、渡り鳥のような集団であり、明日にはよりバックの大きい、別の企業に籍を置くために出奔するかもしれないし、つなぎには闇金融の回収を並行で請け負うかもしれない。

要はこうした「営業成績抜群の不良社員」を中長期的な視点から拒絶したり是正したりしていけるかどうかが、企業が社会的信用を確立できるかどうかの境界であるのだが、多くの企業の経営者がここで蹉跌を踏むことになる。
数字は、客観的に非常に評価しやすい基準であり、月に1000万稼ぐ社員よりも、月に100万稼ぐ社員がその倫理基準によって前者よりも評価されるということはめったにない。めったにないけれども、結局一部の渡り鳥的な「愚連隊」のようなメンバーに、知らないうちに(あるいは知りつつも)企業の根本を腐食されることになる。

もっとも企業側も狡猾であり、こうしたグループを何度も切り捨てては、企業全体が生まれ変わったかのような「偽の禊」を演出して、結局同じようなことを繰り返していく場合もあるから、どちらもどちらという面もあるが。

結果的に多大なる損害を受けるのは、もちろん彼らの活動を黙認することで支援した企業であるが、社会的な騒ぎになっているころには、それらの者たちはわずかな罰金など、巧みに微罪で切り抜けて次のショバを求めて「予定の範囲として」移動していることが多いのである。そこで同じようなことをまた繰り返す。

そうした裏の実態を見つめることにも報道は配慮すべきであると思うが、もしも業界の実態を、より具体的に知っている人がいれば積極的にブログなどで発信していくことも意義があると思う。

2006 04 16 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

April 09, 2006

もう椅子からずり落ちないように----民主党米PR会社と縁切り

ようやく・・という感じと今更・・という感じ。

民主党が、米国系PR会社「フライシュマンヒラードジャパン」(東京都中央区)との間で結んでいた、政党イメージや選挙のコンサルティングに関する契約を 打ち切っていたことが七日、分かった。昨年夏の総選挙での敗北が直接の原因。七日に実施された代表選でのメディア戦略などは、外部の専門家を入れずに、党 スタッフ中心で仕切られた。(民主党 米PR会社とのコンサル契約打ち切り-FujiSankei Business i. 2006/4/8

民主党懇談会のときに、絶対聞いてみたいと思っていたテーマのひとつが、この「日本をあきらめない」というキャッチへの評価だったが、居合わせた松本政調会長や、大塚参議院議員は、口を揃えて「(岡田さん中心に)いつの間にか決まっちゃいました」「聞いた瞬間椅子からずり落ちましたよ わっと」などと評していた。広報戦略を構築した「党スタッフ」というのが具体的に、誰だったのか。わからぬまま。

代表以外の現執行部がそのまま留任となった今日、「ブロガー懇談会は?」と誰かが聞いたとき、執行部が口を揃えて「あれは前原さんのたっての希望で・・最初にやるって聞いたとき、椅子からずり落ちましたよ」なんて言わなければいいけれど。

もっとも今はこちらもそれどころではないが。

日本では、徹底した世論調査や、新聞・テレビニュースでの民主党の扱われ方などを調べ上げ、今後の展開を提案するなど、党のイメージ戦略に大きな影響を与 えてきた。民主党が主導権を持って実現した選挙へのマニフェスト導入にも力を発揮してきた。コンサルティング料は、年間一億円以上だった。(同上)

マニュフェストなどといった「地味な努力」は所詮一発の失敗キャッチで台無しになるのか。岡田さんをメインビジュアルにしたのはいいが、あの「暗い」頑なさがまたマイナス評価になったと思う。

だが昨年九月の総選挙で「ニッポンをあきらめない」をコピーにした民主党は、「改革を止めるな」を訴えた自民党に惨敗。党内で「日本の選挙ではPR会社に任せても票は取れない」といった議論がわき出て、契約を打ち切ったようだ。
 民主党では「最低限の運営は、PR会社などに頼む場合もあるが、現在はどことも契約していない」と話している。
 今回の打ち切りについて自民党の広報担当は、「代表選でのメディア戦略が控えめだったのが印象的だった。小沢さんはもともとメディア嫌い。民主党はPR戦略を重視しない党になる可能性がある」とみている。                                                          (同上)

「日本の選挙ではPR会社に任せても票は取れない」ってのは、商品不発の原因をすべて広告代理店に押し付けている無能な企業広報部のように見える。もっとも、「無能な」企業広報部ですら、別の代理店を使おうとは思っても、代理店自体を使うことを放棄したりはしないのだが。

小沢さんはもともとメディア嫌い。

小澤の「良さ」は政策であり、イメージではない。
という意味であれば、悪くはないのだが、これはどう出るか。

それはともかく前原代表での総選挙を一度くらいは見てみたかった気もする。

小沢氏のことはまた今度。


 

2006 04 09 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

April 01, 2006

民主党に新たな偽装疑惑----あの「起き上がり小法師」のミステリー

メール偽装事件は、前原代表を含む民主党執行部総辞職という、民主党にとっては最悪の結果となったが、またもや新しい偽装疑惑が一部ニュースで取りざたされている。
それは先に渡部恒三氏が、メール問題で落ち込む民主党執行部に持ち込んで前原代表らを元気付けようとした、あの「起き上がり小法師」。
渡部氏の意に反して、なぜか前原代表のものだけが起き上がらず、テレビ等で報道されて話題になったのはご存知の通り。

ところが、ブログBigBangで会津現地調査を行い

あの起き上がり小法師で検証----前原代表の不運は1/50の確率で発生した?

を掲載した直後から会津の土産物店には報道が殺到。よりによって前原代表に1/50の確率とも言われている「不良小法師」があたったのは、どう考えても不自然ということで、報道各社の再取材が始まったもの。

各社の取材の総括によると、小法師を渡部代議士に持ち込んだ「支持者」とされる人物A氏は、今日までにどうしてもこの小法師をどの店で求めたかについて口を割らず、また小法師を渡部事務所へ持ち込んだ動機も不明瞭なまま。今日までの取材で彼が明らかにしたところによれば、問題の小法師は、直接彼が買い求めたものではなく、ある元雑誌記者と称する男性が、「前原代表にはぜひこれを」と持ち込んできたものだという。

他の小法師に比べて仕上げもよく、見たところ立派な風体の人物であったことから、A氏はこの人物をすっかり信用してしまい、小法師が実際に起き上がるかどうかの検証を怠ったまま、良かれと思ってそのまま渡部事務所に持ち込んだらしい。
通常、こうした預かり物をいただいた場合、その商品が正しく機能するかどうかを検証するのは、大物国会議員の支持者としては常識の範囲。それを怠ったA氏の不注意に、面をつぶされた形になった渡部氏も激しく批判しており、「武士であれば切腹だ」と怒りをあらわにしている。渡部氏にしてみれば、疑惑メールの永田氏よりもむしろ、このA氏に苛立ちを隠せない様子である。

疑惑の小法師には底の部分に仕掛けが施されており、特に経験未熟な政治家が動作を行った場合、2回に1回は起き上がらないような細工とも見える、謎の木片が取り付けられていた形跡が残っていた。何者かが最初から前原氏への心理的ダメージを狙って仕組んだ疑いが強い。

会津の土産物店ではそろってこの小法師は何者かが細工した「偽装小法師」であり、会津の品位を著しく傷つけるものと憤慨しており、近く業界団体がそろって会津の郷土文化の名誉を回復するための1万人デモを国会周辺で行う予定。

党内の混乱が深まる中、ただでさえ心中穏やかではなかった前原氏にとって、この小法師の出来事は実にショックな出来事であったようで、以来自信を失って肩を落として議会内を歩く前原氏の姿を案じる声も党内から聞かれていた。この出来事が今回の辞職の決定的な引き金になったと評する識者も多い。

警視庁の支援を受けた福島県警もこの種の疑惑事件の処理には、対国民、対政治家への説明責任に関して長けた沖縄県警とその鑑識官の協力を依頼し、もし何者かに仕立てられた偽小法師であった場合、政治家に対する深刻な心理的傷害罪が成立する疑いがあるとして、すでに捜査に入っているというから、民主党周辺の騒動もまだまだ楽観できない状況である。
なお、渡部氏に持ち込まれたとき、この小法師の産地を示す箱の表示ラベルの一部は黒く塗りつぶされており、判読ができないようになっていたという。

なお、このエントリーは自称著名白樺派ブロガーBigBangの会津における独自の現地追跡調査を元に書かれているが、BigBangは4月1日という微妙な時期での記事のため情報源の保護を理由にニュースソースの一切を明らかにしていない。尚、本人の弁によれば、民主党に対して自らの持つ全ての取材源を明らかにすることを条件に、党職員に雇用してもらうよう申し入れたということだが、民主党からは即座に断られているという。なぜこの時期に民主党職員を希望したのか、ここのところ暴走気味のBigBangの真意をさらに図りかねる出来事として、ブログ界には衝撃が走っているという。

2006 04 01 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

March 29, 2006

オウム事件・高裁の控訴棄却決定に思う。---村井秀夫を刺した男の残像

松本被告弁護側が控訴趣意書を提出
 オウム真理教の松本智津夫被告(51)の弁護側は28日、東京高裁に控訴趣意書を提出した。
 同高裁は27日、昨年8月31日の提出期限までに趣意書が提出されなかったことを理由に裁判を打ち切り、控訴を棄却する決定をしており、同決定で「現時点で、控訴趣意書が提出されても認められない」と述べている。
 また、弁護側は、控訴棄却決定に対する同高裁への異議申し立てを30日に行う方針を明らかにした。(読売新聞) - 3月28日23時47分更新

この数週間の出来事がなくても、この男のことは考え続けていた。麻原こと松本智津夫のことである。1991年9月「朝まで生テレビ」に登場したこの人物のインパクトは今でも諸所で語られ続けているとおりである。「この人物は本物だ」心の奥で蠢く危険なざわめきが、あの時確かに胸の奥にあった。

仏教の何たるかはわからない。宗教もおそらく把握していなかった。しかし結果的には、考えられるあらゆる宗派に一度は顔を出した。そうした巡航に疲れ、そ うした巡りに疲れ、そういう中にあってチャンネルを回したとき。画面の中央になにやら大きな白い椅子に座って、この人物がいた。多くの宗教者が、浅薄な台 詞でテレビアピールに余念がない中、この男の言葉は迷いがなかった。白いクルタ(というのだと後から知った)に包まれた不機嫌そうな顔を見つめた。何か見 てはいけないものを見たような気がした。聞けば「朝まで生テレビ」の放映直後に入信した信者が多かったと、ずいぶんたってから知った。それもうなずけた。

あの時自分が感じた「この人物は本物だ」と思ったあの感覚。今思い出すと身震いのするような不思議な感覚を事件後、僕は忘れようと努めた。その「本物」感とは今思えばいったいどんな「まがいもの」だったのだろう。

そして。

拭うことのできない不快な、忘れることのできない、ざらっとした黒い感じは今でも胸の奥に留まっている。時に僕はそれを思い出して今でも身をすくめる。しかしあのとき、それだけでは済まなかったのだ。村井秀夫のことである。

真相は解明されなかった。日本社会は、真相を欲してはいなかったとすら言える。ここで急に話の位相を変える。「と」がかかって聞こえるかもしれない。が、私はオウム事件の真相の大きな一部は村井秀夫暗殺にあるのだろうと考えている。もう少し言う。村井秀夫のトンマな妄想は残酷だがお笑いを誘う。この間抜けな人間に組織化した殺戮のプロジェクトがこなせるとは私は思わない。およそ、ビジネスでプロジェクトを動かした人間ならその背後に、それなりの玉(タマ)が必要なことを知っているものだ。(極東ブログ「麻原裁判に思う」2004.02.28)

あのとき。1995年4月23日。その男は取り囲む報道陣でもみくちゃにされている村井の前に、人ごみの中から幻のように現れ、村井を刺した。村井は何か顔を少しゆがめ、崩れるように青いクルタのまま倒れた。あの瞬間。日本中が震撼し絶句した。一体何が起きたのか。

村井の----いや、ここで書こうとしているのは実は村井のことではない。

村井秀夫を刺した男。徐裕行のことである。

事件後、徐の経営していた会社名が報道されたとき、何年も忘れていたあのざらっとした黒い感じがよみがえった。オイルのように胸の奥に粘りついていた液体のような。何だろう。この不快な気持ちは。

僕はこの男を知っている。

「その年」の2年前の暮。ある酒類関連企業のクリスマスイベントの出演者の仕込みのために、僕が偶然電話をかけた先が徐の経営していたイベント会社だった。当時僕は別のイベント会社のプランナーをしていたのである。ニュースを見てから、その会社のパンフレットをあわてて引っ張り出すと、確かに代表取締役として徐の名前が記載されていた。打ち合わせでその事務所には確か1回しか行った事がない。しかし霧の中に消えそうな記憶の中で、古い雑居ビルのオフィスの奥に、ぼんやりと座っていた、がっしりとした男の映像が脳裏に蘇った。背中だけ向けてこちらには顔を見せぬ男。口をきいたことはなかった。

あれが徐だったのだ。背筋を冷たいものがよぎった。あの男が村井を刺したのだ。

徐の会社には2回仕事を出し、2回とも順調に終わった。徐の経営する会社は業界ではそこそこ知られていた会社だったのだが、事件後、徐の所属として語られることはあまりなくなり、その代わり「右翼結社構成員」という肩書が多く冠されるようになった。その後その会社がどうなったかは知らない。

徐はなぜ村井を殺したのか。

その事件とは、オウム真理教一連の事件のなかでも、もっとも不透明で謎に満ちた、村井秀夫刺殺事件のことである。村井「オウム真理教科学技術省」長官はなぜ殺されねばならなかったのか? 事件直後から噂が飛び交ったように、刺殺事件は村井にたいする口封じだったのだろうか? ただ、それだけだったのだろうか? 実行犯・徐裕行の背後には、事件直後から暴カ団関係者の介在と、北朝鮮工作組織の影が色濃く噂されてきた。
オウム真理教の一連の事件を、北朝鮮工作組織との関係のなかで再検証しようとするこの連載のなかで、この村井刺殺事件はどうしても避けて通ることのできない事件のひとつである。さらに言えば、オウム真理教の一連の事件の背後に横たわる、これまで明らかにされてこなかったもうひとつの隠された真実を解明する、重要な手がかりを与えてくれる事件であった、と言うこともできる。
事件の再検証をはじめるにあたって、あらかじめ述べておきたいのだが、一回の記事だけではそのすべてを書き尽くすことは難しい。何回かにわたって作業をつづけるが、この事件が、それだけ深い闇と陰謀に彩られているのだ、ということだけは冒頭に述べておいてもいいだろう。( -週刊現代 1999年10月15日--高沢皓司(ノンフィクション作家)「オウムと北朝鮮」の闇を解いた__9 )

徐は当初「義憤にかられて」青山のオウム総本部に来たと主張していたが、その後山口組系暴力団・羽根組(三重県伊勢市)幹部の上峯憲司に指示されたと主張。上峯が共謀共同正犯の疑いで逮捕されたが、捜査から公判段階まで一貫して事件への関わりを否定。1997年3月、東京地裁で無罪判決。1999年3月29日、東京高裁でも1審に続いて上峯は無罪判決となり確定している。
同種の村井刺殺事件を巡る噂は、他でも多く語られており、北朝鮮疑惑は有名な疑惑として疑惑のままフィックス(おかしな言い方だが)された形になっている。

果たして松本智津夫は真実を知っていたのか。

そして、オウム事件の数々の謎の中では村井の刺殺事件も、ほんの一部を占めるに過ぎないのだが、村井が刺されたことで失われた物の大きさに世間が気づいたのは、それからずっと経ってからのことである。村井がサリン事件の首謀者であったかどうかは不明であるが、オウム事件の真相を解明するキーマンの一人であったことは紛れもない事実であり、村井の死とともに永遠に失われたものは、悔いても悔いきれないほど大きい。オウム事件はまさに村井の死と、そして事件後11年を経ての、松本智津夫の不可解な沈黙、そして今回の高裁の控訴棄却処置の前に、まさに事件全体が闇に沈もうとしている。

作為か、狂気か。松本智津夫の深い沈黙が続く限り、たとえ裁判を続行しても我らの辿り着ける場所は、限られた場所なのかもしれないし、もしもそれが人知を超えた不可思議さの闇の中に沈むのであれば、我らは天を仰いで不可解さの無慈悲の前に畏怖するのみだったかもしれない。
この世には想像もできないことが起きるし、その想像もできないことの解明を、遥か後の時間になってから望むことは、輪をかけて我らの達すことのできないことなのかもしれない。
それにしてもである。その場所へ我らが進むことが、弁護団の書類提出の有無といった、いたって事務的な理由で閉ざされるというのは、なんとも割り切れない思いが残る。

弁護団は昨年8月以来2度にわたって控訴趣意書の提出を遅延しており、特に8月当時においては、50ページにも及ぶ趣意書を裁判所にまで持ち込みながら提出を拒んで再度持ち帰っている。法の厳格な運用によれば趣意書が提出されないところで控訴審を続行できないのは道理であり、いくら弁護団が松本被告の精神鑑定の内容に異議があったとしても、この大失態を法的に抗弁することは最高裁判所への異議申し立てをもってしても難しく思う。

しかし他方、今回の急展開が松本智津夫の死刑確定にまでつながり、同時に社会に事件の「急激な」清算を望む声があり、それが裁判所が無視できないほど大きいことも、裁判官の過激とも思える棄却決定に影響を与えているのではないかと思うと、オウム裁判が真に譲ってはいけないものが何であったのかあらためて考えさせられる。
「真に譲ってはいけないもの」はオウム事件の全ての真相を、可能な限り我らの前に開示することであり、松本被告にそれを限界までなさしめることだったはずである。

僕が徐の会社に依頼したのはバグパイプの演奏者だった。スコットランドの民族衣装に身を包んだ演者が独特の哀感を帯びたバグパイプのメロディを奏でながら歩くのを見るたびに僕は、村井が刺された夜のことを思い出す。そして記憶にぼんやりと霞むオフィスで見た徐の背中を思い出す。

真実に迫ることは迫る者も迫られる者も命震えることなのだ。命震える感覚を失った全ての論議には意味がないし、一片の価値もない。

「何とかならないものか。」超法規とは言わない。
断固として言わないが、「何とか」ならないものか。こんなにも無様に、こんな形で我らは不可知の闇に屈していいものなのか。

2006 03 29 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

March 25, 2006

グーグルの「次善の策」----中国市場での長い憂鬱

「約1年間、社内で千人以上が議論した末の結論だ。最も難しい意志決定だっ たが後悔はしていない。中国市民にできる限りの情報を提供するのが次善の策と考えた。中国の法律に従わなければサービスは提供できない。グーグルを上回る 良質なサービスは中国にはない。利益追求目的で中国政府に屈したとの意見は、中国市場が小さく採算に乗らないことを知らない人間の言うことだ。」
(「米グーグルCEOに聞く」2006年3月24日 日経新聞 「中国での(グーグルの)サービスは同国の言論統制に従った。米議会は合衆国憲法に定めた表現の自由に抵触すると批判する」の指摘への回答。)


「…… 世界最大の途上国である中国は、世界の人口の22%を食べさせることに成功している。……中国はこの15年間で大きな進歩を遂げた。この進歩は政治の安 定、社会秩序、経済の発展に表されている。これは容易なことではなかった。……(中国に批判的な国は)10億の人口を持つ国が混乱するのを好むのであろ う。……(しかし)公の秩序を危うくするものは国法によって対処されるのである。……世界(人権)会議の後、他国の国内事項への干渉が止むことを望んだ。 それは会議の精神に全く反するからである。国家主権の尊重は絶対的原則であることを強調したい。」
(1993年にウィーンで開かれた国連の世界人権会議での中国の発言 「グローバル時代のアジアの人権」 堤 功一

「次善の策」が中国を理解するキーワードか。その意味においてはグーグルは中国市場に見事に「適応している」ように見える。問題は「次善の策」の寿命を、この地域でどれほど保たなければならないのかということだろう。

【関連記事】
●反日デモは鎮静化の模様だが----中国ネット検閲の実態(BigBang)

●米国の下半身----MSも中国のブログ検閲に協力(BigBang)

2006 03 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

March 10, 2006

お断り

先ほどコメント欄にお問い合わせが入り始めましたが、民主党のブロガー懇談会について、最近週刊誌に掲載された問題との関連から、このサイトでも近々にそれについてコメントをしなければならないと考えています。私は入手しうる情報の範囲で、事態の経過をほぼ把握していると思っています。場合によっては、以前書いた記事の訂正をする場合が今後あるかと思いますが、その場合にも訂正の痕跡は全て残すつもりでおりますので、ご理解ください

http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/cat4884091/index.html


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March 07, 2006

finalvent氏を支持する(2)------無限の虐殺のリプレイス

■ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる(finalventの日記)

私はこうした言及を安易に聞き流していいのだろうかと自問した。よくないと思う。
 そうでなくても旗幟のみが問われる問題になりそうなので、結論を先に書いておこう。それは、ルワンダの虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺はとても異なるものであり、その差異をどう理解するかが日本人に問われるということだ。「あなたの子をアウシュビッツに送らないと誰が保証してくれよう」という懸念を、もし可能なら、薄めておきたいのだ。


差異について無自覚であることを批判することは、発言者を侮辱することでも愚弄することでもない。そして、もしも将来の虐殺を我らが避けようと思うのなら、それは無限の過去の事例の分析の中にしか、おそらくないであろう。ないであろうが、それだけにその分析は慎重にも慎重でなければならない。1言で全てを納得できる筋合いのものではないであろう。一方で町山氏は朝鮮人虐殺の例を引かれることで、既に多大な役割を果たされている。それは氏の言うように、この事件を遠いアフリカの自分と関係の無い出来事と考える人々への警鐘という意味において、である。しかしこの「成果」はあくまでもその目的の達成という「意味以上の意味」を生成するには無理があると考える。二つの事件はどこまでも異なることであり、それを一言で同一視することは、やはり無理があるのだ。(無理の理由のいくつかはfinalvent氏も挙げている。僕も先のエントリーfinalvent氏を支持する(1)------ホテル・ルワンダを巡るカオスについてで触れた)

特に重要なのは、関東大震災の朝鮮人虐殺といっても、その部落襲撃もなければ、その所有物の盗み出しなどもないという点だ。(同上)

略奪があったかどうかなどとは、大したことではないと言う者もあるかもしれない。そうであれば、僕はその人に問いたい。

あなたは映画を見たのか、と。

ツチとフツの泥沼の復讐譚は、生易しいものではない。映画にはその恐怖が描かれる。主人公ポール・ルセバギナ氏は豊かなフツである。危機に瀕して金の力で何度もその修羅場を潜り抜ける。しかし、追い詰められる街の貧しい人々と民兵は、混乱に乗じてレイプと略奪に走る。警察までもが金を積まないと動いてくれない。社会はもはやその形を止めず、夜に紛れた略奪と暴力は国家を根本から破壊する。

その混乱が100万人の死者という人類史上に残る大惨事を生んだ。その恐怖を想像するに、我らは震災の件を思い出さないとそれを嫌悪し、それを憎み、それを繰り返さないと結審決心することはできないのであろうか?彼らに寄り添うことができないのであろうか?
我らの国に起きたことを考えることで、彼らの惨事を「引き寄せる」と称して、実はそこから先は我らと朝鮮人との不幸な歴史を考えることで、ルワンダについて考えることを放棄していないか?ここでも我らにとって「遠いアフリカ」を遠ざけることになっていないだろうか?

問う。あなたはその努力を本当にしたか?

 たぶん、現代の日本人でも、そういう襲撃や略奪のことは想定もできないことではないだろうか。しかし、他国の歴史に見られる虐殺には普通につきまとうことなのだ。
 この日本人のズレた内的な史的感覚――それは他国の歴史を知ればお人好しすぎる甘えちゃんとしか見えないような感覚――が、歴史の意識を無化し、人類の普遍的善意みたいな仮説をおびき出させ、誘導に頷かせようとする。(同上)


■洒落のわからんやつ
(finalventの日記)

※このエントリーにおいて「洒落」という言葉は不適切であり「アイロニー」とすべきではないかとコメントした。finalvent氏はそれを受け入れ、追記に応じてくれた。

僕は「非人道的とはどういうことか」という一連のエントリーを書いた。そこで一貫して問題にしたかったのは被害の視点と加害の視点の両方を考えないことには、真に他民族の不幸にも思いを寄せることができないのではないか、日本も責任ある立場を果たせないのではないかということであった。僕にとっては、今回の件もその延長線上にある。加害の視点からだけでは見えないものが必ずあるのである。(もちろんそれは被害の視点も単独では成り立たないということを意味している)

ここで言えば、朝鮮民族への虐殺を言うのであれば同等に、東京大空襲や原爆の体験はどうなのか。それは「近接する隣人」同士の殺し合いではないから、ここで言う「参照」にそぐわないのか。米国人が口にする、原爆へのあるいは9.11への、真珠湾攻撃の対比(リプレイス)はどうか?あるいは、国民党による台湾原住民への大虐殺「二・二八事件」はどうか。この例でも良いのか。それは我らの父祖が関係していないから不適切なのか。

finalvent氏が、

 町山さんは、虐殺の一般性・人間性に着目し、別に関東大震災の朝鮮人虐殺と特定されないと主張している。
 だから、それなら、通州事件でもいいわけだな、という洒落だよ。
 実際、町山さんの議論では、全ての虐殺は同じだから、そうなるでしょ。町山さんの議論を読んでいるか?
そこは町山さんが優れた見識を持つ点でもある。加害と被害を止揚する視点は評価に値する。
 しかし、追従者に私は疑念を持った。

と「通州事件」を論じている真意は、「アイロニー」なのである。つまり私なら「二・二八事件」を出すかもしれない。東京大空襲を出すかもしれない。もちろんこれらが「朝鮮人虐殺」よりも適切だという意味ではない。それら無限の虐殺のリプレイスの向こうに一体何があるのか。彼の事件を身近に引き寄せるという意味か?それを理解するためになぜ我らはルワンダから遠く離れなければならないのか?そしてダルフールでも同じ手法を使わなければ、我らは起きていることへの共有の視線をもてないのだろうか。

期せずして町山さんも言及されている「ミュンヘン」のラストシーンでの、あの「塔」に復讐の連鎖の空しさを見ることと、何が違うのか?
つまり虐殺の恐ろしさは、「加害者」であればわかり、「被害者」であれば理解できないことなのか?その逆か?加害の経験と被害の経験にこだわり続けることが、かえって「復讐の連鎖」につながる可能性がないと言い切れるか?私たちはそこも乗り越えなければならないのではないか?

彼の「彼らしさ」は、それでも随所に見えるユーモアに。そしてニューヨークで復讐に脅えて暮らすアフナーが歩くラストシーンの彼方の空に、無限の報復の空しさを象徴させるかのように、今は亡き世界貿易センタービルの2本のビルを、合成で再現したところだろうか。 もちろん1972年当時、あの時、確かにあの建物はあの場所に建っていたのだけれど。
印象的なラストシーンだった。(
ミュンヘン----国家の絶対的物語と3人の女 BigBang)

我らが自らの歴史に頼らなければ他の民族の上に起きた事態を想像できないとすればそれはfinalvent氏の言うとおり

この日本人のズレた内的な史的感覚――それは他国の歴史を知ればお人好しすぎる甘えちゃんとしか見えないような感覚――が、歴史の意識を無化し、人類の普遍的善意みたいな仮説をおびき出させ、誘導に頷かせようとする。

としかならないのではないか。
そしてこの「甘えちゃん」を作っているのは、断じて町山氏ではない。町山氏の言論の成果を、「映画も見ず」「引用されたパンフレットを読み」わかったように盲従しようとしている無数の無責任な言説の群れである。そもそも、仮に氏への「差別」があったとして、その氏の言説も、常にその観点からしか評価できないとすれば、それは支持すると見せかけた内なる差別ではないのか。

finalvent氏は今回何度か、適切でない表現をしたかもしれない。しかし、今回の事態の原点は何なのか知っている数少ないブロガーであると僕は評価する。このブロガーの問いかけに集団で罵声しか浴びせられないとすれば、あるいは言葉尻の揚げ足しか取れないとすればその者共は、歴史的状況が少しでも変われば今度は町山氏に刃を向ける者になり得るのではないか。

我らと町山氏は、ある一読者によってこの問題に不幸な形で向き合わされた。その不幸を乗り越えて、この問題の中心は何なのか、考えるべきである。自国の歴史的事象を参照することで彼らの悲劇を体感できる者もいようが、参照しないで体感しようとするものもいる。その両者を保証しないで歪んだ「逆差別」の論を立てないようにすべきではないか。

僕はそう考える。

2006 03 07 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

finalvent氏を支持する(1)------ホテル・ルワンダを巡るカオスについて

SN330003

特定の人物を支持するタイトルは、基本的には好ましくないと思っているが、例外はある。その例外は今だと思っている。

最初に状況の整理を行い、その次にfinalvent氏の提出した視点について検討したい。

まず町山さんに敬意を表したい。僕は煙さんとのやりとりで、こう書いたけれど、

町山さんは、彼女の「ひどい」エントリーには反論されていますが、ここで、あるいはuki_gumo氏とあなたとの間で問題になっていることに関しては、 これまでのところ態度を表明されていません。この態度表明が知りたいと私は率直に思います。氏がコメントやTBを拒絶しておられるので、こうした対話が不 可能なことは残念なことです。

本音を言えばまさか町山さんから、状況に対する発言が出てくるとは思っていなかった。理由は、彼の置かれた立場が非常に面倒な立場だということに尽きる。僕がその立場であれば、正しく自分の意図するところを表現できていたかどうか。

今回の件は、初期の「ある読者」によって大なる不幸がもたらされたと思っている。前のエントリーでも書いたが、たった一文に反応して、それを一民族の蔑視まで明らかに、しかも無知に拡大したエントリーの罪は深く、僕は許すことが出来ない。許すことが出来ないが、その後ブログスフィアの言論は思わぬ経緯を辿った。僕なりにこれまでの経緯を簡単に整理する。

(1)ある読者のエントリー(リンクはしない)
→町山氏が「ホテル・ルアンダ」に関するパンフレットの一文で、関東大震災の朝鮮人虐殺に触れたことに対し、「知らぬことは知らぬ」としながらも、明らかな町山氏への侮蔑的表現、および朝鮮の方への民族的侮蔑的表現を行った。

(2)それへの町山氏の反論
→おそらく平静ではおられなかったと思う。エントリーで反論をされたが、これは「ある読者」への攻撃の要素を持っていたと思う。


(3)ネット上で、「ある読者」への非難が高まる。
→はてブその他で、「ある読者」の、民族的差別発言に対する非難が巻き起こった。

(4)「ある読者」の差別意識には異を唱えながらも、最後の一文に対して「違和感」を唱えるいくつかの言説が巻き起こった。(私のこのエントリーはこのカテゴリーに属する)

(5)「批評する資格」が煙氏より問われ、パンフレット全文がアップされた。

(6)finalvent氏より、finalventの日記 - ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なるがアップ。しかしはてブ中心にブログスフィアは猛反発。

(7)町山氏より、「状況に対して」再度のエントリー。ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 「わかってもらえるさ」RCサクセション。紛れも無く心打つ内容であったと思う。先のエントリーに比べて彼の心の声が確かに聞こえる内容であった。

人により異なるかもしれないが、これが僕の捉えている、大まかな流れである。さて

参照に関する違和感は虐殺を肯定することではない。

さて、町山さん、まず最初に言いたいことは、関東大震災に関する参照に違和感を表明することが、何も「虐殺を肯定すること」ではないのです。あなたの参照への違和感を「感じる」、あるいは「感じない」を問わず、一定の分別のあるブロガーは(例外もあるが)全て、あなたへの由なき侮蔑を許さない。そして、あなたの出自に関わる事象への侮蔑を許さない。これは絶対的な事実だと思ってもらいたい。当初の「一読者」のエントリーが、余りに非常識かつ無知かつ非道なものであったために、この議論は不幸な軌跡を辿ることになった。それは本当に残念だと思う。一定の水準以下の人物を相手にすることは時間の無駄ではないかとまで思うのである。
しかし、一定の「水準の」ブロガーであれば、誰もあなたへの侮蔑を許さない。それはfinalvent氏も、uki_gumo氏も、lazarus_long氏も、煙氏も、他のブロガーも、そして私も。これをまず確認したい。

では「違和感」の実態とは何か。

既に私は、引き寄せずとも寄り添えるのではないか。-----ホテル・ルワンダと関東大震災を結ぶ視点で違和感についてある程度までの表明を行ったが抽象的だったかも知れない。ここでさらに3つの点を指摘したい。

(1)国際社会という視点について

「ホテル・ルワンダ」で取り上げられている深刻なテーマは、虐殺に対する国際社会の対応というところがある。映画の中で取り上げられている国連軍の悩みは、そのまま国際社会の悩みである。虐殺は忌むべきことである。しかし今後も起きないという保証はない。我々にしてみても、二度と隣人を傷つけないということは言えないかもしれない。虐殺を避けるために我らは全力を尽くすべきであるが、それでも「起きてしまった」虐殺に何ができるのか。それが残念なことに今の人類の英知では国連を中心にした介入しかないのである。ところが、その「介入」の実態について我らはどれだけ無知か。それを描いたのが映画「ホテル・ルワンダ」である。その中にあって、苦渋の怒りを爆発させ、平和維持軍の枠組みを超えても、ホテルの人々を守ろうとするオリバー大佐や、決死の状態でことに当たる赤十字の女性。肌の色を超えて尽力する人々が、主人公の周辺にいる。これは、我らの最後の救いであると同時に、世界に同様の出来事が起きたときに、我らは、そして国際社会は一体どうすればいいのかという重い問いでもある。

さて、関東大震災における惨劇に「国際社会の視線」は存在したであろうか。否であろう。「参照されるべき」惨事に、映画においては重要な視点であるこの点に関する解答は見出せない。これがまず映画と件の惨事との違和感の1点目。

(2)フツとツチの抗争とは何か

映画でも描かれていることであるが、「フツ」と「ツチ」との間に民族的な峻別はない。かつての宗主国ベルギーの支配に対して、協力する者達を、ベルギー人は「ツチ」と呼び、非協力的な者を「フツ」と呼んだ。あの虐殺は民族抗争「ですら」なかったのである。その空しさ、空虚さ、馬鹿馬鹿しさが確かに映画では描かれていた。パンフレットから引用しよう。

国家としてまとまっていたルワンダを分裂させるためにベルギーが利用したのはフツ族とツチ族の容姿の差。黒い肌に平らな鼻と厚い唇、そして四角い顎を持つフツ族に対し、薄めの肌に尖った顎と、よりヨーロッパ人に近い容姿のツチ族をベルギーは経済的にも教育的にも優遇。1933-1934年にはすべてのルワンダ人をフツ族、ツチ族、そしてトゥワ族に分類し、人種が記されたIDカードまで発行する。

さて、我らと朝鮮民族とは、「何者かの視線」によって峻別されたのであろうか?否であろう。無理やり恣意的な視線で分断されたのか?否であろう。その点において、ツチとフツの悲劇は、西側の宗主国による分断政策の所産であり、実態はない。実体が無い差異において悲劇の空しさ、やるせなさが、関東大震災を参照することで、真に我らにわかるのであろうか。この点において、ルワンダの悲劇の空しさは遥かに「我らの悲劇」を上回ると思う。これが違和感の2点目。

(3)我らは、そしてあなたは客観的なりうるのか。

ツチとフツの悲劇に、想像しうる限り我らの関与はない。いや、100%無いとは言えぬのかも知れないが、少なくともBigBangの知力では想像しえない。我らはこの悲劇を、客観的に批判できるのであって、確かにそのことの無責任さもあるかもしれぬが、父祖の過ちを抱える身にならずに済む。その立場からの結果がどうであれ。finalvent氏が言う「歴史に埋め込まれている感じ」というのは、おそらくこの感覚を言うのである。そしてこの感覚がわからぬと言われれば、言葉を失う。

 

関東大震災の朝鮮人虐殺はルワンダ虐殺とは異なったものだ。それが同じように痛ましいできごとであるとしても。
 それがどのように異なっているかを日本人が内的に問うことが日本人に課せられた課題であり、その考察と日本人同士の対話が果実を結び得るなら、日本人の未来に類似の悪夢を消し去ることが可能になるだろう。
 そうではなく、普遍的な、歴史から切り離された、あたかも宗教的戒律のように問われたとき、それにただ頷くことは盲信と異なることはない。( finalventの日記 - ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる)

 

さて、我らの国で起きた惨劇のほうはどうか。朝鮮の人たちを「たたき殺した」のは、あるいはあなたの祖父であるかもしれないのである。私の祖父であるのかもしれない。そして町山氏の父祖がたたき殺されたのかもしれないのである。我らは、そして町山氏はこの状況下で、真に冷静な評価ができるのであろうか。否であろう。それを「あなた」は真に意識しているか。畢竟これはこの問題の永遠のジレンマであり、「引き寄せる」ことにより、かえってルワンダを客観的に見ることが困難になるのではないか。これが違和感の3点目。

長くなった。次のエントリーでfinalvent氏の提出した視点について検討する。

finalvent氏を支持する(2)------無限の虐殺のリプレイス

2006 03 07 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

March 03, 2006

メール偽装事件と天の配剤---今更だけれど民主党ブロガー懇談会でのこと

傷だらけになっている民主党をこれ以上責めるのは気が進まないけれど、今思えば、出席者として、昨年10月31日の民主党のブロガー懇談会を振り返ると、今回のメール偽装の件の予兆はあったような気がしている。

当時は前原新代表に「デビュー感」と期待感のようなものが大きく寄せられていた時であり、新代表に直接会えるということで我々の間にも高揚した気分が満ちていた。前原代表は基本的にあまりネットをやらない方だという話を聞き、ぜひブログで前原代表の声を発信してもらいたい、ネットで政策のドキュメントを発信してもらいたいという我々の声を聞き、前原代表は、くるりと横にいる松本政調会長の方を向き、「それすぐにやってください」と言われた。
あまりの決断の速さと「行動力」にその場にいる誰もがへーと感じたと思う。我々のような初対面の寄せ集め集団の言う事を、こんなに敏速に取り入れてくれるのだと、ここは非常に好感触であった。事実その後、民主党はシンクタンク・プラトンの構築、耐震偽造専門サイトの開設等々、自民党の後を追う形ではあるが急速に「ネット化」した。

しかし、今回永田議員が、問題のメールを国会で取り上げるに当たり、テレビ局で前原氏に報告を行い、それについて氏が「よく調べてやってください」と答えたという(つまり事実上許可したことになったと報道されている)逸話を聞き、あのあまりにも敏速に指示を行ったあのときの前原氏の様子を思い出したのである。

思えば、ネットというのは、前原氏にとって「なじみの薄い」ものであり、あのときの懇談会でも「そういう方面は苦手である」ということを言われていたと思う。他の議員も、代表にネットを薦めてくださいと言われていた。「民主党のネット化」について即座に指示をしたのは、裏を返せば、自分自身では我々の提案を価値評価できなかったので、部下に任せるしかなかったという見方もできる。組織の長として、部下を信頼して任せるのは当たり前と言えばその通りであるが、ただ振ってしまってはならないのであって、思えば自民党の老獪な政治家たちは、任せた振りをして任せなかったり、部下を信用したと言って信用していなかったり、すさまじい権力の駆け引き、裏をかくか、かかかれるかというぎりぎりの政争を繰り広げながら、政権を奪い合ってきた。田中角栄然り、竹下然り、中曽根然り。そして今は民主党にいるが小沢一郎という人もやはりその政治家の系列に加わる人であった。

おそらく政治と言うのは(と素人が勝手に言うが)このぎりぎりのところがあるのでありリーダーは微かにでも部下に違和感を感じることがあれば、そこで何らかのアクションをとらなければならないのであって、もしも前原氏が、もう少しネットの素養を持っていれば、永田氏の乱暴な怪しい持込話に、もう少し違う対応が出来たのではないかと思うのである。

要はネットリテラシーのことを僕は言っている訳であるが、たった1通のメールの真偽が、ここまで大きな政局になるということは予想できなかったからこそ、今思うとひとしおのものがある。

そして、そういう話を確かあの時も自分はしたのではなかったかと思って、懇談会に出席された「絵文禄ことのは」の松永さんのサイトをごそごそ探していたら、こういうことを僕や他のブロガーは言っていた。久しぶりだが少し引用して見る。

【前原代表】小飼さん、一つ質問していいですか。

 先ほど、一方通行じゃなくて、双方向だということで、プラス面もあればマイナス面もあり、いったことが逆になる話もあると。たとえば、私どもが、まあ私でもいいんですけれども、ブログに載せたことについていろいろ議論してもらうと。で、それに、でも我々がまたリアクションしなければ……リアクションし続けなければいけなくなるじゃないですか。

【小飼】そのとおりです!

【前原代表】そうでしょ(笑)

【小飼】だから、立ち止まらないというのか、すぐに反応を返すっていうのはものすごく重要なんです。だから完成している必要はないです。中途半端でもいいんです。極論してしまうと、間違ってて、明日には180度違うっていうふうにしてもいいんです。「ごめん、俺が間違えてた」でいいんです。その一言で逆に許してくれるんですね。

【前原代表】そこに対するレスポンスをしておかなければならないということですね。

【小飼】そうです。
政治家はブログをそのまま使わない方がいい

【安曇】ブログをそのまま使う必要はないんです。そういう政治家のためのブログに似たシステムを作ればいいんです。だからそのまんま使っちゃったら、もうとんでもないことになりますから。杉村大蔵くんのブログなんか、とんでもないことになってます(一同笑)。

 だから、政治家がねえ、そのまま使っちゃいけないです。それのためのやつをね。

【BigBang】それも含めて技術だと思うんですね。結局、今おっしゃったことはよくわかるんですけれども、やっぱりスルーの技術と、レスポンスの技術っていうのは、ちょっとリアルタイムと、ブログ、ネットワークで違うところがあると思うんですよね。でも、こうやって今、我々にレスポンスしていただいたのと同じように、基本的にはレスポンスすべきだし、やっている。ただ、スルーも必要だね、という、技術ですよね。マネージメントの技術だと思うんですよね、ネットで発信していく。それはやっぱり、ある程度の期間を研究してやっていかないと、なかなか、じゃあインターネット解禁されてポンとやろうと思ってもできないと思うんで、今からですね。   (絵文禄ことのはより

まさに、インターネット時代の政治にとって、マネージメントの技術とスキルが問われたのが今回の出来事であり、それは一朝一夕にできるものではないのである。怪しい情報に対するマネージメントとスルーの技術、それはそう簡単に出来ませんよと言っていたあのときの自分の発言は、今回の事態を見透かしていたとまでは決して言えないけれど、我田引水の見方をすればそう大きくは外していなかったと思っている。

今の民主党は、旧来の政治家たちが持っていた権謀術数を潜り抜けるしたたかさにも、ネットに象徴される新しい「闘い」を乗り切る技術も、いずれをも欠いた状態であり、その両端の欠損が今回のことで、鮮やかに浮き彫りにされてしまった。

天は思わぬ配剤を行うものである。

しかし、これを遅かったですねというのはたやすいことであるが、物事はどこからスタートしても遅すぎることはないはずである。今後も天の意外な配剤は続くであろうから。

【3/20 訂正線部分削除】

2006 03 03 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

March 02, 2006

聞いた?きっこの日記は2億円だってさ。

訴えられてもいい。引用しちゃう。

‥‥って、ココまで書いたとこで、ちょうど夜の10時になったから、「Gyao」のニュースを見てみた。そしたら、この「きっこの日記」の査定額は、ナナ ナナナント!ナナナナナント!ナナナナナント!って三連発しちゃうけど、「2億円」だった! あたしは、パソコンの前で、腰が抜けた。すごく大切に育てて来た日記だから、あたしにとっては100万円くらいの価値があるけど、そんな値段がつくはずな いよな~なんて思ってたのに、2億円って‥‥。(きっこの日記」のお値段は? 1から)

それならBigBangは200万くらいでどうざんしょ。だめっすか?

2006 03 02 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

March 01, 2006

引き寄せずとも寄り添えるのではないか。-----ホテル・ルワンダと関東大震災を結ぶ視点

実はホテル・ルワンダを2回見た。

理由の一つは、町山さんのこの記事にもある。主人公ポールの行動と「職業倫理」の関係の言及について違和感を感じ、もう少し緻密に見てみたいという思いがあったからだった。当然ながら1回目に比べて冷静に見ることが出来たけれど、この点に関しては、当初の考え方に大きな違いは生じなかった。

で、そういうことをしているうちに、ホテル・ルワンダは何か別の方向で大きな問題と言うか、違う方向に発展して議論になっているようである。

幾つか読んでみて(人生とんぼ返り)

■町山智浩氏の言説の誤読のされ方‥travieso氏の「メディア・リテラシー?」を参照しつつ考える(1) (煙)

当初の議論の契機となった、某エントリー---町山氏の素性も含めて批判を行ったエントリーについてはここで述べたくない。当該エントリーのぶくマにも書いたけれど、自分の書いたエントリーを、いくら成り行きとは言え自ら「ゴミである」と言う人と、まっとうな対峙ができるとは思えない。ああそうですか、ゴミですかとそう思うのみである。既に当該のサイトには、十分な批判も寄せられているようなのでそれ以上は言及しない。

この議論でのポイントは、ルワンダの例を関東大震災の朝鮮人大虐殺と比較する言説を、町山氏が映画のパンフレットで行っていたという点である。件のサイトもその比較の違和感から出発している。

僕はそのパンフレットの原文も見ていないし、細かな評論をするのは困難だが、少なくとも意識的にホテル・ルワンダを2回見た者からの視点から言うと、この映画を見て関東大震災の惨劇と合わせて考える視点は全くなかった。そしておそらく、今後何回映画を見ても僕はその視点は持たないと思う。もちろん言うまでもないと思うが、これは朝鮮・韓国の人々に対する感情的な理由とは全く関係がなない。

僕はそれぞれの民族の抱える問題は、まずそれぞれの民族の環境下で緻密に議論されるべきだと考える。そういうことである。他の国の歴史と照合させて論じるなら、努々緻密な検証を怠ってはならないし、その照合や被虐の敷衍を、無条件に是の姿勢としてもならない、と思う。

言うまでもなく、日本と朝鮮の間に横たわる事情は特殊であり、それと同様にルワンダにおけるフツとツチの歴史事情も特殊であり、彼の地で彼の地なりに重い。この遠く隔たった両者の歴史的特殊性を、「虐殺」というレイヤーで共通の視点から語るというのは、ルワンダも、日朝の関係も、どちらも大幅にそれぞれの事情や背景を抽象して語っている、荒っぽい視点のように思え、賛同できない。

世界にはそれぞれの立場の民族がそれぞれの立場で争ったり互いを傷つけたりしてるわけであり、日本人が彼らの視点を共有するときに、ルワンダの例があまりにも遠いというのはわかる。多くの日本人にとってアフリカは遠い。だから自らの歴史の痛みの側面と比較して、その意識の共有と広がりを求めようとする意図もわからないではない。しかしその一方で、留意しなければならないのは、それでもやはり彼らと我らの事情は違うのだということである。

第二次世界大戦における日本を、今も一部のアジア・アフリカの国で支持する動きがあると聞く。その根拠として欧米の列強に、アジアのさして強国とはいえない島国が堂々と渡り合ったその姿勢への羨望があるという。たとえそうした視点で外国からの賞賛の視点を浴びたとしても、一方で我らにはアジアに対して多大なる「傷」がある。発展途上の激動の中から羨望をあるいは浴びることがあったとしても、それで我ら自身の、先の戦争の傷が癒されるわけでもない。同様に、ルワンダの人々に関東大震災の例を出して共感を表明しても、的確に受け止められるとは思えない。

やはり彼らのことは、彼らの歴史の中で受け止め、わからぬ部分は彼らの国の事情、歴史の中で理解すべきであって、安易にわが国の歴史事情と(それでなくても微妙な背景のある問題と)重ねることには、賛成しかねる。その観点では、この点も僕は町山氏に対して批判的なスタンスであると言わざるを得ない

ルワンダの惨劇を真に知ろうと思えば、むしろ彼らの側に寄り添う視点にしかないのではないか。

一方で、映画を見て仮に町山氏が朝鮮人の虐殺を連想したとすれば、それは氏の背景も含めて氏の感性がなせる業である。もとより芸術作品を前にして、それぞれの育ちや背負っている背景が感性に作用しないわけはないであろう。氏がパンフレットの評論でその観点を持つべきではなかったとまでは、僕は言えない。言えないが、それに乗らない人間はいるということであるし、それはまたそれだけのことである。

元来、映画を見る感性の問題を理屈のみで、「連想すべきだ」、「いや連想すべきでない」と争っても仕方がないのであり、彼は連想した、しかし我は連想しなかったという事実があるるのみである。それよりも、もっとも恥じるべきなのは無知や悪意による意図的な「偽連想」であり、もしも何者かが、そうした意図で特定のフィルターを悪意で作品に被せて行くなら、厳として対峙したいと思う。

繰り返すが、ルワンダに限らないが、彼の国の悲劇を、何も我らの歴史に重ねなければ共感できないということではないだろう。彼らのありのままの歴史と風土の土壌に、我らがこちらから添って行くこと。引き寄せずに添っていく理解と共感のあり方もあると僕は思うし、そういう形で自分も添いたいと思う。我々が世界に対して求めているものがあるとすれば、やはりその方向からの共感ではないだろうか。

少なくとも映画を2回見たものとして、ここにいる僕の見解はそういうことである。

【追記】
参照例として適切/不適切とか、社会学的に国内にはより適切な例がないとかいう言い方も、なんだかなーと思うよ。映画ですのでね、いくら虐殺を描いていても。どう見ようと自由っちゃ自由だけどさ。


【追記2】
2回映画館に足を運び、パンフレットも購入していながら件の町山氏の記事を読み落とした上、パンフレットもしまいこんでいた。煙氏のご指摘を受け、3月3日にパンフレットをごそごそ探し、ようやく町山氏の評論の全文を読んだ次第。現在では煙氏のサイトにもアップされているのでそれを読んで頂くことができる。原文を読んでから評すべきなのは、誠にもっともな意見であるが、それがあらゆる問題に先行する訳ではない。で、読んだ後の感想は本記事コメント欄に書いてある通り。



【参考記事】

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
『ホテル・ルワンダ』なんかまるで役に立たない!この人を見よ!


「ホテル・ルワンダ」---守ったのは職業倫理ではないだろう。

知らないってもしかしたら不幸なことかも「ホテルルワンダ」周辺

2006 03 01 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (23) | トラックバック

February 19, 2006

ITで負けるというのはこういうことを言うのだ。-----堀江メールの真贋騒動

極めて重要な事実を含んでいると思われるメールが、重要証拠として情報筋から届けられたらどうするか。まず間違いなく自分であればそのヘッダを検証しようとするであろう。OutLookやOLEなどでは、標準的出力ではメールヘッダの全てが印刷されない。だが、情報提供者が何らかの形でメールのオリジナルの電子データを持っているのであれば、それは入手することは可能である。ReceivedやMessage-IDを見ることで、昨今の送信者偽装のウィルスメールを見破る場合など、かなりの情報を得ることができる。
Receivedを追っていけばメールがネットワーク上の正しい経路を経て、配信されていることをかなりの確度で確認できるし、送信日時も特定できる。ReceivedにしろMessage-IDも偽装は可能であるが、その偽装行為そのものも安直に行えば、かえって足がつく契機になる。

今回の状況を判断する限りは、メール送信者(堀江氏)ではなく、受信者(想定=ライブドア内で堀江から指示を受けた者)周辺しか、このメールのヘッダ情報まで所持していると思われる者はいないわけであるから、この人物(受信者)にそれを問いただすべきであるというのがまず一点。

また受信者本人以外の人間が持ち込んできたのであれば、その入手経路はどうなるのか。上記の受信者から受け取ったか、あるいはサーバ内に送受信メールのコピーを仕掛けるなど、何らかのハッキングがなされており、関係のない第三者にメールが渡ったということになるが、今回は東京地検がライブドアのメール記録の大半を押さえており、(全てであるかどうかはわからないが)早い段階からこのメールに関する否定的見解を出しているので、新たな情報提供がなければこの可能性も薄い。

一番危惧されるのは、何者かが持ち込んだ質の低い印字されたコピーや、転送されたメールを元にしたプリントから、安易に永田議員がこのメールの信憑性を信じてしまったケースで、そうであれば軽率極まりない行為としか言いようがない。
そうでないのなら、あるいはヘッダを入手できない事情があるのであれば、民主党はそれを一刻も早く説明すべきであろう。その行為が直ちに情報提供者の状態を危険にさらすということにはならないのではないか。なぜならこのメールを公開した時点で既に、情報提供者の周辺は推測される状況にあり、ある種の危険を引き受けているのであり(もしも本物であるとすればであるが)、これ以上の裏付情報を出してもこれ以上危険が増大するとは思えないからである。

これらについて何の確認もされなかったとすれば、どこの誰ともわからぬ人物から事務所に送られてきたファックスによる怪文書をそのまま国会に持ち込んでいるようなものである。もしもそうした類に引っかかったとすれば、永田議員だけではなく、民主党全体の稚拙さが厳しく問われても止むを得ないと思う。こうしたところにも、昨年来言われているこの政党のIT分野への取り組みの遅さ、スキルレベルの低さが端的に現れてしまったと言われてもしょうがない。ITはこうした政争に関して、端的に情報力の弱さとして結びついてしまう。そういう時代である。もしもこの点で軽挙に走ったとすれば民主党は猛省すべきである。

メールがガセであると思われる根拠が2ちゃんねるなどで詳細に提示されている。それらは末尾の参考リンクの先を見てもらいたいが、といっても、堀の字にしろ、メール文の改行にしろ、解釈の余地は残ることばかりであり、どれも決定的なメールガセ論の決め手とするには弱いように思う。ヘッダを確認することに勝る確認手段はない。

それらの検証方法と離れたところで、本文を検証する限り、僕がおかしいと思うのはこの一文である。

項目は、選挙コンサルティング費で処理してね。

このメールは明らかにライブドア本体もしくはグループ内の何者かに、振込を依頼する内容であり、その経費費目として「選挙コンサルティング費」としてくれというのである。しかし、この当時掘江の立候補に関しては、個人の立場で会社とは関係がないということを宮内も言明している。また、会社の費目としてごまかして処理するのであれば、「選挙コンサルティング費」というのはおかしいのであって、通常の裏金支出としては「企画コンサルティング費」などの名称を使うのが常道であろう。

多少企業財務に詳しい人であれば、「選挙コンサルティング費」などというものが企業の支出費目として妥当かどうかなどはすぐにわかるはずである。もっともあれほどの「暴虐」を尽くしたライブドアの財務操作であるから、これも脇の甘いでたらめの一環であると言う見方もあるかもしれないが。
末尾の「堀江」もなにやらとってつけたような表示であり、読めば読むほど意図的に改ざんあるいは作為的に偽装されたものではないかという印象が強い。

こうした「ハプニング」で本来の武部ー堀江ラインの癒着追及から自民党に反撃の隙を与えてしまったとすれば誠に残念である。

【参考リンク】
民主党が公開したメールのPDF
「堀江メール」の真贋鑑定(404 Blog Not Found)
永田メール、追記(finalventの日記)


2006 02 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

February 11, 2006

女王蟻の自由について-----皇位継承権は政治の問題なのか

女王蟻の存在は蟻の群れにとってどのような意味を持つのだろうか。女王という名にふさわしくなく、その生命と存在はどこか物悲しさを伴っている。働き蟻など他の蟻は一見女王にかしづき、女王が巣社会の頂点に立って君臨しているように見えるが、実はたった一匹の女王蟻は、子孫を増やすためだけに存在し、生きる。その女王を囲む働き蟻たちは、女王を崇め、保護するように見せかけながら、女王の自由を許さない。実は見方を変えれば女王蟻の側こそ、無数の働き蟻に囲まれた奴隷であると言う見方もできるのである。

天皇は日本国民統合の象徴だ。国民の意見が分かれている問題では、一方にくみする発言は控えた方がいい。これは皇族も同じである。
 天皇陛下は記者会見でたびたび女性天皇や皇位継承について質問されたが、回答を控えてきた。皇太子さまも会見で質問されたが、やはり答えなかった。
 おふたりとも、憲法上の立場を考えてのことにちがいない。
 寛仁さまひとりが発言を続ければ、それが皇室の総意と誤解されかねない。そろそろ発言を控えてはいかがだろうか。(2月2日 朝日新聞 寛仁さま/発言はもう控えては)

天皇を象徴と言う特別な位置に配したのは、近代の歴史の中でこの国が選び取った、重要な英知である。象徴と言う用語で天皇家の威厳を担保する一方で、政治的権力への一切の介入を阻止しようとした。しかし、一方でこの制度は、国民統合の基本部分を、天皇と言う曖昧で茫漠とした祭祀の存在に委ね続けることを、放棄したものではなかった。そのため政治的責任の頂点はいつもぼやけている。
原則論と言うよりも、特異な「政治的背景」に迫られて出来上がったこのシステムは、戦後60年間、とりあえずの平穏を我らに保障することには寄与したと思われるが、一方でこの領域に立ち込める深い霧は、ついに晴れることはなかった。

天皇の政治への介入を回避しようとしたその意図は、ある時代にあっては一定の合理性を持ったであろうが、皇族全般にまでその範囲を広げた場合、自分の属する係累の家督に関わる事項に関して述べた、寛仁殿下の発言までが一新聞社から批判されるとすれば、その合理的、あるいは法的な根拠は何だろうか。。

そもそも現在起きている(起きていた)女系天皇制に関する議論は、政治的議論であると言えるのかどうか疑問である。この問題は文化的問題であり、伝統的な問題に対する国民の対処の問題ではあるが、果たして「政治的問題」であると断言できるのか。つまり天皇が女性であるかどうかということ、あるいは女系で継承されるか男系で継承されるかということが政治的議題として扱われること自体に馴染むのか、その根拠は何かという問題になる。

朝日新聞の発言の論拠はまさしく、これが自明の「政治的問題」であることを前提に、寛仁さまの、重なる「行き過ぎた」発言に、サンクチュアリへの「介入」の要素があると見たのであろうが、皇位継承が政治的問題とは無縁であることを宣言するためにこそ、我らの現行憲法はそれを象徴天皇制という制度の下に封じ込めたのではなかったか。であれば皇位継承の問題を「象徴の周辺」で政治と切り離した論議が当事者たちによってなされることは、妨げられないと考えてもいいのではないか。

仮に皇位継承に関する意見の表明がいささか「政治的」な要素があるとみなしたとしても、寛仁さまは天皇そのものではなく、一皇族に過ぎない。皇族全般の政治への不介入は慣習としては守られていても、当の皇族がそれをご自分の意志で踏み越えようとしたとき、それを押し止める法的根拠は我々にも、国会にも、新聞社にもない。
現在のシステムは、そうしたことを敢えて試みる皇族が「今までたまたまいなかった」ということで、辛うじて担保されてきたに過ぎないのであり、このエリアに、積極的に「限界」近くまで言及しようという志を持った「非天皇の皇族」が現れ、意見を表明しようとした場合、批判しようとするなら、元来この問題のグレーゾーン性を意識した観点から、深い考察が伴わなければならないのではないか。朝日の社説にはそのスタンスが見出せない。

秋篠宮紀子さまのご懐妊は慶事ではあるが、国会での皇室典範改正論議がそれによって直ちに止まったことは何を意味するのか。立法府が元来政治の場で論じるにふさわしくない事柄を、専権事項のように一方的に論議を試み、偶然に起きた「政治的ではない」紀子さまのご懐妊でまたその論議を止める-----一見もっともに見えるこの一連の出来事の中で、問題を政治問題化させている主体の勢力はどこにいるのか。それは寛仁さまではないことはもちろん、皇族の側ではなく、立法府の側にあるのではないか。

そもそも、選挙権や被選挙権などの基本的人権を、曖昧な象徴天皇制というギミックを根拠に、皇族全般に対して大幅に制限していることへの、合理的な説明も、我らはなし得ないでいるのである。事由は日本国民であれば生来感覚的に察知しているところもあるだろうが、その不作為の継承が、美智子妃に続いて、雅子妃の深刻な精神の危機を招いた遠因になっているように思われるし、国際社会での立ち位置をよくも悪くも「神秘的」にしている。

正しく天皇家が政治的なものから距離を置かれるべき、伝統的かつ文化的存在であり、それを「象徴」と呼ぶなら、政治的意味での「特別扱い」は撤廃すべきではないのか。つまり、彼の家に生まれたことあるいはそこに嫁した事により、有無を言わさず、その人物の基本的人権を侵し奪う根拠を、我らは自明のものとしては持っていないのである。このことから逃げずに真っ向から見つめなければならないように思う。

男子親王が誕生しなかったときの、紀子さまをはじめ皇族の人々の精神的負担を思うと、同情すべき点がある。それを思うにつけても、彼らに基本的な「最低限の人間らしい生を営む権利」の付与をすることは、考えてもいい時代が来ているのではないかと思うし、朝日新聞がこのあたりへの提言を正面からすることを避け、一方で、浅薄とも思われる皇族批判を展開することには強い違和感を禁じえない。
皇室典範を立法府が論じることは止むなしとしても、ある程度の意見表明を皇族が行うことはむしろ自然ではないのかと思うし、雅子妃の問題もこの点に深く関わることではないか。少なくとも封殺する根拠はないはずである。

誰が誰を巻き込んでいるのか、誰の自由を奪っているのかという話である。

最後にkuroneko 氏のコメント。

男の子がいれば“跡取り”があって、財産も扶養も介護も「家」で担えるような時代ではないですね。家産のある家は少ないし、長男だから海外勤務はできませ んなんて会社に言える社会ではない。皇室に家族幻想をみて自分の家族と類推するのは多く女性で、側室なんて肯わないでしょうし、きっと次男の家の跡取りと 長男の家の総領娘とを比べて喋喋と世間話をしだす。「愛子様がお嫁に行って」、公団住宅に住んでスーパーでお惣菜を買う主婦になるのは、国民感情としてい かがなものか、という議論もありそう。

確かに、愛子様の運命の触れ幅は、理不尽までに大きすぎる。このことも、誰かの心をひどく痛めつける可能性があるとすれば、むしろそれにも心を砕くべきであろうし、それもまた政治の領域には馴染まないように思える。

2006 02 11 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

January 25, 2006

DisneyがPixarを買収----白雪姫が心配(まだ言ってる)

Disney、Pixarを74億ドルで買収(R30)」経由で知ったが本日74億ドルでDisneyがPixarを買収したとのこと。JobsはDisneyの筆頭株主になり、10%弱の株を手に入れたとか。しかし、ピクサーの評価額が74億ドルということを聞くにつけ、先日までのライブドアの1兆円近い評価額が如何に異常なものだったかがわかるというものではないか。1株100円になったって、まだ10億株もの発行株数がある。1000億円もの評価があるのだ。確かに現金がある(はず)のだが。

ちなみにUSA TODAYには白雪姫の運命については何も触れられていない。(爆)

【参考リンク】
映画プロデュース会社:取締役の妄想日記

2006 01 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

January 17, 2006

「きっこの日記」面目躍如-----全国紙は冷めたおでんになってしまうぞ。

「きっこの日記」では既に15日(日)の日記「疲れがMAX‥‥ 」で、こんなことを書いていて、ヒューザー証人喚問前日の16日(月)のネタ仕掛けを明らかに予言していたが、果たして16日の記事では「とっとこハムスケ絶体絶命! 」などと題して伊藤公介議員をめぐる疑惑の周辺構図を6本の記事で書き抜いている。基本的論点は

●伊藤公介議員が銀座の同じ住所に2つの会社、「株式会社フューチャービジネスネットワーク」と「株式会社融創国際」を持っていること。

●そしてこの会社の登記簿によると、伊藤元長官の妻や公設秘書を務める二男が役員に就任しており、これが国会議員秘書給与法に反する疑いがあること。

●前者(伊藤議員の三男(26)が経営する会社)はフューザー関係のマンション管理を無免許で経営していたこと。

であり、このポイントは朝毎読3紙とも右に習え。それに引き換え「きっこの日記」の「とっとこハムスケ絶体絶命!」では、これより遥かに詳しく、2社周辺の細かな取材情報を載せている。時間的に他社の報道を見てから流したということでは明らかにない。むしろその逆。「きっこの日記」の面目躍如、スクープといっていいだろう。
しかも、従来ならこうしたスクープはまず全国紙が抜き、その後、後追い記事や補足取材が始まり、週刊誌などで数日から数週間たって、ようやく詳細な2次情報が出てくるものだが、「きっこの日記」の記事は、一気に同日発売の全国紙以上のデータ量を持つものが出てきた。

もちろん、きっこなど当てにならない煽り情報だと呼ぶ者も多い。僕もここでは、信頼性についてこのような記事を書いたことはある。だが今、稀有の現象がメディアの世界に起きていることだけは確かであると言えると思う。

僕はきっこの情報源は、大メディア周辺とほとんど同じ取材源、そして取材者から出ていると考えている。きっこが1個人であるとは思っていないし、その「チームのようなもの」には、他のメディアにも関わっている人物が共通して多数関わっていると思っている。
今回の伊藤議員の関連ニュースを、事前の煽り、証人喚問の前日、大メディアに同日しかも一歩先んじる時間差で、しかも周辺情報含めて絶妙なタイミングで出してくるそのやり口は、明らかに素人の技ではないと思う。

おまけにあの文体である。あの文体がもしも、単なる政治好きの情報通のオヤジ口調だったらブログスフィアの情報の海の中に埋もれていたかもしれない。実際、きっこ並みの情報ソースを持つブログもごまんとあるのである。敢えて「ヘアメイクの女性の聞きかじり」という「床屋談義」を地で行く演出と文体が吸引力を持った。この手口はプロのものだと思う。

問題は、同じような情報源、同じような人間的リソースによって取材されたと思われる情報が、このサイトを通すとなぜかくも鋭く、敏速にネットの世界に流れるか、そしてなぜ、遥かに遅れて大メディアの情報がゆらりゆらりと、半ば冷めたおでんのような、あるいは伸びたラーメンのような愚鈍さで出てくるのか。ここに、既存メディアがインターネットという時代と空間に対峙する場合の限界が、そして無力さがあるように思う。
この無力さが一時的なことなのか、たまたま特異なサイトに対峙したからなのか、それとももっと構造的な問題なのかまではわからないが、自分たちの仕事が冷めたおでんに、あるいは伸びたラーメンになってきていると自覚している者は、斯界にどれほどいるのだろうか。

実際、多くの人がきっこの日記の裏取りを大メディアで確認し、さらに明日(もう今日だ)の証人喚問で確認するのである。報道の構造が過激に入れ替わりつつあるとはいえまいか。

#付記
諏訪湖の事件のことも書きたかったし、ライブドアも大変なことになっているし、一気にいろんなことが起きる日である。

【参考記事】

2006 01 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

January 14, 2006

民主党耐震偽装問題専用サイトオープン-----お疲れ様と今日のところは言っておこう(笑)

idpjnet

昨年のブロガー懇談会の最初の成果と呼べるかもしれないものを民主党が立ち上げた。開設に当たっては、先日の懇談会のメンバーの中で、かなり献身的な尽力をされた方もいたように聞いているのであるがこのへんは割愛。(笑)

サイトは「idpj.net」。システム関連者の中では定評のあるXOOPSを使って、参加性のあるサイトを作り上げ、コメントやトラックバックもフルに近い開放状態であり、今までの民主党のネット関連の施策を見れば雲泥の「冒険的試み」と言っていいと思う。(ただしコメント書くためにはユーザー登録が必要)管理人も民主党側も、コメント欄やトラックバックがどうなるかどきどきしながら見守っている様子がありあり。(笑)
ニュースBlogには耐震偽装問題関連の民主党の発信ニュースが掲載され、現場写真や文書など関連資料もダウンロードができるようになっている。
開設初日でページビューは25000を超え、登録ユーザーは50人を超えたということである。(安曇信太郎の「イヤならやめろ!より)

現在、ブログを政党のウェブサイトで使用している例は三つ。そのうち二つは公明党でもう一つは新党日本である。
公明党は『議員ブログ』という名前で7名の国会議員の日記を掲載している。ところが名前は「ブログ」だが、RSS(注:記事末尾)には対応していない上に、コメントやトラックバックを受け付けていないため、ブログとは呼びにくいものになっている。もうひとつの『公明ロボブログ』は、サイトの更新情報を配信するためのもので、こちらはRSSに対応しているが、やはりコメントやトラックバックは受け付けていない。
 新党日本は、兄弟サイトの『チーム・ニッポン』の中で、田中康夫代表のメッセージ発信用に使用している。しかし、更新は10月末でストップし、管理人がいないためかコメント欄は荒れ放題だ。
民主党が参加型の耐震偽装問題専用サイトを開設/JANJAN

このほかに忘れてはならないのは政党単位ではないが、多くの政治家がブログを公開しているエレログ(ele-log)だろう。先日「きっこの日記」関連で話題を巻いた、民主党の馬淵議員のブログ「まぶちすみおの「不易塾」日記」もここに収められている。やはりコメント・トラックバック欄共に開放されており、見たところ他の多くの政治家ブログも、そうした形では門戸を開いているようである。

政治家ブログ”ele-log(エレログ)”とは、テーマトピックスにそって、意見を綴ってもらい、有権者が比較できることを目指したサイトです。また、政治家の周りに起こった出来事や、スタッフの活動・表情などを、投稿していただくことにより、政治家を、遠くて、自分とは関係のない世界から、より身近に感じていただき、コメントやトラックバックを通じて、意見交換をしていただければと思っております。
 ニュースブログに関しては、トラックバックできませんが、各政治家のブログに関しては、コメントおよびトラックバックが可能です。ご意見がありましたら、積極的にご活用ください。ただし、誹謗中傷や、宣伝のための発言などを防ぐために、一度運用者に閲覧して、公開の許可を出させていただいております。現在のところ、批判もふくめて、多くの方が、そのまま公開を選ばれているようです。(エレログ)

エレログの運営は日栄インテック(株)、(株)イーハイブの 共同運営とのこと。察するところビジネスベースで政治家へのASPブログサービス提案をしたのでしょうね。
何にしても、ネット選挙解禁を控えて今後はどっとこういう動きが顕在化してくるだろう。珍しく自民党に「先駆けて(?)」この分野で一歩を踏み出した民主党に今日のところは拍手。(と珍しく批判に落とさず今日は終わるのであった)

2006 01 14 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

January 11, 2006

ナベツネに何が起きているのか(2)----老人の繰言か、言論クーデターか。

それにしてもうまいことを言う人がいる。

衰退凋落著しい朝日新聞とはいえ、世間では「水と油」「源氏と平家」「清水の次郎長と黒駒の勝蔵」ひところまでの「巨人と阪神」に「鹿島アントラーズとジュビロ磐田」の関係とイメージされている朝日新聞の論説主幹と読売新聞の主筆が対談し、しかも、その朝日新聞の論説誌で持論を展開した渡辺氏の戦略は悪くないと思う。単体で客を呼べなくなったプロレスラーが他のプロレスラーとセットで(しかも、過去の遺恨などの<物語>を付加された上で)興行するのと同じである。(渡辺恒雄氏(読売主筆)が朝日と「共闘」宣言?/松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG

その老朽の「鹿島アントラーズ」(?)は言う。

渡辺
「僕は、首相候補の1人である安部晋三さんとは仲がいいんです。だから安部さんに、「僕は靖国公式参拝には反対ですよ。それ以外の点では、あなたにはずいぶん期待するんだけれども、この1点だけは妥協できない」と話した。安部さんに会うと「わかってます」と言うんだけどねえ」

「分祀と言うのは本当によくわからない話なんだ。合祀と言うのは「座」というけれども、いわば座布団の上に名簿を持ってきて、祝詞か何かをやると、その霊が全部その中に入ってしまう。いったん入った霊を、A級戦犯の分だけ取り戻すということはできないんだという。それは、瓶にある水をちょっと杯に入れて、それでその杯の水をもし瓶に戻したら、その杯分の水だけを瓶から取り出すことはできないじゃないかというような理屈で、今の宮司の南部利昭さんが言っている。」

「これは、神道の教学上の理由だそうだ。しかし、南部さんの言っている神道の教学というのは、明治以降の国家神道。廃仏毀釈をし、国教は神道だけだ、ということをやってできた国家神道の教学だ。そんなもののために日本の国民が真っ二つに割れて、さらにアジア外交がめちゃくちゃにされている。そんな権力を靖国神社に与えておくこと自体が間違っている。」

ここで元電通マンの宮司・南部利昭について少々。

南部利昭は、平成16年9月12日付で靖国神社の宮司に就任している。電通に23年間勤務したという異色の経歴の持ち主で、南部家第45代当主。靖国神社宮司はほとんど旧華族出身者が就任しており、南部氏は9代目に当たる。靖国に祀られている1人には、日露戦争で1905(明治38)年に戦死した42代南部利祥がいる。南部氏は就任に当たって「没後100年ということで、宮司就任に浅からぬ因縁を感じている」というコメントを出している。

また毎日新聞のインタビューに答えて南部氏は以下のように述べている。

--中国が求めているA級戦犯の分祀(ぶんし)についてどう思いますか。
○分祀はあり得ない。他の神社で祭神が気に入らないから、替えてくれとは言えないはずだ。東京裁判で連合国がA級、B級などと決めたもので、一緒に日本人が言うことはない。(終戦記念日に行う)全国戦没者追悼式には、いわゆるA級戦犯らを含んでいる。天皇・皇后両陛下、首相も出席するが、誰も文句を言わないではないか。
--戦没者追悼目的の「国立無宗教施設」構想をどう考えますか。
○靖国神社が戦没者を祭る日本の中心的神社との考えが定着しており、全くナンセンスだ。若い人に靖国神社というものを教えていかなければならない。「靖国に行くな」とか営業妨害はやめてもらいたい。(毎日新聞:インタビュー記事「靖国神社第9代宮司の南部氏に聞く」(2004/12/29)より)

営業妨害かい。(笑)

渡辺氏の説明と近い次のような記事もある。
奇しくも分祀に関する中曽根氏と渡辺氏の意見がぴったり一致していることが、わかる。

この中国の意向に沿って出てきたのが、A級戦犯を靖國神社から切り離すという「分祀論」。しかし、靖國神社は、「分祀は不可能」という。一度、神社に祀られた英霊は、ひとつの神霊となり、仮にそれを分霊したとしても、元の神霊は変わることなく神格を有するというのが、神道を支えてきた信仰だというのだ。たとえるなら、水を張った瓶の中にコップ1杯の水(A級戦犯)をいったん加えてしまったら、以前のコップの水だけを再度分離させることはできない、という理屈だ。
 対して、そもそも靖國神社は神道古来の伝統に沿って存在してきたわけでなく、明治初期に人間がつくった神社の仕組みなのだから、修正できないはずがないという唯物的な意見もある。元祖・分祀論者の中曽根康弘元首相も、分祀に反対する靖國神社に対して「神主さんの視野が狭くなった。昔のように、もっと大らかな神道に返ったらどうか」と、靖國神社の杓子定規な姿勢に意見を述べている。(サイゾー2005年8月号/分祀を許さぬ靖国神社の事情・元電通マン宮司の苦悩とは?

本論へ戻ろう。この後、対談では憲法9条解釈についても若宮と渡辺が意見を交わしているが、あくまで「軍」ではない現行の自衛隊の呼称にこだわり、9条問題に慎重な見方をする若宮に対して、渡辺は「軍は軍なんだからごまかしてはいけない。自衛隊と言ったら平和で、自衛軍と言ったら侵略的になる。そんな馬鹿な話はないでしょう。」と応じて朝日の見解とは一線を引いている。しかし朝日・若宮からも「憲法改正問題は、僕らも昔のように憲法9条を守ることがすべてであるとは考えていません」と言う言葉を引き出している。

また、国歌・国旗に関しては日の丸は支持するが、君が代は

渡辺
「国歌である君が代は文章が古臭いし、曲が悪い。あれは明治時代の雅楽でしょう。国民を躍らせるような曲ではない」

として

「もしどうしても国歌を変えられないというなら、国民歌というのをつくったらどうだと思う。もっと躍動するフレーズ。メロディのいい、心躍るような国民歌をつくって、それにふさわしい歌詞を公募してつくるべきだと思うんだよ。いつかやりたいね。」

と続ける。

最後に若宮が
「もちろん読売新聞と朝日新聞は違う主張をした方がいいんですけれども、やはり健全でリベラルな主張を争うことができればいいですね。」

と挑発(?)すると

渡辺
「いや、それはもう、言論の自由とか言論の独立を脅かすような権力が出てきたら、読売新聞と朝日新聞はもう、死ぬつもりで結束して闘わなきゃいけない。戦争中にそうしていれば、あそこまでひどくならなかったと思うんだよね」

さすがに若宮もこれには

「いや、本当にそうですね」

と応じざるを得ない。

さてさて、我々の前にいるこの渡辺氏はあの強面の、Wikiでまで罵倒されるあのナベツネであろうか。こんなに物分りのいい人物であればなぜ、言論界の諸悪の根源、反動の代表とまで恐れられたのであろうか。老人になって焼きが回ったとか、やっぱり正体は根っからのマルキストであるとか、靖国の問題がいよいよ、にっちもさっちもいかなくなり、青年の時の「理想主義」が目覚めたのだとか、いろいろ言われているが、ここは注目点としてやはり2人の人物への微妙な距離感を、渡辺が保っていることに注目したい。

1人は言うまでもなく中曽根氏
。古くから旧交があり、中曽根政権誕生時にはなりふり構わず応援した中曽根氏との、強い繋がりは、今でも健在であることは発言の諸所で知ることができる。
昭和60年8月15日に中曽根康弘元首相は靖国神社に初めて公式参拝した時にアジア諸国から猛反発を受けたので、翌年から参拝をとりやめ、その後の歴代首相も参拝を控えたとされているが、これは

中曽根首相本人の証言によると、自分の靖国参拝問題が、中国国内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという暗示を受け取り、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」から参拝をやめた。(「私が靖国神社公式参拝を断念した理由」 正論 平成13年9月号)

中曽根にしてみれば、現在の小泉首相の行為は自らが「泥をかぶってまで」中国の顔を立てた自らの努力を無にされるものと映っており、それが渡辺にも影響を与えているのではないか。
また2005年6月には中曽根はフジテレビでこのように発言している。

靖国神社に代わる新たな戦没者追悼施設について「前から反対だ。靖国神社は国のために死んでくれた人をお祭りしており、寂れることは絶対避けねばならない」と述べ、反対の立場を明確にした。
(しかし)小泉純一郎首相の靖国神社参拝については「(現状では)国益に反することになる。(第二次世界大戦の)A級戦犯の分祀(ぶんし)ができないなら休んだ方がいい」と改めて自粛を要請。ただ、東京裁判自体ついては「私は(正当性を)認めない。A級戦犯と言われる方々が、犯罪とか罪という考えは毛頭ない」との認識を示した。(靖国参拝と国益/誰がため 戦った~Qの日記~より

微妙ではあるが、中曽根は小泉の靖国参拝について国益擁護の立場から、中途より批判的立場を強めている。

そしてもう1人は、ポスト小泉最有力とされる安倍晋三との関係。
小泉が9月以前に靖国に関して画期的な「譲歩」をしない見通しが強い以上、中韓との外交関係が画期的に好転するとは当分考えられず、勢い次期総理の呼び声が高い安倍にその後の「処理」が求められるわけだが、安倍は靖国参拝を続行しかねない様子を漂わせており、ここに渡辺=中曽根ラインは強い警戒心を持っているのではないか。

自民党内の「鷹派」の代表としての安倍の靖国神社、軍事、安保問題においての保守、強硬な態度は、アジアの隣国の心配を引き起こすことになるだろう。彼は日本政府内の強硬な鷹派の人物であり、小泉の靖国神社参拝の熱烈な支持者である。安倍晋三は再三歴史問題を「日本内政への干渉」などとして中韓を攻撃し、米日同盟の強化、日本憲法の修正を主張している。日本政府の右傾化の中堅の人物である。(北京青年報 2005年11月01日

渡辺の中国へのスタンスは今回の対談からでは微妙に読み取れないが、中曽根の意向をあるいは他の自民党の政治家の意向を踏まえつつ、安倍政権への牽制に動いている可能性が見える。

渡辺は対談でも「国立追悼施設を考える会」をベースに、山崎拓、福田康夫、加藤紘一、民主の鳩山由紀夫、公明党の冬芝鉄三の名を引いて、

「・・・さんとかが、同じ目的で集まっているんです。だから、僕は靖国参拝に固執する政治勢力は、やがて少数派になり孤立するんじゃないのかなと思った」

と評している。

渡辺が青年期の「理想主義」を取り戻しつつあるとは、とても素直に見て取ることは出来ず、これらの人間関係を見るとき、ポスト小泉に向けて靖国を政争化される可能性が、みてとれるのであり、渡辺が老いたりとは言え、こうした動きのデマゴークとして、朝日をもツールにして大仕掛けに出てきている可能性はある。
戦争責任の追及に関しても、これら政治的思惑のポーズとしてしか僕には感じることはできず、僕が「青年のときなら」感動したかもしれない渡辺の方向展開にも、素直な情は寄せることができない。

小泉以後を睨んで、朝日をも「利用」して、腐っても1,000万部の読売新聞上での戦争責任の追求と言う禁じ手まで動員して、保守派の「言論クーデターの試み」が静かに進行しているように思えるのであり、裏に中国の影も感じる・・といっても陰謀史観ということではなく、日中関係の過度の緊張を望まない勢力は当然中共政権にも存在するであろうから、このへんは何も不思議ではない。

小泉氏はアジア外交を完膚なきまでに破壊し、靖国を外交問題化させたが、これを収拾しないことには対中経済交流も進まない。日本国内の企業はみなやきもきしている。一方で北京オリンピックに向けていつまでも対日関係がこのままでは済まないだろう、と考える一派は中国にもいるはずである。(それが胡耀邦ルートであるか否かはわからないが。)
米国も最近靖国問題の深刻化に懸念を表明しており、これも中曽根・渡辺の動きとあわせて、微妙にこの問題に影響を与えていることも感じられる。

今回の対談を、一時的な「老人の繰言」として渡辺恒雄を無視することは簡単であるが、穿った見方をすると今年から来年にかけての、保守陣営でのかなりの駆け引きの萌芽を見て取ることも可能なのである。

さあ、どうなる。

【参考記事】
ナベツネに何が起きているのか(1)----靖国で朝日と共闘宣言

2006 01 11 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

January 10, 2006

ナベツネに何が起きているのか(1)----靖国で朝日と共闘宣言

ronza

論座の2月号で驚いたのは、次の2名の対談記事。

若宮啓文(朝日新聞 論説主幹)
渡辺恒雄(読売新聞 主筆)

タカ派論客と見られている読売新聞主筆・渡辺恒雄氏の発言が目立っている。首相の靖国神社参拝に強く反対し、A級戦犯に限らず関係者の戦争責任をはっきりすべきだと訴えるのだ。
憲法改正問題をはじめ、多くの問題で主張が真っ向から対立する読売と朝日だが、果たして「共闘」は可能なのか。両社の社論の責任者が徹底的に話し合った。

というのが記事冒頭のリード。
※ちなみに「論座」は朝日新聞社の発行ですから。言うまでもない人もいるであろうが。

ここで渡辺恒雄という人が、大学時代に共産党に入党して後に除名されているという事実も考えておくほうがいいだろう。戦時中に共産党に所属してその後方向性を180度変えた財界・言論人は多いが、渡辺氏もその1人として有名(だと思うんだが)である。
但しWikipediaによると、

1946年 天皇制への嫌悪から日本共産党に入党。
1947年 組織のために個人を犠牲することに疑問を抱いて本部を批判、日本共産党を除名される。ただし、日本共産党には除名したという記録は一切ない為、離党して“除名された”と自称していると思われる。

と記述されている。

読売新聞に入社後の歩みは一般的にはかなりよく知られていると思うが

東京大学を卒業後、読売新聞社に入社。週刊読売(現読売ウイークリー)記者を経て、政治部記者となる。警察官僚出身の社長正力松太郎の目にかなって、自民党有力政治家の大野伴睦の番記者になり保守政界と強い繋がりを持つようになった。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている。大野の死後は中曽根康弘と接近して、今日でもその親密ぶりはよく知られている。

1977年渡邉は編集局総務局長待遇に就任する。1977年2月18日付社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いたが、1981年7月8日付紙面では一転して二審判決の統治行為論を支持し裁判所の政治介入を制限する主張にシフトした。渡邊の主張を取り入れ読売新聞が中道から保守・反共に傾いていった結果だとされている。しかし、このことが読売新聞発行部数1000万部へと押し上げ近年では、常に将来の国家像の提言を積極的に行うなど政治家、経済界、評論家、海外メディア、読者などあらゆる方面から支持されている。

1981年取締役論説委員長に就任した渡邉は、1984年からの元旦社説を自ら執筆した。その間、渡邉と意見を異にする論説委員の黒田清・山口正紀らが退社に追い込まれたという(渡邉恒雄氏におけるジャーナリズムの研究~前澤猛~から)。1987年元読売新聞社会部記者のジャーナリスト大谷昭宏は、渡邉が政治部の強権政治を強め社会部を迫害し始めたため読売新聞を退社した。
(以上Wikipediaより・太字はBigBang)

学生時代に、読売新聞のマスコミ塾のようなものを受講したことがあるけれど、講師は当時「取締役論説委員長」だったナベツネだった。講義の殆どが朝日新聞や共産党の「悪口」でこの人物の印象は極めて悪かった。その時だけではなく今に至るまで良かった試しはないが)ちなみに読売新聞は父が勤めていた会社でもあるので、僕は、会社のイメージを客観的に語れる心理状態には(おそらく今でも)ない。中曽根政権誕生時のナベツネの「暗躍」についても、父から耳にした誠しやかな話はいくつかあるが、それは書くことは控えておく。

で、ナベツネである。
対談記事について先を続ける。

渡辺
「僕は学生時代から本当に反戦を主張してきました。先の戦争で、何百万人もの人々が天皇の名の下で殺された。僕も徴兵され、二等兵でしたが奴隷的に酷使された。」


「戦時中の体験もあって、そういうことを命令した軍の首脳、それを見逃した政治家、そういう連中に対する憎しみがいまだに消えないですよ」


「以前、靖国神社が読売新聞に全面広告を出したいという話があって、僕はちょっと待ったをかけたんだ。ところが、うちは以前、靖国反対の意見広告も出していた。そうすると、新聞としては片方だけというわけにはいかないので、載せました。
しかし、社の主張ははっきりしている。だから、読売新聞は2005年8月13日の紙面から、靖国参拝問題の前に、戦争責任の所在を明らかにすべきだというキャンペーンを始めました。」

ここで注目すべきは、渡辺の主張は単に靖国神社への首相参拝反対に留まらず、「戦争責任の所在」を明らかにすべきであるという主張にまで及んでいるということだ。これには朝日の若宮もこのキャンペーンには「びっくりした」と応じている。


若宮
「偶然ですが朝日新聞も同じ日の新聞に、作家の半藤一利さんに戦争に至る過程を1ページつぶして書いていただき、掲載しました。そしたら読売新聞が「戦争責任を明らかにする」というシリーズを始めたので大変びっくりしました。」

渡辺によればこの読売新聞の戦争責任を明らかにする」キャンペーンは1年間続けるという。「2006年の8月15日をめどに」「軍、政府首脳らの責任の軽重度を記事にするつもり」だという。靖国参拝に関しては「中国や韓国が反対しているから」やめるというのではなく、殺した人間=A戦犯と被害者とを区別するべきだという論点を提示している。加害の責任の軽重をはっきり判断してから、歴史的にそれを検証して中韓に対して「彼らが納得するような我々の反省」が絶対に必要だという。若宮でなくても耳を疑うような発言である。

若宮
「天皇は四半世紀以上、靖国に参拝していない。晴れて追悼に行ける国立施設が必要だ」


に関しては個人的にはまさに賛同するところであり、今までもここでいくつかのエントリーで言及してきた通り。靖国という一宗教団体が、国家リスクの元凶になっていると僕は考え、国立施設の必要性を感じているのだが、渡辺はこれに対して「まったく同感である」としている。

南京大虐殺に至っては

若宮
「南京大虐殺の数字が、中国のほうではどんどん膨れていくわけです。今、30万人ですよね。南京虐殺は確かにあったが、30万人と言われるとちょっと首を傾げたくなる。」

に、渡辺は当時の兵器の性能から30万人は無理だろう、とした上で

「ただ、犠牲者が3千人であろうと3万人だろうと30万人であろうと、虐殺であることには違いがない。」と返し、若宮から「どっちが朝日新聞かわかりません(笑)」と返されている程である。

いったいナベツネに何が起きているのか。保守の強靭なバランス感覚による一種の言論クーデターではないかと僕は考えるのであるが、それは次編で。

対談の後半を検証する。(ナベツネに何が起きているのか(2)----老人の繰言か、言論クーデターかへ)

2006 01 10 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

January 04, 2006

世耕vs鈴木vsひろゆきネット選挙座談会---茨の道でも進むしかないのだ

元旦の毎日新聞は面白い記事が結構出ていたのだけれど、その中でこれについて手短に。

●ネット選挙:政治は変わる?3者座談会 世耕弘成氏/鈴木寛氏/西村博之氏(2006年1月1日 毎日新聞)(ネットにはサマリーだけがアップされている)

昨年9月の衆院選で大勝した自民党がインターネットに注目したこともあり、公職選挙法を改正してネットによる選挙活動を解禁する動きが一気に加速してきた。果たしてネットは現実の政治を変える力を持つのか。ネットにかかわりの深い自民党の世耕弘成参院議員と民主党の鈴木寛参院議員、巨大サイト「2ちゃんねる」管理者の西村博之氏に聞いた。(同上)

世耕氏の説明は要らないだろう。自民党のネット化の核になっている人物。民主党の鈴木寛氏は僕が参加した、先日の「民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム」でも第2セッションで抜群の切れ味を見せていた御仁。ひろゆき氏は・・これもいいね。説明不要。

世耕

○良くも悪くもパンドラの箱を開けてしまった(笑い)。自民党がブログに注目し、ブログの人たちを記者扱いで招いて、武部勤幹事長という党のトップが対応した。そのことに非常に注目が集まった。我々としてはブログを政治メディアとして結果的に大きく前進させてしまったのかなと思っています。

鈴木 

○ややお株を奪われてしまったというのが率直な感想です。元々民主党にはインターネットを日本の民主主義のインフラとして積極的に位置づけていこうという議員が多く、ネットを公選法で解禁しようと1998年から3回法案を提出してきた。従来、ネットの積極利用では一定の評価を得てきた。逆に今回自民党さんが重い腰をやっと上げて、ネットに対するスタンスを変えてきた。民主党がネットと言ってもニュースにならないけれども(笑い)、自民党がネットと言うとニュースになる。ネットに精通した議員が多い半面、党全体としての対応は十分でなかったかもしれません。


世耕氏の開催したブロガー懇談会は、その内容はともかく、非常にimpressiveであったのは確かで、あの会を先に開かれてしまったことで決定的にネット選挙化の主導権をとられてしまったのは事実。鈴木氏は民主党との我々の懇談会には顔を出しておられなかったが、現在は民主党のインターネット選挙活動調査会長を務める。元通産省課長補佐・慶応大学SFC環境情報学部助教授ということで、ネットに関して世耕氏に対抗できる民主党の人材としては、おそらく最有力にいる人物だろう。
その鈴木氏をもっても、コメントは引き気味。民主党の「ネット選挙」に関する早期からの取り組みを強調はするが、そこまでで精一杯の印象。

「民主党がネットと言ってもニュースにならないけれども」(鈴木)

そうじゃなくて発信の仕方が悪いからニュースにならないのだ。民主党であることだけが理由ではない。党全体の対応の悪さは認めておられるとおり。

公職選挙法に関して言えば、ようやく改革の機運が高まってきたけれど、元来法廷ビラ以外の「選挙活動のための文書図画の頒布」を禁じた142条を拡大解釈して、「選挙期間中のホームページの更新」を禁じた総務省解釈は、拡大解釈かつ乱暴解釈もいいところ。日本の法運用には、しばしばこうして行政が勝手に解釈した法解釈が、あたかも立法されたもののような重みをもって場当たり運用される傾向がある。民主党はここを突いていくべきであったと思う。片端から違法訴訟していくこともリスクはあるのだが、法解釈がもう一度司法の場にもっと早く戻されるべき問題だった。

面白いと思ったのはひろゆきの以下の発言。

西村
 

○けっこう悲惨なことになるという予測もたつ。政治家がブログをやってました。そこにコメントが書けます。例えば、明日投票日という時期に「○○さんは調査費を暴力団に寄付していたといううわさがあります」と書かれたとするじゃないですか。それが明らかなウソじゃなかったとしても、情報は瞬時に広がり、いちいち否定することが出来ないんですよ。


○30年というスパンで考えれば、リテラシーが十分についてくると思いますが、リテラシーがつくまでの過渡期に被害者がいっぱい出てくると思うんですよ。公選法でネットを解禁にしても、たぶん最初の10年くらいは「あいつらが促進したんだ」とたたかれると思う。「解禁しなければ、こんな変なトラブルを抱えなくてすんだのに」みたいな。茨(いばら)の道ですから、推進している人たちにがんばってほしいと思いますけどね(笑い)。30年間我慢する決意をすれば、30年後の政治家は感謝すると思います。

「30年我慢しろ論」。
「地獄の2ちゃん」の管理人の言葉には重みがあるぜ。

対して

鈴木

○真のネット社会を作りたいと思って政治の世界に入ってきてますから。西村さんがおっしゃる「30年間茨の道を歩む」覚悟はできてます。

頼もしいお言葉。その力強さを実務に反映させてくださいね。鈴木議員。

世耕

○戦後60年間、大マスコミが中立的に報道しているんだという信用を築き上げてきた。選挙の情報はマスメディアから取るのが一番信頼できると。ネットに流れる情報はどちらかというと候補者や政党の大本営発表、あるいはちょっと辛らつな誹謗中傷であったり、あんまり信用できないような空気が長く続いてきたんだと思う。このためネットと政治のつながりが花開くのに時間がかかった。でも、だんだん使い方が分かってきて、静かな形で花が開いてきている。

○基本は政治の意思、政治が動くということが大前提。政治がその気になってネットを使いこなせるかどうか。動かない政治に対してはネットの世界から批判が出てくる時代になっている。

とにかく少なくともこの3名(含ひろゆき)は本気であることはわかる。どれだけ「茨の道」があろうと前に進んでいくしかない、後戻りができないのは確かであって、必要なのは知恵と工夫と根気と才気。公職選挙法改革は官僚ではなく政治がリードして、よもや官僚にミスリードさせるようなことを再現させてはいけない。

【参考記事】

2006 01 04 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

December 31, 2005

誰がルールを決めるのか?----オーバーチュア問題と「公共性」

先のエントリーに関連して「踊る新聞屋-。」さんの「IT企業の非公共性が中国的ネット社会をもたらす可能性はないか、というメモ~googlezon、最良の、そして最悪の時代」

「ユーザーにとってそこは、完全なブラックボックスなのだ。と思っていたら、<繰り返すが検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。=BigBang:オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について>だそうな。」

とコメントしていただいた。同サイトにはコメントを返しておいたけれど、Yahooには当局に協力して特定の事件における人名の一部を検索インデックスから外した事例がある。また最近ではある皇族と婚姻が噂された特定の人物の名前を、特定の時期まで検索インデックスから明らかに外していた。「★阿修羅♪の日記」からは

★阿修羅♪サイトは、現在全面的にヤフー八分になっています。
どんな単語を検索しても、ヤフーでは絶対にヒットしません。

との話が寄せられている。

Googleでのこうした規制の具体的な実例は知らないが、同社がSEO対策と称して、その検索テクノロジーのインデックスの優劣基準を、定期的にかつ「恣意的に」変えていることは、同社がセミナーの場などで正式にインフォメーションしており、SEO関連に関心のある企業は皆知っている。そうした両社の状態を私は「検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。」と表現した。

要は問題意識の根幹のところは共有しているということなのである。共有した上で、広告相手との契約相手の選択の自由という「私権」を、これら「恣意的な」(仮にそうであったとして)検索表示方法をなしているネットのガリバー企業に「表現の自由」という観点から、法廷論議で展開することには違和感がある。というのが私の先の2エントリーの立場であり、それは変わらない。
神保氏のコメントには、少なくともこの法廷闘争を「全く話し合いのテーブルにつかない相手」に対する、止むをえない対抗手段であることが明記されており、その自覚の明確さはよくわかるし、そうした方法をとられたことを全面批判するものではない。

だが、この「相違の意識」があるのかないのかは、この問題を如何に深く考えうるかの、試金石になっていることも事実であると思う。そうした意味で、やはりヤメ記者さんの最新の記事「公衆浴場よりも表現の自由の場の方が公共性は高いのでは?」の以下の記述にはそれらを峻別して論じる姿勢が欠落しているように思われる。

なぜ話を

「広告掲載の拒否」→「危険なネット企業による横暴」→「表現の自由の侵害に自覚せよ」→「公共性を守るための(当局による)内容規制」

というスキームで展開しなければならないのか。

BigBanさんが引用するサイトには【gooleやyahooは、検索における「支配者」であり、そのルールは神聖不可侵なのだ。その上で決められた「遊び=検索上位」をするだけ。】とあるが,表現の自由の優越性を理解していない発言ではないでしょうか?表現の自由は,「支配者」の掌で飛び回る孫悟空であってはならないのです。(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士


さよう。その通りである。では

「表現の自由」は「為政者という支配者」の掌で飛び回る孫悟空であれかし

とお考えか?支配者にはGoogleでもYahooでもなく司法を、あるいは国家を置けと?

例えば,NTT以外の企業が通信事業に参入する際,NTTの回線が使われた。であれば,ヤフーの検索システム上の検索連動型広告スペースだって,門戸を開放させるべきではないか?それは新たな立法を伴うかもしれないが,公共性の高さからは必要な枠組みづくりではないだろうか?そうでなければ,やはり,違法な広告など一部の広告を除いて全て掲載するような法的枠組みを作るか?(同上)


NTTの通信回線は「解放されなければ」他の如何なる企業も通信事業に参入することはできなかった。だがネットは違う。今であっても、GoogleやYahooの「許諾」をとることなく、これら以上に強力な検索の仕組みを作ることは、少なくとも可能であるし、そうした試みもなされている。

さらに別の視点がある。そもそも、ここで問題とされる「公共性」とは何か?私たちの国は国家による何らかの規制を完了した状態を「公共性が確立された状態」と呼び、「完全に商業的に自由化された社会」を「公共性が未発達な未熟な状態」と、勝手な幼稚思考に嵌っているのではないか?

「404 Blog Not Found」では、この点に注目して、公共性への無自覚な傾倒に批判の論を展開している。

要は「おまえらは公共の何たるかを知らないのだから、おれ達に従え」という響きである。
そのかつて「メディア」に「免許を与えて来た」者達は、公を担うにふさわしい行為を行動で示して来たのだろうか?少なくともGoogleがいうところの"No Evil"のEvilが彼らのEvilとは異なることだけは確かだ。

そして「既存メディア界に存在している」「原罪感」の由来は、本来彼ら自信が確立すべきであった「公」を、「為政者」という「他」が与える「免許」にまで矮小化してしまったことにあるのではないか?
「免許?誰が出すんだそんなもん?(404 Blog Not Found)

公共性が確立された、あるいは「公共的なことが求められてそれが実践されている企業のモデル」は一体どこなのか?NHKか?読売新聞か?フジテレビか?
彼らのどこが「真に正しく公共的」であったことがあるのだろうか?まさかあの「放送法」や「記者クラブの」を指しているのではないだろうね?

さてそこでこの人のエントリーだ。

踊る新聞屋さんは

    さて、すべてのネットユーザーはそろそろ、サイバー社会の公共性を考える時期に来ている。政治体制を問わず、為政者は常に、言論・表現・報道の自由を規制したがるものだし、表現者の行動を監視したくなる衝動に駆られているのだから。

と書いていますが、それはメディアのパワーと危険性をある程度理解している私には伝わりますが、果たしてネットメディアにかかわる人たちやエンジニアには伝わるのか、疑問があります。「ザ・サーチ グーグルが世界を変えた」を読めば理解できると思いますが、グーグルの検索結果で誰かが傷つこうとも、彼らは「どうってことない」と思っている。ある種、既存メディア界に存在している「原罪感」はありません。「私たちはメディアパワーを持ちたいと思ってやっているわけではありませんから」と真顔で発言したりします。ある種「無邪気な善意」がネットの世界を覆っているのです。彼らは無免許の運転者ですが、それは善意ゆえに、その危険性を伝えることは困難が伴います。
(「ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない。(ガ島通信))

「メディアのパワーと危険性をある程度理解している私には」伝わるが「既存メディア界に存在している「原罪感」」を欠如した「無邪気な善意」を持つネット企業には伝わらない。だから「既存メディアで原罪感を持ちえた」人の忠告に従えという。
ああ、まただと思う。また弁当論争と同じ話であり、この人=ガ島氏の論点は結局のところ、そうした「自分が身を置いた腐ったメディア」へのトラウマ感から一歩も出ることは出来ないのだと思う。

今求められているのは、既存メディアが作り上げた(あるいは作り上げることすら出来なかった)「エセの公共性」にこれら新興企業を委ねることではない。あなたたちが、あるいは私たちがこれら企業に対して「真の公共性」を求めるとすれば、それはぎりぎりまで、私たちと彼らの主戦場であるこのネット空間での攻防でなされなければならないのではないか。ネットは国家が独占する電波ではない(今のところは)。全国津々浦々まで張り巡らされた新聞配達店の流通網も存在しない。そしてあの忌まわしい記者クラブも「まだ」ない。

公共性の確立に果たすべき国の役割を無視しようというのではない。しかしそれは、ぎりぎりのところでなされるべきことであり、日々、時の政権からの大本営発表を無自覚に垂れ流す旧メディアや、国民の生命と財産を直接脅かす建築業界などでこそ、まず整備されるべきであり、ネット上の言論を中途半端な状態にしたまま、これら新興企業の首を「国家」に差し出すのは如何にも我らの軽慮の謗りを受けないか。

そして、「404 Blog Not Found」の以下警鐘には深く共感する。

だから、本当に怖いのは、彼らの「無邪気な善意」ではない。彼らが「免許」の力に目覚め、自ら「免許」の発行に乗り出し、それが旧来の免許と置き換わることなのだ。
すでにMicrosoftやCiscoやOracleは目覚めている。彼らの発行する資格は「公的」には紙切れだ。しかしすでにそれを持つ事による職業的優位を確立しつつある。もしYahoo!やGoogleが「免許を持つサイトのみインデックスします」と言ったらどうなるのだろう?
無邪気な無免許者の方がまだましというものではないか?
(太字はBigBangが付与)

【参考記事】

●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について
●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴---試練はマーケットが加えるべきであろう。

【参考リンク】

●IT企業の非公共性が中国的ネット社会をもたらす可能性はないか、というメモ~googlezon、最良の、そして最悪の時代(踊る新聞屋)
●公衆浴場よりも表現の自由の場の方が公共性は高いのでは?(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
●免許?誰が出すんだそんなもん?(404 Blog Not Found)
●ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない(ガ島通信)
●★阿修羅♪サイトはヤフー八分になってます(阿修羅♪の日記)

2005 12 31 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

December 30, 2005

オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について

おそらく先の記事を読んで、こちらから批判的トラックバックをいただいたと思うので、この問題をもう少し論じる。

今回の問題は日本ビデオニュースが、オーバーチュア社から、検索連動型広告の掲載を拒絶されたということである。その結果、日本ビデオニュース社の検索連動広告が、最初は特定のキーワードから表示できなくなった。ついにはサイト全体に対して、「広告主として不適格」という判断をオーバーチュア社からされたことにより、終には全く検索表示広告が表示されなくなってしまった。

前のエントリーにも挙げたように、ここで僕は了見の狭いオーバーチュア社に味方をする気はない。ないが、日本ビデオニュース社の「表現の自由」が侵害されたとまでは言えないと思う。その根拠は

●トラックバック先で引用された、「交通事故により受傷した救急患者の治療を拒否しその後患者が死亡した場合において、診療拒否に正当事由がないとして市に不法行為責任が認められた事例」「公衆浴場が入場拒否して違法とされた事例」と、インターネット上における検索広告とでは明らかに公共性の度合いが違う。例示された2例はいずれも契約を拒否されることで、生存権や生活権の根本を脅かされる重大な権利侵害が生じるが、本件では広告契約を拒絶されただけであり、権利侵害の重大度が違う。これらを一緒に言及することは乱暴ではないか。
そもそも、日本ビデオニュース社は、単に検索サイトへの広告契約を拒絶されただけであって、インターネット空間に自説を発信する権利そのものはなんら侵害されていない。

→もしも日本ビデオニュース社の方針に不安を感じるプロバイダーが、同社のサイトを閉鎖したとすれば、同社はその意見表明に圧力をかけられ、発信手段を封じられたことになり、そのプロバイダを相手に「表現の自由」を事由に契約の続行を迫ることが出来ると思う。しかし、その訴訟ですら有効であるかどうかもわからない。プロバイダーの「私権としての契約の自由」と、ビデオニュース社の「表現の自由」とが均等な立場で争うことができるかどうかは疑問である。なぜなら、同社は自社サイトを作るなどして、他の手段で緊急避難を行い、インターネットに発信を続けることが可能だからだ。ただそれには費用がかかるだろうし、他のプロバイダを探しても軒並み右に並えをされたらどうなるのかという危惧は残る。その場合に「表現の自由」を論拠にプロバイダーを相手取って訴訟を行うことは、理解できる。

→ところが、本件では、「検索型広告を発信する」ことが阻害されただけであって、即同社の表現の自由が阻害されたわけではない。同社は、他の方法で宣伝活動を行うことは可能であるし、サイトの情報の発信をなんら阻害されずに続けることが出来る。有効な広告を制限されたことで不利益は生じているかもしれないが、それは広告代理業を営むオーバーチュアの方針という私権に明らかに優越するほどの重大な権利侵害が起きているようには、僕には感じられない。

このサイトではSEOの観点から、ビデオニュース社に対して重要な提言をしている。これらの施策により、ビデオニュース社は有料広告の契約を結ばずしても、自己努力でYahooあるいはGoogleで上位の検索順位を獲得できる可能性を残している。

●YahooやGoogleのような「高い公共性を持つ」企業が検索画面で特定サイトを上位に置く、あるいは下位に置くことで情報に対して実質上「恣意性」をもつことの危険について

→今回の問題はあくまでも、「検索型広告」に関してなされた扱いに関する訴訟であり検索結果において、日本ビデオニュース社が明らかに不利な扱いをされていると(思われる)いうこととは、また別の問題である。オーバーチュア社はYahooの子会社であるが、別会社であり、Yahooの検索結果表示方式と高い連関性を持つことは想像できるが、関連性に関して訴訟を見る限り、明確な立証はされていないと思う。先のSEO施策で解決する問題である可能性も残っている。

→元来、システムとして如何なる方策を施しても、「平等な」検索結果表示なるものを実現することは不可能であり、そこに何らかの運営側の「恣意性」が入ることから逃れることはできない。特定のサイトの検索結果が低い、あるいは検索結果表示がされないことを批判するなら、では全てのサイトを検索表示しなければいけないのかどうか。その基準(有害性や万人に供すための的確性)は法的にどのようにあるべきと判断させるのか、その根拠は何か。

繰り返すが検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。それは批判的言論にさらされることは構わないのであって、むしろさらされるべきであると考えている。広告契約に関しても、もしも日本ビデオニュース社の主張通りであるならば、その稚拙な企業姿勢が批判されるべきである。ここに関して異論はない。

しかしながら、これらを「表現の自由」に関連させて法廷での議論に乗せようとすることには非常に無理を感じるし、その必要もないのではないかと思う。もしも今回の事件が、広告代理店が「表現の自由」を侵害したという判例として残れば、今後問題のあるような企業の広告に対しても、判例を根拠に無条件に応じなければならないという、逆に触れた、誤った運用がなされる危険はないのだろうか。

また、「インターネットがパブリックフォーラムであるべきだ」という主張には賛成であるが、それを法の運用で実現しようとすれば、別の問題が生じる可能性があり、一概に法廷で警告を発すべき事柄であると断じるには、危険を覚える。
インターネットへの集中排除規制の運用が主眼であれば、それは「表現の自由」とは違った観点から、慎重に論議されるべきだと考える。
新規参入を拒む明らかな障壁がインターネット上に明確に存在していない現状での議論は、放送法の新規放送局の参入障壁やOSとアプリケーションを分離し難くしている、マイクロソフトの分割論議とは別個の議論が必要になる。

冷静な議論が望まれると思う。

【追記】
書き終えたところで、ビデオニュースの神保氏自身のコメントを拝見した。氏自身は非常に冷静。この姿勢は共感。
ビデオニュースがオーバーチュアを提訴 (www.jimbo.tv)


【参考リンク】
●表現の自由に無頓着な国民性~インターネットはパブリックフォーラムであるべきではないか情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴---試練はマーケットが加えるべきであろう。(BigBang)

2005 12 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

December 28, 2005

オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴---試練はマーケットが加えるべきであろう。

日本ビデオニュース社が、そのウェブサイトに掲載している内容が「特定の組織・団体への批判と見受けられる表現がある場合」に該当するとして広告の掲載を拒否されたとして、オーバーチュア社を告訴した。

その理由は、今年3月、日本ビデオニュースがヤフーなどの検索サイトにニュース社のサイトの広告文を掲載する契約をオーバーチュアと結んだにもかかわらず、「靖国参拝」「反日デモ」などの言葉を含む広告文の掲載拒否が増え、ついに、「特定の政治団体・個人を中傷する内容が見られ、ガイドラインにより判断した」という理由でサイト全体の広告掲載を拒否したということだと報じられている(毎日新聞)
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士より転載)


オーバーチュア側は,基本契約は存在せず,一回一回の広告キーワード申請がそれぞれ契約の申込み行為になると主張している。そこで,日本ビデオニュース社は,仮に契約関係がないとしても広告掲載を拒否したことは不法行為になるとする主張を行っている。
(同上)

現状では、検索連動型の広告はYahooとgoogleで独占しているが、日本ビデオニュース社では記事を検索エンジンに効率的に取り上げてもらう方法として、この検索連動型広告をサイトの宣伝における重要な施策として実施してきた模様。

日本ビデオニュース社は、その主張として3点を主張している。

1.日本ビデオニュース社のウェブサイトに掲載されているのは、記者会見や対談などの報道記事、報道ビデオであって、「特定の組織・団体への批判」と判断すべき記事、ビデオは掲載されていない。同様の記事が載っているパソコンテレビ「GyaO」(ニュースはTBSと提携)や朝日新聞Web版については「スポンサーサイト」欄に広告が掲載されており、違法性は明らか。

 2.オーバーチュア社は広告の掲載に当たっての広告取扱基本規定と掲載ガイドラインを定めているが、日本ビデオニュース社のウェブサイトはこれらの規定が禁止するサイトには当たらない。

 3.検索連動型広告システムはオーバーチュア社とGoogleの2社が独占している状態にあり、その公共性は高く、恣意的な運用は許されない。

(インターネット新聞JANJANより転載)

【 オーバーチュア審査・広告掲載基準 】 
○ 薬事法等の関連法規に抵触するおそれのあるサイト
○ ツーショットダイヤル、ツーショットチャット、その他成人向けコンテンツを取り扱うサイト
○ 連鎖販売取引などのビジネスを推奨・紹介しているサイト
○ 宗教団体など、布教活動を行っているサイト
○ 個人情報の売買を行っているサイト
○ 銃器や催涙スプレー等、武器に相当する商品の紹介・販売サイト
○ タバコや脱法ドラッグ等を販売しているサイト
○ その他オーバーチュアが不適切と判断したサイト

オーバーチュア審査基準より転載)

日本ビデオニュース社の記事について、詳しく目を通したわけではないが、要するにオーバーチュア側では、自社の検索連動型広告のクライアントとして、同社をふさわしくないと判断したということである。
このニュースの読み方はいろいろあると思うが、「日本ビデオニュース社のウェブサイトはこれらの(オーバーチュア社の)規定が禁止するサイトには当たらない」との主張は、オーバーチュア社側の規定の最後に「その他オーバーチュアが不適切と判断したサイト」との項があるところから見て、これを適用された場合、反論は難しいのではないだろうか。
また、検索連動型広告に「公共性が高く、恣意的な運用は許されない」という解釈も議論の分かれるところではあると思うが、検索連動型広告は、実質2社の独占になっているとはいえ、何らかの規制や許認可のプロセスを通じて、確立された独占ではない。市場の構造が「たまたま」そうなっているに過ぎないのであり、商業的な意味での独占が成立しているからといって、これらサービスに、公共性を事由に「恣意的な運用は許されない」とまで言う事も無理があるような気がする。

平たく考えれば、「靖国参拝」や「反日デモ」についていささか挑戦的に扱ったとはいえ、それを事由に広告掲載を拒否するとか、ずいぶんと○○の穴が小さい企業なことよとは思う。思いはするが、一方で広告掲載会社は、その広告主を自社独自の判断基準で選別する権利を、有していると思う。
例えば、新聞広告を掲載しようと思うと、必ず広告主はその新聞社から広告掲載基準を満たしているかどうかの審査を受ける。この審査基準は、必ずしもオープンにはされておらず、各社独自の基準であるが一般的には、当該企業の信用力、社会的信頼性、広告表現の妥当性(過剰な表現)などが審査されているようである。この基準に引っかかった場合には、例え広告料金を支払う態勢があっても、広告を掲載することはできない。
それにしては、この企業の広告ってどうよ?と思うような会社の広告が連日掲載されているのが新聞の広告の現状であり、逆に新聞社そのものの信用力の証にもなっている。
わかりやすい例を挙げれば、スポーツ紙は風俗やマチ金関連の広告で溢れかえっているが、全国紙にはそうした広告はほとんど見当たらない。
では、宗教団体の発行した怪しげな出版物の広告はなぜ掲載されているのかとか、このダイエット本の広告表現はどうよ?など疑問を上げればきりがないのであるが、そこをついて、「広告掲載基準」が新聞の「高い公共性から判断して」「恣意的に」運用されるのは許されないと訴訟を起こしたところで、おそらく勝利はできないであろう。
私企業である新聞社は、広告主との契約に関する選択の自由を持っていると考えられるからである。

したがって、オーバーチュア社の今回の広告拒絶は、その硬直した事業体質を情けないとこそ思えはするが、「公共性」を主張した訴訟のスキームにはなじまないのではないか。
さらに、「恣意的に」検索エンジンの順位が(広告と同様に)、主催者の主観によって恣意的に運用されるとすれば、その主観に沿わない記事や情報は我々の目に触れないことになるという方向から、今回のオーバーチュアの行為に警告を発する向きもあるが、実は我々の生きている社会は、ずいぶん前から「そうした恣意性」によって動かされているのであり、「何をいまさら」と思う。

こうした時代の傾向を歓迎するか、危険であると思うかの別は議論に値するであろうが、私企業に過剰な公共性を求めるのも、また別の意味で見当違いにならないか。商業主義とは効率的に金銭を稼ぎ富を増大させることを目的にして構築されているシステムである。我々の触れる全ての情報は、こうした商業主義のフィルターを通して、目の前にもたらされているわけであり、その善悪を問う姿勢は思想であって、評論であって、哲学であって、だがしかし直ちにそれが法的議論になじむとは思えない。

しかし、とは言ってもこの訴訟がなされたことでのアテンション効果には期待できるのであって、要は我々は我々の住んでいる社会の構造と限界に、はっきりとした自覚を持つべきであるということなのではないか。誤解されないように願いたいが、日本ビデオニュース社に黙れというのではない。契約基準に対して異議があるのであれば、どんどんネットに発信していくべきであり、堂々と反論すべきであろう。つまりオーバーチュアの掲載基準の妥当性には、マーケットで試練を与えるべきだと考えるのだ。法廷の場ではなくて。法廷をも戦略的に活用するというのであれば、それはそれで理解できるのだが。

オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由についてへ

【参考リンク】

○ビデオニュースドットコム、オーバーチュアを提訴(GripBlog)
○検索連動型広告運営会社(ヤフーの子会社オーバーチュア)を提訴~恣意的な広告掲載拒否を理由に情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士
広告掲載拒否とSEOyahoo seo対策 web2.0) ←視点が面白い
★阿修羅♪サイトはヤフー八分になってます ←へー

2005 12 28 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

December 21, 2005

イーホームズが「きっこの日記」に接触(2)---吹き上がる馬淵議員とかプログラムのハックとか

きっこの日記が吹き上がり、(なんかほとんどアクセスできないくらいの状態になっているんだけど)一斉強制捜査が入り、さらに何とあの馬淵議員がきっこに共闘宣言など、ここ数日めまぐるしい展開になっていて、ここ数日、うちのブログのアクセスも一桁近く違うものになっているのだけれど、民主党にもこんな代議士がいるのだなあと感慨しきり。
僕たちが通っている「あの民主党」と同じ党?で、よく見てみるとすでにこんなものも作られているんだね。

何だ前原さん、民主党だって、やる人はもうしっかりやってるじゃない。ネット時代の議員活動。このあいだの「プラトン」でカリカリしていた身としては、ほんと信じられないよ。同じ政党だろか。ほんとに。

それにしても、ここまでやるか(まぶちすみおの「不易塾」日記 )という驚きも一方にあり、馬淵議員ときっこの関係を見る限り、どっちがどっちに情報を提供しているのか、あるいはどっちも誰かが煽っているだけで、何も情報を提供していないのか、何とも判読しがたい。「相手が誰だかわからないで」共闘しますなどと言う、これも俄かに信じられない楽観性(?)にしても「前人未到の荒野」などという記事のタイトルにしても、もしも互いに裏の無い話であったなら、ちょっとどうよ?これ?と言われるのも逆に無理の無い話。

「果たして、どのような結果になるかはわからない。
が、おそらく憲政史上初めての、「ネット連動型国民運動」で
ある。」
(まぶちすみおの「不易塾」日記・前人未踏の荒野)

って、馬淵議員、明らかに吹き上がりすぎでしょう。

吹き上がるネットの熱など、時が経ち醒めてしまえば、実は路傍の石となる。そうした「荒野」だの「国民運動」だの云々よりも、馬淵さんもヒートしすぎずに冷静にやってほしい。いやもしもあなた方に裏がなければの話だよ。実はあの2人が一番「冷静に」煽っているのかもしれないから。もしもそうだったらごめんなさい。

我らも空前絶後のブログの新時代などと、トサカに熱を吹き上げず、経緯を冷静に見るべきだろう。そんなに簡単に「スーパーな」話は出てこない。

ところで藤田氏の長い長い話の中で、僕が興味深かったのはここ。

「しかし、再現が出来ず、やがてユニオンシステムの技術担当者からプログラムが改ざん(編集)という、余りにも想定外の話が出るのです。この事件の制度上の問題は、確認検査制度ではなく、認定プログラムの改ざんが可能である事実を突き止め全員が驚愕した経緯があります(会議録もあります)。確認検査制度上の問題ではなく、認定制度におけるシステムの不備だったのです。しかし、この事実はずっと伏せられて、12/8の建築センター評定部長のコメント発表を受けて、12/13に国交省はようやく公表します。12/13の朝日新聞朝刊1面。11月11日から1ヶ月も経て、制度上のシステムの不備という問題が明らかになります。」

さらに下記では

ある大手ソフトメーカーも「使い勝手を優先させたのが裏目に出た。建築士が改ざんをするとは思ってもいなかった」と認める。プログラムに国交相認定を与える日本建築センターは「多くのプログラムで書き換えが可能なことは最近、判明した。対応を検討している」と話している。

 国交相認定プログラムを使ったことを示す書類が申請書に添付されていると、検査機関は途中の審査を省略できる。だが、審査を省略すると、書類の数値改ざんに気づくのは困難で、書類がついていない場合でも、数百ページに及ぶ計算書をすべて点検するのは、実務上困難という。 (2005年12月13日 朝日新聞


よくもまあこう、次から次へと問題となるポイントが出てくる奥の深い事件だなあとこのプログラムの一点を見ても思うわけだけれど、要はプログラムがハックされて書き換えられてしまったのか、あるいはハックなんて高等な次元ではなく切り貼りなのかそのへんはわからないけれども、国が認定したプログラムの導き出した結果の真偽という次元にまで、審査機関の審査責任は及ぶのか?というのも藤田氏の言いたいことであり、ここに限って考えれば多少は彼の言うこともわからなくもない。
藤田氏にしてみれば自分以外のいずれかがぐるになって、イーホームズをはめようとしたということと、国交省は「確認検査制度上の問題ではなく、認定制度におけるシステムの不備」の責任をどう思うのかという主張の流れで、このプログラムの件を持ち出しているわけだ。

考えてみれば全てのプログラムは元々ハック可能なものであり、こうした問題が生じる隙は建設業界だけではなく、他の業界にもごまんとあるわけだ。詳しくは無いけれど容易に想像がつくのは、会計士が使う会計審査上のプログラムもそうであろうし、自動車業界にも、医療業界にも類似の「罠」は仕掛けられているように思う。(保険医療におけるレセプトの計算プログラムなんてどうなんだ?大丈夫?)


【補記】

finalventさんとこの、finalventさんとこ経由で知った、ここあたりの2ch情報は興味深いけれども、情報には速度が必要な
一方で、速ければいいというものではなくて、信じるに足ると思わせるだけの説得力も必要なわけであるから、内部告発が既に11月20日ころから書き込まれていたという話を見ても、ふーん、そういうこともあるだろうと思うだけで、きっこの日記の話は、それはまたそれで別だと思うよ。あの人が髪結いの最中にメディアの人間から聞いた情報で書いたなんて僕は信じないし。もともとありえないでしょう。一次情報へのアクセス時に2chを経由したこともありうるし、もともとそこもグルという見方もある。ああ、もう考えると夜も眠れない。(嘘)

【参考記事】
●イーホームズが「きっこの日記」に接触---やはり無視できないサイトなのか

2005 12 21 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

December 19, 2005

イーホームズが「きっこの日記」に接触---やはり無視できないサイトなのか

安曇信太郎の「イヤならやめろ!」経由で知ったのだけれど、12月18日に、イーホームズのトップに掲載されたトピックと、関連した「きっこの日記」の内容には一連のマンション偽装事件に関わる、驚くべき内容が記載されている。あのイーホームズの藤田社長が、「きっこの日記」に「弊社が関知しない重要情報が存在」することを認め、敢えて「きっこの日記」宛にメールを出してきたというのである。藤田社長はこれを自ら、自社のホームページのトピックにも掲載している。

【参照リンク】

●今般の偽装事件の背景について重要な情報提供:「きっこ」  (イーホームズ・トピックス)
●「きっこの日記」
●「きっこのブログ」

既にネット界ではこの「きっこの日記」に掲載される裏情報が、著しくリアルで信憑性が高く、それが総研の内河氏を国会喚問にまで呼び出した契機にも繋がったという評価が専らであり、安曇氏も「新たな形のネットジャーナリズムというのは、案外こんなものかもしれない。」という記事で、ここに新しいネットジャーナリズムの萌芽があるのではないかと評されている。

その見方に異議を唱えるものではないが、ちょっと別の視点から。

従来であればこの種の情報は、「情報紙」と呼ばれる、ある種の特殊な「業界紙」に掲載される種類のものである。それらは虚偽入り乱れて質もまちまちだけれど、中にはメジャーなメディアをも動かさざるを得ないような、重要な情報が含まれていることがあった。ちょっと仔細があって、この種の「情報紙」のある主宰者と親しかった時期があるので、このあたりの経済構造はよく知っているのだけれど、情報紙の主宰者の経済構造は、「情報を提供しようとする者」と「情報を流布されては困る者」との間の「経済関係」で構成されている。つまり、この両者の間に入って、「情報紙」をいずれかに「買占め」させるわけである。

「情報を提供しようとする者」が買い占めた場合、その情報は数百万部もの「実弾」になって、対象者の周辺にばら撒かれることになる。

「情報を流布されては困る者」が買い占めた場合、その情報はひっそりと葬られ、誰の目にも触れないことになる。

主宰者は、単純に言えばこの両者の間で都合よく利ざやをとる。僕の知っている例では、通常1部200円程度のその情報紙は、時として1部2000円になることもあるし、20,000円(!)で流通されることもある。変幻自在。自由闊達である。
本人は「正義の士」を自認していたし、実際個人的には非常に魅力のある人物だったが、当然ながらこの種の事業には法律のボーダーを渡り歩くところがあるのであり、多くの場合恐喝罪で挙げられることが多い。
「XXXさんは?」
「ああ、今恐喝で入っているよ」
「!!」
なーんて会話はフツーだった。

それなのに、というかそれだからこそと言うべきか。彼に依頼してきていた人物や定期読者には驚くほどの大物の政治家が多く、ちょっとここでは書けないが、名前を聞くと驚くような与党の大物政治家ですら、彼をうまくつかって情報を流したり引っ込めたりしていた。そこの読者名簿を見て僕は世界観が変ったほどである。

ちょっと例にあげた引用が的確かどうかわからないし、「きっこの日記」に対しての、何らかの意図が僕にあるわけでもない。最近読み始めたばかりだし。
しかしここで、要するに何が言いたいかというと、「闇を暴く」ネットジャーナリズムもこの種の「旧来の闇」から自由であるとは、単純には信じがたいということだ。どういう意図でこれほどの情報が流されているのかやはり気になる。

偏見はない。ないが、どう見ても関係者周辺からと思われるような、信じられないような「内部情報」が、ヘアメイクの「情報通の女性」から次々と暴かれているという事態が、暗い過去の例を知っている身には、自然発生的になされたネットの「放電現象」と信じるには、そしてネットジャーナリズムの俄かに明るい未来を予感させるものとしてのみとは、一律に評価はできない。

だが、この件、確かに情報のインパクトはある。総研に加えて、日本ERIの周辺など、明日以降の動きに注目だろう。

僕の見方が「下種のなんとか」で、もしも外観通りの展開なのであれば、その姿勢を支持したい。

イーホームズが「きっこの日記」に接触(2)---吹き上がる馬淵議員とかプログラムのハックとかに続く

2005 12 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

博報堂生活予報---あなたも私も放電中。ばちばち。

博報堂の生活総合研究所、いわゆる生活総研と言えば広告業界ではその年のトレンドの行方を予報するというよりもむしろ「予知」する存在で、僕が業界でプランナーをしていたときには、企業に提案するときネタがなければ「しょうがねーな、生活総研から持ってくるか」などと言いながら、あのやたら豪華装丁で、やたら値段がボッている「生活予報」からテーマを持ってくるのが日常茶飯事だった。

今時のプランナーもそういう情けないことをしているのかどうかは知らないが、「2006年版生活予報」によれば、2006年の主要テーマは「放電生活者」と「放電コミュニケーション」だそうである。

それによれば

インターネットや携帯電話の普及に伴い、生活者の情報環境は10年間で大きく変わり、「テレビ」「人」「パソコン」が生活者の3大接触メディアになりつつあるという。
 加えて、ブログやSNSといった新しいコミュニケーションツールの登場により、生活者が世の中と双方向にコミュニケーションが可能になったと指摘。同研究所は、これらが従来のコミュニケーションとは違う性格を持っているとし、新しいコミュニケーション形態を「放電コミュニケーション」と命名。放電コミュニケーションを行なっている「放電生活者」は、新しいコミュニケーション回路を持つことで生活そのものを活性化させていることもわかったとしている。
(InternetWatchより)

さらに「放電生活者は放電コミュニケーションを始めたことで、世の中からの反応に刺激を受け、生活の中のちょっとした発見を進んで収集することで活性化された自分を発見」するんだとか、

「放電生活者の比率が高い男性の20代・30代では「情報格差による階層化社会」をイメージし、「積極的に自分を世の中に開示する企業風土ブログや、時差や距離の差を活用するダブルオフィスワーカーが生まれる」んだとか。

そうか。僕らは放電しているんだ。

ばちばち。

読んで「なるほど」と思う人がいるのもわかる。わかるはわかるとして、それにしても昔から思っているのけれど、その年の社会予想を、何か気の効いたワンフレーズで言わなければならないという広告業界の脅迫観念症は、何とかならないものか。(実際に気が効いているかどうかは別として)

いわゆる「キーワード」を出すことで何かがわかったような気がする、何かが見えたような気がする-----キーワード依存症とでも言うような、あれは、僕は商業化社会の一種の「病理」だと思っているのだが、実は広告なんていうものはこの病理を楽しむゲームでもあるわけで、そのゲームに参加してそれなりに充実感を覚えていた時代が自分にもあるから、そう冷たいことは言えないのだけれど、キーワードが出てなんとなく納得してしまう心理の裏には、恐ろしいほどの思考停止化への罠が仕掛けられている。
まあ、広告を展開する側にしてみれば、何とか消費者をメッセージに乗せようとするのが目的だから、思考停止になってくれればいいとまで言えば言いすぎだけれど、あんまり細かいことはぐちゃぐちゃ言わずについてきてくれればいい。
広告行為に「思考停止」は不可避のトラウマみたいなもんだと思う。

さらにはこうした「生活予報」みたいな薀蓄をパクッて、得意になってメディアで時代を語るエセ予言者もそれを後押しして、「二次災害」「三次災害」を広げるわけだ。

ただ、広告と消費との関係は先にも言ったように「楽しめるゲーム性」もあり、その次元で動いている分にはまあ、個人の自己責任ということで構わないという見方もできるが、これが先のマンションの耐震構造偽造のように命に関わる商品に応用されて(「これからは100M2超が幸せへの鍵」(作 BigBan))とやられたり、政治的なメッセージに応用されたりするときには、「キーワード依存症」も、そう笑ってもいられない。

しっかし「放電コミュニケーション」って・・・・どうなの?
放電が終わった後で「真っ白な灰」にならないように気をつけようね。お互い。


【参考リンク】
●InternetWatch「博報堂調査、2006年はブログやSNSで自己活性化する“放電生活者”が登場」

2005 12 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

December 16, 2005

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(5・終章)六本木の空の上のほうで

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延々とほとんど休み無く続いたシンポジウムもようやく終わり、懇親会で49階から51階へ移動する。(前回のこともあるからここのことも書いておこう)。飲み物は豊富に用意されていましたが、食べ物はつまみ程度(ほんっとうにつまみ程度)。顔見知りのAaさんや安曇さん、突如登場したマルセルさん、そして松本政調会長と少し言葉を交わす。
場所は六本木ヒルズの51階。目を外にやれば東京の大夜景が広がっている。「成功者」と呼ばれる人たちが、ヒトの社会を高層から見下ろすことを好むのはなぜだろうとちょっと考える。ヒトの上に立つこと、ヒトの視線を遥かに超えたところで、少しだけでも「神の視線」に近づくこと。そんなところに憧れを持つのだろうか。そういえば「バベルの塔」の逸話もあった。神に近づくために天へ、天へ。

今ここに身を置いている「民主党の空間」は正直なところ、居心地がいい。民主党の議員の方たちは皆真摯で紳士。物腰が柔らかく居丈高ではない。何よりも知性と真面目さが真っ直ぐに伝わってくる。僕は自民党の政治家とももちろん何人か会ったことがあるし、そうした中にもいろんな方がいるけれど、今の民主党の「生え抜き」の議員の持つ雰囲気には、それに比しても新しいものを感じるし親近感を感じる。そう、「政権」以外の全てがあると言っていいかもしれない。

しかし僕は、プラトン理事長の仙谷議員の言いかけた言葉がずっと心に残っていた。それは選挙後にマキャベリの「君主論」を最近読み直しているというもので、「そこには(政治家は)誠実である必要はないが、誠実であるようには見せなくてはならないというようなことが書いてあった。」という言葉だ。この言葉を聴いたときには何だかどきっとして、この人はこの後何を言うのだろうと思ったのだけれど、仙谷議員はこの後あまりこれについては深めることをせず、他の話題に持っていったように思う。

先日のブロガー懇談会以来、僕たちのフロントに出てきて下さっている議員は、この間の懇談会で大塚議員も言っていたけれど他党にしがらみのない、生粋の民主党議員が多いのだが、周知の通り民主党には旧社会党系もいれば、自民党から来た人々もいる。
もしも「権力」に対するあくなき執着が政治家を構成する要因だとするならば、旧自民党や他党から来た人々、小沢氏はもとより管氏や鳩山氏などのほうが、ピュア民主党の議員に比べて遥かに「政治家らしい」。つまり別の言葉で言うと「ギラギラしている」(鳩山さんですらね)。それに比べて何かここに集う民主党の新しい世代は「植物的」だ。

もちろん、一概にそれをもってして「過去型の」政治家に軍配を上げるということではない。しかし、彼らを欠いた所で将来の民主党を考えるときの、このどこか不安な感覚は何だろう。

思えばこの間のブロガー懇談会で大塚議員は「極端な話、民主党が政権をとれなくても、民主党の政策を自民党が取り入れることで政治がいいほうにいけばそれでもいいと思う」というような意味のことを言われた。出自が自分と非常に近い大塚議員だから肩を持つわけではないが、この人はおそらく本気でそう考えているのだろうなと思ったし、あの場にいた人たちも同じ感想を持ったと思う。それは好印象にもなったが一方で、先に触れたような得も言われぬ不安に繋がったことも確かである。本当に血を流すような思いで、信じる政策の実現に、あるいは政権奪取に本気で向かえるのか、と。

そもそも「シンクタンク」とは何だろう。政党のつくる「シンクタンク」は、プラトンの場合霞ヶ関に依存しない政策のストック、人脈のストックを作るためという風に説明されたけれど、そのプロセスで政権奪取を目指さない政策立案は意味がなかろう。それはどこかで現政府から政権を奪い、自らの理想とする政策を実施する---霞ヶ関のオルタナティブとしての政策のストックを用意して、選挙民に信を問うためのシステムでなければ意味は半減しよう。アカデミックな議論だけをしている賢人会議では不足するはずである。民主党のシンクタンクは今、政策のストックのみならず、政権奪取へのアクティブプランをも描くことをミッションとして運命づけられているはずである。その具体案や運営計画が今日のシンポジウムからは見えづらかった。ここのリアリティに期待していた聴衆やメディアは多かったと思うがどうか。

さらに、今回のシンポジウムの主要な目的は、緊縮財政下、地方交付税が国によって大幅に切り捨てられる中、「地方と中央」あるいは「地方の切捨て」に対して批判的に対峙し、「地方分権」/「コミュニティ・ソリューション」の提示で、自民党政権との差異を印象づけることが主眼と見た。地域社会への「きめの細かさ」を言うというのがあったろう。確かに、霞ヶ関との延々たる癒着が自民党政権の弊害の一つといわれて久しい中、霞ヶ関と本当に手を切れるのは民主党政権である=そのためには官僚ではなく地域に住む一人ひとりの市民によるコミュニティ力を結集して、新しい地域社会を作り上げるというコンセプトは、国が巨額な財政赤字に疲弊している中、そして小泉政権の方向が強引な「官から民へ」路線に偏重されていることから考えれば、一定の支持を得られる土壌はあるだろう。

しかしその反面、今日のシンポジウムでは、外交や憲法と言った重要課題については、ただの一言も触れられなかった。また、現実は、霞ヶ関と今最も激しく対峙して緊張関係を作り出しているのすら、当の自民党の小泉政権ではないかという、皮肉な事象もある。
「コミュニティソリューション」が国の重要課題と比して、地味であると言うわけではないが、この重要時に船出するシンクタンクの「危機意識のありかた」としてどうであったか。もう少しバランスをちりばめる、あるいはもう少し戦闘的な政党としての顔を見せることはできなかったか。

実際クロージングセッションでも、飯尾潤・政策研究大学院大学教授が盛んに「自民党でもできることではないのか」と挑発していたポイントはここにある。

2大政党体制下での難しさは、2つの政党の間に政策に関して決定的な違いがないということであり、実際外交や憲法に関する考え方は、与党である公明党よりも前原民主党のほうが自民党に近い。そこから大連立などという暴論が出てくるわけだけれども、そうした中で苛烈な政策論争を行うことが困難であるとすると、どうしても力(=資金)と情報力、そして政治運営のノウハウに長けた現与党が有利になるのは当然である。僕などに言われるまでも無く、まさにそこに今の民主党のジレンマがあると思う。

であれば、「プラトン」の志向する方向も、プラグマティックになりすぎるくらい、貪欲なくらいでちょうど良いのではないかと考える。比較的穏便で、地方の支持も得やすい「コミュニティソリューション」のテーマは、初回のシンポジウムテーマとして民主党への好感を醸成することには大いに貢献すると思うが、それを超えた「強力な支持」を集めるための道具立てにには役者不足ではないか。経済をやるなら中央の行財政改革をもっとガチンコでやればいいし(情報を徹底的に集めて)、外交や憲法も別部会で(実際に行う予定でいるようだけれど)アクティブにやればいい。その全体的なビジョンがが見たいところである。

視点を変えれば、今回のように、インターネットに中継を「気ままに」発信しても、受け取る選挙民がそのアドレスを自然に知ることはありえない。それがいい内容であれば自然に人々が集まってくれると思えば大違いなのであり、発信する前から周到な計画と準備が必要なのである。これはインターネットのことだけを言っていると思われるとすればそれは違う。

一時が万事なのである

畢竟メッセージは本気でなければならないし、届けるための命がこもっていなければならない。

リアルもネットも同じである。
時に鬼になることが必要なことも。

ではこのへんで。

【参考記事】

●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッション
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッション
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(4)クロージングセッション

2005 12 16 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

December 15, 2005

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(4)クロージングセッション

第2セッションが終わったところでようやく休憩時間になった。とにかくのどが渇くし疲れるし・・と思って前を向いてもAaさんのしゅりんくと伸びた背中はいささかも疲れた様子が見えない。さすが・・と思いながらも、ちょうど立ち上がった松本政調会長に、ネット中継のURLをもう一度インフォメーションしてくれるようにお願いする。すると、あとで画面に表示しますとの答。

廊下に出て見ると飲み物が配られていることにやっと気がつき、コーヒーをいただき、水をもらってしばし安曇さんと立ち話もする。安曇さんのサイトに、第1セッションのパネラー、逢坂さん(前ニセコ町長)が、早々とコメントを書き込まれた。へーなどと言葉を交わした。

ちょうど席に戻ったとき、瞬間芸のようにネット中継のURLが前の画面に表示されてすぐ消える。やれやれ。これでどうやって外から中継にアクセスできると言うんだろう。と思いながらも実況の記事を更新する。

■クロージングセッション 民主党シンクタンクがめざすもの

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コーディネーター
・飯尾潤(政策研究大学院大学教授)
パネリスト
・増田寛也(岩手県知事)
・神野直彦(東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授)
・金子郁容(慶應義塾大学大学院教授・メディア研究科教授)
・仙谷由人(衆議院議員(代表理事))
・松本剛明(衆議院議員 理事・民主党政策調査会長)

●飯尾氏から

・これまで見てきたけれど民主党としてこのシンクタンクではどういうことを?というあたりをやりたい

●松本氏

・今日のセッションは非常に明るい。この明るい雰囲気に安心している。(というようなニュアンス)

確かに明るい。これでいいのかと思うくらいに明るい。明るいのは結構だが、次の瞬間にこの明るさが心配になることも事実。明るいと言って安心しているばかりでもどうなんだろう。

●神野氏

・コミュニティにちゃんと(いろいろなものが)中央から届いていない。県ではなくて、市町村レベルでやるのがいい。

●飯尾氏

・第2セッションは大変に良かった。わかりやすかった。

●神野氏

・現金給付から現物給付に変えるなら、あるいは解体するなら次の設計を示すべきである。ただ解体するのではなく、見取り図を提示することが重要。

●仙谷氏

・もう少し何かのベクトルが働けば国は崩れる。
・次の設計書を用意しなければいけない。

●飯尾氏

・コミュニティの自己責任とは何なのか?

●金子氏

・これだけのお金を使ってここまでやると明確に。
・いいものをどんどんやる。そのことで他に伝わる。

●飯尾氏

・今日は立派な実例ばかり紹介されている。
・悪いところも実はたくさんある。
・国にカネをつけてもらえば国が口を出す。
・地方への権限委譲は財源を地方に移すところから。

●神野氏

・地域で産業政策を行うことが必要
・最低限を国が保証。
・義務教育の意味が誤解されている。いつでもやり直せる教育の必要性。

●増田氏

・すぐに「我が町にもヒルズ」をとなってもどうなんだ。
・新たな社会資本に金をつける必要あり。
・首長のジレンマと住民のジレンマとを詰める。
・とかく無駄なところに金と時間をかけすぎ。
・どぶろく特区なんて言うけど、どぶろくなんて昔から岩手ではみんな作っている(場内爆笑)

●飯尾氏

・財政危機の今こそ実はチャンスではないのか。

●金子氏

・私は政治家でもないし学者でもない(じゃ誰?)
・地域を信じてビジョンを作ることが必要
・地方では東京よりもアイデアや意見がどんどん出てくる土壌がある。

●飯尾氏

・日本人は世界一「できない理由」を考える天才
・自民党とどう違うのか?シンクタンクというけれど小泉首相が見てそのまま瞬間できてしまったらどうするのか?
・なぜ今の政権でできないのか?(挑発的)

●松本氏

・政権交代が必要である。
・変えられるところから変えていきたい。
・とりあえずの「ゴール」が必要。(目標という意味か)
・「コミュニティ・ソリューション」はとりあえずの「ゴール」(同上)
・霞ヶ関と政治の関係を1から変えるにはまずはリセットが前提。

●飯尾氏

・民主党がしなければならないことというのは何なのか?
・コミュニティ・ソリューションは参加することで満足が得られる。
・民主党の政治家はここのところをまかせてくださいと言って欲しい。
・真に参加型の政党に。
・「見取図」を出さなければいけない。
・信頼は「理屈」で納得させることが必要。
・競争して両方で立派なものを作ることが必要。
・「やかましいところ」にコミュニティスクールが出来る。(自民でもできる)
・躊躇しているところが参加することを助ける政党に。

飯尾氏の「追及」は会場の来場者も皆言いたいところ。こういう踏み込んだ「追求」が民主党の議員の側から出てくるといいのだが。「なぜ民主党なのか」そこに飯尾氏はこだわっている。

●金子氏

・自民党では参加できないの?(笑)

●飯尾氏

・新しいところ(民主)が出てきてもみんなすぐには安心できない。和は美しいが乗り越えるものも必要。

●金子氏

・何か新しいものが出ないといけない
・みんなが出来ることでは成り立たない。→私はこうだよと。

●神野氏

・民主党に期待している
・時の流れ(現政権の?)に抗するビジョン
→効率と公平を融合する社会
→競争と協力を融合する社会
・実際には困難だが
・クリエィティブクラスの台等が望まれる(exスウェーデン)
・予言の自己成就
→そうなるであろうという変化への確信が必要である。
・明確なオールタナティブと強力な意志が必要

●増田氏

・地域とコミュニケートできる職員をつくることが必要。
・地方議会をコミュニティの発火点に。

●飯尾氏

・シンクタンクでごちょごちょやって、賢い意見が出る。だからといってそれだけで政治家が賢くなったといえるのか。(禿同・コーディネーションの妙で賢くなるべきだろう BigBan)

●仙谷氏

・今度の選挙でいろいろ考えた。
・民主党には「いい人が多い」がマキャベリズムも必要では?と「君主論」を読み返した。(おっ?何か言われるかな)
・マキャベリでは「王」だが「人の提言を得る人」、人に対して誠実であるように見せられるかということでもあろう。政権をとるとはそういうことではないか。
・政権を変えないと霞ヶ関の体制・国民との相互不信は破れない。(そうかな)
・これを「信頼の体系」に変えていきたい。
(うーん。マキャベリはどうなっちゃったんだろう)
・生涯学習や能力開発に関して知事に権限が無い、お金がないのは問題
(米国のコミュニティカレッジに比べて)

●松本氏

・長い間の地方と国との関係を変えたい。
・陳情にもいろいろある。この間年末の新幹線の切符をとってくれと言われた。それから公務員に振られたがどうしたらいいかなどという相談が実際にある。
・政治と国民の関係には国民もわかんないからだという見方もなくはない。
・本当に民主で出来るのか。それを官→民ではなくて市場原理以外のところで、コミュニティが重要。

●飯尾氏

・今後もプラトンで議論を

●松本氏

・今まで必ずしも政策の「仕込み」ができたいなかった。霞ヶ関はできている。政策責任者が入って今後は議論していきたい。
(拍手)

という感じでお開きとあいなった。
ああ、やっぱり党首が欲しかったね。ここで締めたかった。もわんもわんとしているなあ・・最後が。

(まだ続く 民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(5・終章)六本木の空の上のほうで

【参考記事】

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッション
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッション

【参考リンク】
最終セッション-民主党の模索は続く:民主党「プラトン」記 (tracker's burrow)

2005 12 15 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

December 13, 2005

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッション

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■インターミッションセッション 都市間FTA提案

パネリストは
・提案者:黒川勝(横浜JC理事長)
・ナビゲーター:大塚耕平(参議院議員)

とにかく休憩無しで進行されているシンポジウムだが、枠外の「インターミッションセッション:都市間FTA提案」は、民主党の大塚耕平議員をナビゲーターに横浜JCの黒川JC理事長が横浜JCでのローカルマニフェストの実例を紹介するセッションである。配布資料には「横浜JCマニフェスト」(第19回横浜経済人会議)の文字。各地域で独自の「ローカルマニフェスト」を制定することが近来盛んに行われているが、その実例紹介としてここでは横浜JCの「都市間FTA提案」が提示された。FTAとはFREE TRADE AGREEMENT(自由貿易協定)。

要は従来の姉妹都市構想をさらに一歩踏み込み、特定の都市間で都市間自由貿易協定」(都市間FTA)を締結することを提案するというもの。
「WTO(世界貿易機関)のルールの中で実現できる水準を超えた、あるいはカバーされていない分野における連携の強化を図る手段」であると資料にはある。
黒川理事長によれば、例えば横浜と現在姉妹都市関係にある都市(ex.バンクーバー)との間でFTAを締結すれば、相互の企業が互いの支店を設けた場合の関税や法人税などの優遇、都市間貿易協定の締結、両都市間における都市間貿易の活発化、外国人が暮らしやすい環境整備などが構想されている。

ここで日本銀行出身で経済・金融の専門家でもある大塚議員から霞ヶ関等で予想される実務面や法制面でのハードルについて、どのように考えるかという質問が黒川氏に出される。黒川氏は、超えるハードルでの困難があることは認めながらも、最終消費財に限定しての関税廃止などの可能性とこうしたビジョンを自治体や青年会議所が策定することの意義などが説明された。
また大塚議員も、場合によっては議員連盟を作り応援する準備があることなどに触れ、プラトンあるいは民主党としての支持姿勢をアピールした。

しかしながら、現在の説明では印象としてビジョンに留まっている状況しか見えてこず、肝心の法制面での障害と対策などが具体的には説明されなかったので「夢を語る」という次元の印象を受けたことは事実。

特筆すべきなのはむしろ「大塚先生」と呼びかける黒川氏に対し、大塚議員が「民主党ではXXX先生という呼び名は止めてください。党内で一回XXX先生というと小宮山洋子さんに100円払うことになっています」(場内爆笑)と答えたことのほう。

少々脱線すれば前回のブロガー懇談会においても、民主党の議員に対して「XXX先生」と呼びかけるブロガーは皆無であった。申し合わせたわけではないが、皆当然のように「XXXさん」あるいは「XXX議員」と呼びかけていた。これはまあ、当然といえば当然だと思うが世間的には異例かも知れないとおもっていたが、同様の考えを大塚議員が示されたことで少々好印象。

このセッション自体は、(まあ枠外だから・・という考えもあるが)総じて大甘。なごんでましたけどね。ローカルマニフェスト自体は結構な試みではあるが、「若年寄の暇つぶし」・・と言われないように、黒川さんも官僚と戦うつもりで本気で理論武装して現実的な提案を今後していってください。


■第2セッション コミュニティ・ソリューション

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パネリストは
・金子郁容(慶應義塾大学大学院教授・メディア研究科教授)
・石田芳弘(犬山市長)
・井上英之(慶応義塾大学総合政策学部専任講師)
・鈴木寛(参議院議員)

このセッションは非常に活気のあるセッションだった。豊富にスライドを使ってプレゼンテーションがされた。パネラーはやたら元気な金子氏をはじめ、みな個性的でエネルギッシュ。静的な前半の第1セッションに比べて動的な印象。



●鈴木議員から

・コミュニティ・ソリューションの理念の説明。スピード感のある歯切れのいい説明。
・「小さな政府」VS「大きな政府」論争を超えていかなければならない。負担者が求める「小さな政府」。受益者が求める「大きな政府」この対立概念を超える一つの解決がコミュニティ・ソリューション(地域相互扶助とか地域のことは地域で・・というようなこと)
・一概な「民営化」への警鐘。市場原理導入にあたっての課題。
→市場原理を機能させるための社会インフラの手当が重要
→大事なのは情報の共有とリテラシーの向上。
・小さな政府を端的に追及すれば社会の二層化を招き、勝ち組と負け組が発生するのみ。社会全体にモラルハザードと無力感。
・低負担高満足社会をどうやってつくるか。→ボランティアの最大活用
・キーワードは「コミュニティ・ソリューション」&PPP(Public People Partnership)
・信頼の醸成と現場に問題解決のノウハウ蓄積
・三鷹第四小学校の実例紹介(20人の子供に対して市民ボランティアの協力により5名の教師。)→他にもコミュニティ・スクールが全国に広がっている(150校)


安定感があり力強い。さすがというプレゼンテーションである。

●金子教授から

・小さい大きいという表現を超える
・信頼は誰が担保するか。
・民営化の問題は社会の監視コスト増大、罰則の明確化。
・「コミュニティ・ソリューション」は自分の発案といわれているが実はピーター・ドラッガーの論→active commitment/compassion
・1人1人が自分によって変ることが重要→make difference

金子教授はとにかく声が大きく元気がよく、「つかみはOK」の典型のような方。話はあちこちに飛ぶがノリの印象論が多い感じ。しかし場内が一気に活気づくところはさすがカリスマ教授。

●石田犬山市長

・犬山市の事例紹介
→算数と理科の教科書を自分たちで作成
・持続可能な公共バランスが重要
・市民のcommon senseに委ねる。
・数値化できない郷土愛が重要
・「ふるさとはありがたきかな」がインセンティブになる。
・小学校を拠点にする。
・お祭りはよい。


石田市長はとにかく個性的。たびたび場内を爆笑させたが、論理ではない情念(笑)というか暖かい人柄は伝わってくる。「理屈じゃないんです。愛なんです」みたいなヒト(笑)こんな人間的な市長を頂ける犬山市民は幸福かもしれないなどと考えましたよ。


●井上英之講師

・ソーシャルキャピタルの視点から、ありあまるほどのスライド素材で「ソーシャルベンチャー」支援活動報告。
・かものはしプロジェクト
・STYLE2000プロジェクト紹介

ジーパンで登場。若く気鋭の俊才という印象。こういう人は身近に感じる。後から懇談会で挨拶したが意外と声は甘め(笑)。今日のメンバーでは出色の存在だったが時間がなく、ありあまるほどの引き出しからのお話を聞ききれなかったのが残念。もっと話を聞いて見たいと思わせる人

●質疑応答

#実は私BigBan。このあたりで「ネット中継」にこだわって探し始めたり、ちょっと集中の糸が切れ始めて後半の質疑応答に注意力がついていかず。興味ある質疑が展開されたがこのあたりちょっと記録できず。安曇さんやAaさんの記録を参照して欲しい。


財政緊縮下で地方の多くのサービスが切り捨てられていく現状の自民党=霞ヶ関路線に対抗し、新しいボランティア経済の仕組みを提案し、低負担高満足社会を提案するという試み。本日のシンポジウムの肝である。社会のあるべき像の提示として説得力があり考えさせられる部分が多かった。あるいは我々「ブロガー」も都市における「情報ボランティア」として、「コミュニティ・ソリューション」に期せずして組み込まれてしまっているのかもしれない。
キーワード流にまとめれば、競争社会→共生社会 競争社会→共創社会 というところかと一人うなずく。(いやだいやだ元広告屋→オレ) 
従来我々が培われてきた「経済的競争意識による経済」と「ボランティア経済」は、相当にその位相を異にする。このバランスを新時代に向けてどうとっていくか。
また「共に生きる社会」は優しい社会かもしれないが、反面相互に干渉せざるを得ない息苦しい社会でもある。古き日本の村落共同体の再構築という面もある。一方で「個の自立」とのバランスをどうとっていくかということも重要なのではないかと考えた。

また、これは民主党の弱点であるのは明確であるから明記するが、情報の共有の重要さをしきりに言いながら、そしてブロガーへのある程度の歩み寄りを見せながら、情報の電子的共有の重要さを説いたパネラーが皆無。これは残念であった。「コミュニティ・ソリューション」の確立において、低コストでボランティアードな市民貢献に、ネット社会における情報共有の形態は研究に値すべき。この流れでブロガー枠があるんでしょう?そのあたりに微々たるところでもいいから触れて欲しかった。Aaさんが言うように、ある意味で構想の核になるパーツとして慇懃に招待されつつも、まだ遠巻きに「珍獣扱い」されている私たち。まあそのうち慣れるかな。互いに。

それになぜに民主党でなければならないか。そこはやはり不明確なまま後段へ。

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(4)クロージングセッション:民主党シンクタンクが目ざすもの へ続く

【参考記事】
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッション


【参考リンク】
●中間セッション-民間(地方)から中央へ:民主党「プラトン」記(tracker's burrow)
●第2セッション-コミュニティソリューション:民主党「プラトン」記(tracker's burrow)

2005 12 13 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

December 12, 2005

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッション

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およそ5時間のセッションはほとんど休憩無しで進行され、相当密度のあるものだった。当日、ブロガー枠で確認できたのは、Aaさん(tracker's burrow)と安曇さん<(安曇信太郎の「イヤならやめろ!」)、そして懇親会でお会いできたマルセルさん(時事を考える)、それに私の4名。他の枠はネット中継を担当された(と思われる)NPO茨城県南生活者ネットさんが使われた模様。他は確認できなかった。最詳細レポートがあがると誰もが予想されるAaさんがおられるし、同じようなレポートを上げても意味がないと思うが、まずこの記事で第一セッションまでの自分なりの流れを記述する。他のブロガーの記事と合わせて全体の様子を判断いただきたい。
(関係者の方でもしも誤記などがありましたらご指摘願います。全て敬称略)

■開会

先に実況したように、150名のキャパシティのアカデミーヒルズ・オーディトリウムは満員である。最初は「ブロガー扱い」でゆったりと席をとってい た我々も次第に席をつめ、講演の後半では、それこそ完全に満席となった。場内はおよそ5-6台のテレビカメラが来ていたが、終了後のオンエアなどは今のと ころ確認されていない。

仙谷由人代表理事の挨拶と、民主党から配布された資料によれば、
公共政策プラットフォーム「プラトン」は有限責任中間法人(注 参照)として立ち上げる。「政権を獲得した際に、一気呵成にダイナミックな変革を断行するためには、政策・人材両面に厚い基盤を有することが不可欠」とし て、先の選挙での敗北も見据えて「霞ヶ関のみに依存しない独自の政策立案を行うことが重要」。プラトンは「そのための知的集積体を目指す」としている。
そして「大学・民間・個人としての官僚を含めた第一線の有権者の衆智を集めるプラットフォーム(梁山泊)を目指す」としている。

次に挨拶に立った松本剛明党政調会長は、(先日の前原代表とのブロガー会見にも同席していただいて顔見知りである)その他に、プラトンは、民主党のシンクタンクとして機能しながらも、「党からの一定の独立性と協調」、「霞ヶ関の取捨選択への可能性を切り開くこと」、「生活者視点の重視」を基調とするとした。
他に、「プラトン」へのそれぞれの参加は、テーマに協調してであり、参加がイコール民主党への直結には繋がらないということも進行の松井孝治参議院議員からコメントされた。シンポジウムに参加している論客がそのまま民主党への支持を表明するものではないという配慮だろう。

シンクタンクとしての「プラトン」についての総括的あるいは組織的な説明は、この冒頭の説明がほとんど全てであり、少々物足りない。運動体をどのように組織していくか、あるいはアクションプランの提示などはなし。その後のセッションで時折プラトンの「理念」は語られるが、具体的な活動計画は未定なのか明確にされなかった。現在の段階では非常に理念的な部分が先行しているのだろう。

#何よりも、ちょうど海外にいる前原代表の出席がなされないことは、非常にこのシンポジウムのPR効果に核を欠いた印象は否めない。せめてビデオメッセージなどの形でも考えられなかったか。これは会合終了後に松本氏にも申し上げたが。



■第1セッション 地域主催の国づくり

パネリストは
・増田寛也(岩手県知事)
・神野直彦(東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授)
・福嶋裕彦(我孫子市長)
・逢坂誠二(前ニセコ町長)

自民党の「三位一体改革」のビジョンに対する、地方からの視点による評価と批判・・といったところから話に入る。増田岩手県知事がモデュレータの役を果たす。非常に手馴れておられる印象だが、進行は少々固め。

●我孫子市長の福嶋氏から

・国庫補助負担金、地方交付税の問題点の指摘。市民の意志に基づいての自治体の運営の仕組みの提案。
・ローカルマニフェストの体験。予算策定を早期から公開してきた我孫子市の例。

(やや唐突に始まった印象で、最初は互いにこの場に戸惑っておられる印象。プレゼン素材も不足しており、朴訥に語られる言葉が少々聞き取りにくい。)

●神野教授からは、

・地域ニーズに金銭ではなく現物給付で答える方向に流れつつある、中央集権の危うさ、分権の流れへの必然が提示された。
・課税権をもっと地方へ。税源と財政を地方に委譲することの重要さ。
・補助金4兆円の削減のあり方は不十分で再検討必要。
・法人税を増やし消費税は財源として地方に委譲。
・「小さな政府」は「小さな市場」で成立する。(=夜警国家)現代の日本にそぐわない。市場の巻き起こす問題は国が調整すべき。
・associated democracyの理念=小さなコミュニティに分離して新しい生活スタイルに添うていく自治イメージ(引き篭もりや非行、凶悪犯罪への処方にもなる)
・地域がやるべきことを地域に委ねる(=人の絆)ことで民主主義を再構築すべき。
・平等に未来社会を形成し自分の生活形成への参加をするには分権しかない。

(アカデミックな視点からの「小さな政府批判」と分権化への提言)

●逢坂誠二衆議院議員から

・ニセコ町長だった体験から
・政策決定のprocessから地方が関与すべき
・政策判断においてマーケットメカニズムを偏重している小泉政権の体質批判
・真の民主主義社会は中央集権ではなく富の「民主的配分」がなさえる社会。
・新しい資産を生み出すよりも既存資産の活用を行っていく時代。
・自治と国政の乖離の問題
・来年は40%減の予算編成を強いられる自治体もある。大変に苦労している状態。
・ニセコ図書館の成功例→市民が運用することでカネ以上の価値が生まれている。
(役人は定型的)
・政策決定processへの市民参加の必要性

(逢坂議員の説明は的確でわかりやすい。ニセコという小さなコミュニティでの町長経験という、コンパクトな行政経験と国政での分権論議をつないでいくにおいて的確な人材である印象。安曇氏が会場で急遽設置した専用サイトにもいち早く気がつかれ、まとめに対する修正をセッション終了後直ちに入れてこられ、安曇氏と共に驚いた。)


●増田岩手県知事から


・田野畑村の報告


●会場からの質問に答える。

(会場からはあらかじめ配布した質問用紙による質問をあつめ、それをモデュレータがとりまとめる形式)

・地方分権の受け皿として力不足な自治体も多いのでは?
→受け皿として微弱な団体は多い。範囲を限定してレベルをわけて委譲すればいい。

・霞ヶ関が発想乏しいのはなぜだと思うか?
→官僚出身の増田知事、苦笑。神野教授、教え子に「霞ヶ関」多し。同じく苦笑い。
→歴史にレールが敷かれている時代は官僚の時代。今はハンドルを切る時代。官僚的スタンスでは不向きな時代。(神野)
→how to は長けるがwhyに欠ける(神野)
→政治がビジョンを提示する能力に欠けているのでは?(神野)
→「純血」は多様性への変化に弱い(逢坂)
→(官僚と違い)政治家は選挙の洗礼により目覚める。ポピュリズムではないが背後に支えてくれる者(有権者)が必要。(増田)

最初のセッションであるということもあり、また冒頭のシンクタンク設立の宣言から、いきなり「地方と中央」「分権」の問題に入ったセッションとの関係性を理解するのに時間がかかった。一般にこのセッションでは全体的にプレゼンテーション素材などが準備されておらず配布資料も乏しいので、相当意識を集中して聞かざるを得なく、産業界のプレゼンテーションの手法をもっと取り入れて進行して欲しいと感じた。
諸氏の各地域での実績も、資料配布がされていると聞きやすい。
(ここまで僕はPCを広げていなかったが、資料参照しようと、PCをネットに接続して、逢坂氏や福嶋氏の実績などをリサーチしながらセッションを聞いた。)
そして他のセッションにも言えることだが、全体として「中央と地方」「分権の新しい方向」「地方交付金の問題」などの勉強にはなるが、民主党としての方向性示唆、自民党との差異に関しては感じられず。後にも出るが自民党でもできる改革ではないかと印象。
プラトンとしてどう取り組むのかの姿勢の示唆が欲しいが、それは次のセッションでなされるのだろうと期待。

さっきから僕はネット中継をしているらしい右手のPCを気にしてそれも場所を探そうとしているのだが見当たらず。プラトンのサイトも募集記事がまだそのまま出ている。事前にネットで資料を配布してくれるとセッションの中身もより頭に入るのだが。パネリストにもそれは相当負担をかけるけれどね。

今日のセッションに「分権」「地域のコミュニティ」が大きなポジションを占めるのだということも第1セッションの途中でようやく理解する。今日のシンポジウムでは外交や憲法などについてはほとんど触れられない予感・・。

休憩無しでインターミッションセッションに入る様子。

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッションへ続く

【参考記事】
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)

【参考リンク】
開会-シンクタンクはどこに位置するか?:民主党「プラトン」記 (tacker's burrow)
第1セッション-国民を味方にするために:民主党「プラトン」記 (tacker's burrow)


 

【注】

●有限責任中間法人とは

平成14年4月からスタートした比較的新しい形態の法人。中間法人法に根拠を持ち、中間法人は「社員に共通する利益を図ることを目的とし且つ、剰余金を社員に分配することを目的としない社団であり、この法律により設立されたものをいう」と定義されている。       
「社員に共通する利益を図る」とは公益(不特定多数の者の利益)を目的とせず、社員自らの利益を図る目的とされている。ここで意味する利益とは、経済的のみならず精神的な意味も含む。対外的活動によって得た利益(剰余金)を社員に分配することはできない。ただし、中間法人の活動経費等に充てることはできる。

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December 10, 2005

民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)

forum1


シンポジウム会場からとりあえず第一報。(結局なんだかんだ言って、「ブロガー枠」での参加になった。)ブロガーのXXXさんですね。と確認された後、「ブロガー席?」へ。でも無線LANなので意味なし。適宜に座ってくれと言われました。
定員150名の六本木ヒルズ会場はほぼ満員。別室にサテライトも設けられている。平均年齢は30-40代かな。ブロガー枠はやはり律儀に五名程度だった模様。インターネットテレビに中継しているということだが、URLがはっきりしない。民主党のサイトからもリンクされていないんだね。ちょっと残念。
今2番目のセッション「コミュニティ・ソリューション」が始まったところ。金子郁容氏、パワーあり。ずっとメモをとっていたんだが、無線LANは好調なのでちょっと「ブロガー枠」の義務感から(?)書き込んでみたところ。

また詳細は後から。R30氏のような嵐のタイピングもできないので。前の席でAaさんが熱心にメモをとっている。あとからまたすごいレポートがあがるだろう。

forum2

(インターネットへ中継中?・・どこだURLは。
会場で一度インフォがあったんだがはっきりせず )

forum3
(金子氏パワフル)

【追記】

●民主党さんに聞いてようやくURLを画面に出していただいた。「この会場にいる方に伝えても意味がないかもしれませんが・・」って・・。意味があるんだって。ブロガー呼んでることを忘れてる。こういうところがなあ・・

で、実況中継URLはここ。 始まるときに教えてくれればいいものを・・

【追記2】

●2つ隣に座っている安雲さんが現場で専用サイトを作ってしまった。すげ。こういう人を大事にしようね。

【追記3】

肝心な中継URLのタイトルが画像になっているのでは、「民主党」などのキーワード検索にも引っかからない。「プラトン」ではみんな検索しないでしょう。中継している場所にどうやって人がたどり着くのか考えるべきですね。こういうひとつひとつでの手法を洗練させるように、変えていく必要ありなんだろうな・・。

【番外】

クロージングセッションでの増田岩手県知事衝撃発言。どぶろく特区の話で。
「どぶろくは岩手では昔からみんな作ってます。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッションへ

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December 08, 2005

驚いた---首相、民主に大連立打診

ライブドアニュース経由で。驚いた。

首相、民主に大連立打診 前原代表は即座に拒否

小泉純一郎首相が今年9月下旬ごろ、自身に極めて近い人物を通じて自民、民主両党の「大連立」の可能性を民主党の前原誠司代表にひそかに打診していたこと が7日、明らかになった。前原氏が即座に断ったため首相の大連立構想は「幻」に終わったが、衆院選で圧勝し、与党が衆院で3分の2を超える勢力を獲得した にもかかわらず、民主党に連立を持ち掛けた首相の「真意」をめぐって、与野党に大きな波紋を広げるのは必至だ。
 関係筋によると、この人物が首相の意向を踏まえて前原氏と会談。構造改革推進へ強力な体制づくりや将来の憲法改正も視野に、首相が民主党との連立を望んでいることを説明したという。
これに対して、前原氏は政権交代可能な2大政党制の確立が必要との立場から、自民党との連立に応じる考えがないことを伝えた。(
2005年12月08日02時00分 共同通信)

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僕らは静かに消えていく

というのは、山崎まさよしのナンバーだけれど、ここで消えていくものは恋でも、あなたや私の命でも存在でもない。お父さんの今年のボーナスでもない。

「ブロガー」という属性というのはいったい何だろうとこのごろずっと考え続けてるのである(「僕はいつブロガーなどという謎の生き物になったのだろう」)。例えば、このシンポジウムで「ブロガー枠」というようなものを目にすると、つくづく何なんだ?と思う。
確かにこの間、民主党には「ブロガー懇親会」の名のもとに行ってきたわけであり、いまさら何を言っているのかと思われるかもしれないが、「ブロガー」が「ブロガー」として存在価値のようなものを認められているのは、ブログをやる人間がまだ少ないからである。

ブログブームだの何だのと言ったって、ほとんどの人間はブログのことなど考えて生きていない。勢い、たまたま「ブログなんてものに夜昼無くうつつを抜かし、アルファがどうのガンモがどうの」などと言っている一連の人々が(あーそうだよ、僕もその端っこかもしれん)「ブロガー」などと呼ばれ、あたかもそこに何か一般の人間とは異なる属性があるかのごとく振る舞い、あるいは扱われている。しかし、そもそもブログをする人がもっと増えてくれば、社会はブロガーだらけになるのであり、ブロガーだらけの社会では属性としての「ブロガー」は逆説的に言えば、消えていくのである。属性としての存在理由を失うからである。過去にも多くのものがそうやって消えて行った。「テレワーカー」だとか「タイピスト」とか(いやこれは違う)「SOHO」なんてずいぶん国は力を入れていたけれど、いまや瀕死の概念だ。なぜか。自宅を仕事場にしてネットワークやパソコンを駆使する「SOHOワーカー」なんてものが普遍化して当たり前になってしまい、属性を規定すること自体に意味がなくなったからだ。僕は早晩、「ブロガー」も同じ運命を辿ると思う。ブログが普遍化すればするほど、属性としての「ブロガー」は消えていく運命にあるのだ。

「ブロガー枠」なんていうのは、その最たるものであり、もちろん民主党さんにしてみれば「この一歩は小さいが民主党にとっては大きな一歩である」のだけれど、頑張ってるなとは思うけれど、考えて見ればずいぶんとおかしな話だ。

まず政党が「ブロガー」と「市民」を分けて遇しているのも、新規性は評価するがそう長く持ちこたえるやり方ではない。僕もあなたも生活者であり市民であり、ブログを持って発信していることで一般の生活感覚から遊離するわけでもなんでもない。政策への要求も大きく変るとは思えない。「ブロガー」と「一般市民」には、都市と地方の政治への要求に差が無くなってきているということよりも、もっと曖昧な差しかないのであり、政治に対するスタンスにも、それほど大きな特徴があるとは、思えないのである。「たまたま」ブログ「も」やっている一般市民であり、その同じ人が「たまたま」編集者であったりエンジニアであったり、犯罪者であったり、変態であったり(?)するのである。人格者であったりもするだろうがどうしようもない屑かもしれない。発信力があるかもしれないという意味では利用価値はあるだろうが、その程度のことである。

で、民主党のシンポジウムである。そもそもこの「5名のブロガー枠」というのは、会場にLANの口が5つしかないので、そう決まったという説がもっぱらである。(僕が調べたところでは4つしかないように思うのだが違うのか知らん)ところが、これも誰かが指摘しているが会場には無線LANもあるようだ。だから本当のところ、このLAN口の数なんてあまり関係がないのである。
さらに、である。そもそもR30さんじゃあるまいし(笑)、せっかく出席したその会場で、嵐のようなタイピングで、、速さを勝負にネットに一刻を争って速報記事をあげるような性質のシンポジウムでもあるまい。何たって今、前原党首が外遊中だし(!)ってそれは関係ないか。通常は良心的な「ブロガー」であれば、家に帰ってからゆっくりとエントリーを上げるだろう。そう考えれば何も「ブロガー枠」なんて制限する必要もなければ、そういう設定をすること自体もおかしなことになる。もっとも民主党ではこの「ブロガー枠」の人たちとは後日懇談の会を設けると言っているから、それを意識したのかもしれないが、ブログを発信してくれる人なんて、5名どころか10名だって15名だっていたって良いんだから、この後日の懇親会への出席者を決める時点で絞り込めばいい話で、やっぱり何も「ブロガー枠」なんて事前に決める必要はなかったんじゃないかな。

と言いながらこのブロガー枠に申し込んでいる奴がいる。誰だ。ここにいる。えっ誰?誰?(爆)

実は数日前に、民主党の議員さんから先日の懇談会に出席したメンバー全員宛に、席は用意しますよという暖かい招待メールをいただいたのだけれど、その中で申込者が既にいると、ばらされてしまった。だから、幻のような「ブロガー枠」に申し込んでいる奴が、何をごたごた言っているのかと思うかもしれないが、僕は昔から募集をかけているものにはつい、申し込んでしまうという悲しい積極性があるのである。(笑)とほほ。

それにこうも考えているし

自民党のブロガー会見(2)-------やっぱり呼ばれてから行くだけでは駄目だろう。

だが一方で思う。そもそも、こういったら悪いが、民主党のシンポジウムは、浜崎あゆみのコンサートではないんだから、出席したかったら、ブロガー枠ではなく、皆一般として応募すればいいのである。めったにすぐ満員になるような混み具合になるとは思えない。前原さんも来ないし(って別に嫌味じゃないぜ)で、おもむろに現場でPCを取り出し、「期待されるブロガー像」を振舞うもよし、そ知らぬ顔でメモでもとっておいて、自宅に帰ってから記事にすればいい。それで全然OKだ。そこまで先を読んで応募したんだからねって、誰に言い訳しているんだ。お前は。

事後の懇談会だって、行きたいなら行きたいと申し込めばいい。ブロガー枠に入ろうが入るまいが、本質はそういうことではないはずだ。パソコンを抱えて現場でうろうろすることにより、「先進的な政党」に生まれ変わろうとする民主党のイメージ戦略に協力するのもやぶさかではないが、より大切なことは他にあるはずで、この国の政治の一端に、生きている私たちが僕たちが、どんな場所でどんな形で顔を突っ込むのかという方法論の問題だ。投票以外に政党と接する機会がなかなかないのも事実であるが、目を凝らせば議員の国会報告会や公聴会など、一般であっても参加できる機会はある。要はモチベーションがあるかどうかだと思うのだ。こういう場面に接点を持とうとするかどうかの。持ちたい奴はあらゆる機会を取り上げて持てばいい。そうでない人は無理することはない。で、これは散々論議されている「ネットジャーナリズムとは」みたいな議論とも異なる。そういうことではなく、学校で教えているような言葉で言えば、市民の政治参加形態の今日的バリエーションの問題なのだと思っている。

もちろん「ブロガー」という「泡のようにつかの間の」属性を利用するのも、それが有利ならありだとは思うよ。どんな形でもいいんだ。入り口は。この時代の中で「そこ」に顔を突っ込んでいく気持ちがあるか、動機があるか、ないかだ。僕はそう思う。
「ブロガー枠」は抽選というこれまた大胆なオペレーションだけれど、まあ、LANの口数などに僕らの想像力は縛られないでいきましょう。(抽選の結果は明日決まるそうだ。)

こんな属性は時代とともに消えていく儚いものだが、消えないものもあるはずだ。そこで何かが変るなら変る。かもしれない。要はブロガー枠とか一般枠なんて気にしないで、行きたい人はどんどん行って、ブログで発信するならがんがんすればいい。そういうことだ。


 

【参考リンク】

●民主党シンポジウムに行きませんか? -人柱募集中-  (tracker's burrow)
●民主党のシンポジウムに参加します (安曇信太郎の「イヤならやめろ!」 )
●トラックバックセンター「民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム」

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December 01, 2005

広島の事件で----産経の主張

finalventさんの日記経由で。

これも結局根は同じ話か。「外国人摘発数の増加」を言うならば、「在日外国人全体の数の増加」を、母数として同時に論じなければ、在日外国人が「可哀想」だ。善意か悪意か知らないが、書いてて気がつかないかね。


来日外国人による犯罪は、年々増加し、わが国の治安悪化の大きな要因となっている。警察庁によれば、今年上半期に摘発された外国人は前年同期(一-六月)に比べ3・4%増加、約一万八百人で圧倒的に中国人が多く、次にブラジル人となっている。

外国人の来日は増えこそすれ、減りはしまい。法務省や警察当局にとっての課題は、来日外国人の就労先や居住地などをいかに把握して、犯罪防止につなげる か。それには、治安の最前線に立つ交番の役割は大きい。また、これからは地域社会が彼らとともに安全・安心をどう守るかを考えることが必要な時代になった といえる。(産経朝刊 主張 12/1 【主張】広島女児殺害 地域一体で安全高めよう


【追記】

ここまで書くならこちらも半端にしておくことは許されないだろう。ここから引用。

「外 国人登録者数は197万3,747人で,前年に引き続き過去最高記録を更新している。この数は,平成15年末現在に比べ5万8,717人(3.1パーセン ト)の増加,10年前(平成6年末)に比べると61万9,736人(45.8パーセント)の増加となっている。外国人登録者の我が国総人口1億2,768 万7,000人(総務省統計局の「平成16年10月1日現在推計人口」による。)に占める割合は,平成15年末に比べ0.05ポイント増加し,1.55 パーセントとなっている。」 {平成16年末現在における外国人登録者統計について(概要)より}

【参考記事】

なぜ僕は未だ誰も殺していないのか(2)---「暗闇」を「暗闇」から覗き込むということ。


2005 12 01 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (8) | トラックバック

November 11, 2005

政府インターネットテレビ----ブロガー懇親している場合じゃないかも>民主党様

報道では聞いていたけれど、
そふとさん霞ヶ関官僚日記経由で見てみた政府インターネットテレビ
ベタな名称だけれど、クリックすると結構「ぎゃっ」。

調べてみると、昨年の12月に既にコンペに出されていたもの。
既に1年前だぜ。懇談している場合じゃないかもだよ。前原さん。

Webサイト(「政府インターネットテレビ(仮称)」)のシステム開発の企画競争について 

既存の記者クラブ等々の折り合いは?
メディアとはどのくらい「ナシ」がついているの?

今日の段階では疑問だらけ。

2005 11 11 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

October 17, 2005

それほど「楽天的」ではいられない。----「火車」のようなIT企業のトラウマ

tbs

10/16付の読売新聞によれば、楽天がTBS株15.46%の取得に要した資金は880億円。その多くを手元資金の活用や株式発行ではなく、複数の大手金融機関からの融資で調達しているという。

ライブドアがニッポン放送買収に際して使った転換社債型新株予約権付社債(MSCB)は、リーマン・ブラザーズ証券が、ライブドアの買収策がどちらに転んでも損はないように仕組んだフレームであり、堀江氏の「冒険的過ぎる」手法が注目を浴びた。

楽天の場合、こうしたリスキーな手法はとらなかったわけだが、2004年12月期の楽天の連結決算の経常利益は154億円。仮に1年間資金を借り続けたとすると、楽天の負担は10億円程度になると見られ、統合交渉に時間がかかれば、財務的には決して少ない負担ではないと指摘されている。

もっとも、楽天の高い時価総額からすれば、さしあたって金利負担の少ない1000億円程度の転換社債を発行することも可能であるとして、この見方は一方的であるとする論もあるようだ。
1株主が20%を超えると発動されるとされるTBSの新株予約権の存在を伺いながら、村上ファンドとの連携を持ちながら、さらに買い進める資金力はニッポン放送買収時のライブドアよりもむしろ余力がありそうだし、全体によく計算されている印象もある。

だが、ここで少し別の論点からこの話題を考えて見たい。

売上高の圧倒的に少ない楽天が(楽天455億円(2004年12月期)/TBS3,017億円(2005年3月期)TBSを優位に立って買収にかかれるのは、言うまでもなく、高い株価を背景にした時価総額の差によるものだが、(楽天約1兆円/TBS7,000億円)米国で同じような図式で推移したAOLとタイム・ワーナーの合併劇の顛末を見ると、一時的な時価総額に頼る資金調達がいかに危ういかが思い起こされてならない。

2000年の1月にタイム・ワーナーと、アメリカ・オンライン両社は対等合併をすることで合意した、と発表して世界を驚かせた。
新会社の売上高は年間三百億ドル(約三兆円)以上となり、活字、映像などの従来型メディアと、インターネットをまたにかけた巨大総合情報企業「AOLタイム・ワーナー」が誕生するというニュースは世界を衝撃的に駆け巡った。

このときの、タイムワーナーとAOLの時価総額は、AOL2500億ドルに対してタイムワーナーが1000億ドル.登場した新会社の時価総額は3,500億ドルとされた。
しかし、その後ネットバブルが崩壊し、AOLの業績は大低迷し、AOLを企業名からはずされる事態に追い込まれ、AOL創業者のキース会長も事実上、更迭された。
最近では、タイムワーナー社がAOLをマイクロソフト社に売却する交渉を進めていることが米国のメディアで報じられ、最近ではこれにグーグルも買い手候補として取りざたされている。

楽天とTBSに、AOLタイムワーナーの悲劇をそのまま安直に当てはめて考えることはできないし、地上波を中心にしてネットへの対応が大幅に遅れている日本のテレビ局が、「旧勢力」呼ばわりされるのは理解できなくもないが、現在の楽天は、その事業収益から考えれば、TBSを飲み込めるような規模の企業でないことは誰が考えても明らかであり、その資金源はその高株価が今後も継続することを前提にしている。
AOLタイムワーナー程ではないにしても、統合後の持ち株会社が支配する両者の時価総額は推定で2兆近くになるわけだが、それも楽天の破格の時価が維持できれば、の話であり、楽天の将来性へのマーケットの信頼性が落ちれば、すぐに時価は逆転する可能性がある。
そうなれば、飲み込んだはずのTBSに今度は楽天がイニシアティブを握られる可能性があるのであり、ここでAOLタイムワーナーの悲劇が思い出されるわけである。

楽天にしてみれば、資金調達力のある「今のうちに」より収益力を持つ媒体=テレビを吸収しないことには明日の高株価が維持できないという、ある種のジレンマにあることは確かであり、これはライブドアにしても、ヤフーにしても、ソフトバンクにしてもネット企業共通のジレンマ=火車のようなトラウマともいえる。つまりITという産業の「業」のようなものなのだ。常に次を「飲み込み」将来性へのマーケットの期待を裏切らないように走り続けなければならない。この産業ほど「堅実な成長」という言葉がなじまない業界はない。

よって、既存メディアの吸収に血道をあげる「性」に、明るい未来社会のメディアモデルばかりを強調するのも実態にはそぐわないように思う。特に楽天の現在の収益モデルが、時価総額1兆円というのは明らかに高すぎる評価であり、今後見通しにそう「楽天的」ばかりではいられないであろうし、三木谷氏はこのへんの危機意識は既に十分持っているように見える。

それにしても、日本のメディアを前にして三木谷社長が行ったという一時間近くのプレゼンテーションのほとんどが残念なことに報道されず、相変わらず敵対的であるか友好的であるか、TBSが負ける勝つかなどといった典型的なゴシップ趣味でのみ、報道がなされている現状は実に嘆かわしいと思う。結局、この国のメディアにとって、通信と放送の融合の有効性などといったテーマはまだ真剣に受け止められてはいないとしか思えない。
多くの報道番組の「評論家」も、楽天のやりたいことが何だかわからないとか、通信と放送の融合といっても具体性がないとか繰り返すのみである。具体性がないのは三木谷社長のプレゼンなのか、あなたの基礎知識なのか。

一方でAppleのiPodがついに動画対応して、podcastが次世代のコンテンツ配信媒体として、急速に表舞台の存在感を確立しつつあるのを見ると、ゴシップ報道と実体のないM&A騒ぎに終始している間に、今後のメディアシーンにおいて、日本企業全般にとって取り返しのつかない事態になってこないかと先が憂えてならない。

「通信と放送の融合」以前に、ここでもまた、「日米統合」されなければ良いが。

2005 10 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

October 03, 2005

靖国参拝は犬の散歩ではない----参拝私人論の不自然

yasukuni

小泉純一郎首相は30日の衆院予算委員会で、首相の靖国神社参拝について違憲判断を示した同日の大阪高裁判決について「私の靖国参拝が憲法違反だとは思っていない。首相の職務として参拝しているのではない。それがどうして憲法違反なのか、理解に苦しむ」と述べ、反論した。松本剛明氏(民主)の質問に対する答弁。首相は同日夕、判決が自らの参拝に与える影響を記者団に問われ、「ま、ないですね、(判決自体は)勝訴でしょ」と述べ、否定した。
 答弁で首相は「私は戦没者に対する哀悼の誠をささげるということと、二度とあのような戦争を起こしてはならないという気持ちで参拝している。それが憲法違反であるというのはどういうことか」と判決を批判。年内の参拝の予定については「適切に判断する」との立場を改めて示した。(毎日新聞 - 10月1日)

一体この人物は何度同じ言葉を繰り返すつもりなのであろうか。「理解に苦しむ」のはあなたの頭の中である。あなたがこれまで「適切に判断」できていないからこそ、靖国は近隣国に外交カードに使われる羽目になっているのである。
のみならず、国内の伝統的国家主義、あるいは保守に属する人々が、この「外国からの干渉」を事由にして、憲法の政教分離の原則に対しても感情的な批判をする風潮を呼び起こす結果となり、事態をますます「面倒な事態」に追い込んでいる。

このサイトでは何度も靖国については取り上げているが、

A級戦犯の分祀や東京裁判の再評価といった作業への誘惑にこの国家を誘導することによって得られる国家的利益はない。同時にまた、中韓の「政治的思惑」からなされる外交攻勢に対して、守勢に追い込まれる結果を招いていること自体、明らかに参拝が引き起こしている「国家利益の損失」である。
つまり今更止めれば外交的敗北と受け止められかねない結果を恐れなければならず、さりとて、強行を続ければそれもまた周辺国から交渉の材料として駆け引きに利用される。

外交の目的は様々あるが、国家間の利益調整という現実的側面の背後には、近隣国との平和的交流を構築することで、国家の安全保障を確立するという、「より現実的な」面も存在する。この点に関しては綺麗事ではないのであり、付け込まれる余地のある行動は、相応の熟慮がなされるのが当然である。

元来、政教分離の原則は、特定宗教や思想に対して、国家が過剰に肩入れすることの弊害を防ぐ目的と共に、こうした対内的/対外的な「国家利益の喪失」や混乱を避けるための予備的意味合いも結果として持っている条項であると解釈すべきであろう。

(これは原始的な20条の解釈とはやや異なるかもしれないが、現代的な政教分離の解釈はそこまであるべきであると、私論であるが確信する。)

小泉首相は、合理的に説明できない彼個人の、情緒的感情や思想、心情を国政の場に持ち込む傾向が明らかにあるが、それがこのリスクを継続的に発生させている原因となっているにも関わらず、そのことへの説明責任を明らかに怠っている。先の選挙でも意図的にこのことを政争のテーマから避けたのは周知の事実。

しかし、この問題は「さっぱりわかりませんねー」などという、横丁のオヤジぶって片付けられる問題ではないのは無論であり、今になって裁判所が私的参拝であるか否かを基準に違憲判断することも、誠に奇異なことである。

大阪高裁(大谷正治裁判長)の判決は、原告の賠償請求は退けつつも、(1)参拝は、首相就任前の公約の実行としてなされた(2)首相は参拝を私的なものと明言せず、公的立場での参拝を否定していない(3)首相の発言などから参拝の動機、目的は政治的なものである--などと指摘し、「総理大臣の職務としてなされたものと認めるのが相当」と判断した。

小泉首相は、参拝を「私的な行為である」とは明言していないが、そもそも参拝行為を、「公人ではなく私人としての行為である」などと、当の首相自身が、あるいは周囲の主観によって選択できる余地はあるのか?これも極めて疑問に思う。

参拝を「私人の行為」などと苦しい言い逃れを始めたのは、自民党の支持団体からの強い要請により1975年に三木首相が戦後最初の参拝を行ったときからである。当初は玉串料を公費から支出しないというだけでなく、公用車を使わず公人としての肩書きも使わないということで「私人としての参拝」をうたい、憲法違反を逃れたというのが、この茶番の始まりである。

私人論の一つの論点は、首相の人権的な観点を重要視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであり問題がない」という立場である。

しかしこれは苦し紛れの範疇を出ないと見なさざるを得ない。日本国の首相が靖国参拝を行った場合、国内は言うに及ばず、世界に対して報道がされる。中韓の反応のあり方の是非はともかく、それは具体的に外交への「無視できない影響」を及ぼしている。実際に昨今首相参拝が報道で取り上げられることで、靖国神社への参拝客が増えていることは事実であり、この原因に首相参拝があることが明らかである以上、参拝行為の「私人性」を言うことには疑問が残る。首相の参拝行為が及ぼす公的な影響の重大性を考えれば、「問題がない」どころか非常に問題のある行為であると思う。

「日本の小泉首相が靖国神社に参拝した」としてひとたび認知されれば、それは、どう考えても日本国総理大臣小泉純一郎の、公務行為でしかなく、その瞬間の端的な事象をのみ抜き出して、「公用車を使ったかどうか」とか、「玉串料を国庫から捻出したかどうか」といった基準を元に判断すること自体も、極めて不自然な基準であると解せざるを得ない。

首相が「私人として参拝」することに問題がないとすれば、先の「国旗国歌法」における東京都の教職員の君が代や日の丸に対する厳しい強制などは、誠におかしなことになるわけであり、そこでも「教職員の私人としての国歌斉唱の拒絶事由」をなぜ認められないのか、という議論になってくる。教職員の行為の自由は、私人として免責されず、それよりも遥かに重要な影響力を持つ、首相参拝が「私人である」で済むのか。

おおよそ、高度な「公共の利益」の前には、私人としての利益は制限されてしかるべきであり、首相ともなれば次元の高い「公人性」を24時間負っていると解されるのが自然であろう。。
個人の思想信条の自由というが、首相在任中の参拝の回避が、人間小泉純一郎の人権を「回復できないほど」侵害するとは到底思えない。

「私人」という言葉が、参拝を正当化するための概念として今でも頻繁に使われ、それにメディアや国民、そして裁判所までが巻き込まれて論争している状態の異常さが、そろそろ意識されるべきではないか。

何よりも、そこまで「私人」を強調してなされ、外交物議を巻き起こす首相参拝こそ、かえって靖国に眠る霊を冒涜することにならないか。

言うまでもないことだが、靖国参拝は、首相がプライベートで行う犬の散歩ではないのである。


【参考記事】
●横丁のオヤジの繰言は聞きたくない--靖国神社参拝問題に関して
●ナショナリズムも合理的かつ未来志向で願いたい。--靖国神社参拝問題に関して
● 靖国神社と首相と私(たゆたえど沈まず)

2005 10 03 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

September 30, 2005

知的で安全な杉村太蔵の作り方レシピ

taizo

軽率で危なっかしい新人議員から、知性的で有望な若手の新星に見せる方法である。

成功率120%。

簡単である。彼に教えてあげたいくらいである。
週末に「本を1冊」読むよりも手っ取り早い。君でもできる。

発言のどこかに、次のいずれかの話題を貼り付ける。いや、散りばめるのである。
これだけでいい。それ以上は、なーんも考えなくていい。

●国と地方の長期債務残高
●国民1人当たりの長期債務
●普通国債の残高
●議員年金の仕組み

ではやってみよう。GO!

赤字は後から付け加えたものである。


「先日までヒラリーマンでございますからぁ。それはともかく国と地方の長期債務残高なんて、729兆円なんですよ!」

うーん、あまりうまくいかないな。次いこう。

「料亭行ったこと事ないですよ!行きたいですよ!料亭! ところで国民1人当たりの長期債務がいくらあるか、記者さんご存知ですか?576万円ですよ!576万円!」

結構いい。高度な批判の表現か?記者が深読みして黙りそうだ。次。

「新幹線も飛行機もグリーンですよ!? グリーン! グリーンなんて乗ったことないですよ!当選したおかげで移動は全部グリーン! これが全部タダですよ!? タダ! これってどうなんですか?国抱えている普通国債の残高が482兆円もあるんですよ? それでグリーンですよ、グリーン

なかなかいい。批判精神にあふれた印象が出てきた。次。

「当選して最初に議員報酬を調べました。そしたら年収2500万ですよ。ウヒョ~。そのほかに文書なんとか費というのが100万円出て、それも年かと思ったら月ですよ。どんなに電話かけたら100万円になるんですか。僕はもらう方だからいいけど、これが払うほうだったムカツクでしょうね。
あとね?議員年金って言うんですか?あれ調べたんですよ。そしたらあなた、10年在職で412万円 在職1年ごとに約8万2干円ずつ増額。国民年金なんて40年支払って年間79万7千円ですよ? 一度やったらやめられませんよ、もう。(笑)

如何であろうか。彼の軽薄な発言も、何か深い思索と準備、鋭い批判精神に基づいて意図的に発せられているかのような香りが漂ってきたではないか。明日の日本を託したくなったでしょう?こんなことは、BigBangほどの俊才であれば、小手先三寸で、10分ほどでできるのである。週末2日もあれば、君にも考えられるであろう。君のイメージは、君の良さを保ちながら360度いいものになる。悪くはないっすよ。(あ、それじゃ元に戻ってしまう。 笑)

杉村君においては、ぜひともこのブログを読んで、手っ取り早くマスコミと国民を丸め込んでいただきたい。切に、切に希望する。

ああ、教えたい。

【参考サイト】
●日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタ
●国会議員の年金制度

2005 09 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

September 20, 2005

前原新代表-----ようやく民主党のメッセージが聞こえてきた。

民主党、前原新代表の政治ポジションは、彼が師事したした高坂正堯教授のスタンスが、僕がゼミで師事した、旧民社党系ブレーンの某教授と実は非常に近いこともあり、不思議なほど、ほとんどの主張に共感できる。
政治学徒としては端っこも端っこの自分ではあるが、やはり20歳前後に形作られた思想のスタンスは、「三つ子の魂百まで・・」か。

前原氏の政治ポジションには、米国型の新保守主義に対抗する、欧州型の民主社会主義の色合いが濃いが、平和主義をベタに掲げる、いわゆる「左翼」とは一線も二線も画す。共産党の主張と変わらないなどという批判があるが見当違い。また、改憲論であることから、「右翼」「タカ」の指摘もあるが、もともと氏の主張は、欧州の民主社会主義では常識の範囲内と理解する。自民党保守の国家主義的な思想とは根本的に異なる。これについては高坂氏の著書にも目を通すべき。

とにかく僕にとっては、その政治姿勢に賛同できる点が多い。


★賛同できる点(BBはBigBanのコメント)

●最小不幸社会の実現。教育、社会保障に重点。

(BB)もちろん、小泉首相の「小さな政府」への対抗理念。実は、2003年における民主党のマニフェストにちゃんと「最小不幸社会」は謳われているのだが、今回は全くといっていいほどアピールされることはなかった。僕もほとんど意識しないまま先のエントリーでいまさらベンサムの「最大多数の最大幸福」に触れてしまったのだが、「最小不幸社会」は現代的な解釈として悪くはない。なんだ、もう少し大きな声で言ってくれればよかったじゃないか。「日本をあきらめない」よりははるかにいい。小泉自民にも対抗できる。とにかくこうした大事なメッセージをきっちりプレゼンテーションすることに、先の岡田民主党は致命的に失敗していたと言わざるを得ない。

●憲法は九条2項を削除、自衛権を明記。集団自衛権は限定容認。
(BB)賛同する。

●インターネット、 IT を駆使して国民とつながる
(BB)当然であろう。前原氏でなくとも、総務省の、ホームページやブログを「文書図画の頒布」であるなどという、「勝手な公職選挙法解釈」は即刻中止させるべき。法案改正が待たれる。(いわゆる142条問題)

●首相の靖国参拝に反対
(BB)これについては、何度も触れたとおり。

●国歌国旗法案に反対
(BB)ここに触れたとおり。

●対案の提示→重要法案には、批判のみでなく、必ず対案を提示する。
(BB)ごくまっとうで当たり前の主張。

●定住外国人参政権に賛成
(BB)僕はいわゆる「定住外国人」の能力をむしろ日本国内に取り込んで融和すべきという立場であり、これに賛成する。

●労働組合、各種業界との関係などについて、既得権擁護的議論は根絶。
(BB)いわゆる旧社会党など左派との隔絶

●米国のイラク攻撃に反対する。
(BB)年内の撤退という民主党案に同意する。

●北朝鮮への即時経済制裁には反対する。
(BB)拉致問題の解決については日本政府に勇断を求めるが、即時の経済制裁には効果が疑問。6カ国協議等や拉致問題以外の包括的な状況把握で、他の政策をも総合的に勘案して実施すべきであると思う。

●日本の国連安保理事国入りを支持する。


★賛同できない点

●核武装の可能性を否定しない。
(BB)核武装は非現実的であり抑止効果は望めない。たとえ軍備を持つ場合にも、僕は全ての核兵器の保持・使用に反対である。

(参考)
「日米同盟が解消される事態になったときは(核武装も)考える必要がある。その時点でも(核を)持つべきでないとは言えない」(前原氏の発言「毎日」2003年4月3日付)

●中国へのODA供与終了に反対。


★以下については判断を保留する。

●外国人労働者の受け入れ
(BB)何らかの制限を残すことは必要。無条件では賛成できない。

(その他)
高坂正堯門下ということもあり、全体的に安全保障や外交関連の課題には相当の論客であることが窺い知れるが、未知数は経済である。財政金融関連の政策の手腕が見えない。経済畑は若干弱いのではないかという懸念があると思う。おそらくこのあたりについては、これから勉強であろう。また、核武装を否定しないなど、まだその主張に問題がある非現実的な点もあるが、おそらく今後修正されるのではないかと思う。

とにかく、選挙前に代表変えたほうが良かったんじゃないか?民主党は。(爆)


【参考記事】

●イラク攻撃、自民は支持 衆院選・京都候補者アンケート (京都新聞)

●前原誠司(BLOG 爺の裏長屋)
●民主党党首候補、前原氏の思考(新聞拾い読み ほか)
前原誠司氏について (人生とんぼ返り)
高坂『国際政治』 /トート号航海日誌(読書録)

2005 09 20 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

September 15, 2005

民意は多数をもって正義とは呼べない。----偽のテントウムシ(2)

議会制民主主義は、多数派のみが正義を知っていることを、証明するためのシステムではない。政治に関わる機会をすべての公民に平等に保証するための制度に過ぎないのであり、それは小選挙区制が、あまた検討された選挙制度のうちのひとつでしかないのと同様に、その実現価値に過度な信仰を寄せることは間違っている。

つまり、「民意の多数を確保したから正義なのであろう」あるいは「民意の多数を確保したのだから正義と考えるべきだ」などという見方は、議会制民主主義という一制度に過ぎない、いわばシステムに、ある種の価値観が最初から内在しているかのように思い込むという点において、危険な錯覚がある。

民衆の選択したことであるから、正義である、あるいは正義となるべきだという考え方は我らの世界の思想ではない。議会制民主主義は、そうした価値観を、その原初から内在していない。この国のすべての選挙権を持つ人々、富裕であれ、貧困であれ、異性愛者であれ、同性愛者であれ、無知であれ、教養人であれ、すべての人に公平に一票を与え、その結果には従うべきであるという取り決めである

この取り決めは、民衆が選択したから「正義なのである」ということではなく、人々が等しく平等の権利で参加した結果選ばれた結果には従う「べき」であるということ「でしか」ない。

したがって、得られた結果は、「悪魔の選択である」こともありうる。民は過ちを犯すのである。これは歴史的に証明されている事実である。殺戮の前世紀において、悪魔の選択をしてしまった多くの民の嘆が聞こえよう。それを私たちはポピュリズムと呼んだ。これは民を愚弄するものではない。民を利用し扇動するものに向けてそれは叫ばれるのだ。

先の大戦、昭和16年の真珠湾奇襲の直後に民衆の声をシングル・イシュー・ポリティクスで対米開戦の賛否を問うたら、どんな結果が出たであろうか。答えは火を見るより明らかである。「民の声」が過ちを犯さないとか、「それは過ちではないのだ」とあらかじめ決める考え方は、むしろマルクス思想において、「プロレタリアートは生まれついてブルジョアジーに搾取されているものなのだ、だからプロレタリアートは無謬である」としたように、愚直な共産主義に近い。古い左翼史観の流れを、そこに感じる。

あまたある、知的なブログが今回の結果を解析するにおいて、このような「民衆史観」を、こともあろうに議会制民主主義の解釈の中心に据えようとしていることに自ら気がつかないことは極めて危険な兆候である。

「日米開戦」はその結果において招いたあれほどの災禍にも関わらず、もしもそれが「民主的に」進められていたら、正義であったか?あるいは「仕方のない」結果であったか?
否。であろう。

それはいかに民主的に進められたとしても結果として国家を破滅させた。手法が正しく選ばれたからといって、結果は正義になることはない。

では「偽のテントウムシ」を多数の友人によって「本物だ」とされた少年は、あのときどうするべきだったのだろうか?直ちに暴力で踏み殺すことが許されるわけはない。それは確かである。

彼は、英知と技量の限りを尽くして、彼の友人に、それが彼らの思っている「テントウムシ」ではなく、「ニジュウヤホシテントウムシ」であることを説得しなければならなかったのだ。あるいは昆虫図鑑を持ってきて見せても良かったかもしれない。ありとあらゆる手段を駆使して、知恵を尽くして彼はその説得をしなければならなかった。なぜなら彼には、確信があるのだ。彼一人が真実を知り、多くの友人たちはそれを知らないことを!

しかし、やはり彼が説得できなかったとしたらどうだろうか。友人は偽のテントウムシを本物だと信じ続けるだろう。これ以上彼にはどうすることもできない。彼は民主主義の前に敗北するのだ。多数決というシンプルな取り決めの前に!それは確かである。

だが、そうした場合でも、いくら民の圧倒的支持を受けたからといって「ニジュウヤホシテントウムシ」は「テントウムシ」にはならない。少年は説得に失敗しても、正義の前では真実の前では敗北はしていないのである。ただ、社会におけるプレゼンテーションの力において「そこでは」負けた。彼はもう一度それを証明するために立ち上がればいいだけである。なぜならこの場合「正義」は彼にあるのだから!彼はそれをうまく伝えられなかっただけなのだから!

政治はテントウムシなのかと言えば、もちろん違うだろう。昆虫学では、絶対に近い客観性で少年の正義を証明できよう。いくら彼が現実の友人世界で手痛い敗北を受けたとしても図鑑の世界では完全に敗北することはない。

政治は社会現象であり、社会科学である。自然科学ではない。正義の証明は、誰がどのようにして行えばいいのか?それが「偽のテントウムシ」だとすれば、それをどうやって証明すればいいのか?易しい課題ではない。

ひとつだけはっきりしていることがある。それは一選挙における票数によって証明はできないということである。なぜなら、それは人々に平等に政治参加をさせしめるための取り決めでしかないのだから。そこには並々ならぬものがあるのは確かであるが、価値はない。

#しかしこの取り決めごとを獲得するために流れた多くの血を、もちろん忘れるべきではない。

社会は輻輳し複雑である。取り決めごとの中には価値はないのである。
もしも、敗北を感じる人々が今いるなら、それはこの取り決めで勝利を得られなかったということであり、それはそれ以上でなければ以下でもない。

土台私たちにとって政治の価値とは何か?この日本という社会においての政治の価値とは何か?如何にすれば「正しいテントウムシ」を認識しうるのか?

その答をここでにわかに宣言すれば、それは自分の考えの浅薄さを証明することにしかならないであろう。そしてその答はおそらくひとつではない。ここが昆虫学よりも政治がより困難で難解な存在であることの事由である。

ただ、あえて僕は思う。

おそらく、それは人の幸福にあるのだということを。人の幸福を除外してあらゆる政治の正義はないのだと。

すべての人の幸福が桃源郷の彼方にあり、人々の手に届かないところにあるとすれば、かつてベンサムが引いたように、【最大多数の最大幸福 the greatest happiness of the greatest number】とその獲得の営みのみが、その答になるのではないか。これを議会制民主主義による代議員制という名の多数決で、決めることを良しとしなければならないまでに、人の歴史は多くの時間を費やした。にも関わらず我らの状況は道半ばであり、究極の正義にはまだ道は遠い。

人が絶望し、年に30,000人以上も自殺する国。累積債務残高は710兆円超にもおよび、国家が自らの責任をも放棄する国。周辺国に大なる疑惑を持たせ、自らの地域安全保障すらできない国。最低限の家族を維持する経済力すらもてない、将来を絶望する若者が大量発生している国。他国の若者の血の上に自らの平和を築いてきた国。愚直に生きてきた人々を改革の名の下に切り捨てる国。

そして、政治家が、一度も投票に行ったことのなかった大量の「浮動層」を劇場型選挙で躍らせる国。

どこに最大多数があり、どこに最大幸福があるのか。それを求める心すらあるのか。
勝てば幸福になれるというのか。負けさえしなければ幸福になれるというのか。

この国の政治が、その取り決めの過程に過ちがなかったからといって、全てを免責されるか。否。否である。そして最大多数が我らの国家のみに限られないのは当然。

これらに正義があるのであれば、「最大多数の最大幸福」に照らした結果のみによって、その結果のみによって判断されるべきであると思う。そこにはドラマも甘言もデマゴークも無力である。圧倒的な「最大幸福」を目指す真摯の前においては、一瞬の劇場に参加する「一時の幸福」の色は明日には醒めよう。

小泉首相。

あなたはいくら民の支持を得ようと、これを実現できなければ、偽のテントウムシでしかない。

僕たちはそれを忘れるべきではない。何百回も何万回も、それを唱える。

忘れるべきではない。

【参考】

●投票日の翌日に------偽のテントウムシ

●最大多数の最大幸福について

#ベンサムがそれに先行するベッカリアやヒュームなどの思想家から引用した、「最大多数の最大幸福」は功利主義的な政治思想のベースとなっているが、要約すると、以下のものとされる(竹内靖雄・<ヒュームの思考より)

①善とは幸福であり、幸福とは快楽が大きくて苦痛(不快)が少ないことである(エピクロス的原理)
②個人とは快楽を最大にし、苦痛を最小にしようとする(ただし、結果がつねにそうなるというのではない)
③社会にとって「正しい」行為とは、関係する人々の幸福を増進する行為である
④社会にとってもっとも好ましいこと、したがって目標とすべきことは、最大多数の人が最大幸福を達成することである
 
よって、最大多数の最大幸福(さいだいたすうのさいだいこうふく, the greatest happiness of the greatest numbers)は、「個人の快楽の総計が社会全体の幸福である」という意味ということになる(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(キーワード;最大多数の最大幸福より)

2005 09 15 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック

September 13, 2005

投票日の翌日に------偽のテントウムシ

tento

どうしてあんなことができたのだろう。今の自分からは想像ができない。

もう何十年も前の子供のころの情景である。小学校の低学年のころだったと思う。数人の遊び仲間が、「テントウムシ」を捕まえてはしゃいで囲んでいた。覗き込むとそれはニジュウヤホシテントウだった。テントウムシには似ているが、全く違う虫である。

「それはニセモノだよ!」

と僕は言い張ったが、誰も聞こうとしない。

「テントウムシだよ。」
「そうだよ、テントウムシだよ。」

本物だ、いやニセモノだと言い合ううちに、自分の言い分が正しいのに認めてもらえない、どうしたらいいかわからない焦燥感にかられた僕は、今思うと信じられない行動に出た。
「テントウムシ」を大切そうに取り囲んでいる子供たちの輪に駆け寄ると、その中に飛び込み、彼らが大切そうに取り囲んでいるその虫をいきなり、両足で踏み殺したのである。それも何度も、何度も踏み続けた。

なぜ自分がそんな行為に出たのか、今ではその気持ちを正確に思い出すことはできない。しかも僕は虫の大好きな、そこは普通の男の子だったのである。自分の言い分を相手にされなくて、きっと世界に独りきりになったような錯覚に陥ったのだろう。

思いもかけない乱暴な行為に、子供たちが息を呑んだ。

「こんなのテントウムシじゃない。ニセモノだったら!」

次の瞬間、自分の腕が乱暴に引っ張られ、体がふっと宙に浮いた。祖母が見ていたのである。

それから後のことはよく覚えていないが、僕は祖母によって、もしも自分がテントウムシであったなら、とっくに何度も踏み殺されているだろう、そんな制裁を受けた。ただ1つ違うのは、僕の体は大きくて祖母が踏み潰せなかっただけのことだ。こういう時の祖母の激烈さは、その後社会に出ても、どんな厳しい人に出会っても、二度とお目にかかれないくらい激しいものだった。

「謝れ!」

と迫る祖母に、それでも僕は

「あれはテントウムシじゃない、テントウムシじゃない」

と泣きながら足をばたつかせて言い張っていた。

僕に大切な「テントウムシ」をいきなり踏み潰されて呆然としていた子供がそれでも僕のほうを見ながら

「テントウムシだよ・・・」

と悲しそうにつぶやいていた表情を忘れられない。

この記憶のためかどうかはわからないが、今、僕は全く虫を殺すことのできない大人になった。

蚊などは「しかたがなく」つぶすことがあるが、家の中に入ったアリ、クモ、その他わけのわからない虫であっても、基本的に殺すことができないので、何とか「穏便に」家の外に出てもらおうと、涙ぐましい「努力」をする。馬鹿みたいである。

親しい人が、情け無用とばかりに小さな虫を叩き潰す様子を見ると、いったいどうしてそんなことが思い切りよくできるのかわからない。思わずその表情を覗き込む。

あのときの自分の振る舞いが思い出されるのか、見ているだけで身がすくむ。

遠い遠い幼い日。

期せずして自民が大勝した翌日。

なぜかそんなことを思い出した。

民意は多数をもって正義とは呼べない。----偽のテントウムシ(2)へ

2005 09 13 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

September 12, 2005

1行目か。外れにも程がある----自民大勝

およそすべての予想は、外れるために成されるとも言えるのである。それにしても限度というものがある。ここで前日に行った郵政法案の行方に関して、何行目で外れるであろうかと密かに予測していたが、まさか投票日に、それも1行目で外れるとは思いもしなかった。

悪夢の予想-----郵政法案の再審議で大変節が始まるぞ。



(予測1行目)
>●小泉自民党で単独過半数確保。しかし公明党を入れても3分の2には届かず。郵政民営化法案の衆院での再審議で可決する見通しが立たない。

驚嘆。


【補足】
まあ、今だから腹立ち紛れに言うわけではないが、当ブログは現状の公職選挙法の解釈には納得しかねるので、あえて意図的に「抵触の可能性を回避」していなかった。これについてはまた後日。

2005 09 12 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

September 10, 2005

悪夢の予想-----郵政法案の再審議で大変節が始まるぞ。

投票日前に、選挙後の醜悪な政局について、予想をしなければならない善良で真摯な国民BigBanは不幸である。

●小泉自民党で単独過半数確保。しかし公明党を入れても3分の2には届かず。郵政民営化法案の衆院での再審議で可決する見通しが立たない。

●そこで、小泉自民はあっさり変節。あれほど大見得を切った法案の大幅見直しを始め、反逆分子の当選議員と、民主党を抱き込みにかかる。

●反逆分子は、法案の見直しは自分たちがカラダを張った功績
だと胸を張って復党

●民主党は、10年以内という、郵貯銀行の政府保有株の放出プロセスの説明の明確化と、郵便事業の当面の公社維持など、一部の修正に民主党案が盛り込まれたとして、見当違いの「ホントは勝ったぞ宣言」で面子を保ち、岡田続投。

●修正法案が3分の2以上の賛成で衆院で可決。法案成立。

小泉自民も、反逆分子も、民主党もハッピー。国民唖然。郵便局員悄然。国民新党と新党日本は、ほとんどの議員が落選して休眠状態。

それなら最初から衆院で法案修正を行えば解散する必要なんかなかったではないか。小泉のあほんだらとBigBanが、またむきになってエントリーを上げるが、はてぶで6人くらいにブックマークされる程度の注目度で終わる。(爆)

●BigBanはまた生きるのが嫌になる。(爆爆)

いやだいやだ。

2005 09 10 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

September 09, 2005

投票ラブ・ストーリー?----憂国でアリマス

投票ラブ・ストーリーい?

問:貴国ノ若者ハ、ここまでやらないと投票をしてくれないのでアリマスカ?

答:そうでアリマス。

問:でアリマスか・・・

答:・・・・アリマス。

2005 09 09 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

小泉vs岡田----それでも「危険」は「未熟」より「危険」だと僕は思う

logさんのところ経由でたどり着いた「遠藤浩一覚書」さんの「ギリギリの判断」の論旨が明晰で感服。 

僕自身は、岡田氏の「未熟」より小泉氏の「危険」のはうがややマシだと、苦渋の判断をしてゐるが、「未熟」のはうが「危険」よりマシと考へる人は、今回 民主党に投票するのだらう。民主党に投じる人々は、この政党の未熟がわが国にいかなる災厄をもたらすかについてよくよく考へていただきたい。他方、僕も含 めて、自民党を支持する人々は、この総理の「危険」に連帯責任を負はなければならない。自民党を支持するといふのは、そこまで考へ詰めてのことでなければ ならないと思ふ。この選挙が「愚かにして重要」たる所以である。(「ギリギリの判断」より抜粋)

差し詰め、僕は「未熟」のほうが「危険」よりマシ論、あるいは、それでも「危険」は「未熟」より「危険」論者であろう。問題はたとえ、ぼくが自民党に投票しなくても、結果への連帯責任を免れないということであり、それが選挙制に基づく議会制民主主義という制度のの基本とされていることである。

不快である。    

【参考記事】
シングルイシューの行き着く廃墟(2)---わずか数十万人と呼ぶ豪儀な非情
シングルイシューの行き着く廃墟---ポピュリズムは自ら大衆を愚弄する

2005 09 09 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (7) | トラックバック

September 08, 2005

シングルイシューの行き着く廃墟(2)---わずか数十万人と呼ぶ豪儀な非情

小泉首相を、公の席でヒトラー呼ばわりした亀井氏が嘲笑の的になっているが、勢力を固める過程の1時期、国民車構想という「シングル・イシュー・ポリティクス」を掲げて国民の称賛を得たのは、まさしくヒトラーである。

#1933年にアウトバーンの建設を発表し、自動車を国民の手の届くものにすることを宣言したヒトラーは、「国民車構想」をぶち上げ、1938年にはフォルクス・ワーゲン生産工場を起工している。

亀井氏が間違ったとすれば、小泉を600万人殺したヒトラー自身にあまりに安直に例えたことであり、むしろ彼はヒトラーを生み出した構造を持つ、当時の世論を批判しなければならなかったのである。

むしろ彼はこう言うべきだったのだ。

全ての国民に自動車を持たせるというヒトラーの政策に賛同したからといって、彼の他の政策を全てあなたは許したか?と。

まあ、1つ心を空しくして、彼の言葉をよく聞いてほしい。

「らいおんはーと」(小泉首相のメルマガより)

「公務員を減らしなさい」、皆さん賛成でしょう。
「行財政改革を断行しなさい」、これも皆さん賛成でしょう。
「民間にできることは民間に」、みんな賛成だと思います。
それなのに、なぜ郵政民営化だけは反対するのか。なぜ郵便局だけは公務員でなければできないのか、民間人ではいけないと言うのか。私は不思議でなりません。

 郵便局で働いている正規の国家公務員約26万人、1日数時間働く短時間公務員約12万人を加えると約38万人の公務員でなくては本当にこの郵便局は運営できないのでしょうか、サービスは展開できないのでしょうか。

 私はそうは思いません。

 郵政民営化に反対する勢力は、約26万人の郵政公務員の既得権益を守ろうとしているのではないですか。国家公務員の身分を維持しようとしているのではないですか。

 民間人に任せれば、今よりももっとよい商品やサービスを提供してくれると思います。宅配サービスを思い出してください。暑い夏の最中にアイスクリームや新鮮な魚介類を全国に配達できるようにしたり、夜間配達サービスを最初に始めたのは役所ではありません。民間の事業者だったのです。

 民間に任せても、郵便局のネットワークは、地方においても過疎地でも維持します。民営化すれば法人税も固定資産税も納税されます。民営化会社の株式を将来売却すれば、その売却益は国の収入として入ってきます。ですから、財政再建にも寄与します。

 郵政民営化は行政の構造改革であり、財政の構造改革であり、経済の構造改革であり、金融の構造改革であり、そして何よりも政治の構造改革なのです。だから郵政民営化は「改革の本丸」なのです。

 政治家が支援者の声に耳を傾けるのは当然です。しかし、一部の特定の既得権益だけを守るための政治家であってはならないと思います。国民全体の利益を考えるのが政治家です。わずか数十万人の公務員の既得権益を守るために、1億2千万人の利益を損なってはいけません。

 今回、ようやく「政治を変えなければいけない」「経済を回復させなければいけない」「国民の資金を有効に活用しなければいけない」ということから、初めて郵政民営化が最大の争点になったのです。

 税金を有効に使っていく、役所の仕事をできるだけ民間に開放する、簡素で効率的な政府をつくる、経済を活性化する、そして将来の税負担を軽減するため、私は郵政民営化に再度挑戦したいと思います。

それにしても国家の最高責任者が

民間人に任せれば、今よりももっとよい商品やサービスを提供してくれると思います。宅配サービスを思い出してください。暑い夏の最中にアイスクリームや新鮮な魚介類を全国に配達できるようにしたり、夜間配達サービスを最初に始めたのは役所ではありません。民間の事業者だったのです。」

とはよくぞ言ったものである。

あなたはいったい誰か?

「公務員を減らさなければならない」のは、絶対の真理ではない。国債で麻薬中毒のようになった、巨大な赤字財政に国家が苦しんでいるためであり、そのために「行財政改革」せざるをえない状況になった。その責任をとるのは本来は政権与党である自民党である。出発点でここを忘れてはならない。

国家の経済を破綻の淵に追い込んだ放漫財政を支えててきた責任者は、誰か。彼の属する自由民主党である。国家のカネを、湯水のように箱モノ関連の業界にばらまいてきたのは誰か。彼の属する自由民主党である。

しかも、現在の最高責任者は総裁たる小泉純一郎である。

にも関わらず、「オレイズム」で頭の先から足の先まで染まった小泉首相は、自分の政党の過去と今、今と未来から自己を切り離し、あたかも郵政関連公務員が既得権益をむさぼって、国民に敵対しているがごとき図を、意図的に作り出している。

そうした態度にすがすがしさを感じる向きは、以下の発言をよく吟味してほしい。

> 郵政民営化に反対する勢力は、約26万人の郵政公務員の既得権益を守ろ
うとしているのではないですか。国家公務員の身分を維持しようとしている
のではないですか。

わずか数十万人の公務員の既得権益を守るために、1億2千万人の利益を損なってはいけません。

26万人の郵政公務員を、一絡げにして「わずか数十万人の既得権益保守集団」呼ばわりするがさつな論理は、確かに「我は非情なり」と言ってのけたこの首相にふさわしいであろう。
それにしても、人口激減による国力の低下が本気で心配される、この国にあって、「たかだか数十万人」とは大きく出たものである。
郵政公務員の全てが「特定郵便局長」ではない。実直に働く多くの郵便局員は泣いていることであろう。彼らに責任を問うのはおかしい。責任は国家にあり、あなたの属しているその政党の遺伝子にある。

>「公務員を減らしなさい」、皆さん賛成でしょう。
「行財政改革を断行しなさい」、これも皆さん賛成でしょう。
「民間にできることは民間に」、みんな賛成だと思います。

さあ、どうだ。全ての人はこの言句に賛成か。国家の破綻財政を救う最大の道が郵政民営化であると、当然のこととまで言ってのける、乱暴にまとめる論理の、どこが中核でどこが「隠した(つもりの)」意図なのか、気づくべきである。

「民間にできることは民間に」に誰もが賛成?そうではない。

破綻の国家財政が、責任能力を失ったために、「やむを得ず」民間に移さざるを得ないというだけである。国家による責任の回避を誰も諸手を上げて賛成しているわけではない。賛成したとしても苦渋の選択であり、その原因を作った責任者は、彼の属する自由民主党である。その責任感はどこにあるのか。その痛みはどこにあるのか。

郵貯・簡保資金を委譲してできあがった付け焼刃の巨大な「郵貯銀行」は民間経営に耐えるのか。もしこの「郵貯銀行」が破綻すれば、竹中のいう「too big to fail(大きすぎて潰せない)」の論理で、これまた膨大な公的資金を投入せざるを得ない状況にもなりかねない。「郵貯銀行」の破綻→再国営化の運命すらありうる。「郵貯銀行」は、「民間でできることは民間へ」などという単純で楽観的な運命を持つと決まっているわけではない。彼にその点への熟慮は見えるか。「郵貯銀行」のバランスシートは示されているか。

元来、郵政改革の本質は言うまでもなく財政改革であり、約350兆円の郵貯・簡保資金が財政投融資を介して道路公団などの特殊法人に流れることを阻止することにあった。小泉は、20001年度以来行われた財投改革によって財政投融資制度を廃止し、特殊法人は独立行政法人へと改革されたとしている。  

 だが実際には、財政投融資は、財投機関債や財投債を郵政公社が大量に購入することで現在も事実上続いている。自民党の郵政民営化法案によれば、「郵貯銀行」も財投機関債や財投債の購入を「自主的」に継続することができるとしている。

郵政関連の事業が民間にゆだねられたときに潤う一部の事業者を除いて、カネのほとんどは今までどおり市場ではなく、財投機関債や財投債へ依然として流れる。劇的な変化があたかも明日にでもすぐに起こるように見せる手口はまやかしである。

郵政公社が新会社にかわっても財投債・財投機関債が大量購入されるならば、従来の財政投融資とどこが違うのか、改革を国民に印象づけようとする印象操作以外にどんな意味があるのかというのが、民主党の指摘である。預金枠の引き下げという民主党の対案が遅すぎたことはあろう、不十分であることはあろう。何よりも岡田代表が、デマゴーク小泉に対抗できる論戦力を備えていないことは、この時期の最大野党として大変に残念なことである。だが、愚直である分、印象操作に長けた老練な小泉首相にはないいくばくかの誠意を、むしろ岡田氏に感じる。

さらに高村薫の以下の文章を引く。この明確な論旨に賛成する。

いまこそ政治の時代なのである。この、とてつもなく困難な状況が、郵政民営化だの、年金改革だの、特定の課題1つを掲げて道が開けるといった単純な話でないことをよく考えてみてほしい。
人口構成や産業構造を見据える21世紀の国のあり方を考えるべき機会は、遅くとも冷戦が崩壊して世界経済がグローバル化した90年前後にあったが、それを怠ったのは私の世代だった。国の債務は80年代初めにすでに膨らみつつあったが、それをここまで放置してきたのも私の世代だった。また、私の世代は政治と金の問題も解決できなかった。若い世代は大いに怒るべきである。なぜなら、政治は現状への怒りが動かすものだろうからである。
ただし、あなたの怒りが政治的活動になるためには情緒を乗り越える必要があるし、再生はただ、「ぶっ壊す」ことではない。政治は個々のパフォーマンスではない。政党が担う周到なシステムの世界であることを頭に叩き込んで、明日の政治を選んでほしい。

(高村薫/若い世代へ(朝日新聞9月7日朝刊より)

高村薫が言及しているのは、シングル・イシュー・ポリティクスに踊らされることへの強い警戒感である。そもそも、およそ演説の9割を郵政民営化に費やす現職首相に、あなたの理性は耐えられるのか。それが国際的にも重責のある国家の現為政者のやることであろうか。

民主主義の「鬼」はポピュリズムの中にこそある。それを許してしまうとすれば、それはあなたと私の責任である。

【参考】
シングルイシューの行き着く廃墟---ポピュリズムは自ら大衆を愚弄する
[民主主義の暗部]マスコミが報道しない“小泉劇場”の暗部

2005 09 08 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック

September 04, 2005

ニューオリンズでイラク帰りの州兵が取り残された人々を殺す

new_orleans1

「意志の勝利」に一緒した、大学時代の友人の女性
は、幾星月あってからアメリカの男性と結婚した。今でも奇跡的にたびたび連絡をとっているけれど、その結婚相手の男性が確かニューオリンズ市出身だったことを思い出し、安否を尋ねた。
今では彼らは日本に住んでいるけれど、彼の実家は今でもニューオリンズにあり、お母さんと兄弟が住んでいる。

実家はやはり水に沈んでしまったが、とうに郊外に避難しているので命は無事だったのこと。だが、隣のミシシッピ州にあるおばあさんの家や、親戚の家の一部とは電話連絡が今でもつかず、インターネットの衛星写真で家の周辺を確認しているそうだ。衛星から見るとおばあさんの家はかろうじて水没を免れているように見えるのだけれど・・とのこと。おそらくGoogle Eartnのようなものを使っているのだと思うが、こんなところでGoogle Earthが役に立つなんて何と言うことだろう。

ニューオリンズは、結婚相手の彼によれば「leadership」がどこにあるのかが、まったくわからない状態でやはり大混乱しているという。

new_orleans2

報道されているように、逃げ遅れて今悲惨な目にあっているのは、圧倒的に低所得の黒人層。避難勧告が出ても、車も持たない彼らは逃げることもままならなかったし、毎年のように来るハリケーンに警戒心もあまりもっていなかったよう。

世界の「最先進国」米国には、ITどころか車もパソコンもテレビもないような貧困層も無視できないくらいの数存在している。彼らに今回のハリケーン「カトリーナ」に関する正確な情報が果たしてどこまで届いていたか疑問である。

1992年4月のロサンゼルス暴動の時、闇にまぎれて暴行や略奪が横行し、その直後にロスを訪れたときまだ町中が不穏な緊張から回復していなかったことを思い出す。

#黒人男性に暴行を加えたロス市警の4人の白人警官が無罪評決を受けたことをきっかけに発生した暴動で、3日間にわたって略奪や放火が続き、58人が死亡、10億ドルの被害をもたらした。

今回の混乱は天災が原因であり、このときの暴動とはまったく原因が違うが、日頃あまり入ってこない、アメリカの「プア・ブラック」の追い詰められた状況を目の当たりにすると、当時と大して状況は変わっていないような気がする。

あのロス暴動の時も、不安で不穏な凶暴な目をした、追い詰められた人々が闇の中で牙をむいていた。

彼女の夫は、当然ながらかなりのショックを受けているようで、米国の友人にニューオリンズ復興を手伝いに、アメリカに戻ってこないかと言われて迷っている様子があるという。

「あの人たちはいったい今後どうやって生活を立て直していくのだろう」

と彼女は水に生活の全てを破壊され、政府にも適切に対応されず、不安の淵にいる人たちのことを気遣っていたけれど、ロイター通信によれば、治安が悪化している米ルイジアナ州のブランコ知事は1日、略奪や暴力に加わった人を射殺するよう州兵に命じたことを明らかにし、市民に自重を求めたという。

 知事は、イラク駐留を終えて戻ったアーカンソー州の州兵約300人が、ルイジアナ州に到着したことを発表する際、「彼らはどのように(銃を)撃ち殺害するかを知っているし、そうするだろう」などと発言している。 同通信が州警察幹部の話として伝えたところによると、無法地帯と化しているニューオーリンズでは、ハリケーン被害ですべてを失ったうえに命まで失いたくないとして退職する警官も出ているという。

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州兵として、イラクに赴いている人々のほとんどは、それほど豊かとはいえないアメリカの人々である。街で略奪に手を染めているのも、州兵に射殺されるのも、取り残された人々である。

やりきれないニュースだ。

【参考:写真はここから掲載させていただいたが現在はアクセスできなくなっている】
http://eyeball-series.org/kat01/katrina-01.htm

2005 09 04 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック

September 03, 2005

ニューオリンズのハリケーン被害---なぜ渡航情報を出さない?

ハリケーン「カトリーナ」によるニューオリンズの被害が、想像を絶する事態になっていることに驚きながらネットを巡回していたら、この期に及んでも、今現在(9月3日昼現在)同地域への外務省による渡航情報が何も出されていないことに気がついた。
外務省海外安全ホームページには、「外務省からのお願い(ハリケーン・カトリーナ)」として

「米国ルイジアナ州およびミシシッピー州に滞在されている方、あるいは待避所へ避難されている方は、日本の留守家族へ御自身の安全等現状を連絡してください。」

とだけは掲示されているが、このサイトによれば同地域への渡航は事実上制限がない状態になっているため、各旅行代理店の、当該地域方面へのツアーにも制限は加えられていない(もちろん旅行会社の判断で自粛しているところはある)。

確かにテロが起きたというような種類の治安悪化ではないが、テレビ等で報道される同市の状態は壊滅状態に近いものであり、同時に略奪や発砲事件、警察力の低下による一部地域の無政府状態など、安全は極端に悪化しているという。

こうした情報が刻々入ってくる中でも、外務省が「渡航情報」に関してそのサイトで

「 現在、渡航情報は出ておりません。」

を宣言し続けるのは、非常識かつ不自然ではないか?あるいは対応を検討しているのかもしれないが、非常事態に、この対応はいかにも鈍である。

以下に、外務省海外安全ホームページから「渡航情報について」の箇所を引用する。

渡航情報とは
 渡航・滞在にあたって特に注意が必要な場合に発出される情報で、最新の現地治安情勢と安全対策の目安を示す「危険情報」と、限定された期間、場所、事項について安全対策の観点から速報的に発出される「スポット情報」から成ります。

 なお「危険情報」では、安全対策の目安として以下の文章が冒頭に示された上で、それぞれの渡航・滞在目的に合わせた安全対策を検討できるよう、本文の中で、きめ細かな情報を提供します。

「十分注意して下さい」
当該国(地域)への渡航、滞在に当たって特別な注意が必要であることを示し、危険を避けて頂くよう、おすすめするものです。
「渡航の是非を検討して下さい」
当該国(地域)への渡航に関し、渡航の是非を含めた検討を真剣に行って頂き、渡航される場合には、十分な安全措置を講じて頂くことをおすすめするものです。
「渡航の延期をおすすめします」
当該国(地域)への渡航は、どのような目的であれ延期されるようおすすめるものです。また、現地に滞在している邦人の方々に対しては退避の可能性の検討や準備を促すものです。
「退避を勧告します。渡航は延期して下さい。」
現地に滞在している全ての邦人の方々に対して、当該国(地域)から、安全な国(地域)への退避(日本への帰国も含む)を勧告するものです。

つまり渡航情報には

「十分注意して下さい」
「渡航の是非を検討して下さい」
「渡航の延期をおすすめします」
「退避を勧告します。渡航は延期して下さい。」

の4段階があるわけだが、ニューオリンズには、このいずれもが出されていないことになる。

一方で、同サイトには

「米国南部:ハリケーン・カトリーナの被害を受けたニューオリンズ市への立入規制 」
(2005/09/02)

として

現在、ハリケーン・カトリーナにより甚大な被害を受けたニューオリンズ市
においては、現地の状況にかんがみて救援活動関係者及び緊急事態対応要員を除き立入りが禁止されています。つきましては、同市への立入りは米国政府が規制を解除するまでの間、いかなる目的であれ差し控えるようにしてください。

 (なお、ニューオリンズ市当局からの強制退避命令等を受け、在ニューオリ
ンズ日本国総領事館も一時的に閉館しており、在ヒューストン日本国総領事館
内に対策本部を設置し邦人援護業務を行っております。各種照会は下記連絡先までお願いします。)

(問い合わせ先)
 ○外務省海外安全相談センター
  住所:東京都千代田区霞が関2-2-1
  電話:(代表)03-3580-3311(内線)2902
 ○外務省領事局海外邦人安全課
  住所:東京都千代田区霞が関2-2-1
  電話:(代表)03-3580-3311(内線)5138
 ○外務省 海外安全ホームページ:
http://www.mofa.go.jp/anzen/
 ○在ヒューストン日本国総領事館
  電話: (1-713) 652-9011(注:ニューオリンズ総領事館対策本部の番号)
  FAX : (1-713) 651-7822

という情報は掲載している。その文面は必ずしも楽観的ではないが、略奪などによる現地の治安状況の悪化については何も触れられていない。単なる立ち入り規制であり、渡航情報で注意が喚起されていない以上、事実上ニューオリンズ地域に邦人が渡航すること自体には制限が加えられているわけではないと読み取れる。

単なる対応の遅れなのか、あるいは殊更の理由があるのか判断しがたいが、現地の惨状との温度差があることは否めない。関係情報があれば、お寄せ願いたい。


【参考】

今問題になっているアフガニスタン・カンダハールの渡航関連情報については、同サイトによれば、「渡航の延期をおすすめします」になっている。(下記)

.アフガニスタンに対してはこれまでも、危険情報において、カブール、ジャララバード、ヘラート、バーミアン、カンダハール、マザリ・シャリフ各市内に対して「渡航の延期をおすすめします。」を、これらを除く全土に対して「 退避を勧告 します。渡航は延期してください。」を発出しており、また、スポット情報において、累次にわたりテロや誘拐の脅威について注意を促しています(2005年8月16日付けスポット情報「治安情勢」、同7月11日付けスポット情報「首都カブールにおけるロケット弾爆発事件の発生」、同6月30日付けスポット情報「首都カブールにおけるテロ攻撃の脅威」、同6月23日付けスポット情報「治安情勢」、同6月7日付けスポット情報「渡航の危険について」等)。

2005 09 03 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

September 02, 2005

自民党のブロガー会見-------自民党広報本部長への質問(2)

泉さん、お疲れ様。
自民党広報本部長の世耕氏へのGripBlogの泉さんのインタビュー動画がここに掲載されているので、関心のある方はごらんになるといいと思う。

ビデオで見る世耕氏の印象は、明晰、利発、歯切れがよくてきぱきとしゃべる方である。私の2つの質問のうちの1つ、除名と復党に関する党の規約などに関して、泉さんが質問してくれた。このインタビューに収められている。

【質問】

自民党の場合、除名、あるいは復党に関する基準は、党規約で明確に定められているのか?

除名のほうは、おそらく規約があると思うが、復党を許すことについては、それらの人たちが当選して自民党に戻ることで議席を確保できるという理由以外、非常にわかりにい部分があるが、復党の際に決まっている手続きや基準などがあるのか、ないとすればどういう観点で復党を許すのか、ここのところが明示できることは重要だと思うが、これについていかがか?

正直、この質問に対する答は、従来メディアで報道されている、通り一遍の内容を出るものは感じられなかった。

【答の主旨】

自民の他の公認候補を妨害する行為=党に籍をおいたままの立候補は党紀委員会の処分対象、除名に値する。いったん除名されれば容易なことでは復党できない。
それであれば自発的に離党してもらって無所属で戦い、将来戻るのであればそれは戻りやすいであろう。もともとイデオロギーを等しくする人たち。もちろん戻るときには郵政民営化に賛成してもらうことは条件になろうが。

自民党、民主党ともに過半数確保は微妙な状況。いったん離党した人たちが、数合わせのために大挙して「復党」する様が今から目に浮かぶようである。

それはともかく、この回答内容ではあるが、インタビューの前日に出した質問がしっかり世耕氏のもとに届いたというのは、感心することしきり。それも泉さんの努力の賜物。

今後もがんばってください。

それにしても民主党、いいのか。このままで。しっかりせねば、自民の中堅新興勢力は手ごわいぞ。

2005 09 02 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

August 29, 2005

自民党のブロガー会見(番外)-------自民党広報本部長への質問

このひとつ前のエントリーでも触れたGripBlogの泉あいさんからメールをいただいて、世耕広報本部長への質問を出してくれとのこと。泉さんは先日の「自民党主催メルマガ/ブロガー懇談会」に、「非招待者」として出かけていって、詳しいレポートや出席者の発言ログまでアップして下さって、頭が下がることしきりなのだが、何でもその後

自民党総裁の小泉さんへ取材交渉しましたが断られ、
それなら代理を立てて欲しいと申し入れましたが、やはり断られていました。
それで、先日世耕さんへ直接お願いしたのですが・・・。
ナント!8月29日に、自民党の世耕弘成参議院議員が、自民党の代表して単独インタビューを受けてくださることになりました。

ということで世耕広報本部長への質問を呼びかけることにしたとか。
明日お会いになるということで、どうしようかと思ったが、今日の明日でマニフェストをにわか勉強で読み込んで郵政民営化に関して気の利いた質問が僕に考えられるとも思えず、また世耕氏が広報本部長でいらっしゃることも考えて、下記の2つの質問を泉さんにお持ちいただくことにした。

実際問題、朝日や読売の記者が、「明日、与党の広報本部長に会うが、お前、何か聞きたいことがあるか?」などと声をかけてくれるなんていうことはあり得ないのであり、そういうところの新鮮さこそが、ブログ時代の核の部分だと思う。

質問は2つ。

1つは、郵政反対派の自民党への選挙後の復党の問題について。
もう1つは、公職選挙法とネットとの関係についての再質問。(これは、先日の懇談会でも質問の1つにあがっていたのだが、世耕広報本部長の答が少々本質から離れていたように思ったので再度聞いてみたいと思ったわけだ。

明日、どのくらい時間があるかわからないし、おそらく多くの質問を携えていかれるだろうから、私の質問を実際に泉さんが世耕氏にぶつけることができるかどうかはわからないが、駄目元でも、少しでも公的にしようと思い、あらかじめ公開エントリーを立てておくことにした。もしも世耕氏から回答をいただくことができれば、またとりあげようと思う。

#うーん、何だかこれも広い意味で自民党に乗せられているようにも思いますがそれは別として、泉さんのエネルギーには感服。がんばって行ってきてください。

【以下 世耕自民党広報本部長への質問】

(1)武部幹事長は27日夜、和歌山のほうで行った講演の中で、郵政民営化関連法案に反対し非公認となった前衆院議員に対し「立候補を今回は断念し(対抗馬の)公認候補を応援してください。そしたら今にも自民党に復党(復帰)できるのではないか。血も涙もないのではない」とおっしゃって立候補断念を反対派に求められています。
同時に「離党しないで立候補すれば永遠に自民党に戻れない。必ず除名になる」ともおっしゃっているのですが、そこでお聞きしたいのですが、自民党の場合、こういうケースでの除名、あるいは復党に関する基準は、党規約で明確に定められているのですか?

除名のほうは、おそらく規約があると思いますが、復党を許すことについては、それらの人たちが当選して自民党に戻ることで議席を確保できるという理由以外、非常にわかりにい部分がありますが、復党の際に決まっている手続きや基準などがあるのか、ないとすればどういう観点で復党を許すのか、ここのところが明示できることは重要だと思いますがこれについていかがですか?

2)先日のブロガーやメールマガジンを主催する方たちとの懇親会の中で、世耕広報本部長は公職選挙法とネットの活用の問題に関して、「我が党の中で非常に心配の意見が出るのは、誹謗中傷が行われるんじゃないか」というようなことを言われているのですが、むしろネットと公職選挙法の関連はデジタルデバイドの問題が主眼ではないかと思いますが、このあたりの見解はいかがですか?
選挙運動の手法が公職選挙法によって厳しく制限されているのは、財力等によって選挙活動が左右され、候補者間の平等が図れなくなるという理由が基本理念だと思いますが、インターネットによる選挙運動が、デジタルデバイドによる有権者間の政策情報格差を生む危険性を唱える反対論があると思います。インターネットを使いこなせるか否かで、政治判断が左右されるという危惧です。
ですがこれはもう少し古くなってきていて、これだけネットが普及し、ブログのようなものが出てきていて、自民党でもそれに耳を傾けようという時勢になっている。
その中で、古くからあったデジタルデバイドを公職選挙法の中で、ネガティブにこれからもとらえるのか、それとも、それはもう過去のものとして、飛躍的に普及したネットを活用した手法として、法の規制枠を考え直していくのか、こうした観点からの見解をお聞かせ願えませんか?また世耕議員は大変にこの点積極的でいらっしゃるのはわかりますが
他の自民党の議員の皆さんの一般的な感じ方はどんなものか、お話いただけませんか?

2005 08 29 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

August 28, 2005

自民党のブロガー会見(2)-------やっぱり呼ばれてから行くだけでは駄目だろう。

初期のニュースのインパクトから考えると、終わってみれば何だったのだろうという感じは拭い去れないのだけれど、報道されている内容によると、「呼ばれた」ブログは12。メールマガジンは17。メールマガジンは経済寄りのテーマを持つものが目立ち、ブログの顔ぶれもさすがに無難というか謎というか、悪い言い方をすれば「よくバランスをとっている」が、株式投資関連のメルマガがいくつも入っているのは、何か思惑があるのかと首を傾げるし、呼ばれたブロガーのサイトを巡回し、どれとは言わないが、訪問後のレポートが情けなくはしゃいだだけで終わっているものを見ると「あーあー」と嘆息する。(文末参考リスト参照)

ちょっと「へえ」と思ったのは、最初にこのニュースを知るきっかけになり、また詳細なレポートを上げてくださったGrip Blogさんは、このうちの12に入っているけれど、何と「呼ばれた」のではなく、自ら申し込んで参加したのだと言うことだ。
そのせいなのかどうかわからないが、Grip Blogさんのレポート「自民党主催メルマガ/ブロガー懇談会の報告」は、取材対象に対していい距離感を保っているようで、そのモチベーションの確かさとあわせて感心して拝見した。

この試み自体の発案者はどうも元NTTの参議院議員でもある世耕広報本部長のようであり、

「やはりメディアとして、無視できない存在になっていると私たちは実感しているから、今回やろうと決めさせてもらいました。
ただ、別にブロガー協会があるわけでもないですしね(笑)どうやって選ぶか非常に困ったのですが、スタッフがみんなで手分けをして、アクセス数の多いブログとか、過去、雑誌に紹介されてきたようなメルマガの中で選びました。
決して自民党フォローの方を呼んだわけではなくて、かなり中立的に真面目にやっておられるなと思えるところを独断と偏見で今回ご招待させていただいたという訳でございます。」(GripBlogより)

ということである。

また

確かに、自民党を擁護したり称賛したりする発言はなかったと思います。でも、自民党と遣り合おうという姿勢の人もいませんでした。最初から最後まで和やかな空気が流れていたことは確かです。(同上)

とも。

聞けば、自民党総裁の椅子に座ったり記念写真を撮ったり、まあ、ちょっと何だかなあというような雰囲気だったらしく、ある意味でこちらの期待を「予想通り裏切ってくれる」部分もあったわけだが、「ブロガーに対して向き合う姿勢を見せる自民党」という自民党の先進性アピール戦略は、これまでのところ、成功していると言わざるを得ない。アンチ自民・アンチ小泉の僕としては、民主党の奮起を望みたい。

それは別として、GripBlogさんを見ていて思ったのだけれど、やっぱりこういうものは「呼ばれて」行っては駄目でしょう。いや、今回は最初だし、「呼ばれて行った」人をどうこう言う気はないけれど、呼ばれるということは、最初から何だか「この私に良く声をかけていただいた」なんていう相手に対する負い目というものがあるような気がするというか、ある意味、その段階で、もう相手に取り込まれてしまっている感じがするわけだ。

進行も、相手のペースにならざるを得ないし、総裁室で記念写真なんて恥ずかしい場面になっても「いや、僕はそういうことでは来ていませんから」などとはなかなか言いづらい雰囲気になろう。

ブロガーの力が注目されたなどという感想は今のこのシーンで全て否定する気にはならないけれど、やはりこうしたことは「取材する側」が主体的に仕掛けていかないと、単に相手の宣伝に利用されて終わりということになってしまうのだというシンプルなことを、あらためて感じてならなかった。

僕にしても何だか僻みっぽいお茶らけたエントリーを、先にあげてしまったけれど、GripBlogさんでなくても、「参加してしまう」手立ては、冷静に考えればあったわけだ。それは敢えてそういうことは思いつかなかったし、モチベーションとしても発想としてもなかったわけだけれど、いつまでも自民党のやり口に感心していないで、ブロガーとしては相手をブロガーの取材に「引きずり出す」くらいのポジティブなものを持って望まないと、米国におけるブログジャーナリズムの状況には、大きく隔たりがあるなあと思うのみだ。

実際米国に対しては批判的なエントリーが多い私だが、向こうのジャーナリズムのこうした面での懐というか腰の強さ、主要ブログではなくても取材に向き合わせて当たりまえだというある種の自信のあり方-----こうした部分がネオコンの監視体制としてはまだまだ機能していると思うので、余計に自分も含めて日本のBlogsphereも、いい意味で成熟していかなければならないと思う。

やっぱ呼ばれてから行ってるだけでは駄目だろうと。

とにかく今は、「呼ばれてもいないのに」参加したフリージャーナリスト、GripBlogさんのポジティブな姿勢に学んだと同時に拍手を送る。乗せられずに「引っ張っていく」心意気が感じられたことにも賛意を。

【参考】参加したブログとメールマガジン一覧
(「マスコミからクチコミの時代へ」--自民党がブロガー、メルマガ発行者と懇親(CNET))より

●ブログ
・はなまるライターの小冊子作成・活用術!
・Hotta World:: 「活・喝・勝」
・社長日記(「知恵の総合商社」←旧:商社マン日記)
・「ノーリスク起業予備校」の要点ノート
・【ミナログ】製造業社長の逆襲
・グロービス堀義人blog「企業家の風景」
・社長の成功日記
・「日刊リウイチ」
・たむたむの自民党VS民主党
・ビジネス情報取引所-BIE-(ブログ版)
・Grip Blog
・情熱起業列島~西川潔が起業を語る~

●メールマガジン
・がんばれ社長!今日のポイント
・株の秘訣!!『デイ・短期』
・花岡信昭メールマガジン
・トークに使える 日経新聞 今日のネタ
・マーケティング発想源
・株式新聞メールマガジン
・メルマガ新規開拓なくして成長なし
・株式最新情報館
・知識をチカラに!
・はてなメールマガジン 週間はてな
・忙しいあなたの代わりに新聞読みます
・甦れ美しい日本
・片手間で副収入!新規公開でガッポリ儲ける方法!
・時事用語のABC
・ビジネスブレーンストーミング
・株・為替で1億円!財布がパンパンになる¥塾投資講座
・メルマガ成功法~メルマガ専門のコンサルタントの秘策

【参考リンク】

●自民党主催メルマガ/ブロガー懇談会の報告(GripBlog)
http://www.surusuru.com/news/archives/Entry/2005/08/26_0402.php

●YESプロジェクト発足第一日目の風景~自民党とブロガーとの懇談会にも参加(堀義人blog)
http://blog.globis.co.jp/hori/2005/08/yes_a7a8.html

●「マスコミからクチコミの時代へ」--自民党がブロガー、メルマガ発行者と懇親
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20086691,00.htm

●「【速報】自民党、ブロガー巻き込み戦術を加速」(R30::マーケティング社会時評)
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/08/ldp_blogger2_f7d0.html

●ブログ/メルマガ作者と自民党幹部との懇談会:参加者一覧表(tracker's burrow)
http://blog.so-net.ne.jp/tracker/2005-08-26

2005 08 28 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

August 25, 2005

自民党のブロガー会見---別に出たいわけじゃないって。

今夜の7時だって?

http://www.surusuru.com/news/archives/Entry/2005/08/24_1510.php

宣伝のお先棒をかつぎたくはないが、正直ちょっと驚いた。
手ごわい政権だ・・・。
他でも言われていることだが、「特定のブロガー」ってどうやって決めたの?

ヒトラー呼ばわりしているBigBanはともかく、standpoint1989さんは招いてもよかったんではないか?最近の言論をみる限り・・(などと、ちょっと嫌らしくふってみる)


【某読者の声】

どっちも失格。直情・喧嘩っ早過ぎる。(爆)


【参考リンク】

●緊急!!自民党 武部幹事長、安倍幹事長代理への質問募集
●自民党がブロガーを集めて会見するだって?!(R30:マーケティング社会批評)
●デスカミサードたちの首相(たゆたえど沈まず)

【追記】
ここに招待メールがアップされている。冷静に読めば「会見」ではなく「メルマガ/ブログ作者と党幹部との懇談会」なんだね。

2005 08 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

ガ島さん、わからん。-----経営者と政治家の兼任について

ガ島通信さんが

「ホリエモン出馬の対応と公選法について」

のエントリーで、前半では

個人的には、政治家が社長というのは、メディアとしてどうだろうと思っているので、当選すれば移転します。一応、他のサービスのIDは取得済みですが、ライブドアには慣れていて使いやすくなっているので、何かきっかけがないと「動けない」もので…

と言い、その同じエントリーの後半で

追記(8月21日) R30氏が「政治家ホリエモンをなめてはいけない」のなかで、『「報道機関の長が選挙に出るってどうよ?」というめたか氏の話だが、僕は「いいんじゃないの、別に」と思う。表に出てくるだけ大した度胸だ。昔から選挙の裏で報道機関と政治家がどう離合集散してるかなんてのは、表に出てこないだけでいくらでもある話だ』と書かれています。確かに、ナベツネ、シマゲジ(この二人は著書で公言しているし…)など、国政レベルから地方政治まで報道機関と政治の癒着はいくらでもあるのですが、政治に近い(客観だと表では主張しながら、ある政治的な意図を持っているのが問題)ということと、経営者が政治家そのものというのはかなり違うと、個人的には考えています。

と言っているのは、なに????

僕の頭が悪いのかガ島さんの頭が混乱しているのか、どっちなのかわからないが、結局政治家と経営者の兼任に反対なの?賛成なの?
それとも「メディアの経営者」だと駄目で、一般企業はOK?

相変わらずのたくった文章でわからないよ。ガ島さん。
それともみんなはわかっているのか?

この程度の話はコメント欄に書けばいいんだがLiveDoorのID取得したくないのでTBで。

2005 08 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

シングルイシューの行き着く廃墟---ポピュリズムは自ら大衆を愚弄する

生きにくい時には、まず自分に直近の小さな問題から片付ける。

それが終わったらそれよりももう少し大きな問題を片付ける。一つの問題に関わっているときにはその問題の肩越しに見えている、より厄介で大きな問題には目を向けない。
この生きにくい世を互いに生きている身である。個人が自分の人生の困難にこうした手法で立ち向かおうとしたところで、あながち非難されるには値しないであろう。

だが、これが国政であればどうなのか。複雑にからんだ問題の束を選挙戦略のために一つに括り、「これが争点だ」などと、おこがましくもプレゼンテーションする。これは戦略である限りは非難されない。勝たねば政治家はただのヒトの子であると言う人もあろう。

シングル・イシュー・ポリティクス。

シングル・イシュー・ポリティクスは、竹中のブレーンが言うごとく「IQのあまり高くない」かもしれない民衆を、単純な(に見える)1点集中の政策論争に参加したような錯覚にさせて、自らの陣営に利をもたらす------この目的に、現在のところ最大に近い効果をあげているように見える。

だが、政策論で見た場合のシングル・イシュー・ポリティクスには実態がない。その「戦略的効果」は決して低く評価されるべきではなかろうが、それと政策としての中身とはまた別の話である。土台、馬鹿げすぎた試み。国政選挙において、争点をシングルイシューに特化して戦おうという政党の誠意の無さ、その欺瞞性はなぜもっと暴かれないか。

自信を持った国政運営を行った現政権であるならば、外交、社会保障、福祉、経済、そうした総合的な成果をもってして信任を問うのが当然の姿勢である。

だがしかしあの日、この希代のポピュリストはほくそえんでいたことだろう。

「最高のタイミングで解散できた」と。

●確かに小泉改革には大いに評価すべき側面もある。

日米戦争第2ラウンドの日本の成功を支えた国家資本主義体制は、その本質的部分に多くの腐敗の芽を蔵しており、政界、官界、経済界、各地の地方エゴの代表者たち、各界利益代表圧力団体が、そろって国家システムから甘い汁を吸いつづけ、腐臭をはなつ人々が日本のエリート層の中枢にたくさんいた。
その体制の中核となっていた自民党に対して「自民党をぶっつぶす」という小泉首相の改革のスローガンには、なるほど国民の共感を呼ぶ部分が少くなかった。

しかし、小泉首相は、腐敗しながらも、この国家を基本的に繁栄させてきたこの国のシステムをぶっこわしたあと、それに代わるどのようなシステムを構築しようとしているのか、それがまるで見えてこない。

なるほど破壊者としての小泉首相はそれなりにすぐれたパフォーマンスを見せてきたが、破壊のあとに必要となる建設者としての小泉首相の姿も、ビジョンもまるで見えてこない。
(中略)

郵政改革PRのために、国と特別契約を結んだ竹中平蔵郵政民営化担当大臣の知人が経営するPR会社が提出したPR企画書の中に、郵政改革PRは、老人、女性など、“ちょっとIQの低い人々中心に進める”という一文があったのは有名な話だ

「建設者としての顔が見えない破壊者・小泉純一郎」(立花隆の「メディアソシオ・ポリティクス」)

●郵政民営化をIQのあまり高くない層」にフォーカスして合意形成すべき
郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)

http://www.tetsu-chan.com/05-0622yuusei_rijikai2.pdf

●日本のメディアにおける新自由主義のマインドコントロールはすさまじい。小さな政府が自明の善のごとく前提とされている。すべてを市場化した時に日本の社会がどうなるのか、冷静な議論がまったくない。また、郵政民営化というシングルイシューで選挙を戦い、他の重要な課題については白紙委任というのでは、小泉は単なる独裁者になる。

「小泉流リーダーシップの意義+(読売新聞掲載の小泉論に対する補足)」(YAMAGUCHIJIRO.COM)

まず小泉に「破壊」をさせて、その後で「再構築」する余裕は今の日本にはない。およそ選挙の「唯一の争点」に郵政はなりえないのである。それであればなぜ、小泉自民はそれを企てるか。事由はシンプル。それが現政権の勝ちうる唯一最大のテーマに見えるからであり、ポピュリズムの王道を厚顔に歩もうとしているからに他ならない。

この政権は末期に望んでも、終に郵政以上の武器を発見することはできなかったのである。そして彼らは終に「それを」見つけて狂奔して進んでいる。そこにあるのは目下の選挙戦略しかない。悲しむべきことに「その後の独裁すら」望んでいない究極の無責任政権のありようは、思えば靖国への対応にあり、中韓への対応にあり、北鮮への対応にあるそのままのかたちがそのまま現れたに過ぎないのである。

「郵政民営化」の芯に流れている、「民にできることは民へ」などとといった単純デマゴークにより、それに賛成しないことには、あたかも全ての改革が進まないかのように見せかけるこの人物の動機が着々と成果を挙げている様を見るのは耐え難い。

論議の結末をマスメディア批判で終わらせることはBigBan的には潔しとしないが、伝えるものにこそ変革者よ出でよ。

「刺客」だの「くの一」だの愚につかぬコピーワークに現を抜かす輩よ。貴方たちのいるべき場所は政治メディアではない。「週刊大衆」である。(再出・楽屋オチ)

新党・日本に対して「それは数あわせではないのですか?」などと、カメに向かって「それは甲羅ではないのですか?」と言うに等しい近い愚問を発する輩よ。貴方たちの働くべき場所は現代政党政治の国家ではない。数合わせの無い共産中国である。

なに困難ではないはずだ。政策を伝え、君たちの言葉で「真の争点」は何なのか、我々「愚かな大衆」に伝えるべきである。

思えばヒットラーすら第三帝国の未来を彼なりに死の直前まで夢見ていたのである。それが狂気の夢だったとしても、だ。
小泉にはそれすら感じられない。小泉の目に映っているのは、夢見ているのは、廃墟の国家に立つ「改革者コイズミ」の彫像である。

【その他の参考リンク】

●皆さん読んだ方がいい「海外メディアが伝えた小泉・郵政解散劇の評判」(雑談日記--徒然なるままに)

●Dead Letter Blog 「シングルイシュー」の欺瞞

●シングルイシューの行き着く廃墟(2)---わずか数十万人と呼ぶ豪儀な非情

2005 08 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

August 16, 2005

「ガメラ3」から「亡国のイージス」までの6年----「暗喩」としての戦いの終わり

1999年に公開された、「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」は怪獣映画の中でも最高峰の出来栄えであったといって差し障りないだろう。
親を殺されガメラを憎む少女(中山忍)の怨念が育ててしまう邪神イリスが襲来し、渋谷駅や神社仏閣や落成間もない京都駅ビルを破壊しつつガメラと戦うクライマックス。
少女の親を殺したのは、ガメラにとっては避けられない戦いの中、止むを得ない出来事だった。たとえ正義の戦いの過程であっても、戦いは戦いである。その渦中に巻き込まれ、由なく命を落とす人々がいる。非業の最期を遂げる市民がいる。少女は、心の奥底でそれがわかっていてもガメラを許せない。その葛藤が氷解するまでの描写は見事であり、京都駅での少女とガメラの「和解」に至るまでの展開も見事であった。

この映画には、自衛隊が全面協力しており、最新の戦車や自衛隊の指令本部のリアリティが高いことにも驚いた。子供のころに見た怪獣映画にはない、「本物らしさ」と切迫感を映画に持たせることに成功していた。

「怪獣映画」という荒唐無稽とも言える設定の中に、現代の戦争の不条理を重ねることにより、監督金子修介 は、紛れもなく1999年という世紀末の世界の、軍備を描き、現代の人間の戦(いくさ)への思いを込めた。ガメラは好戦的で凶暴な「心ない野獣」ではなく、常に戦うことに逡巡しながらも殺戮を重ねていく巨大な存在であった。それは、米帝国の「戦」のかたちを確実に描いていた。
だが、そこに現実の国家は登場することはなかったのである。想像上の怪獣というフィルターにより、全てを描きながらも「暗喩」としての米国、「暗喩」としての戦争という以上の表現はなかった。いや、できなかったのだろうと思う。だから自衛隊は協力した。と思う。

時は流れた。福井晴敏に傾倒していることもあり、「亡国のイージス」を小説で読み、間を置かずに映画も見に行った。

ある意味当然であるが、小説によって描かれた世界は映画の何倍も濃密であり、流れる時間の意味、登場人物一人ひとりの人生、追い込まれるように国家への反逆という形をとっていく乗員達の苦悩と必然も映画では遥かに舌足らずであった。そうした意味では、映画「亡国のイージス」は、終にこの稀代の小説の鬼気迫る表現に並ぶことはなかったが、皮肉なことに、「物質的な」次元では、とてつもないリアリティを発散させていた。

それは実際の自衛隊の数十にも及ぶ部隊の協力(エンドテロップを見てほしい)、本物のイージス艦での撮影、轟音を響かせる対艦ミサイル発射のシーン(あれは撃ってるよな。絶対に。空砲としても)。皮肉なことに、観念の世界でのリアリティを獲得できなかった映画は、自衛隊の存在感、武器の重さ、迫力、体の底に響くような轟音と恐怖によって、まったく別のリアリティを獲得していたのである。

それはもはや「ガメラ3」で使われた「暗喩」ではない。さすがに小説では明記された現実の国家の名前は「某国」とされ、物語の最後に据えられた米軍の途方もない「裏切り」も映画では表現されなかった。(小説を読まず、映画だけを見た人にはぜひ小説の世界を再読することを薦めたい。)とはいえ、ここで描かれた「戦」は、架空の話ではない。現実に日本が所持する武器を用い、現実に自衛隊に身を置く数千あるいは数万の人々が協力し、現実にこの国が対峙する実在の国家との戦い、そして現実に現行憲法の下でこの国が重ねてきた戦後60年の時間の流れそして苦悩、そうした全てを盛り込んで出来上がった映画である。

そこには「暗喩」ではなく明確に日本国家の直面する「敵」と「戦」が描かれている。

物語は単純ではなく、さまざまな解釈ができるとはいえ、幹をなすのは現役自衛官のクーデターである。それに対して巨額の軍事兵器を提供し、このメッセージの送信に助力した「軍」を思うとき、そしてこの作品を世に生み出した日本の現状を思うとき、時代が来るべきところに、来るべくしてきているのだという思いがあらためてこの身を包む。

戦後60年。昨日は終戦の日であった。

 

【参考リンク】
スポニチアネックス「6年ぶり復活、ガメラの友情物語」

2005 08 16 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

August 12, 2005

小泉首相の毒と蹉跌------森氏と干からびたサーモンに思う

久しぶりに「森氏であった」。

「おれに対して、こんな対応ですよ。さじ投げたな。私に何をしろって言うの。解散阻止なんかできないでしょ」

「かむんだけど、硬くてかめないんだよ」

などとぼそぼそ言いながら、なにやら干からびたスナックのような謎の食べ物を記者団に突き出して、ぼやいていたのは、森元首相である。

6日夜の首相公邸へ赴いた森氏にすれば、最後の談判だった。その一大事の夜に首相が差し出したのは缶ビール10本。

さかなは「これしかないんだよ」というひからびたチーズとサーモンだったというのである。

思わず吹き出してしまったが、

「変人以上だよ。それ以上は言わないけどな」

と口をつぐんだ森氏はそのあと何を言いたかったのだろう。

おそらく、あれはキ・と言いたかったが、またぞろ失言の森と言われるのが嫌で、土俵際でとどまったのだろうと思っている。

まあ森氏も多少は成長しているようであるが、

「変人」

は小泉氏が政権に就いたときから絶えず付きまとうこの人への枕詞である。で、それはどちらかというとポジティブな意味で語られることが多い。
「場合によっては自民党をぶっ壊す」と威勢よく登場してきたこの人に、かつて世論は極限に近い賛辞を送った。
今回の郵政民営化問題での衆院解散にも、賛意を表明する人も多い。

さすが永田町の「変人」小泉だと。

だが僕は、呻くように森氏が言いかけた、そう「小泉の狂気」について考えている。

このエキセントリックで強引な人物に何ごとかをなしうる器は果たしてあるのだろうか。

今回も、参院で否決されたにも関わらず、衆院を解散した。それは、参院を解散することはできないのだから、仕方がないと言う人もあろうが、内閣総理大臣の解散権を、自らの法案を曲がりなりにも可決した側の衆院を解散し、大差で否決した参院を放置する、そうしたことを平然とやってのける神経に、そしてやり口に、僕は底の知れない破綻的性格と、不気味なものを感じている。

そもそも、なぜ郵政法案は継続審議ではいけなかったのか。
ここで衆院の解散という歪な大鉈を振るう以外に手段のないような場面であったか。

歪な解散権の行使が、即明確な違法行為であるとは言えないとはいえ、この人物には何か、何かそう、人として大事なものが欠けているように思えてならない。

森氏ならずとも、この人にまつわって思い出される風景に、気持ちのよいものは何一つない。

・あまたある国家的大事の山積の中で、郵政の民営化に、終始執着し続ける政治家としてのバランス感覚
・拉致問題へのあからさまな冷淡と、先日の広島での原爆慰霊式における、これも干からびたサーモンのような挨拶
・一方で、過剰に寄せる特攻隊戦士への賛美と傾倒、身勝手な憂国。
・靖国神社参拝への並々ならぬ執着と外交感覚の致命的欠如。
・史上まれに見る米国盲従と明らかなウォーゲーム志向
・そして今回の「暴挙」(とあえて言う)

1つ1つを見ていくなら、彼の精神は矛盾だらけであり、気まぐれだらけである。
そして、冷淡と執着が不快な程度にミックスされた、その実何も合理的な信念を持たない、無駄な狂気、しかも危険な狂気を感じる。

この人物の文言の耳障りの良さに欺かれてついていくなら、いつかその道には、ぽっかりと「狂気の暗闇」が横たわっているような気がしてならない。

内閣総理大臣として求められる資質が彼にあるのか。

己の信念に従って理念を掲げ、それについてこれないものは去れ。

と景気はいいが、感情的でいきあたりばったり。矛盾だらけ。

個人の執着の度合いで政策執着。自分の党派の意志調整もできない、非合理的な感情的発言を積み重ねる首相は、この21世紀の国際社会で重責を担う国家の指導者としてふさわしいといえるのか。

守旧派と呼ばれる人たちを脅かしているのはまさにこの性格、この政治手法であるが、
その反感を私利私欲を守ろうとする抵抗勢力の見苦しさであるとの一点で一絡げにできるのか。

繰り返す。

この人物には何かが決定的に欠けている。

政治家としても、人間としても。

それがかつてない不安を世情にもたらしている。

擁護するわけではないが、守旧派の中にもカナリアはいるのではないか。
小泉という毒に対しての。

あんな森氏でも、干からびたサーモンは食べたくなかったのである。


決めた。

僕は郵政民営化には賛成であるが、今度の選挙はそれを根拠に判断することはしない。

小泉首相の破綻だらけの外交姿勢と「干からびたサーモン」が僕の判断基準である。

2005 08 12 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

August 06, 2005

1945年8月6日8時15分-----問うことを放棄することだけが唯一の敗北である。

意識して起きたわけではないが、間に合った。

60年という時間の流れを経て、その時空の壁が静かに開く。


1945年8月6日8時15分


「あやまちは繰り返しませんから」

今年も、その言葉は繰り返される。

平和への思いを誓う子供たちの宣言
そして現実世界の汚泥に苦しむ広島市長の言葉
これ以上の事務的言葉があろうかと思われるコイズミの言葉

全てが、ヒロシマに開いた「時空の壁」に吸い込まれていく。

平和という言葉の意味。
戦争という言葉の意味。
非道という言葉の意味。

全てが。

誰のどの行為がどの時点から過ちであったのかと
問い続ける我の思考の意味。

全てが。

あの日のヒロシマには、確かにあなたが言われたとおり、色があったはずである。
あの日のヒロシマに飛来した者たちには、あなたが言われたとおり、確かに密かに罪の意識があったはずである。


それらはどこへ溶けていったのか。
それらはどこへ、散っていったのか。



問い続けて答が出ないからといって、問うこと自体を放棄してはならない。
口に出すことが甘美だからといって、覚悟無き平和を唱えてはならない。
おそらく、問うこと自体を放棄することだけが、唯一の敗北である。
おそらく、悲壮を覚悟しないところに、我らの言う平和は永遠に来ない。

1945年8月6日8時15分。

刻め。この時を。永遠に。



黙祷。


【参考リンク】
「モノクロとカラーと青空」(FAIRNESS)
「原爆を落とす側の論理」(深夜のNews)

【関連記事】
●卑小な我ではあるが------スティーブン・オカザキ監督を支持する
●「非人道的」とはどういうことなのか

2005 08 06 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

August 05, 2005

卑小な我ではあるが------スティーブン・オカザキ監督を支持する

今年も8月6日が近づいてきた。

言うまでも無いことだけれど、この世に生まれてきて、理解のできないことは沢山あった。年を重ねるにつれて理解できるようになったことも多くあるが、逆に年を重ねるにつれて、一層理解できなくなってくることも、やはり多くある。

中でも原爆投下は、その最大の不可解と言ってもいい。

原爆投下については、「「非人道的」とはどういうことか」の一連のカテゴリーでも書いた。だがいくら書いてもその「なぜ」は行き場を得ることはできない。この世界に生まれてきて、この国に生まれてきて、僕にとって理解のできない最大の謎の一つと言っても過言ではない。

なぜ、あのような形で人は、ヒロシマで、ナガサキで死ななければならなかったか。原爆による死を「戦場における無数の死」と同一視することは許されない何かが、そこにはあるはずである。ましてや、日本がいかに戦場で「非道であった」としても、それは相殺されるべきではない。

とは言え、なぜ自分はこのように原爆にこだわるのか。その原爆投下という事実の苛烈にして不可解さを意識する人は、もちろん多くあろうが、ここでなぜ自分か。

ヒロシマに生まれたわけでもない。ナガサキに親族がいるわけでもない。ましてや、よく知る人がなくなったわけでもない。それにも関わらず、この拭い去れない巨大な非条理への、非人道への違和感はいったい何なのか。

あなたには、そうした瞬間はないかい?

テレビや新聞で原爆の記事を読むたびに、僕には「あの」(と表現することもおかしな話なのだが)地獄の業火が幾度も自分の身に、リアルに蘇るような思いにかられる。こうした形で追体験する人も多くいるのか。あるいは自分は少しどこか(やはり)おかしいのか。

僕のこの矮小な人生に、たとえ歴史に刻まれた人類的規模での被害とは言え、60年も前の出来事がもたらす不快感に、何かの接点や、意味や、メッセージがあるのだろうか。理解のできない、恐怖と嘔吐感は時間と空間と次元を超えて、なぜ訪れるのか。

1つにはこのあまりにも唾棄すべき行為を行った国の基本が、それをなした当時に比べて、あまりにも、あまりにも変わっていないとしか思えないことへの、恐怖と無力感、絶望感があろう。

少なくとも日本は、あれから変わった。
落とされた側が変わったのは、当然とすれば、ならば加害の徒はなぜ、なぜ変わらないのか。

日本の為した戦が、擁護される要素があったにしろ、告発される要素があったにしろ、この国はそのこと自体への意味を探しあぐね、ある者は罪の意識に過剰に苛まれ、ある者はこれも過剰に全てを正当化している。

だがはっきり言える事がある。この国がその記憶の処理に苦しんでいることである。それだけは、それだけは確かなことだ。このことにウヨもサヨもないのである。僕はそう思っている。靖国の問題はその発露の一端でしかない。

だが、彼の国はどうなのか。為した大罪の引き起こした戦慄の結果の重大さ。表現のできないようなその重大さにも関わらず、依然として核政策をその国の独占的「恐怖」に留めるべきとして、国際政治を左右しようとする基本的姿勢に、あれ以降、あの投下以降変化が見られたという明確な証拠を僕は持たない。

今でも原爆投下を、皮膚下1mm程度の浅薄さで正当化しようとする多くの米国民を目の当りにするたびに、深い絶望感が繰り返し訪れる。

そんな中で、そんな絶望的な不条理感の中で、細い、細い希望の光を感じるニュースがあった。

第2次大戦中に米国で起きた日系人強制収容問題を取り上げた記録映画で、91年にアカデミー賞(短編ドキュメンタリー)を受賞した日系3世米国人のスティーブン・オカザキ監督(53)が4日に来日し、広島と長崎への原爆投下をテーマにした長編ドキュメンタリー番組の撮影を始める。2年がかりで撮り、番組は07年春、全米にケーブルテレビで放映される予定だ。

 「原爆投下は戦争終結のために必要だった」と今でも広く信じられている米国で、被爆の実像を詳細に伝える番組が全国放映されるのは珍しい。

 オカザキ監督は今回、被爆60年の式典が開かれる広島と長崎に入り、被爆者の証言や市民の表情を撮る。年内にさらに3回来日。来年は主に米国で、原爆を設計、投下した米軍関係者らを取材する。番組は約90分。

 監督は82年に在米日系人被爆者らをテーマにした映画を公開して以来、被爆者の生の声を米国民に伝える本格的なドキュメンタリーを撮ろうと、長年、「計画をあたためてきた」という。「被爆60年の今だからこそ語ってもらえる被爆者に多く出会いたい」と話している。 (2005年8月3日 朝日新聞より)

1995年、スミソニアン航空宇宙博物館で企画されたエノラ・ゲイを中心とする原爆展が、議会や軍人会の圧力で中止に追い込まれたことは記憶に新しい。

現在の米国にあってこうした表現活動をすることへの、想像できないようなプレッシャーがあること。オカザキ監督にどれほどの抵抗が待ち構えているかということもまた、容易に理解する。

米国は、そして米国民は、「このこと」から長い間にわたって目をそらし続けてきた。時には圧力ともいえるような方法まで用いて、このことに向かい合うことの勇気を頑なに避け続けてきた。だが、戦後の日本に多くの「未処理事項」があるというのであれば、ヒロシマは、ナガサキは、今でも続くこの国の最大級の「未処理事項」であると僕は思う。

何よりも、「核」は今でも極めて「現実的な問題」として、そこにあるし、あり続けている。そして彼らは今でも「あのときの米国」であり続けているのだから。

朝鮮半島の追い詰められた国家に、核放棄を迫るのであれば、オカザキ氏の作品に、今度こそ、今度こそはまともに向き合ってもらいたい。これは反省を迫るという意味ではない。「向き合うこと」「逃げないこと」これは、あらゆる人間事象の基本であるからだ。個人のささやかな生活であれ、国家であれ、だ。

8月の憂鬱」のさなかにあって、どうしようもない我ではあるが、卑小な我ではあるが、僕は僕なりの力を絞って、全力で記す。

オカザキ監督、僕はあなたの試みを心から支持する。いかなる妨害にも屈せず、あなたの仕事を最後までやり遂げて欲しい。

【参考記事】

「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(2)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(3)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(4)

「「夕凪の街 桜の国」----穏やかでスローな悲しみ」

2005 08 05 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (8) | トラックバック

July 31, 2005

東京都の災害対策住宅の不思議-----「待機」とは超過勤務なのか。

先日の足立区で起きた地震に関して、災害対策住宅に住んでいる職員の半数以上が都庁に集合していないということが問題になっている。

 東京都足立区で23日、震度5強を記録した地震で、災害時の対応のため東京都の災害対策住宅で待機しているはずの補助要員50人のうち、半数以上が東京都庁に集合していなかったことが27日、分かった。災害対策セクションの総合防災部職員らが登庁し、情報収集などに支障はなかったが、危機管理に対する意識が改めて問われそうだ。事態を重視した都では、集合システムを改善するため、登庁しなかった職員から事情を聴いている。(2005/07/28 産経新聞より)

僕は不明ながら災害対策住宅への認識がなかったのだが、同日の産経新聞によれば、

都庁周辺に約10カ所ある災対住宅に約200人が住んでいる。こうした職員は50人ずつが1週間交代で待機体制をとることになっており、待機時は都庁から徒歩30分圏内にいるように指示されている。

・・・災対住宅の家賃は3LDKで約5万円と新宿区などでは格安。居住する職員は常時、集合訓練を受け、2回集合できなかった場合は同住宅から退去させられるなど厳しい規定がある。

という。

今回都庁に集合しなかった職員は明らかに、この規定に違反しているわけであり、事情によっては規定どおり、この住宅から退去させられ可能性もあるという。報道の脈略に沿って読めば、破格に低額の住宅を提供されていながら、公務員として、災害対策要員として当然の義務を怠った職員に対して、退去を求めるのは当然にも思える。
また、災害における緊急性を思えば、都庁に対策要員ができるだけ短時間に集合するべきなのは、これもまた道理である。

だが、どうも引っかかる。

これらの職員は

「破格に安い住宅を提供される」

ことへの条件として

「緊急時30分以内に都庁へ集合する」

ことの義務を果たすことが求められるわけである。産経によれば「200人の職員が、50人毎に1週間交代で」とあるから、これらの人々に対しては、4週間に1週間ずつ、待機期間が求められることになり、1年間=52週として単純に考えれば、52÷4=13として、1人の職員は、1年間に13週は、24時間の体制で「待機」しなければならないことになる。

しかし、この24時間の「待機」とは「勤務」なのか。もしもこれが丸々「勤務」であるとすれば、24時間X7日X13週=2184時間の勤務が求められることになる。通常勤務が1週間に5日で、仮に1日7時間とすれば、通常勤務との差は、月曜から金曜までの平日においては17時間X5日X13週=1105時間。それに休日は24時間X2日X13週=624時間。合計は1729時間となる。

つまり災害対策住宅に住む職員は、年間に1729時間の「超過勤務」を行うことと引き換えに、低廉な住宅の供給を受けていることになる。

災害対策住宅は都内各所にあるが、新宿周辺に関して言えば月額5万円で提供される災害対策住宅に対して、周辺の家賃相場は30万円前後であり、およそ25万円の差額が生じるという報道がされていた。

計算続きで恐縮だが、そうなるとこの職員が1年間に受ける「差額報酬」は25万円X12=300万円となる。この300万円に対して、引き受ける対価としての1729時間について1時間あたりの単価を出すと300万円÷1729=1735円である。

「待機」とされている時間の多くが、夜間や休日であることを考えれば、この1735円/時間というのは、それほど高いものとは言えないであろう。それも、この時間における「待機」がそのまま超過勤務時間として換算されているのであれば、である。

いや、待て。もう少し細かく考えてみよう。

これが仮に超過勤務だとして、丸々労働時間に参入される場合、1ケ月あたりの超過勤務は1729÷12ヶ月=144時間となる。月間の通常勤務を完全週休2日として仮に23日として計算すれば、144÷23=6時間。何とこの職員は平均すれば、毎日6時間の超過勤務を引き受けて、この報酬を得ていることと同じになる。

通常の会社員の方ならお分かりになるとおり、常識的に1年間連続して月に144時間の超過勤務というのは、相当にタイトな職場であり、過労死が起きてもおかしくない。もちろん、この都の「待機職員」に過労死などが起きるわけはない。今回の出来事でもわかるように、これはあくまでも「緊急時のための」待機であり、ここに記したように、全てが超過勤務として扱われるような「勤務形態」の実態は、明らかにないからである。

おおよそ1729時間のうちの99%は、「平時」なのであり、(時には100%であろう)ポケットベルは鳴ることは無い。過労死すら引き起こすかもしれない一般の企業における勤務体制とは程遠い現状がある。

では、この1792時間とは、一体何なのか。

通常の人間が健康を損ないかねない、年間1729時間にも昇る「超過勤務」を、まるで「あったかのように」計算し、それに基づく報酬を支給し、数年に一度の「緊急時」に集合しなかったからといって職員を罰するという。

この制度そのものが、何かおかしくはないか。

もっとはっきり言えば、「災害対策」を口実にした、一部職員への利益配分とも見えるのであり、民間に比べて格段に安い家賃での住宅供与に対する批判をそらすための、「災害対策」であるという穿った見方もできるのではないか。

仮にこれを「超過勤務」として位置づけるのであれば、年に1729時間などという、とてもこなせない時間を強いること自体が無理というものであり、それが勤務ではなく単なる「待機程度の」状態に対してもしくは「カラ仕事」同然の勤務に払われる対価であるなら、過剰というものである。

災害対策を主として行うのであれば、この200人ではなく、全職員に対して災害対策のための無理の無い待機時間を割当て、それに対して超過報酬を出すというまっとうな考え方で都は対応すべきではないか。

あるいは、遠隔に住む職員では災害時に緊急対応できない、どうしても30分以内に住む職員に限りたいというのであっても、年間1792時間にも及ぶ一人当たりの待機時間を現実的なものに減らす(待機職員の数を増やし、1人あたりの待機時間を常識的なものに減らし、それに見合った報酬に下げる)などといった、現実的な方向での改善を図るべきだ。また恒常的に住宅に住まわせるのではなく、交代でこれらの住宅に泊り込み「待機」させるという、ローテーションを組むという方法をとれば、対象職員の数ももっと増やせるし、1人あたりの実質的な負担も少なく、また泊り込みの番が回るということであれば、意識づけの上でも効果が得られるのではないか。(ポケットベルが鳴ってもかけつけないなどいうことは、まずなくなるだろう)

さもないと、全てがまた「アリバイ工作」であると言われてもしょうがない。それほどの不自然さがこの話には漂っていると思うがどうだろうか。

言うまでもなく、災害対策に「アリバイ」めいたつじつまあわせは、非常に危険であり、都民としては非常に迷惑である。

2005 07 31 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

July 10, 2005

かつて「テロリスト」だった国にあって思う。-----「対テロ戦争」はシャドーボクシング。

ロンドンのテロについて考えるとき、この悲惨な許すべからず犯人の所業に直面しても、こだわっておきたいのは、連発される「対テロ戦争への勝利」という言葉。

9.11以来、「対テロ戦争」は米国ネオコンの謳い文句となり、その文脈でアフガン戦争がなされ、イラク戦争が実行された。おそらく今回のロンドンのテロについても、ブレアのポジションはともかくとしても、ブッシュは、「対テロ戦争」の一層の強化を、ここぞとばかりに関係各国に対して強調してくることだろう。

一方で、アフガンでは少なくとも3,700人のアフガン市民の命が失われたといわれる。
イラクでは1,700人の米国兵が死に、10万-15万人ものイラク人の命が失われたとされており、アフガンとイラクを合わせた戦費は朝鮮戦争と同程度の3,500億ドルに上っている。

仮に今回のテロがアルカイダの所業だとして、米国もしくは、それに追随する各国(当然日本を含む)のこれほどまでの「攻撃」にも関わらず、一体テロどころか、アルカイダ1組織ですらなぜ殲滅することができないのか。

カナダのモントリオール生まれの ジャーナリストであるナオミ・クラインは、この「対テロ戦争」について、その運営するサイト「NOLOGO」において

国際的対テロ戦争は政府が反対派を一掃するための口実である

として、以下のように述べている。

「テロリズムは建物を破壊するだけではない。政治地図から他の全ての問題を一掃する。現実のそして誇張されたテロリズムの亡霊により、世界中の政府は、自分たちが行なっている人権侵害の調査を免れることになる。 」

「対テロ戦争は、米国政府がローマや英国のモデルに従った古典的な帝国を建設しようとするための見え見えの口実だと、多くの人が論じてきた。対テロ戦争の聖戦が始まってから2年たった今、それが誤りだったことが明らかになっている。ブッシュと取り巻きのギャングたちは、ただ一つの国でさえ上手く占領できていない。10ともなるととても無理であろう。しかしながら、ブッシュとギャングたちには、素敵な売買人のがんばりがあり、どうやって契約すればよいか知っている。そうしてブッシュは、「対テロ戦争」を、世界支配の「ドクトリン」ではなく、簡易組立式のツールキットとして、反対派を一掃して権力の拡大を図るミニ帝国に売り込んでいるのである。

「対テロ戦争が、伝統的な意味での戦争であったことは一度もなかった。そうではなく、万能反対派浄化装置の市場にあらゆる政府が簡単にフランチャイズ参入するためのある種のブランドのようなアイディアなのである。我々は既に、対テロ戦争が、国内でテロ戦略を用いるグループ、例えばハマスやコロンビア革命軍(FARC)に対して使われていることを知っている。けれども、これは、対テロ戦争の最も基本的な使い方であるに過ぎない。対テロ戦争は、いかなる解放運動や反対運動にも適用されうる。さらに、自由に、望まない移民や厄介な人権活動家、さらには取り除きにくい調査記者にも適用されうる。」
イスラエル首相アリエル・シャロンは、ブッシュのフランチャイズに乗った最初の人物である。彼はホワイトハウスの公約たる「根元から雑草を引き抜き、大元からやっつける」という言葉通りに、イスラエルがパレスチナで占領している地域にブルドーザーを送り込んでオリーブの木を根こそぎにし、戦車を送り込んで民間人の家々を破壊した。破壊の対象は、まもなく、こうした攻撃を目撃している人権活動家や、支援活動家、ジャーナリストにも及んだ。

それからまもなく、スペインでもう一つのフランチャイズ店がオープンした。スペイン首相ホセ・マリア・アスナールが、対テロ戦争を、バスクのゲリラETAから、バスクの分離主義運動全体へと拡大したのである。分離主義運動の大部分は、完全に平和的なものである。アスナールは、バスク自治政府との交渉要求を拒否し、政党バタスナを禁止した(ニューヨーク・タイムズが6月に報じたように「バタスナとテロ行為との間には何の直接的関係も認められない」にもかかわらずである)。アスナールはまた、バスクの人権団体、雑誌、唯一の全面バスク語新聞を閉鎖した。昨年2月、スペイン警察はバスク中等学校協会を捜索した。テロとの関係があると非難してのことであった。

ここには、ブッシュ式戦争フランチャイズの真のメッセージを見てとることができる:撲滅することができるのに、なぜ政治的反対派と交渉しなくてはいけないのか?対テロ戦争の時代には、戦争犯罪や人権への憂慮は全く問題にならない。 」

この新たな規則を注意深く検討した者の一人に、グルジア大統領エデュアルド・シュワルナゼがいる。昨年10月、対テロ戦争の名目で5人のチェチェン人の身柄をロシアに(法的手続きなしに)引き渡した際、彼は、「反テロリスト作戦の重要性を前にすれば、国際的な人権責任など青ざめるだろう」と述べている。

インドネシア大統領メガワティ・スカルノプトリも、同じメモを手にした。彼女は、インドネシアの恐ろしく腐敗し残虐な軍を浄化し、手に負えない国内状態に平和をもたらすと約束して政権の座に就いた。全く逆に、彼女は自由アチェ運動との交渉を拒否し、5月、豊富な石油を産出するこのアチェに侵攻した。1975年、東チモールを侵略して以来の、インドネシア軍最大の軍事作戦である。

(NOLOGO 2003年8月28日の記事
「致命的なフランチャイズ 国際的対テロ戦争は政府が反対派を一掃するための口実である」より ※日本語訳は益岡賢氏の評論より)

「致命的なフランチャイズ」の輸出元に、日本がエントリーされつつあることは言うまでも無い。現在自民党で進行している憲法改正要綱案における「自衛軍」は、この米国のフランチャイズを受ける受け皿としての国際的な軍事行動を基盤にしている。

「撲滅することができるのになぜ政治的反対者と交渉しなくてはいけないのか?」

この言葉が言おうとしていることは何か。アルカイダなり、テロリストなりを「撲滅することができる」という信念は、「対テロ戦争」を遂行する大きな米国の「国是」となっている。この「国是」故に、多少の読み違い----つまりイラクにおいて大量破壊兵器が存在しなかったとか、ファルージャにおける多少の「読み違い」----テロリストだと思って発砲した相手の多くは普通のイラク市民であったとかいうことは問題にされない。
さらに多くの人はアルカイダ兵士の捕虜が収容されているグアンタナモの米軍基地における捕虜の処遇を想像するかもしれない。

何しろ、相手はいつか「撲滅できる」し「撲滅しなければならない」、市民社会を根本から否定し市民の命を脅かすテロリストなのである。
目的のためには、手段に内在する多少の問題などは無視することは、米国のとってきた常套手段であるし、これは東京大空襲や原爆投下で日本に対しても向けられた視線でもある。つまり、そうした表現がなされたかどうかは別として、まさしく当時、大日本帝国は米国にとっての「テロリスト」であったのである。
そして正しくひとたび「テロリスト国家・日本」は壊滅状態に陥れられたのであり、この文脈の通りに、「撲滅」させられたと言ってよい。

だが、こうした意味においても尚、日本は国家だったのであり、あれほど深いジャングルに行く手を阻まれゲリラに手を焼き、結局は敗退を強いられたベトナムですら、対象は正しく「国家」だった。

しかしアルカイダは、あるいはロンドンを攻撃した「テロリスト」は国家をベースにしていない。対象とする「テロ行為」は「特定の国家」に冠していないし、もちろんイスラム教徒という宗教的コミュニティにも軌を一にはしていない。
文頭にあげたような大量の殺戮兵器の投入と巨額の戦費と膨大な時間にも関わらず、テロに対してこれまで有効に戦えているとは誰も証明できないし、今後の見通しもない。

警戒度を少し下げただけで、的確なポイント攻撃をされたロンドンの事態は、そうした意味で今後何度でも繰り返される危険を孕んでいるわけであり、旗旗さんが言及されておられる通り、一連の戦争の過程における、特定の国家の「罪なき市民」が、たまたま「効果的に」殺されたからといって、テロリストを問答無用に糾弾し暴力の反撃を浴びせるのは、問題の中心に正しく迫っているとは言いがたい。

※パレスティナで緩慢に殺されていく多くの市民が一方にいることは忘れてはいけない。

ここで肝心なことは、「対テロ戦争」の有効性は、極めて疑わしい事態になっているという冷酷な事実なのである。ナオミ・クラインの言う

「撲滅することができるのになぜ政治的反対者と交渉しなくてはいけないのか?」

は紛れもなく、パレスティナや9.11あるいはアフガンやイラク、その他における現在の米国の姿勢である。
しかもそれは勝利を収めることができないとしたら、かの国の国家的損失にも繋がり、さらに既にこの戦いに参加することを強いられている日本にとっても、もちろん対岸の戦争ではないのである。とてつもない浪費と空虚を「対テロ戦争」は戦わなければならないことになる。決して終わりも勝利もない戦いである。まさしく「シャドーボクシング」である。

それが薄々とわかっていながら「対テロ戦争」を、自らの手についた血を隠しながら喧伝することで利益を、あるいは政治的「成果」を得る一群がこの地球には生息しているのはナオミ・クラインの言うとおり、確かなことであろう。

救いに思うのは、テロを「憎み」テロを「打ち負かす」ことにより「勝利を収める」という思考方法ではなく、テロを生み出している構造に対する、外交・経済的方法を含めた包括的な対処を主張する言論は決して小さな声ではないということである。
今回のロンドンの事件の後で上がってくる多くのエントリーには希望があると思う。

にも関わらず間違えてはいけないのは、この過程で安易で稚拙な日本的平和主義を金科玉条のように持ち出すことは厳に避けなければならないと思う。
「テロに対する対処」の中身から軍事的要素を取り払うこと自体が、今日の世界では非現実的であり、極端な非暴力主義は、米欧の危機感の前には所詮は被保護国家の世迷言にしか聞こえないであろう。

それを正面に置かずとも、「シオニストの十字軍」という括りからは明らかに距離を持つ日本にこそできることは相当あるのであり、貧弱な軍事により、彼らに曖昧に寄り添わなくても、テロリストに対して、否、アルカイダなどのイスラム過激派に対して、「勝利を収める」のではないWin-Winのしたたかな戦略を探ることはできるはずである。
その多くは、西欧を相手に互角以上に戦った「追い詰められた経験」を持つ日本でなければ、あるいはできないことなのではないか。

ベトナムのジャングルよりも広大なサイバー空間に電子的広がりを持ち、国家的構造を持たない現代のテロに打ち勝つことは軍事のみでは永遠にできないかもしれないが、その発生構造を破壊することは、例えば、この膨大な戦費の数分の一で、アルカイダメンバー全員とその家族を、国際的平和的事業に雇用することによっても解決できるかもしれないのである。
まんざら冗談にも思えないような戦術に見えるのだがどうだろうか。このあたりにヒントはないか。

複雑に見えても世界の問題の大半は貧困に起因しているのは確かであるから。シャドーボクシングよりはましではないか。

2005 07 10 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

June 29, 2005

天皇皇后慰霊の方程式-----なぜ今サイパンなのか

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確かにバンザイクリフでは僕も絶句した。ここは、日本という国の悲しさに二重に向かい合うことができる場所である。

1つは、言うまでもなく60年前の玉砕の修羅場が演じられた究極の場所であるということ。
次々と人が飛び込んだ断崖絶壁は、その映像が残っているという厳粛な事実をもって、ここが悲劇の場所であったということを心底まで知らせてくれる。

そしてもう1つは、太平洋戦争などにいささかの興味もないままに、退屈極まりないといった表情をしてさっさとバスに戻っていく、皇国日本の多くのバカ観光客にこの地で接することへの悲しみである。

1944年6月から1ヶ月間、サイパンはアメリカ軍による艦砲射撃と戦闘機、そして火炎放射器による攻撃を受けた。ミッドウェイ決戦後,日本軍は太平洋上で連戦連敗し,1944年7月には、ついにサイパンを奪取された。
この戦闘で死者は日本側軍人38,000人、日本の民間人12,000人、合計50,000人に及んだと言われている。
サイパン陥落後はグアム・サイパン・テニアンなどのマリアナ基地、後にはさらに本土に近い硫黄島が次々と陥落した。
東京上空にB29が初めて姿を現わしたのは,1944年11月1日である。このB29は,サイパンから飛来したものである。そしてあの東京大空襲につながっていく。

サイパンの陥落は、まさにその後の日本の運命を決めたのである。

しかし、この時期なぜサイパンなのか。

ずっと不可解な念を拭い去れなかったが、今日、天皇皇后が韓国人慰霊施設を訪問したと聞き、妙な納得感を感じた。胸の中ですとんと音がした。
もとより、今回の訪問には、サイパン在住の韓国人より、慰霊施設を訪問するよう、要望が出ていたが(また一方で反対運動があったことも事実である)事前に宮内庁から返答はなかった。

だか結果的には今日、天皇皇后は慰霊施設の前に立った。
※この件、車の中からの礼だったという情報もあるが、どうなのだろう。未確認。

【6/29加筆】
韓国の中央日報によれば「天皇はこの日午前10時から4分間、平和塔前の道路に立って黙祷した。 」ということだ。

元来サイパンへの慰霊が決まった時から、この成り行きは予想できなかったものでもない。というよりも、サイパンへの慰霊を決めた時点で、この時節柄、なにやら政治的な思惑もあったのではないかと穿った見方をしてしまうのは、僕だけだろうか。

つまり、慰霊の旅が決まった当初から、この一連の出来事がプログラムされていたのではないかと思えてならない。こともあろうに、あの信念の火だるま政権、小泉首相の暴走外交の尻拭いを、賢くも陛下が務められるという、甚だ美しくない図式が計画された疑いがある。

サイパンの慰霊の旅はそうした方程式だったのではないか。

まあ、そうした政治的な計算が裏にあったにせよ、なかったにせよ、あのバンザイ・クリフに皇后と二人で立ち祈るその立ち姿には、感銘を感じたのは事実。制度としての天皇制はともかく、人格としての日本の皇室は、アジア周辺諸国の狭量あるいはテロルな「元首」にも、当国の首相にも期待が持てない中、少なくともご本人の気風は際立っていたと言ってもいいだろう。

穿ち過ぎず、信じすぎず、しかし厳粛に受け止めよう。

2005 06 29 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

June 21, 2005

エノラ・ゲイ参拝問題-------靖国と原爆投下を結ぶそれほど細くもない線

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米国大統領が、太平洋戦争終結の日に、エノラ・ゲイを展示した資料館に詣でることを始めたとしてもおかしくはない。なにしろブッシュのことである。小泉首相と同程度に彼には何でも起こりうる。

そうした場合、私達は米国大統領の、このような言葉を信じられるだろうか。あるいは許せるのだろうか。

エノラ・ゲイは平和の象徴だ。だからエノラ・ゲイに頭を垂れるとき、私はいつも世界の平和を祈念している。」

「米国の大多数の市民はエノラ・ゲイに尊敬の念を抱いている。なぜならこれがあの忌まわしい戦争を終わらせ、多くの米国の将兵の命を救ったからだ。」

「日本国民の命?たぶん救ったはずだ。死者はたったの13万人(ヒロシマ)ですんだのだから。エノラ・ゲイのおかげで。なぜって、今でも日本国民は生存しているではないか。」

「大事なのは過去ではない。未来なのだ。歴史に学ぶのはいいが、それに拘泥すべきではない。・・・・私?もちろん来年の今日も、ここでエノラ・ゲイに頭を垂れることだろう。」

「これは日本国民の心情をいささかも踏みにじるものではない。私はそれを確信している。なぜならば、私がそれを確信しているからだ

「エノラ・ゲイを他へ移せ?何のために?エノラ・ゲイはまさにここにあってこそのエノラ・ゲイなのだ。だめだったらだめだ!

日本国民は内政干渉をやめよ!私はこれからも適切に判断した末に、結局エノラ・ゲイに祈念するであろう。

「何を?もちろん世界平和をだ。二度とこのエノラ・ゲイが飛び立つような野蛮な国家をこの世に作り出さないために、だ。」

罪を憎んで、武器を憎まず。孔子も言っているだろう。(小声で秘書に)孔子は日本人だろ?


『参考記事』
ナショナリズムも合理的かつ未来志向で願いたい。--靖国神社参拝問題に関して
「非人道的」とはどういうことなのか

2005 06 21 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (7) | トラックバック

June 04, 2005

戦いを巡る愛情と憐憫(2)-------「場」の争乱とクローズな平和の凡庸。

どうも最近、場が荒れている。先日のこのことは有意義だったと思うが、ある親しいブログの閉鎖だとか、逆にしばらく休んでおられたブログが新スタートを切ったりとか、そこここのバーチャル空間で人と争ったり、リアルの場で人とひどい喧嘩をしたり。

私のリアルはともかく、思えばこのブログというものは、本当にバトルになりやすい、フレーミングを誘発しやすいメディアだ。考えてみればそれぞれのブロガーの数だけ、掲示板があり、それらがTBにより互いを勝手に結びつけるのである。いわば「掲示板」が触手を他の「掲示板」に伸ばして、そこで気に入らないものの存在を見つけてはそこに押し入り、あるいは戦いを持ち帰るのである。この仕組みで荒れないわけがない。であれば、あちこちで火の手が上がるのは止むを得ないのかもしれない。

本当に周囲が騒然としている。結ぶ手を探し回って。あるいは振り払う相手を探して。

そんな中にあって、最近の僕の私的精神的状況を色濃く反映した前記事に、Fairnessさんから美しいTBをいただいた。自分が自分の記事でみなまで書き切れなくても、乱暴な衝動的な記事に対して、その行間を埋めてくれる。そういうブロガーは本当に少ない。こういうのを美しいTBというのだろうな、と思う。この人のブログの魅力は、中庸の美を、本当に見事に綺麗に見せてくれることだ。時に暴力的で、衝動的な記事を空間に投げ出す自分などは、こういう解釈をしてくれる人の存在が必要だ。それは暫し自分の思考を検証し、黙視する契機になる。

記事の完成度とか、そういうことではなく、別種の美をそこに感じる。

そこで、前の記事の意味も自分で考えながら、もう少し書いてみる。

コメント欄にも書いたけれど、平穏や平和を求める気持ちは自分にも人並みにはあるけれど(元来人よりは薄いと思うが)、これら、求める平穏や平和は、実は曲者であると思っている。平和や平穏は、一般的に人が言うほど美しいものだと思えない。無条件に賛美できない。
むしろそれは、つまり平和を志向する心は、孤立的で独善的、自分の周囲の空間のみ守る、エゴイスティックな感情なのではないか。そして、これらが非常にクローズな感覚であることは、それらが宿命的に持っている危険な側面ですらある。
なぜなら他者に深く関わろうとすれば、平穏は遠くなり、他国に深く関わろうとすれば静穏は必然的に乱されるからである。遠い他者の持ち込む不幸は私達の平和を例外なく破壊するからである。

反して、戦いは、必ず他に対象を求める。当然である。対象なきところに闘争は生じないからである。そこでどんなに苛烈な争いがあっても、怒号が飛び交っても、実はそこでは相手との間で、一種のコミュニケーションが生じている。サイバー空間であっても、リアルの世界でも同じこと。極言すれば、相手を傷つけあうことも殺しあうことすらも(!)コミュニケーションである。暴力にすらコミュニケーションは内含されている。それは薄々気がついていても、目を背けがちな、世界のもう一つの側面である。

逆説的に言えば、戦争には元来、他者に関わろうという、血の滲むような切望が含まれている。他者にコミットし、他者を貫こうとして文字通り自分が、あるいは相手が滅びさる危険で警戒すべき現象であることに間違いは無い。そしてクローズした戦争もまた存在しない。闘争や戦いは他者と必然的に関わることでオープンなのである。

戦後日本に欠けていたものがあるとすれば、現象としての戦争と共に失われた、他者に関わろうという血の滲むような切望と実践ではないか。それに代わって凡庸なる一国平和主義の静穏な日々が訪れた。それは世界の視点から見れば、他国に理念以外何も貢献しない、自分勝手で独善的な平和の実現を為した。

日本は宙に向かって平和を叫び続け、その閉じられた空間に閉じこもり、血で手を染める行為を自ら引き受けず、軍事に特化した同盟国に依存した。
九条という謎の呪文を唱え続けていたが、その声は小さく喉の奥で鳴っていたため、誰も聞き取ることができなかった。

戦後60年、1人の他国民も戦禍に巻き込むことも殺めることもしなかった。--これはよく言われる日本の「誇り」であるが、その間に同盟国はその手に大量の血を抱いていたのである。
この軍事特化の同盟国の庇護=死のキスなしには、この特異な、人類史上例を見ない「平和の国家」は成立しなかった。護憲の論は時としてそれを忘れている。

平和は専ら内側に向けての静穏にはなっても、外側の世界には無意味に近かったのは、中韓の最近の反応を見ても自明。ましてや米欧以外の開発途上の国々にとっては、安定した経済がもたらした経済の恩恵はあっても、この喉の奥で鳴らしていた理念は、はなから届かなかった。

深く深く閉じた平和という凡庸な日々を送ることになったこの国家は、勢い他国との関係に真剣味を欠き、おざなりにした。他国との恒常的な緊張感の欠如は、この「決して戦わない国家」という特異な概念に、国も、政治家も国民も洗脳されることにつながり、覚悟を失ったた結果ではないか。であれば、むしろこの洗脳は「自虐国家の洗脳」よりも根が深いと言えはしないか。

この凡庸によって自国の平穏のみが保証され、その平穏が保証されるためにはオープンではなくクローズな思念の空間が不可欠だった。このクローズな空間の平穏は、まさにこの空間のためだけに機能していたのである。経済的な発展の影で、世界の血に目を向けない、精神的な鎖国状態。それが私達の住む世界のもう一つの容貌である。

平和憲法の理念がもしあるとすれば、このクローズな空間から、グローバルな空間へ向けてそれが継続的に強く照射されなければならなかった。だが、その照射の試みがもしされたとすれば、この国の平穏は乱れ、静穏は奪われていただろう。こうした文脈で、平和憲法は元来、内在的に、宿命的に自己矛盾を抱えているのである。

それが外部と「関わらない」ことによってのみ実現される箱庭の平和論は、いつか外部がそれに気づき、焦がれ、模倣してくれるという受身の体制でしかその理想を広める手段を持たないのである。誰かが気がつくことだ。小さい声を聞き取ることだ。

あらゆる懸念にも関わらず言えば、護憲はこのクローズな鎖国状態、他者と関わらない平穏を、この国一国の平和のために将来に向けて継続しようという試みである。

こんな壮大な話だけではなく、私的な苛立ちと状況への苛立ちがそれぞれ交互に絡み合い生まれた、ある種の雑多な苛立ちのカオス-----それが前記事を書かせた、と自分で解釈する。

自分で記事を書いていながら、それが何を意味しているのか、何が自分に記事を書かせたのか俄かにはわからないことは、少なくない。そうした状況に、ブログのTBは、正しく使われればいい意味での変化を与えてくれる。

そして、今回わかったことは、こうしたことのカオス・・はおそらくFairnessさんが感じている感覚の出発点とそう遠くはない。だが彼女はおそらく僕よりも一段木目の細かい感性でその構造を、より慎重に吟味しようとしているのではないかと思う。

今」凡庸に甘んじる姿を見るならば、武器を持った戦いの中でもまた凡庸な役割しか演じられないのではないか。
その場合、その対極が実感できないから、凡庸を振り切る事ができるような気がするのではないか。
武器を持つことを決意した一瞬間だけ凡庸を離れ、また次の瞬間凡庸に埋没するのではないか。

自身の凡庸に対する苛立ちは自身の中にある凡庸への苛立ちで、対象は二次的なものなのではないか。
(Fairnessより)

こうした返信が返ってくると、複雑系の世界の中でも、何かその底にある一貫したものの存在。それは神とは言わないが、何かがそこに動く気配は、感じるのである。Fairnessさんをして、僕の発信に対して、打ち返すものの存在を。

このような存在は、目を閉じればどんな世界にも感じ取れるのではないか。

荒れた世界にも、荒れたブログにも。
平和な世界にも、平和なブログにも。

荒れた家族にも、荒れた恋愛にも。
平和な家族にも、平和な恋愛にも。

つまり、あなたと私に関わる全ての世界に、だ。

2005 06 04 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

June 01, 2005

戦いを巡る愛情と憐憫-------そして「死のキス」

春の嵐の後、夜更けに「戦い」について思い、邪気を帯びる。

60年前。

日本は米国に敗北した。完全敗北と言っていいだろう。
敗北の理由や開戦の理由は、百論輩出であろうが、負けたということ。
完全敗北したということは、全日本人が共有する紛れも無い歴史的事実である。
完膚無きまでに叩きのめされ、荒廃の限りをつくした国土で、敗北者の立場を思い知らされたろう。惨めさを極限まで味わったのだろう。

我らは、祖父母からその屈辱の遺伝子を受け継いでいる。

敗北から戦後の日本は歩き始めたのであり、米国との「親密な」関係は血塗られた国土の上に民主主義という化粧を昨日の墓標の上に施すことから始まった。
憲法だけではなく、靖国だけではなく、国家の今のありようは、米国への完全敗北を原点=グランドゼロとして考えなければ、理解はできない。

敗北とは、有無を言わさず異質の意志を体内に受け入れることである。
異質の意志に貫かれることである。

いかに東京裁判の無意味をあげつらったところで、あの日。
昭和20年の8月15日に日本は完全敗北し、そこから全てを今日に向けて再構築してきた。

米国に、連合軍に、この国は射ぬかれ、貫かれたのである。
その記憶は、無念は我らの遺伝子の中にある。

では中国に対してはどうであったか。
中国は紛れもなく勝者の陣営であったはずである。

しかし

1度でも、日本は中国に敗北したと思ったことがあっただろうか。
1度でも、中国は日本に敗北したと思ったことがあっただろうか。

否。

否であれば何が我らの関係を支えてきたのか。

不完全に燃えた炎は、今も我らを苦しめている。
あらゆる誤解を恐れず言う。

この2国は正しく戦い、いずれかが正しく敗北しなければならなかったのである。
それも完膚無きまでに。

その戦いなき所に、日々を、黄土の大地をカネにまみれさせ、
彼らも我らも、何かをなしえたようで何もなさず、今日に至った。

戦うことの残酷
戦うことの無意味
戦うことの後悔
戦うことの空しさ
戦うことの高揚感
戦うことの偽善
戦うことの悲しさ

そして途方もないその無駄な殺戮と破壊。

戦いの、
戦いの、とてつもないエネルギーの損失と、ヒトの血。血。血。

それらを、全て見ぬふりをして、
全てを、曖昧なアルカイックスマイルでスルーしたところで、
我ら2国は年月を費やしてきた。

中国とは今も血の池のような日本海をはさんで向かい合い、
国土を焦土に追い込んだ直接の当事者である米国とは、
「死のキス」を交わし運命を共にしている。

戦いを巡る愛情と憐憫-------そして「死のキス」

浮かぶ情景がある。

映画「戦場のメリークリスマス」で、日本軍のエリート士官ヨノイ(坂本龍一)が捕虜のイギリス人、セリアズ少佐(デビッドボーイ)の美しさに次第に心を射抜かれ、そして、突然にセリアズはヨノイを抱擁し、接吻をする。

その直後、ヨノイは炎天下の戦場に、崩れるように倒れていく。
衝撃的なシーンである。

あれからずっと、考えていた。あのセリアズの接吻の意味を。
なぜ、セリアズは。なぜ、ヨノイに。

戦いを究極の究極までに避けながらも
戦うべき時に戦うこと。

そして、悪戯に日々を消耗しながら
接吻さえも生まれない平和を蝕むこと。

いずれが、我らのかたちなのか。
いずれが、我らの生なのか。

戦うことの残酷
戦うことの無意味
戦うことの後悔
戦うことの空しさ
戦うことの高揚感
戦うことの偽善
戦うことの悲しさ

そして途方もないその無駄な殺戮と破壊。

それでも尚。

それでも尚、あの「接吻」さえ生み出せない幾十年の、
あらゆる意味での凡庸を、僕は嫌悪する。

それをもしも「平和」と呼ばなければならないなら、
その卑怯な平和を嫌悪する。
あらゆる無慈悲と残酷を超えて。

それをいったい誰が止められるだろうか?

●戦いを巡る愛情と憐憫(2)-------「場」の争乱とクローズな平和の凡庸。へ

2005 06 01 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

May 19, 2005

核のような言の葉-----憂国の夜

小説「終戦のローレライ」を全身でのめりこんで読んだ。ただ事ではないその重量感。たぶんこの本のことは別に記事で書くけれど、パウラと征人の人生に打ちのめされ、すっかり頭は憂国ムードである。結局BigBanは単純なのだろうか。いや、そんなことはない。この時節に憂国を感じないものがあるものか。(一杯いるか)

昨日のエントリーでは、国家の最高指導者に向かって無礼千万、バカ呼ばわり。その上あろうことか、賢くも陛下まで引きずり出したけれど、確かに日本も周辺国に対しては苦労している。靖国や反日デモの例を引くまでもなく、多くの人のエントリーに、日に日に苛立ちの色が濃くなってきていることは事実。ネットでは、親愛なる隣人国家に向かって極東3・・国家などと大変に失礼なことを書いている手合いがいるけれど、そんなことは言うものじゃない。彼らをこんな風にしてしまった責任は、やはり日本にもあるのだ。それに人だって、国だって生まれてくる場所は選べない。(・・・と僕が言うと洒落にならない)

それはともかく、その極東3・・国家の中でも一番の世間で評判の変わり者、天然パーマのドラ息子が、核を持つ、核を持つと騒いでいる。また始まったと受け流す向きから、今度は本気だと厳戒モードになる国までいろんな観測があるけれど、下手をすれば、日本の目と鼻の先、日本海の波打ち際で核実験という、空前絶後の事態になる危険性がある。靖国に毎年詣でていた僕の祖父も、板門店まで何度も行きながら、一度も僕に土産の韓国の記念切手を買ってこなかった、火宅のジャーナリストであったバカ父も、今日の事態を知りせば、目をむくであろう。

「XXXX!何をやってるんだ。お前は!」

「・・・・・・・・」

じいちゃん、とうちゃん。天然パーマの言動は僕の責任の範囲ではない。

知っているかい?そこなギャル。昔むかし、僕がまだ生まれていないくらいの大昔に(嘘だ)キューバ危機というものがあったのだ。知らない人はここから勉強するように。
いま、日本に平和憲法があって本当によかった。(これも嘘・・じゃなかった皮肉)本当は弱いくせに向こうっ気ばかりが強かった、かつての日本。青年将校闊歩するかつての日本であったなら、米国に頼むまでもなく、日本海に石垣と竹槍を・・じゃなかった日本海に負けじとミサイル台を、今頃は、ずるずると持ち出していたことだろう。世界に例を見ない不思議な憲法、第9条のおかげで、我ら早々たる対応はできない。

しかし世界は、事態は、あなたや私、人の考えていることを裏切って、時にずずいと進む。ずずいと進むその数秒前には、美しい星が静寂の中に煌き、あなたも大切な人と海辺で愛を語り合っているかもしれない。僕は君と夜のトラックを走っているかもしれない。
しかし、その数秒後に事態は、忽然と動くのである。たった数秒間。でもその数秒は取り返しがつかない、二度と元には戻れない数秒間である。まさにBigBangが起きるポイントが来る瞬間というのが歴史には確かにある。いつでもそうやってこの星は動いてきたのだ。

改憲か護憲かなどという、これもまた世界に例を見ない「平和で特殊な議論」をしているうちに、(そもそも「護憲」とは「論」なののだろうか?不思議でならない)ここでもまた日本人はかつてのABC包囲網にがつんとやられたように、状況に巻き込まれて、「然るべき」方向に動いていってしまうのかもしれない。それはかつて来た道ではないかと言われれば、誠、その通り。中韓朝そして台の4ケ国に米(コメではない)を混ぜたとき、日本の新しい黙示録が静かに始まらないと、誰が言えるだろう。そもそも、およそ、日本人が何かを主体的に決めることができたことなどあったのだろうか。いや、それは日本だけではなかったというほうが正確かもしれない。

災禍は悪意だけが起こすものではない。

国民は平和ボケしていると言われるが、この緊迫した事態に、幾千万敵に回すといえども英霊への誠を貫くと頑張るお人も、これもまた平和ボケ。実は、北一輝の東アジア構想に密かに共感の心を持つ僕としては、2・26の時代状況に生きた青年将校に思いを重ね、この政治家達に向けて、現代にふさわしいテロのかたちはないものかなどとまで、時に思いつめるのである。

而して

226の青年将校今生きて在りせば、この日本にあって何をするであろうか?

と。

少し話題を変えて、「核のような言の葉」である。(少しどころではないな)

多くの人が驚嘆していると思われる「真性引き篭もり」さんの「下手な考え」や「竹島は韓国領土」といった一連のエントリーの、底の知れない力に感心して読み耽りながら、ブログが「日記のようなものです」などと評された時代の終わりを感じている。「真性引き篭もり」さんのブログに至っては、「引き篭もりオタクの日記」などという次元をとうに超えている。まさに「核のような」言葉の力。こもっておられるという部屋の隅からそっと出された、言の葉の破壊力は半端ではない。凡百の言葉を蹴散らして一瞬に廃墟と化する力を持つ。

ブログの利用者が、今年3月末の時点で延べ約335万人を数え、少なくとも月に1度はブログを見る閲覧者も1651万人に達しているという今日のニュース。その中にあってようやくメディアも、僕達も「ブログの力」というのがどこにあるのかということに、単なる日記ツールではないということに、気がつき始めている。そうだ。これは「日記ツール」ではない。いやむしろ、ツール自体の性格がどうではなく、どだい人が発する日々の言葉を「日記」などという明治の私小説のような範疇に納めて表現すること事態が、違ったのかもしれない。対象の誤認か。

きっと、生きているあなたや私達の日常の言葉にこもったエネルギーは、そう甘いものではないんだよ。フツーの人たちを侮るべからず。鬱々たる今を生きることに苦労すればするほど、その言葉は「核」となるのだ。甘く見るな。甘く見るな。

再び話題を戻す。

226の青年将校今生きて在りせば、この日本にあって何をするであろうか?

僕は、たぶん、この答をもう書いたと思う。

2005 05 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

May 18, 2005

横丁のオヤジの繰言は聞きたくない--靖国神社参拝問題に関して

「横丁のオヤジ」を軽んじるわけじゃないが、「横丁のオヤジ」が日本国の内閣総理大臣だったら大問題だ。

首相の靖国参拝の問題点については、ここですでに長々と書いた。
これでも非力な者なりに、ずいぶん力を入れて書いたつもりであり、主たる論点も織り込んだつもりなので、もう同じことは繰り返したくは無い。少なくとも、わが国の総理の国会答弁よりは、数百パーセントは、私のほうが真面目に論じているつもりである。
それほどかように、衆院予算委員会における小泉氏の靖国参拝に関する答弁は、無残、無意味、無教養、無誠意としか言いようがない。

腹が立つので書き捨てる。書き捨てでない記事を読んでくれる人は上のリンクを辿ってくれ。

「他国が干渉すべきではない。戦没者に心からの追悼の誠を捧げることがなぜいけないのか、理解できない」

その通り、他国が干渉すべきではない。その通りだ。これは日本国民の問題だ。しかし外交問題なのだ。そして外交上の問題にしてしまったのは、内外にまともな説明もできないのに参拝に固執するあなただ。
そもそも他国に干渉される前に、あなたは靖国参拝をやめるべきだったのだ。あなたのその意味不明の頑迷さが、「中韓の干渉」を増長させている。国難は空気の読めないあなたが招いているのだ。干渉を招いているのはあなたの失策だ。
案の定、「他国に干渉されるから」やめる間もつかめない困った事態を招いている。それともこの期に及んでも、中韓との外交交渉キーとし得ると考えているのだろうか?今の東アジアの情勢を考えれば、そんな悠長なことをしている余裕はないはずだ。

「戦没者に心からの追悼の誠を捧げることがなぜいけないのか」?

問題点をすりかえないで欲しい。追悼を捧げることがいけないなどと言っている論はない。あるならその論を引いてくれ。聞かれもしないことに答え、聞いたことにはスルーするあなたの姿勢に誠意が感じられない。
問題は、国家の「政治的機関」である「首相としてのあなた」が憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」に明らかに背いてもなお、そうして皮相的な心情論=横丁のオヤジ論で参拝することに固執することで招く、国家利益の損失にあるのだ。

現在の中国との異常な関係に言及した福田元官房長官の方が、はるかに政治家としてのバランス感覚を持っている。

国民は(少なくとも冷静な国民は)、祭司宜しく靖国の死者に哀悼の意を捧げ、あまた東アジア諸国を敵に回しても、「誠」に殉じる役割を首相に期待しているのではない。海千山千の諸外国を相手にして、日本の国益を守り、あらゆる意味で国家の安全を最大限に守る「機関」としてのあなたに期待しているのだ。国会の場は、あなたの思想信条を聞く場ではない。現実政治の政策を論じる、高度な政治判断を行う場である。
「誠を捧げる」という意味不明なやまとことばを使うなら、国連の常任理事国になろうなどという、謎の自己矛盾行為との折り合いをどうつけるのか。おそらくあなたのようなタイプの指導者が、狡猾な他国に付け入る隙を山ほど与え、かつての日本を「大和心の美学」の名のもとに、壊滅へと追いやったのだ。滅ぶときには1人で滅んでくれ。

少なくとも、あなたは国家の最高指導者である。中国の孔子の言葉まで持ち出して、「罪を憎んで人を憎まず」などと、横丁のオヤジのようなごまかしをしているが、あなたは、そんな貧弱かつオヤジくさいセンテンスでしかあなたの行動を説明できないのか。それがあなたの知性か。

あなたが、日本国の首相として、靖国参拝が国家利益に沿うという信念があるのであれば、それほど優秀ではないあなたに単独で作文しろとは言わないから、その立場を最大限に利用してブレーンを総動員し、国民も、東アジア全ての人々も、納得のできるような、靖国参拝論を堂々と展開してくれ。

#NHKの国会中継で時間が足りないのであれば、ライブドアTVに出演するのはどうか?ホリエ氏も喜ぶと思う。どうでもいいけど。

もう一段階踏み込む。小泉氏の靖国参拝を、横丁のオヤジの勇断を称えるように支持している人たちは、それならいっそ、賢くも天皇陛下に参拝していただくように奏上されたらいかがか。政教の分離を説く憲法に照らして、司法の場で首相の公式参拝を合憲とする司法判断は一度も出ていない。しかし、天皇は、現憲法下では現実的な政治権力を持たない上に、最高の宗教上の祭祀としてその地位は歴史的に疑いはない。それこそ「国の誠」の象徴的存在である。天皇の靖国参拝は、かつて昭和天皇の名のもとに殉じた「罪も無い」A級戦犯や、占領下の人々、そして名もない多くの御魂を慰めるのに、これ以上の癒しはあるまい。そのかわり首相は参拝を即時止めるのだ。

そもそも、首相に期待するのは、英霊に対する拝礼の役割ではない。現実に生きている私達日本国民の明日と国家利益を考える責務は、なによりも優先されるべきである。国連の常任理事国入りを目指すその姿勢と、靖国参拝という個人的な思想信条の統一的な説明をしてくれ。あなたにできないなら、誰かに説明を委託してくれ。それでも許すから。

まさか国連よりも靖国参拝を優先するつもりではないだろうね。そんなゆがんだ愛があるなら、首相を引退し、当該神社の神職にでも就いたらいかがか。

それなら、小泉純一郎氏の個人的自由だ。僕は止めない。

2005 05 18 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (14) | トラックバック

May 10, 2005

JR西日本の会見報道に思うこと----世界は過ちと無謬の2色ではない。

あらゆる意味で過ちのない人間はいないし、その人間が作ったことを考えれば、過ちのない国も組織もない。全てのシステムは、人がその原初に関与したという意味で、あらかじめ過ちを内在している。

そうであるなら、私達は自分の過ちと、そして他者が犯す過ちの両方を、
あらかじめ織り込んで生きていくべきだろう。

もしもこの世が戦いに満ちているとしても、全ての間違いを認めずに、つまり「前線」を一歩も後退させずに生きていくことは厳しいし、そしてまた硬直や不合理の極みでもある。どうしたら自分のあやまちを認めずにできるかとごまかしたり、あるいは逆に開き直ったり凄んだりすることに時間を費やすくらいであれば、全面的にではなくても、局地的にはさっさと謝ったほうが遥かに楽であるし、譲れないところでの、次の反撃のチャンスも伺える。

そもそも世界は完全な過ちと、完全な無謬との2色に染め分けられて構成されているわけではない。当たり前のことだ。
欧米では、過ちを認めてしまったら、それで負けだとされるので、絶対に詫びないなどという言説が多いが、仮に百歩譲ってそうであったとしても、我らの世界が彼らの価値観につきあわなければならない理由もない。

認めるべきは認め、認められない部分は認められないとして、個々に細かく対応していくタフな外交術はあってしかるべきだし、そうした人間関係の対処方法は、色濃くこの国のユニークな伝統かもしれないが、こうした手法をそう蔑んでばかりいる必要はない。
譲るべきところを譲りながらこちらの言い分を通す機を伺っていくことは、重要な交渉術の一つである。これは最近の中韓への対応においても感じるところ。

そして、これも重要なことだと思うのだが、相手がいったん過ちを認め、それを謝った以上は、永遠に罵倒され続けなければならない理由もまた、ないはずだ。攻守は一瞬にして入れ替わりうるのであり、だからこそ攻めている側もそれを深く自覚すべきなのではないか。

これを実感する出来事は、しばしばあなたや私達の日常にも起こるが、最近ではJR西日本の脱線事故である。会見に際して、社長を始めとする経営陣に罵倒の言葉を浴びせかける報道の姿勢が批判されている。

「遺族の前で泣いたようなふりをして、心の中でべろ出しとるんやろ」
「あんたらみんなクビや」
四日深夜、ボウリング大会が発覚した後のJR西日本幹部の会見。激しい言葉を次々と投げかけられ、この幹部はぐっと唇をかみ締め、目を伏せたまま微動だにしない状態が続いた。
発言したのは、犠牲者の遺族ら事故に巻き込まれた関係者ではない。会見に出席した一部の記者がぶつけたものだ。
こうした荒れた会見の様子をニュースやワイドショーで放送したテレビ局には、視聴者から「遺族の代表にでもなったつもりなのか」などとマスコミ批判も寄せられた。

(中略)

・・・会見の場で質問する記者の多くは社名を名乗ることもなく、時に怒声をあげてJR西側の回答をさえぎることも。このため、マスコミ側に寄せられた苦情には「罵倒(ばとう)だけの会見は恥ずかしい限り」「記者の会社名と名前を出すべきだ」といった意見も多かった。
 ジャーナリストの鳥越俊太郎さんは「感情的な言葉はあまりに聞き苦しい。自分もミスを犯すかもしれないということを忘れ、恫喝(どうかつ)的な姿勢になっている」。

 音好宏・上智大助教授(メディア論)も、説明責任を果たしていないJR西日本が社会的非難を受けるのは当然としたうえで、「歴史的事件の最前線にいる記者がつい冷静さを失うのは分かるが、記者の感情の高ぶりに任せた質問が逆に視聴者に違和感を覚えさせたのでは」と、記者側に自制を求める。

 放送批評懇談会の志賀信夫理事長は「一番大切なのはなぜ事故が起きたのかという点だが、現状ではJR西日本のダメぶりをボウリング大会などの不祥事から誇張して騒ぎ立てている印象だ。事故原因や、職員と車掌は何をすべきだったのかなど、事の本質を客観的に報じることが求められている」と話す。

 遺族や被害者の立場に立った報道は重要だ。しかし、客観性や冷静さを欠いた報道は、今回の事故の本質を見失わせる。そのことを肝に銘じながら、真実を追いかけていきたい。(5月7日産経新聞朝刊:JR脱線事故取材班)

本質的な事故原因の究明は途上だけれど、R西日本側が、最初から細かなミスを認めず、事実を隠すととられても仕方が無いような発言や工作があったことも事実である。しかし、
「遺族の前で泣いたようなふりをして、心の中でべろ出しとるんやろ」
などという暴言を吐かれたJR西日本幹部は、頭を下げた後ですかさず、「あなたの社名を聞かせてください」という反撃に出ても良かった。暴言を吐いた記者はどのように対応しただろうか、あるいはこうした行動をとったとすれば、JR西日本側は視聴者からどのように受け止められただろうか。

いつ自分がその立場に立たないとも限らないという痛みを欠如したところで、傲慢の上にも傲慢を重ねる人物というのは、報道に限らずどこの世界にもいる。問題は、こうした人物の行動もまた現代においてはウォッチされているということであり、必ず批判に晒されるということだ。

我々もそう馬鹿ではない。

2005 05 10 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (12) | トラックバック

April 30, 2005

ウィルスバスターの「冒険的事態」と尼崎-----そこに慢心はなかったか

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あまり書かれていないことだが、経験的なところからだけ言うと(つまり思い違いの可能性があるということだが)ウィルスバスターは、ここのところ、問題のパターンファイルの前からおかしかった。
パターンファイルがダウンロードされると、ウィルスバスターは再起動を始めるのだが、最近は(僕のOSはWindowsXP-SP2)この後の再起動にとんでもなく時間のかかることが多くなっていた。(繰り返すがあくまでも、感覚的な話である。)どうもメモリのマネージメントがうまくいっていないような感触は持っていた。時にはそのままネットがつながらなくなったり、ハングしてしまったこともあったが、僕のノートパソコンがそろそろ相当な代物であることと、悪名高きSP2でのことだから、こんなものかと思っていた。

ところが、あの悪魔のパターンファイル594が配られて騒ぎになった以降、配付されたパターンファイルはSP2上でも軽快に動く。いったいどういうことなんだろうか。単なる偶然とも思えない。

今回の事件はトレンドマイクロ社における2重のミスから起きた。一つは無限ループのバグを含んだプログラムを書いてしまったプログラマー。そしてもう一つは、SP2などのOS上でのチェックを行わなかった品質検査の担当者である。

これは本当に感触なのだけれど、この品質検査は、594のかなり前から、いい加減になっていた可能性はないのだろうか。事件後に打って変わったように軽快に動くようになったウィルスバスターを見ていると、そんな疑問も湧く。

トレンドマイクロ社は、1988年8月米国ロサンゼルスにて創業。現在は東京に本社を置いている。現在会長を務める、創業者のスティーブ・チャンはIT業界の伝説の1人である。
「ウィルスバスターの冒険---トレンドマイクロ創業物語」は、この創業時のスティーブ・チャンの妻、ジェニー・チャンがその失敗と苦闘の日々を女性の視点から書いた物語として、極めて面白かった。ウィルスを駆除するソフトなどというものがビジネスになるなどということは、当時誰も予想しなかった。
その「誰からも理解されない技術」に全身全霊をかけた会社はいつか「アジアで最高にクールなハイテク企業」と評され、2004年の通期売上高は、エンタープライズ分野が好調で、620億4900万円と前期比29%増加。営業利益は260億7800万円までになった。
(CNET Japan 2005/02/04の記事より)

今回、問題のパターンファイルの番号にちなみ給与を594円にすることを宣言したエバ・チェンは、同社副社長のジェニー・チャンの妹に当たる。
1988年5月に米テキサス大学でMBAおよびMISを取得し、同じ月にトレンドマイクロに入社。同社創設者の1人であり、以後は製品開発部門を率いてきた。社長就任は、2005年1月からである。この規模になっても、トレンドマイクロ社は、アジア的な同族経営の色彩を色濃く持ち続けていることも伺われる。そしてエバ・チェンは、就任早々に創業以来最大とも思える危機に見舞われたことになる。

企業セキュリティが4月に施行された個人保護法の追い風もあり、まさに企業としてはわが世の春を謳歌しようかという矢先に起きた、大きな落とし穴だった。だが、トレンドマイクロ社に、慢心はなかったか。

現在国内では鉄道史上最大の事故として報道されている尼崎の脱線事故を思うにつけても、企業にとっての「危機」は、突然襲い掛かる性質のものではなく、いくつもの「遠因」や「前兆」は密かにだが確実に現れているのである。尼崎の事件では、定時運行を至上命令とするJR西日本の、運転士の管理体制が問題とされている。それもこの事故あったからこそである。できるなら我々は、その「兆し」を察知できるアンテナを失わないようにしたい。
これは命が関わっていればなおさらであるが、そうした意味で尼崎の脱線事故を、トレンド社の事例と比較するのは突飛と考える人もいるかもしれない。
だがパーソナルコンピュータが社会の生命線を支えている現実がある現代、トレンドマイクロのような事故ですら、いつ人命に関わることにならないとも、誰も断言できないのである。

エバ・チェンは今年1月の就任時に、会見の中で今後のトレンドマイクロの主な戦略三つを挙げている。

 一つ目は予測不能な攻撃に対しての保護。世界中に広がっているネットワークからどんな脅威が発生するかわからない。その脅威に対して、予防はもちろん、感染しても業務が早急に復旧できるようにする。

 二つ目がタイムリーなアップデートと迅速な対応の強化。パターン・ファイルの更新だけではなく、情報のアップデートやソリューションの提案を含んでいる。

 三つ目がインフラを含めた保護。自分のパソコンを保護するだけでなくネットワーク全体を考えたセキュリティの確保をサービスとして提供する。

 また最後に、「大規模感染などから常に学び、顧客をどのようにサポートすればよいかを考える組織にしたい」・・・

(日経コンピュータ記事より)

その中には、自社を発信源として数ヶ月後に発生することになる未曾有の事態を予測する、あるいは示唆するいかなる発言もない。当然といえば当然ではあるが、今読み返すとき複雑な思いがよぎる。

(余談)

関連会社のプログラマに
「ウィルス退治する側がウィルスばら撒いてどうするんだよなあ。笑」

と冗談を言ったら真顔で

「・・・・・BigBanさん!あれ(トレンドマイクロが配ったのは)はウィルスではありません!」

「・・・・・・(知ってるよ。そんなこと!)」

プログラマーのこういう硬直思考というか洒落が効かない所がイヤだ。

2005 04 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (9) | トラックバック

April 24, 2005

日本の戦争謝罪2----過剰な国家意識を超えて

前回の記事

「日本の戦争謝罪----歴代首相の発言」を2-3補足。

●まずSayuriさんから的確なコメントと、小泉発言全文へのリンク(外務省サイト)をいただいたので紹介する。詳細に読み返せば、一部で言われているような「土下座外交」でも「自虐史観」でもない。お詫びという言葉はあるが、実はかなり中韓を「牽制」した感の強いメッセージであり、小泉氏のものとしては、最近では珍しく評価できる演説ではないかと考える。

●それから、これはちょっと驚いたけれど、ご本人も「国粋・憂国思想」を認じるということで、普段であればちょっと私の苦手なタイプだが、桜日和さんの「小泉首相の発言は是か?非か?」。非常に私のスタンスに近く、妙な感動を覚えた。

●さらにその桜日和さんに出ていたリンク。「日本の教科書について」のFLASH。いいじゃないですか。これ!質も低くないし、過剰な国家意識で粉飾もされていない。こういう内容のものなら、自信を持ってどんどん配っていっていいのではないかな。国内にも。

【4/24加筆】
玄倉川の岸辺さんが、また見事に小泉スピーチへの、反対・賛同ブログのオピニオンを整理してくださった。そのエネルギーと冷静な知性に感謝!

ぜひ、ごらんあれ。

2005 04 24 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

April 03, 2005

なぜ君が代を歌わないと処罰されるのか(2)----東京都教育委員会の違憲行動

前記事に続き、東京都教育委員会の10.23通達。正確には「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」の着目すべき問題点に触れる。

●職務命令の範囲の問題

通達では

>3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。

として教職員の服務責任に言及している。
ここで、責任追求の根拠とされるのは「教職員が本通達に基づく校長の職務命令」に従わない場合である。職務命令の中身は、当然「憲法違反となる内容」を命令したのであれば無効であるから、(当然であるが)合憲の範囲に留まるのが自然である。

そうしてみれば、生徒や同僚に対して、「国旗掲揚や国歌斉唱に従わないように」指導活動し、実際に通達に即した儀式を妨害した場合に、職務命令違反を言うのは100歩譲って仮に認めたとしても、「国旗掲揚や国歌の斉唱」に際して「立席しない」行為を処罰するのは、「職務命令の範囲」を逸脱するのではないか。なぜならこの場合の「立席しない」という行為は「個人の信条の自由」の発露であり、立たないことが、自動的に「国旗の掲揚や国歌斉唱」を積極的かつ組織的に妨害する行為とは言えないからである。

先の記事にあげた憲法19条

(第19条)
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

及び公務員の憲法遵守義務を定めた

(第98条)
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

に矛盾する可能性のある通達内容であるなら、はなから「憲法の最高法規性」により職務命令も自動的に無効である。東京都教育委員会は、それに異があるのであれば、理の通った説明をするべき責任がある。


●入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針について

別紙では細かく国旗の掲揚方法、国歌の斉唱の方法に関して細かく定めているが、これらは「実施指針」である。実施指針は強制力を持つのか否か。
通常に考えれば「指針」という言葉を使うならば、「実施にあたっての一定の基準」であるに過ぎず、これに100%即して行うべき強制力はないはずである。しかるに、実は「「立席」や「発声」の義務はこの「指針」の部分に盛り込まれている。指針があるがゆえに、着席したままでいることができないのである。
これらの実施指針に従わない場合、先の「服務命令」に違反したとみなされるならば、これは「指針」ではなく「通達の命令内容そのもの」である。
然るに教職員及び生徒が、現行の儀式における国旗掲揚と国歌斉唱を妨害しなかったとしても、憲法に保障された「内心の自由」を保つために、着席もしくは斉唱をしなかった場合、それが個人的行為であるにも関わらず、教職員処罰の事由となるというのであれば、やはりこれは憲法19条、98条に違反している疑いがある。


●政府見解との関係

先の記事で見たように、政府は再三にわたって、「国旗国歌法」における、教職員及び生徒に対する強制を否定している。然るに、明らかに国旗掲揚と国歌斉唱を強制し、実質的に身分に関わる処罰を合理化する東京都教育委員会の10.23通達は、どのような根拠に基づいて、どのような権限で発令されたのかが不明確である。

各自治体は、条例や通達を出す権限を持つことは勿論であるが、当然ながら最高法規たる憲法に違反する疑いのある条例や通達命令は無効である。


●公務員としての教職員の遵法義務

公立学校の教職員が公務員である以上、通達に対して従う義務があるとされ、服務命令違反の処罰の正当化に使われているが、公務員にはまず最高法規としての憲法を遵守する義務が、何者にも優先する。当然自治体の条例や通達が憲法違反の可能性がある場合、しかるべき判断が確定するまで、この通達に従う必要はないのではないか。

以上が、ここまでの経緯に基づいて、僕が検討した通達の問題点であるが、法解釈に関して素人的解釈の謗りや不備もあろう。

そこで東京都弁護士会が2004年9月7日に表明した「「国旗・国歌実施指針」に基づく教職員処分等に関する意見」も目を通してもらいたい。
ここでは

「東京弁護士会は、東京都教育委員会の2003年10月23日付「通達」による学校行事等における「国旗・国歌実施指針」に基づき教職員の処分ないし厳重注意などの不利益扱いを行うことは、教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害し、子どもの教育を受ける権利を侵害する事態を招くため、かかる処分等を行わないよう強く要望する。」

として10.23通達の基づいた東京都の処分に関しての重大な問題点として

「生徒に対して、思想良心の自由の説明をした教師に対して「厳重注意」がなされている点である。思想良心の自由に関する説明を許さず、国旗に向かっての「起立」や「国歌斉唱」の指導に従うのが当然と、心理的に強制する指導方法が強要され、生徒から思想良心の自由の行使の機会を奪うことが適切な指導とされているからである。」


「都議会での東京都教育長の答弁で、「卒業式で多数の子どもが『国歌』を歌わない、起立しない教師の指導力不足であるか、学習指導要領に反する恣意的な指導があったと考えざるを得ないから、そういった場合は処分の対象になる」旨が述べられている点である。生徒の「国歌」斉唱の際の「不起立」について教師に結果責任を問い、生徒に対する強制的指導を適切な指導であるとして、教師への処分を介して間接的に、子ども達への強制を示唆しているからである。
この点は、生徒に対し「起立して『国歌』を歌わないと教師が処分されることになるから、起立するように」といった生徒の思想良心の自由を無視した指導がなされ始めているとも伝えられており、憂慮すべき事態となっている。」

の2点を挙げている。特に問題となるのは、教職員への処罰の形式をとることが間接的に生徒への心理的圧力となり、間接的に生徒の思想良心の自由をも侵す結果となることに強く警告を行っている点である。

さらに

「本会は、東京都教育委員会の行っている、学校行事に関する10.23通達及び「国旗・国歌実施指針」に基づく上記一連の処分等の運用は、教職員及び児童生徒の思想良心の自由を侵害し、教育を受ける権利を侵害するものとなることから、これを深く憂慮し、今後、同通達に基づく教職員に対する処分ないし厳重注意等の不利益扱いを行わないよう意見表明するものである。」

として10.23通達に対して教職員及び児童生徒の思想良心の自由を侵害するものとして強く警告を行っている。


繰り返しになるが、この記事が問題としているのは、国旗や国歌の正当性ではないし、天皇制に関する思想の問題でもない。現行憲法に明らかに違反するとしか思えない、東京都教育委員会の一通達が、権威化され、あたかも確定法のように扱われて、実際に今日も現場の教職員や生徒に不利益と精神的苦痛を与えている実態を問題にしている。

なお、これに関して日教組の偏向教育を事由にして反論する向きがあるが、当サイトではそれはこの問題とは切り離して考えるべきであると考える。

東京都教育委員会は、一刻も早くこの通達に関して、明確な説明を行うか、あるいは直ちに通達を取り消すべきである。もしも現行の石原都知事の体制下、教職員や生徒に対して高圧的な越権行為が許されると考えているならば、大きな過ちであると言わざるを得ない。

現行の違憲訴訟等の進行に関して詳しいデータを今持ち得ないが、違憲訴訟以外、これを制止する手段がないのであれば、粛々と対抗すべきであろう。そう考える。

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なぜ君が代を歌わないと処罰されるのか(1)----東京都教育委員会の違憲行動

この問題は果たして正当に当サイトで扱うことができるかどうか、筆者の能力的な問題もあるので躊躇していたが、実際に、私生活ではまさに「内心の自由」に基づいて解釈対応している部分も既にあり、コメントを行わず放置するのもしんどい。どこまで記事として成立するか未知数だが、試みてみる。

自分としては、学校の儀式で「君が代」の斉唱があるとき、起立しない、歌わないというのを習慣にしてから長い時間が経つ。子供の体育祭や終業式など儀式全般でそうなので、最初は呆れ、疎んじていた家族もすっかり慣れてしまい、言わば織り込み済みの事項として淡々と過ぎている。せめて家族への配慮で、儀式があるときには式次第に素早く目を通し(苦笑)、君が代斉唱がある場合、席はなるべく後列に座るような「自分なりの配慮」はしている。

ちなみに、子供の学校は公立校ではない。私立のプロテスタント系の学校である。そうした環境と無関係に、学校祭事では公立同様、君が代斉唱と国旗の掲揚が、粛々と行われている。文科省から私立の学校機関には、どのような指示なり意志伝達がなされているのかは不明だが、かかる信条文化にある学校においてもこの習慣が守られていることはそれ自体、かなり奇異な感じさえする。

ちなみに念のために言えば、自分は「一般的な左翼的史観」の持主ではない。
憲法9条を堅持するというような方向での護憲の考え方を持っていないし、国際機関の要請があれば、一定の制約の元での軍事力の保持を改憲憲法の条項に盛り込むことも9条を聖域化しない改憲も必要であると考えている。いわゆる「絶対的平和主義者」ではない。

このサイトの記事を読めばわかると思うが、究極は米国から離れて独自の判断力と自立性を持つ日本というのが自分の理想国家像としてあり、現在のような従属的な同盟国の立場から、最低でも、ECのような一定の自立性を持った、米国にも「必要に応じて」対峙する勢力となるために、アジアの「ブロック化」(このへん危ういところで微妙なところであるが)も選択肢の中に入れるべきだと考えている。(中韓の現状を見るとこれも容易な道のりではないが)

愛国心や国への忠誠心を教育に盛り込むことも、全て反対というわけではない。戦後の自虐的な史観をそのまま教育に盛り込み、その影で米国や大国の戦争に名を借りた残虐行為を見過ごすことにも、ベタなアジアの一部の国への謝罪外交に対しても反対の立場である。

無条件に対米従属しない、議会と直接選挙による元首を中心に構成される、共和制の国家。そうしたところに、この国の理想像のようなものの帰着を、稚拙ながら自分なりに抱いている。そうした意味で現在の日米安全保障条約にも見直しが必要であると考えている。

以上が自分の大まかな政治的スタンスである。それを言明しておかないと、以下に展開しようとしている主張も、単に「左」として処理しされかねないので、敢えて書いておく。

その上で(ここがある意味複雑なところであるが)僕は、天皇制という不合理(と思われる)かつ特異で特殊な制度を、このまま21世紀も日本という現代の国家が、いささかでも「政治制度として」保持することに懐疑の念を抱いている。
もちろん現在の皇族の方々には、日本人として人並みの愛着心や親愛の情を持っているが、雅子妃の問題にも現出したように、皇族自身に対しても人権意識を欠いた不合理で理不尽な現行制度は、「伝統文化の領域」にのみ留めるべきであり、政治制度や法規に記載される「象徴天皇制」なる不可思議なものは、制度疲労と弊害が出ているので廃止もしくは言い改めた方がいいと考える。それはこの国の体制を曖昧にし、真の責任の所在を曖昧にし、さらには日本なるものを茫漠不可思議なる国家にしている一因となっていると考えるからである。

従って、そうした理由から僕は現在の「君が代」という国歌に対して賛意を表明することはできない。これは愛国の情の欠如とか帰属意識の否定とかいう観点ではなく、この国にはもっとしかるべき思想を込めた新しい国歌が制定されるべきだと考えているからである。「君が代」の歌詞は現代の日本における政治システムとも、国民感情にも、国際環境にもそぐわないと感じている。

以上の理由から、「日の丸」の掲揚に対しては立席するが、国歌斉唱には着席するという、傍から見れば必ずしもわかりやすいとは言えない、地味な態度表明をずっと続けている。もっともこれは淡々と続けているものであり(子供に対してはわかる範囲で理由の説明をしている)、僕がこうした思想を着席で表明することに当たっては、少々冷たい周囲の父兄や学校職員の視線を受け流しているだけですむ。自分の中ではこの行動は既に「結論が出ている」ことなので、迷いはない。信条の表明の機会として、脅かされるほどの圧力も(今のところは)感じていない。積極的に周囲を巻き込むことはしていないが、そうした考え方の者もいるということを表現している。それだけである。

ところが、もしも私が公立学校、それも東京都の教職員であるとすれば、事は大事に至るらしい。今年も東京都教育委員会は都立高校や盲・ろう・養護学校の卒業式で「君が代」を起立斉唱しなかったことなどを理由に教職員を処分することを決めた。処分された教職員は本年約50人とみられている。

さて、信条や思想は後述するように憲法によって保障されている。儀式における私のような行動も、またこれと正反対に、国旗国歌の掲揚や斉唱について「全ての国民に強制すべき」と考えることも、左翼政党による一党独裁がこの国にふさわしいと考えて活動することも、特定の宗教を信仰して活動することも憲法上は自由である。しかし、そこに一定の行政機関が公的な権力の元に圧力をかけたり、そうした信条を表明した者に不利益を起こさせたりすることがあれば、それは別の問題となってくる。

この記事の目指すところは、思想として「どちらが正しいか」の主張ではない。現状の法制度の中で、妥当性があるのか否か、特に問題となるのは憲法の解釈と諸法規との関係の問題であると考えている。そうした観点からこの問題を考えてみたい。

まず、この問題をできるだけ精緻に考えるために、関連すると思われる事実や条項関連のを下記に整理する。
少々長くなるがご辛抱を。

【「日の丸・君が代問題」に関する関連事項】

(1)国旗国歌法(1999年8月13日)

国旗及び国歌に関する法律(平成11年法律第127号・国旗国歌法)により、日の丸が正式に国旗として定められ、また「君が代」が国歌として定められた。但し、ここでは日の丸を日本国旗と定めること、君が代を日本国歌にすることの定めはされた(成文法でその根拠を定めた)が、これへの強制規定や罰則規定は(当然ながら)一切ない。

(※Wikipediaではこの法規説明の前に「1990年代末に、各地の高校や大学の入学式で日章旗を掲揚するか否かの議論が高まり、校長が自殺するという事件の発生を受け、」という前提を記載している。)

さらに君が代に関する政府見解は以下の通りである。

●政府が法案提出と同時に出した「君が代」に関する政府統一見解(1999.6.11)

 「君」とは、「大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。」(「君が代」の歌詞は、)「日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である。」

●小渕首相(当時)による解釈の変更(199.6.29)

 (「君」とは)「日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す。」
 「『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる。」(君が代の歌詞を)「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当。」 

小渕首相の解釈変更では、天皇の地位に関して微妙な言い代えが行われているのがわかる。

(2)学校における国旗及び国歌に関する指導について(通知)(1999.9.17)

これに基づき同年9月17日、 文部省初等中等教育局長、文部省高等教育局長の連名で、以下の通達が、各都道府県知事、各都道府県市町村教育長、国立大学長等に対して出されている。

ここでは

「この法律の施行に伴って,このような学校におけるこれまでの国旗及び国歌に関する指導の取扱いを変えるものではありません。学校における国旗及び国歌の指導については,これまでも適切な指導が行われるようお願いしてきたところですが,この法律の制定を機に,国旗及び国歌に対する正しい理解が一層促進されるようお願いします。」

また卒業式や入学式においては

「調査によれば,前回の平成10年春の調査に比べて全体としては実施率が上昇していますが,一部の都道府県及び指定都市において依然として実施率が低い状況にあります。各都道府県教育委員会及び各指定都市教育委員会にあっては,貴管下の学校における実施状況等を的確に把握し,各学校の卒業式及び入学式における国旗及び国歌に関する指導が一層適切に行われるよう引き続きご指導をお願いします。」

としている。

(3)東京都教育委員会の10.23通達(2003.10.23)

東京都教育委員会教育長横山洋吉名による「学校行事等における『国旗・国歌』の実施」通達(10.23通達)が都立高校、都立養護学校・盲ろう学校校長に対して出された。通達には、

・教職員の服装・座席の指定
・教職員は「国旗」に向かって正面に位置し「国歌」斉唱
・校長は文書で職務命令を出すこと
・職務命令に従わない教職員は処分

などを含み、国旗の掲揚位置や「国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行う」などを事細かに指示する実施方針が記されている。

ここで初めて、服務命令に従わない教職員の処分を明文化した通達がなされた。なお僕の知る範囲では、他に教職員への罰則・処分まで踏み込んでこの件に関して通達を行った自治体はない。

一般にこの10.23通達を「法的根拠」として、今春の教職員処分も行われているわけである。

(4)「服務事故再発防止研修」

この制度はもともと暴力教員やセクハラ教員など、生徒の人権を著しく侵害した教員や、教師としてあるまじき行いをした教員に対し、反省を促すための制度だったが、それを拡大解釈して「日の丸・君が代」を生徒に強制しなかった、あるいは「日の丸・君が代」の強制に従わなかったことを理由にこの「再発防止研修」が行われるようになった。
「再発防止研修」を受けてもなお信条を変えない教員には、「(研修)の成果が不十分な場合は研修終了とならず、再度研修を命ずる。受講して反省の色が見られず、服務違反を繰り返す場合は、より厳しい処分を行うことは当然。」と横山教育長は明言している。

一方政府見解はどうであったか。国旗国歌法の成立過程における政府の答弁の抜粋である。

政府答弁---国旗国歌法の成立過程において

(1)野中広務官房長官 (1999年8月6日国旗及び国歌に関する特別委員会)

「これらの政府の見解(「日の丸・君が代」政府解釈)は、政府自身の見解でございまして、国民お一人お一人が君が代の歌詞の意味などについてどのようにお受け止めになるかについては、最終的には個々人の内心にかかわる事柄であると考えております。」

(2)御手洗政府委員 (1999年8月4日文教委員会)

「子どもは当然、通常の場合に、学校が定められた教育活動に主体的に参加していく、これは教育活動の本来持っております作用でありますし、教員はそういった教育活動の本来的な作用に従って児童生徒を指導していくと言うことでございますけれども、指導の結果、最終的に児童生徒が、例えば卒業式にどういう行動をとるか、あるいは国旗・国歌の意義をどのように受け止めるか、そういうところまで強制されるものではないという意味で、強制するものではないと申し上げているところでございます。」

「これ(内心の自由にまで立ち入って強制することがあってはならない)は学校教育におきましても国民一般の場合におきましても何ら異なるところはないものと思っておりますし、教育に当たる学校の教員が、憲法に保障された基本的人権であります内心の自由にまで立ち入って強制すると判断されるような教育活動を行ってはならない。こういう点につきましては、私ども、今後とも十分留意をして参りたいと思っております。」

(3)有馬文部大臣 (1999年7月21日内閣委員会文教委員会)

「それでは、ご質問のどのような行為が強制することになるかについては、当然、具体的な指導の状況において判断しなければならないことと考えておりますが、例えば長時間にわたって指導を繰り返すなど、児童生徒に精神的な苦痛を伴うような指導を行う、それからまた、たびたび新聞等で言われますように、口をこじ開けてまで歌わす、これは全く許されないことであると私は思っております。児童生徒が例えば国歌を歌わないということのみを理由に致しまして不利益な取り扱いをするなどと言うことは、一般的に申しますが、大変不適切なことと考えておるところでございます。

(4)小渕恵三内閣総理大臣(1997年7月21日 衆議院内閣委員会)

児童生徒の内心にまで立ち至って強制しようとする趣旨のものでなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。この考え方は、1994年に政府の統一見解として示しておるところでございまして、『国旗・国歌』が法制化された後も、この考え方は変わるところはないと考えます。」

教職員の「内心の自由」については

(5)有馬文部大臣 (1999年8月4日文教委員会)

「教育公務員として、あるいは教員として、地方公務員としての制約はございますね。ですから、その制約と、ご自分の、教員一人一人が持っている内心の自由、今その両方の関係をご質問だと思うけど、どの人が仮に内心の自由で何かをしたくなかったときに、その人が最終的に内心の自由でしないと言うことは、それはやむを得ないとおもいますけれども、しかしながら、教育をする人間としての義務は果たさなければいけない、そういう問題が私はあると思うんですね。ですから、その人に、本当に内心の自由で嫌だと言っていることを無理矢理する、口をこじ開けてでもやるとかよく話がありますが、それは、子どもたちに対しても教えていませんし、例えば教員に対しても無理矢理に口をこじあける、これは許されないと思います。しかし、制約と申し上げているのは、内心の自由であることをしたくない教員が、他の人にも自分はこうだということを押しつけて、他の人にまでいろいろなことを干渉するということは許されないという意味で、合理的な範囲でということを申し上げているのです。」

いずれも

・国旗、国歌の掲揚や斉唱は強制ではないこと
・教職公務員の(憲法に保障された)内心の自由は保証されるべきこと
(但しこの内心の自由を生徒に対して押し付けることは否定している)

が少なくとも保証されたと受け取ることができる。

【憲法の条文から】

次に憲法である。

まず天皇の地位について

(第1条)
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

最高法規としての憲法は、言うまでもなく他の全ての法規の上位に位置する。
それを明文化しているのは下記の条文。

(第98条)
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

それを前提に東京都の10.23通達が抵触しているのではないかとの疑いが、以下の条文について生じるとされる。

(第19条)
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

さらに公務員の憲法遵守義務は

(第99条) 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

国旗国歌法と東京都の通達の周辺事項として、押さえるべき事項は、大まかには上記であろうか。読者諸氏において異論や不足等があれば、指摘してもらいたい。

※【4/4加筆】
当記事へのコメントで、下記条項を加えるようにアドバイスをいただいた。憲法に保障された思想や信条の自由は無制限ではない。公共の福祉に反する濫用は制限を受ける。本ケースに適用すれば、着席したままで国歌を歌わないことが、式そのものの妨害につながり、公共の福祉を乱したと判断されれば、思想や信条の自由の表明であっても制限を受ける。
しかし、着席して黙している行為はOKだが、壇上に上がり日の丸を引きおろすのは駄目だという見解もあるだろう。
ここは法的な議論に値する。

(第12条)この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。

さて、その上で、10.23通達について、その合法性について考えてみたい。

次記事へ続く

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April 02, 2005

空気の乱れ----北朝鮮への人間的希望

pyon

事は、サッカーの判定を巡ってのトラブルである。北朝鮮--イラン戦。自国に不利な判定をされたと観客がサッカースタジアムを憤って取り囲み、相手国の選手にプレッシャーをかける。
よくあることといえばよくあることなのだが、これが北朝鮮での出来事だから、驚いた。暗闇に険しい目つきでスタジアムを取り囲む灰色の群衆を見たとき、なにか胸の奥がざわめくものを感じた。

間もなくアウェイでの北朝鮮との対戦を控える日本にとって、不安を感じたのも事実。だがなんだろう。この心のざわめきは。

何もかもがうそ臭い劇場国家、北朝鮮。その中でも人工都市をさらに虚構で塗り固めたような平壌市民のうそ臭さといったら、際立つものがあった。選ばれて平壌に住むことを許された人々は、国家行事のたびに明らかに強制動員され、均一で不気味なロボットのような目をして、一糸乱れず、国に期待された役割を演じて見せる。「洗脳」と呼んでしまえば簡単だが、その深い昏睡状態にあるような国民の存在は、人類が生んだ中でももっとも劣悪な体制の悲惨を、幾度も幾度も私達に思わせてきた。

それがこの騒ぎの中、スタジアムに集まった観客達は、私達の知っているロボットのような平壌市民ではなかった。今まで虚構で武装された体制に開いた、「穴」のような闇の奥から、この国に住む、生きた人間の怒りや息遣いが感じられたような気がして異様な興奮を覚えたのだ。

かつての東の体制の崩壊を思い起こす。1989年、ハンガリー政府はオーストリア国境との高圧鉄条網の一部を撤去。NHKの放映で有名になった「ヨーロッパ・ピクニック計画」の名の下に多くの東独市民をハンガリー経由で西側に脱出させ、それをきっかけについに"ベルリンの壁"の崩壊に発展した。東ドイツ国民は雪崩のようにハンガリーへと向かい、オーストリア経由で西ドイツへと逃げ出したのである。計算されなかったドラマは民衆の一見無秩序とも思える行動から、突然動いた。

人が人として生きる、生命力や未来への希望を封殺されていることが、北朝鮮の大きな邪悪とされているが、特権的立場を与えられている平壌の知識層は、この国の他の地域に住む人々に比べて圧倒的に情報を持っている。制限付ではあるが、インターネットもアクセスしているという。こうした都市の知的階層のマグマは、この漆黒の夜の国家の地下にも、密かに脈打っているのではないか。

夢想する。いつか、こうした政治や体制とは無関係に見えるような、「大気の乱れ」「風の乱れ」のようなものから、いつも歴史は動いたのだから。計算を超えて。
かつて北朝鮮を、日本の背負ったカルマでもあるとこのサイトでは書いた。そのカルマの払拭は今世紀の日本にとって無関係の「夢想」であってはならないと思う。

おおよそ、人が人を弾圧する。その極めて不自然で不徳な時間が、長期にわたって続いた試しは無いのだから。

信じる。あの暴動寸前の緊張状態は当局によって作られたものではなかったことを。
人の血や、命、荒々しい呼吸をこの国の人たちに感じたのは少なくとも私達には、初めてだったはずである。暗く暴力的な人々の視線の先に、例えて言うなら未来の兆しを見たように思った。それは絶望ではなく希望であるはずだ。いや、希望に変えていかなければならない。

2005 04 02 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

March 06, 2005

この者メディアに石打つ前に-----「近景の批判」と「遠景の批判」

最近、僕が癖のように使う言葉がある。
それは「遠景の批判」あるいは「近景の批判」という言葉である。

おそらく僕は「遠景の批判」という言葉を、事象に対して、どこか人ごとのような、
無責任な、遠くから見て勝手なことを言っている・・・というほどの意味で用い、
「近景の批判」という言葉を、対象から逃げず、しっかりとリスクテイクして、
渦中にいる者として発言している・・・というほどの意味で用いている。
(実際に渦中にいるかどうかは問題ではない)

まあ、逃げて遠くからエールを無責任に送るよりは、精神の領域だけでもリングにあがりましょうよということだ。
もちろんこれは自戒も込めて使っている。

この言葉のバリエーションで「遠景の戦い」と「近景の戦い」というのも使う。(ほぼ同じような意味)これほどまでに批判しまくっている堀江氏であるが、少なくとも彼は「遠景の戦い」はしていない。
しっかりと巨大なリスクをとって戦っているということの領域においては敬意を払っているつもりである。
ただ方向性を批判しているだけである。

なぜこんなことを書き始めたかというと、ここのところのいろんな一連のこと(NHK VS 朝日新聞のこととか、ライブドアのこととか、フジテレビのこととか)を通じて、あらためて「メディア」についての理解の仕方というか、「メディア観」のようなものが、人や世代によって、驚くほど千差万別であることに気づき、共通言語がないことに気がついた。
一度このあたりこのことも書いていきたいなあと思ったことに出発点がある。
まあ、ここでわかっていると思うが僕は職業としてのメディアに従事する人間ではない。
だが、親子の関係が疎であった父が、新聞社を経て映像ジャーナリストであったことがあり、(まあ、ある意味そうした激務も一因として、僕の家は崩壊していったという意味でも)この職業に対して人事ではないある種の思いを持っている。

書こうとしていた記事は、伝えることの「悪魔性」のようなものについてで、つまり伝えることのできる最前線に位置し、強大なメッセージ発信力を持つ者たちはいわゆる「勘違い」に陥りやすい。
そのあたりが、ライブドアのような安直な新興勢力につけ込まれる原因にもなっているのではないか・・というようなことが書きたかった(別に過去形ではないのだけれど)わけだ。
そうしたある種の勘違いや傲慢さは、人としては最低でも、職業人としては優秀であったであろう父の言動にも、しばしば感じられるところが多かったのである。
このサイトのライブドア関連の記事にコメントをくれる人とのやり取りを通じても、そのあたり一回整理したいなあと思っていたわけだ。

そんな記事の構想をぼんやりと考えていたときに、いつも敬意を持って拝読している報道人「札幌から ニュースの現場で考えること」さんのこの記事この記事を読んだ。そしてそのつながりで一部の人の間で今大きな話題になっている、同じくガ島通信さんのこの記事とコメントも読んだ。

で、結果的に言うと僕は自分の書こうとしているメディアに関する記事は、やはりどうしても「遠景の批判」でしかないことに気がつき、自省した。
「札幌から ニュースの現場で考えること」さんや、ガ島通信さんたちは、「近景」どころかまさにその渦中で格闘していらっしゃる方たちであり、その奮闘のディテールを見るとき、どう書いても自分の記事ごときは「遠景」にしか今はなりえないと思ったのだ。
もしかしたら、その思いは、すでにいない父へのある種の思いにも、もしかしたら接続されているのかもしれないのである。

もちろん、僕もあなたも、全ての人は、それぞれの「近景」とそして「遠景」を抱えて生きているわけである。それは全ての人が避けて通ることのできない共通の運命だ。
だから全てを「近景」として背負い込むことを呼びかけることはできない。当然のことである。
誤解されないように願うが、「遠景」の事柄に対して発言するなという気も、毛頭ない。

だが、言葉を発しようとするのであれば、言論を綴ろうとするのであれば、少なくともこのことに時折は心を配るべきであるというのが、僕の考えである。

とかく「メディアは・・・」とか「フジテレビは・・・」とか、「遠景に立つ人」ほど大上段に構えがちであるが、このお二方のような言論人もいるのであり、この時代に呼吸をしておられる。その事実に謙虚に感謝したい。

おそらく朝日新聞にも、産経新聞にもこうした言論人は多くおられるであろう。
それを心に描き、またそれを願う。

そして白状すればおそらく、僕がメディアについて書くときも、
あるときは父と戦い、あるときは父を擁護しているのかもしれないのである。

しっかりと「近景」で書ける時期が来たら。

それをもう少し待つことにする。

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March 03, 2005

権威と常識の顔をかぶったオトナの、底の知れない非常識の不気味2--堤義明逮捕

だいぶ前であるが、以前

「権威と常識の顔をかぶったオトナの、底の知れない非常識の不気味--堤義明と渡辺恒雄」

というエントリーをアップし、堤義明という人物の底の知れない非常識の不気味について書いた。その堤氏がとうとう本日証取法違反容疑で逮捕された。
思えば、名義記載の偽装が明らかになった時点での堤氏の記者会見ほど、不気味であったものはない。

「どうしてこういう風になっていたかわからないんですが・・・昔からこうなっていた」

とか

「大学に入ってすぐに経営に携わったので・・(常識がなかった)」

これはこの世の人の言葉ですか?
茫洋と人事のように述べている姿には、どこか別の世界を漂っているような存在感の無さが漂っていた。
(大学を出てすぐに経営に携わったのなら逆にわかるはずだろ!キャリア長いんだから!)

今週の週刊文春には、全盛期の堤氏の取締役会での後姿が掲載されているが、印象深いのは直立して深々と堤氏に頭を下げる、父ほどの年齢の「大番頭」達の姿である。
おそらくこの形態では、彼に物を申すなどということができた人物がいたのかどうかさえ疑わしいし、彼自身も先代堤康次郎の深い呪縛の中にあったとしか思えない。
いったいこの金正日体制顔負けの馬鹿げた体制に、分別のあるオトナ達が粛々と従っていた、その心理の病はなにか?

してみれば、このような時節をわきまえない「異常な支配」がまかり通っていた集団の長に、私達はIOC会長なり、 西武ライオンズのオーナーなりの、「高い社会的地位」を与えていたわけであり、今更ながらこの世の「構造としての非常識」も何とかならないものかと思う。

つまり、資本主義である以上やむを得ないのは百も承知であるが、経済的成功(果たしてそれは成功と言えたのか?偽装された「上場」企業という、膨大な欺瞞が発見されなかっただけのことではないか!)を収めるということと、この社会における重責のあるポジションを持たせるということの間には、それ相応の「境界」があっても然るべきではないのか?ということである。

古く「noblesse oblige」を持ち出すまでもないであろうが、高い地位や身分に伴う義務が伴うはずだということである。
もっとも、これは専ら「人間的徳」といった、いわばモラルの次元での話であり、今の堤氏に漂っているのは、精神病理の世界に近い、ある種の「非常識」だと私は思っているので、これとはまた次元の違った問題のようにも思えてくる。


カネが物を言うこの世の論理に代わるものは本当にないのか。
まだ人が、あなたが探し得ていないだけであって、単に見えないだけなのではないか。

高い経済的成功を収めた人物のこうも情けない姿を目にすると、そうした思いが去らない。

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February 06, 2005

差別するなら正しく緻密に徹底せよ2 ---判決文と少数意見

このテーマには反響が大きいようで多くのアクセスとコメントをいただいているが「私的スクラップ帳」さんが、最高裁判決文と少数意見について丁寧なコメント、リンクを創られているので紹介したい。

ただ、「私的スクラップ帳」さんは少数意見を評価して支持をされているようであるが、私の先の記事は、判決自体を批判するものではなく、自治体の長としての裁量の責任を問うものである。読み違いをされておられる方も多いようなので、再度確認したい。

また、

「右翼左翼論」
「韓国よりましだろ論」
「文句ある奴は国に帰れ論」

等のコメントはいただいても、既に他の方へのコメントで答えているし本サイトの記事の主張とはかみ合わないので投稿していただいても回答しない場合がある。ご容赦願いたい。

2005 02 06 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

February 05, 2005

差別するなら正しく緻密に徹底せよ ---石原都知事と国籍条項訴訟

鄭香均さんの、「都国籍条項訴訟」における、最高裁での彼女の敗訴と、その時の
彼女のコメントが取りざたされている。
判決は「受験の拒否は法の下の平等を定めた憲法に反しない」と初の合憲判断を示し、都に40万円の支払いを命じた東京高裁判決(97年11月)を破棄して、原告の請求を棄却する逆転判決を言い渡した。原告の敗訴が確定した。

この判決にはいろいろな見方があろうが、日本国籍を有しない外国人に対して公権力を
与えることの危険性について、石原都知事がコメントしている。

平成17年1月28日の記者会見についてはここで映像が見られる。

朝日新聞の記者とのやりとり。

(記者)
「災害時の活動などを例にですね、外国人の感情でやられてはたまらないケースもある、とおっしゃいましたけど、それは想定できないともおっしゃいましたけど、例えばその、そこはいったいどういう感情なのでしょうか」

(知事)
「もっと判りやすい例があればいいんだけどね、いずれにしろ日本人と外国人は違う。
 つまり彼女がもし日本人だったら日本に対してアイデンティティーを持つでしょ。
 それはひとつの価値観って物を引き出すですね、大事な要素だと思いますよ。」

(知事)
「 彼女はやっぱり日本の国籍を持つつもりではない、しかもこんな国に、
 日本なんていう国に外国人は来るななどと裁判の後に言う人はだね、私は相当問題があると思う。
 感情的になってると思うけどね。こういったことを日本人は許容できますか?朝日新聞は許容するんですか?」

また、

「……あの、特定の意思を持った人がとの管理職に就くということについて、たまったもんじゃないと都民が思うことはたくさんあると思うんですけど、それはあの、外国人であるかということと関係がありますでしょうか?」

との記者の問いに対しては

「ありますね(即答)。大事な問題だと思いますね。 (中略) あなたは外国人の警察官に自分の治安ゆだねられるかね?」

と答えている。
いずれも朝日新聞の記者は沈黙してしまっている。
(この程度のゴタクに沈黙するな!)

敗訴が決定した衝撃からか、鄭香均さんの「日本へ来なければいい」発言は、確かに適切ではなかったが、僕はこの問題に対して、そして石原都知事に対して一つ論点をさしはさみたい。

それは、誤解を恐れずに言うなら、

「差別するなら正しく緻密に徹底しろ」

ということである。

人は平等であるとか、外国人も日本人も人間性に変わりはないとか、等しく扱うべきなどというのは幻想である。人は生まれ育った国の、家の、文化の、時代の、貧富の、遺伝子の影響を受ける。全ての人が平等であるなどというのは逆に人間性への無理解と侮辱であると僕は考えている。

だから、差別自体が無条件に悪ではない。人には適不適もあれば、能力の差もある。全ての登用試験や能力試験は、人に「差別」を行うものである。差別が良くないということであれば、競争原理の全ての否定につながり、現在の社会体制は根本から見直しを図らねばならない。
外国人公務員に対して、管理職への登用を拒むのも、一つの差別の発想であるが、差別が私達の競争原理を基本とする社会の根本を支えていることは誰でも知っている。

国籍のみならず、門地家柄にまで踏み込んだ厳然たる差別がこの社会にあることは、すでにBigBanも良く知るところである。

しかし、それを、人間たるもの平等に扱うべきだという意見には僕は組しない。

ただ問題は、その「目の粗さ」である。石原都知事は選別の目的に対して、「正しく緻密に」差別をしているか。
つまり本当に根性を入れて言っているのか?ということである。(笑)

明確に外国人の管理職就任を禁じている条文はない。従って判決によれば


最高裁は外国人が就く職務の範囲について「公権力の行使や重要施策にかかわる決定過程に参加する公務員に、外国人が就任することは、国民主権の原理に照らし、わが国の法体系で想定していない」と明示。
さらに、東京都では管理職に昇進した場合、特定職種だけを担当するのではなく、広く重要な施策にかかわるようになると指摘。「日本人職員だけを管理職に昇進させるのは、合理的な理由に基づく区別だ」と述べ、都の措置を合憲とした。
 また、職種によっては管理職ポストに外国人が就ける場合もあるとしたが、「一体的な任用制度をつくることは、自治体の判断に任されている」と述べ、行政裁量の範囲内とした。
(東京新聞より)

最高裁の判決は、都の措置を合憲=「違憲ではない」という判断を出したに過ぎない。最高裁がもう一段階踏み込んだ判断を示すべきであったという考えもあろうが、問題は「行政裁量の範囲内」と指摘されているように、自治体の裁量の判断である。

東京都知事は、知る人ぞ知る、国粋的な純日本人主義を掲げる人物である。彼の外国人嫌いは知らぬ人はいまい。彼にある差別感は明らかに

「純血の日本人」対「外国人」

の図式でのものであり、さらに言えば

「有事に信頼できる純血の日本人」対「権力を与えれば何をするかわからない外国人」

という対立構造である。

これは差別がいけないという次元ではない。「正確な差別すらできていない」のである。頭が固くて単純な頭脳のオヤジの繰言である。この単純思考がかつての日本を誤らせた。優秀な「外国人との」信頼すべき同盟関係を対外に作れず孤立し、自国民を北限の大地に放置して先に引き上げるような関東軍を「信頼」した。

多くの外国人を、「権力を与えると何をするかわからない」として片付けず、まさに最高裁が指弾するように、「一体的な任用制度をつくることは、自治体の判断に任されている」点を見据えて、「危なくない」任用制度を作って、有能な外国人を「利用」いや「活用」すればいいのである。それは国益に適うと考える。

例えば、入国管理の係官の課長に外国人が赴任したとすれば、自国の出身外国人に対して有利な取り扱いをするのではないかという懸念が生まれよう。国家機密の重要度が高い、重要な安全保障の関連業務に外国人が高い地位で関われば、機密の漏洩という問題も発生しよう。外国人警察官もあるいは場合によっては慎重さが求められるかもしれない。

だが、そうした業務のみが公的な職員に課せられているわけではない。今回の鄭香均さんの場合保健婦である。しかも、外国人といっても在日韓国人であり、日本で生まれ日本で育った人である。一定の期間真面目に職務をこなしてきた実績もある。いったい彼女が管理職につくとどのような具体的な懸念やリスクが生まれるというのか。
それを判断するのは、最高裁ではない。裁量権を持つ自治体の長たる都知事のミッションである。

もしも「正しく差別」するのであれば、ここで彼女の従事している保健婦という業務の内容、そして彼女自身の実績と姿勢。そこまで踏み込んで「差別」いや「裁量」すべき責任が、有用な人材の活用というミッションとして、自治体の長には生じていると考える。
それを配慮して外国人管理職の着き得る業務に一定の制限を加えることはやむをえないと僕は考える。というよりすべきであると思う。
ここの各論のdetailに尽力して緻密に知を絞るのが公僕のミッションである。床屋の親父談義はこの場所にふさわしくない。

重要なポストに着きたいならまず帰化しろなどという意見も見られるが、人は人なりの固有の考え方に基づいて、国籍を保持しているのである。公権力のポストを獲得するが為にのみ、国籍を選んでいるわけではない。
日本国籍以外選択肢のない多くの日本人には考えもつかないであろうが、二種類の国籍を持つことを認めている国も存在する。国籍を事由に差別するのであれば、それはここでいう「目の粗い」差別であり、不正確な差別である。
人の有能、無能、誠実不誠実を国籍を事由にすることは、ヒューマニズムに適わないというよりも、不正確で不合理な思考の行うことなのである。

#平成16年3月8日の参議院決算委員会で、民主党の円より子議員の質問に対して、野沢太三法務大臣は、「二重国籍の容認は国際的な趨勢」だという趣旨の答弁をしている。

そもそも国籍を事由に、管理職への登用を許すのであれば、悪意あるテロリストが、破壊活動を目的にして帰化を装い、公的重要ポストに悪意でもぐりこむ危険についてはどう考えるのか。「目の粗い」差別によって新たなリスクが生じる責任はとれるのか。

石原都知事の偏狭な外国人排斥主義は氏の信条であろうが、この種の人種はその思い込みの強さによって、新たなリスクを招きかねないということに、私達は注意すべきである。

要するに、人が人を測ろうとすれば最後は人を見なければならないのである。
最高裁はその道程まで閉ざしたわけではない。

それにしても小泉某ののらくら国会答弁と言い、石原の居丈高な発言といい、つくづく私達はこの程度の政治家に、舐められて暮らしている悲しい国民である。裁量のレベルの低いトップはもうたくさんである。

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January 28, 2005

NHKなんていらない3---不透明なグループ会社の構造

NHKなんていらない---世界でも珍奇な放送局
NHKなんていらない2---週刊プレイボーイも言っている

NHK問題の中で、メディアではあまり取り上げられないが、その関連グループ会社群の存在は重要である。

例えば、NHKエンタープライズ21という会社がある。
経緯はは昭和60年に設立されたNHKエンタープライズという会社が
平成元年6月にNHKクリエイティブを経て平成7年4月にNHKエンタープライズ21と
して設立された。資本金は11億5千万円。売上高は308億円。

事業内容は

● NHKの放送番組の制作
● 放送番組等の企画、制作、販売
● 各種催物の企画、実施
● 著作権の管理、販売
● 各種映像制作
● ハイビジョンソフトの企画、制作
● ハイビジョンソフト連絡会
● 映像国際放送、TVジャパンの実施
● 海外ロケ等のコーディネーション

サイトに掲載された決算報告書によれば、平成16年3月期の当期未処分利益は34億9400万円。
NHKとの取引は、番組制作業務として売上が269億4600万円であり、逆に番組二次使用料として6億5600万円をNHKに支払っている。
持株比率はNHKが 19,040株 82.8%を所有している。殆どNHKの全支配子会社と言ってもいい。ここに対して年間300億近くの番組制作の発注をNHKがしているのである。

役員は監査役含め19名のうち、実に18名がNHK関連出身者で占められている。なんのことはない。官公庁への公務員の天下りと同じである。

せっせと集めた受信料の一部は、こうした子会社に出資され、そこにOBが舞い降りて支配する。会社は優先的ににNHKの番組制作を受注して利益を出す。

さらにこの会社から、(株)総合ビジョン 、(株)NHKエデュケーショナル 、(株)NHKソフトウエア 、(株)NHKエンタープライズ・アメリカ 、(株)NHKエンタープライズ・ヨーロッパ 、(株)ジャパンネットワークグループ 、(株)ジャパンサテライトテレビ の孫会社群に出資がなされている。

ご丁寧にサイトには「制作委託取引に関する自主基準」なる書類がアップされており、「取引の公正性、透明性を確保する」他細かな方針表明がなされているが、厳に「公正中立」をうたう公共放送であれば、なぜ自ら出資し、身内の支配する番組制作会社に特権的なビジネスベースを与えるのか。また、受信料を関連株式会社に出資する根拠は何か?サイトでは判明しないこの疑問に対して、関係者にぜひ見解を伺いたい。

2005 01 28 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

January 25, 2005

NHKなんていらない2---週刊プレイボーイも言っている

NHKなんていらない---世界でも珍奇な放送局

今朝の朝日新聞、週刊プレイボーイの広告欄
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政治的圧力問題や制作費横領も許せないけど根本的なことを忘れてないか?
いらねーよ、NHK!
最大の罪は「つまんないこと」だ!
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BigBanと意見が一致した週刊プレイボーイ。
(だからどうした?)

2005 01 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

January 22, 2005

NHKなんていらない---世界でも珍奇な放送局

NHKと朝日新聞との「大喧嘩」は、どちらも一歩も引かない構えで、どっちの言うことがより真実に近いのかわからないが、それより僕は根本的に思うことがあるんだが。

NHKなんかいらないよ。

よく、優れたドキュメンタリーと取材力はNHKならではのものと言われるが、そんなものは民放で作ればいい。もしくは「民営化された」NHK(それをNHKと言っていいなら)で作ればいい。

現在の、半国営放送のようなああいう中途半端な存在がいまどき、この国に必要か?
公正中立な立場の番組=公共放送なんてみんな、本当に必要だと思うのかい?

メディアはいまや新聞とテレビだけではない。Blogもそうだけれどインターネットには
虚偽取り混ぜてあらゆる情報が氾濫する。かつてのように、マスメディアしか情報源がなく、それに頼るしかなかった情報貧困の時代ではない。
テレビ局も、新聞も、堂々と自分の主義主張を展開すればいい。選び判断するのは読者であり、視聴者である。
奇奇怪怪な「公正中立な放送」などという量子力学のような難解なもの、見せてくれなくていい。

公正中立な報道などという言葉の裏には、歴史的な愚民思想
(=みんなバカだからちゃんとしたことをおしえてやらないとね。)
が見え隠れしていて腹立たしい。

あのような姑息な手段で(集金人の方々にうらみはないがシステムの問題として)受信料を集めて、それで公正中立の報道が成り立つなどと考えているのなら、勘違いである。
コカコーラからでもマクドナルドからでも、提供をとればいいではないか。
他の民放と一線を引きたいのであれば、スポンサーに社会性・公共性の厳粛さをより
厳しく求める「厳しく良心的な民間放送局」として生まれ変わればいい。

いまどき、番組づくりに多額のコストがかかることくらい、子供でも知っている。その費用の捻出の仕方が、商業主義=スポンサーの提供によるところの問題点は皆無ではないことはわかるけれど、大事なことがある。それは、私達の選択した社会システムが資本主義であり自由主義であること(アメリカの顔がよぎっていやだけれど)である。いや、僕が選んだんじゃないぜ。少なくとも社会主義を選択してはいないはずである。

資本主義では、企業の自由な宣伝活動を認めている。報道がそれと袂を分ったといって権力と結びついているのでは意味がない。自民党より僕はマクドナルドをとるぞ。

なぜ、1人NHKだけがそれに背を向け、税金とも協力金ともお布施ともつかない不可思議なやり方で各家庭を回り、今年の紅白見ましたでしょう?では浄財を・・なんてやってるの。

「公正中立」は幻であるし、報道に関して何の見解も主張も入らないメディアなどいらない。

今回のことも、朝日新聞の「偏向」を攻撃する若干ウヨの人たちは多いけれど、そして僕もあの新聞の記者達の鼻持ちならない尊大な姿勢は好きではないけれど、予算承認を国会に握られているからといって、国会議員の間を懐柔に動き回り、番組への意見など(例え雑談でも)彼らに求めるもしくは求めていると思われても仕方がないような態度を示すNHKの根源的姿勢に問題があると思う。そして、それは経営形態が極めて異例な世界でも稀に見るようなあの体質に拠るところが大きい。

呼びつけたんだか、勝手にやってきたんだか知らないけれど、確かに自分が国会議員でも、そうやって手もみ擦りよってこられて、「どうでしょうか」なんてやられれば意見ぐらいは言うよ。きっといっぱい言うと思うよ。BigBanのことだから。

NHKのバラエティ番組の作家とスタイリストと音工さんは全て変えろとか、NHKのアナウンサーは、カメラの前に顔を突き出す癖はやめろとか、紅白歌合戦は裏の畑に捨てて来いとか、女子アナのレベルは何とかならないかとか、男子アナウンサーは全部ネクタイがださいとか、それは言うだろう。だって聞かれりゃ答えるでしょう。

それを圧力と後から言われたんじゃあ、まあ安部&中川の両氏の憤慨もわからなくはないが、結果的には番組内容への意見=圧力には違いない。プレッシャーになるでしょ。もしもBigBanが与党政治家だったらさ。スタイリスト変えようかと思うかもしれないよ。(思わないかな?)

そもそも、こうした体制の世にも不思議な放送局がいまどきの日本に必要なのかどうか。
郵政民営化以前にNHKなど民営化してしまったほうが、よっぽど世の中すっきりする。

「自民党よりの民間放送局」

として再生すればいいじゃない。銀行とかトヨタとかそういうところにスポンサーになってもらってさ。いや、皮肉じゃないですよ。これ。

それにどさくさにまぎれて、どんどんグループ会社量産しているじゃない。公正中立を貫くんだったら、ここに出ているグループ会社全部解散しなさい。いったい、誰がいつ受信料を財源としてこんな企業群の設立を許したの?民放になってしまったほうが自由にビジネスできるでしょ。

そしたら受信料くらい払ってもいい。
#うん?言ってることおかしいか?

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December 23, 2004

バグダードバーニングからのクリスマス

もうすぐクリスマス。

24歳のイラク女性リバーベンドのブログ、、バグダードバーニング(Baghdad Burning)からのクリスマスコメントだ。
せいいっぱいののユーモアを、どう受け止めようか。
せめて笑って読みたいけれど。

この夜も深い。

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(前略)
サンタが贈り物を配るとき、必ず防弾チョッキを着てヘルメットをかぶるようにしてね。
それに、丁重にドア・ベルを押すかノックするかしなければいけないわ。
こっそり入り込んだら、カラシニコフ銃を構えた人と鉢合わせなんてこともありよ。目下の燃料不足を考えると、トナカイとそりは大正解。
だけど、赤鼻トナカイ、ルドルフは、お留守番がいいわ。
赤いお鼻が光ると、爆弾かと怖がる人がいるかもしれないから(私たち、このところちょっとこわがり)。

(バグダードバーニング by リバーベンド
2004年12月18日(土)  クリスマスにほしいもの・・・より)

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December 19, 2004

権威と常識の顔をかぶったオトナの、底の知れない非常識の不気味--堤義明と渡辺恒雄

いわゆる誰でも認める「オトナ」というものがある。
「オトナ」は私たちに常識を説き、規律への忠誠を求める。
新しき知恵を拒み、年功への敬意と穏便な継承を強いる。

そこでは年長と経験はそのまま、尊敬に値する価値とされ、若さは
そのまま無計画と不見識、未熟の象徴と、当然のように軽く遇され
揶揄される。

私たちは世に出てから、この「オトナ」の仕打ちに幾度も
打たれ、幾度もその志を曲げさせられ、気がつけばいつの間にか
不見識な若者を糾弾する側=オトナになっていく。

あなたも覚えがあるだろう。

常識というものがもしも社会の知恵を先代より引継ぎ、後世に伝えて
いく限りのない試みの連鎖だとするならば、この典型的な「オトナ」だ
と思われた企業とその経営者の「非常識」を私たちはどのように
とらえればいいのだろうか。

コクドの堤義明氏。

オトナの顔をかぶった彼の経営の基盤には底の知れない非常識が
泥土のように積み重なっていた。


(1)税金を払わない

毎年の経常利益を一定して赤字スレスレの微妙な黒字にしている。
さらにグループ企業間で株式の持ち合いを網の目のようにはりめぐらし、
グループ内で受取配当金の控除を巧みに調整している
また相続税についても非上場会社のコクドを使って自らが支配する数多
くの企業の法人税を払わないようにするばかりか、巧みに相続税対策を
駆使し、「自分の資産を遺産として残し、それが目減りする事なく、代
々受け継がれるようにする事」を実現させている。

(2)上場会社であるにも関わらず、西武鉄道の大半の株式を流通させず
実質「非上場」状態とする。

有価証券報告書の株主記載を偽り、実質の株主構成ではグループ10社計の
持ち株比率は88.57%にもなるにも関わらず、それを偽り、市場に適正な
株式が流通しているかのように見せかけ、結果として自身の絶対的支配権を
確立し、西武鉄道の株価操作をも行っていた。


(3)取締役会を開かない

少なくとも今春まで約7年間にわたり、取締役会を開いていなかった。
取締役会は最低でも3カ月に1回の開催が商法で義務づけられている。西武
鉄道グループの重要な経営判断はすべて、創業家の堤義明氏(西武鉄道、コ
クドの前会長)が決定していたことを示すもので、ずさんな企業運営が続い
ていた実態が改めて浮き彫りになった。


プロ野球への新規参入問題の時も、あたかも自身が規律であり、この世の
権威であるかのように振舞った、堤義明氏と渡辺恒雄氏。

渡辺恒雄氏は自らの関与で、日本テレビ株式の保有実態について著しい虚偽報告
をしたことに関して、上場廃止基準に抵触する可能性が指摘される。

いずれもが、およそこの社会を成り立たせているルールの基本を無視し、
底の知れない非常識を延々と幾年にもわたって続けてきた事実は私たちのオトナ
の「常識」を根本から揺さぶり、警鐘を鳴らすものだ。

僕がこの年になってようやく自分の中で判断基準のバイブルとして認めている
ある規範がある。それは、社会に出て最初におかしいと自分が思ったことは、
幾年たっても、結局おかしいということだ。
若年の頃は、ただそれを生理的におかしいと思うだけで、そのおかしさについて
実証ができないし論議できない。
社会での経験が足りないし、この種の「オトナ」ピープルと議論を交わす言語の
共通体系を持たないからだ。

だが、若年の時の生理的・感覚的違和感は、実は重要で的確な場合が多い。

「偉そうなオヤジ」=強大なオトナとしてこの世に君臨するこれらの非常識者は、
自分のデタラメを隠蔽する術にも長けており、青二才の疑念を机上の空論として退ける。
だがそれは、小手先のテクニックにしか過ぎない。人を威圧する傲慢な風体や
尊大な発言も、そのための演出道具だと思えば理解ができる。

私たちに必要とされるのは、権威と常識の皮をかぶり、人を大声で威圧し
支配の小手先のテクニックにばかり長けているこれらのとんでもない「非常識者」
にさっさと退場願うことだ。

そのために必要なものが。若き日の感性や直感と、熟した者の経験と知恵ならば
喜んで両者、手を差し伸べあうべきだろう。

見せ掛けに騙されてはいけない。老いも若きも、である。

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※参考
・「世界一の大富豪・堤義明『コクド』の研究--なぜ『コクド』は税金を
払わないのか」(『文藝春秋』1994年9月号。執筆者は立石泰則氏)
・毎日新聞 2004年12月18日号
・「ミカドの肖像」(猪瀬直樹氏)
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権威と常識の顔をかぶったオトナの、底の知れない非常識の不気味2--堤義明逮捕

2004 12 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (9) | トラックバック