May 13, 2008
ビルマ、中国、そしてノアの方舟と暗黒について
初めてノアの方舟の話を聞いた時、神は何と理不尽なのかと思った。
ヤハウェ・エロヒム[1]は地上に増えた人々やネフィリムが悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノア(当時600歳)に天使アルスヤラルユル(ウリエル)を通じて告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。ノアとその家族8人は一所懸命働いた。その間、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたが、耳を傾ける者はいなかった。
箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。(Wikipediaより)
選ばれなかった人間や動物は、皆無慈悲に、神の起こした大洪水によって殺されていくのである。一説に旧約の神は怒れる神であるという。神は人に対して常に怒りの形相で接し、ふとしたきっかけでその感情を爆発させる。神は差し詰め、不動明王の如くなのである。この神には、説得や部分的な修正などといったものはなく、いったん機嫌を損ねれば直ちに事態はオールリセットされる。ゲームと人の生の命の峻別をつけず、時に人の命に対して、リセットボタンを連打する現代の短気な子供のようなものだ。
再読しようとしてなかなか果たせず、記憶が朧げでしかないのだが、カラマーゾフの兄弟における「大審問官」の章。「糾弾される神」は、まさにこの、神とは思えぬ「未完成」の罪、寛容のない心の未熟を糺されていたようにも思えるのだが、相違ないだろうか。
1週間ほどの間に、サイクロン、そして大地震。100年に数回とも言える大天災が降りかかったのは、ビルマ、そして中国の2つの国である。もちろん不慮の死に見舞われた数万あるいは数十万の人たちの多くは、誰かの罪を代わりに背負って神に糾弾される謂われはない。ないはずではあるが、偶然と呼ぶにはあまりにもこの災禍には、何か空恐ろしいものさえ感じるのである。
中国の状況がビルマに比べて、まだましであると感じるのもある種の錯覚であろう。真の暗黒に比べれば夜はまだ明るく見える。ビルマの状況は、まさに暗黒なのである。せめてそれが夜明け前の最後の暗闇であればよいのだけれど。
2008 05 13 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
February 25, 2008
三浦和義氏拘束----疑惑の銃弾から27年
27年前にロスで起きた、いわゆる「疑惑の銃弾」と呼ばれる保険金殺人疑惑で、三浦和義氏が、サイパンで拘束されたと聞き、非常に驚いている。この事件にはロス市警はかねてからこだわりを持ち、日本での無罪確定に相当の苛立ちを持っていたというから、おそらくは入手しているだろう、新しい証拠とともに機会を狙っていたのだろうが、それにしても、被告人の母国で最高裁で最終的に無罪確定している事件を、あえて今更摘発に至ったというのは、きわめて異例の前例のない事態であるという。何がロス市警をここまで突き動かしているのだろうか。
それにしてもどこにでも、いつでも不用意なことを言う人はいるもので、黒鉄ヒロシがテレビ番組の中で、これは沖縄の米兵不良行為問題から日本の人々の目をそらすための、米国のデモンストレーションだなどと、真顔で語っているのにはあきれてしまった。黒鉄ヒロシの漫画は大好きであるが、この人はどうもワイドショーのコメンテーターになってから、しばしばこうした、苦笑してしまうような軽率なトンデモ発言をする。さすがに、他の出演者からたしなめられていたが。
あらためて久しぶりに昔の映像を見ていると、三浦氏の27年の風貌の変化にしても、一美さんの狙撃現場となった元駐車場にしても、荒れ果てていて、あらためて時の流れを感じるわけだが、再婚相手となった女性は美人であったし、(この人とは離婚後、また再婚したと聞いたが)2人で、ショルダーバッグを肩から下げて、空港の通路を闊歩する長身の三浦氏の映像は、今見てもスタイリッシュな印象を受け、あの当時彼の個人的な性癖と合わせてこの事件が異様なほど注目を集めたのもわかるような気がする。
おどろおどろした、闇と謎を感じさせる彼の性格や生き方に加えて、この事件がロスで起きたということに、今とはだいぶ違う、どこかファッショナブルで、人を惹きつける要素があった。怖いものみたさに、トレンドがかぶった感じというのだろうか。一美さんの殺害された駐車場の写真には、確かロスではおなじみのPalm Treeが写っていて、あのころのロスは今よりも遥かにある種のステータスの匂いをかもし出していたような気がする。つまり、おかしな言い方なのだが、今思えば、何だか非常に「ファッショナブルな」事件だったのである。そうした部分も、今はすっかり色あせた印象があるが、あれもあの時代こそがなしたことではあるだろう。思えば三浦事件はバブルまっ盛りの日本の80年代の傍らで進行していたのだと、今になって知る。
それにしても、まさに国境をまたいだ、劇場型犯罪の極致でもあったわけだが、のちに元女優に依頼した殴打事件では最終的に有罪となっている三浦氏の最終的なありようも、どこか落ち着かない不可思議な状態にはなっていた。
黒鉄ヒロシの陰謀論には到底同意しないけれど、これほど昔の容疑で、最高裁で無罪確定した日本国民を拘束するのに、日本の司法当局に事前に何の連絡も打診もなかったというのも、妙な話ではあるし、こうしたことが、今後一般化された場合には、自国民を守るという日本外務省の海外機関の立場上も、決して喜ばしいことではないだろう。そうした意味で、27年の時を経て、報道の切っ先が今後どちらの方向に向かうかも、改めて問われるように思う。
2008 02 25 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック
February 03, 2008
100年の孤独
その人がいなければ、おそらく今の自分はなかったし、今の自分のありようとは大きく異なっていただろう。
苛烈という言葉が、これほど似合う人もいなかった。妥協だとか、弱気だとか、まず無縁な人であったし、過去を後悔するということもなかった。実際この人の元を離れて社会に出たとき、世の人たちはこんなにも気が弱いものなのかと驚いた。それほどに、強い心の人の元に自分はいたのかと知り、驚いたものだ。社会は厳しいなどというが、ある意味ではこの人の世界のほうが、遥かに過酷で厳しく、そして混乱もしていた。
物心ついてからは、この人に対して、「社会の理(ことわり)」を説くのは僕の役割になっていた。なぜ遥かに年少の自分が、そして世の経験の少ない自分が逆の立場にならなければならないのかと、不思議だったものだ。
もしも世界が焼け野になることと、理不尽を受容することとの2つを選択せざるを得ないとすれば、迷わず彼女は、世が全て焼け滅ぶことを選んだだろう。全ての人が自分の前から立ち去ったとしても、それを彼女に迷わせるものはなかっただろう。息子である父が死んだときも、娘である伯母が死んだときも、その精神は微動だにしなかった。
おそらく父も伯母も、常にこの人を恐れていただろう。
他の全員が賛成しても、自分が納得できないなら、たった1人でも立ち向かえと繰り返し繰り返し教えていたのもこの人だった。その心が培われたのは、全てが狂ったように破綻に向かって突き進んでいった、先の戦争の経験だったとは、ずっと後で知った。およそ卑怯であることなど、彼女の前では許される余地もなかった。
理知的とはお世辞にも言えず、蒙昧といえば蒙昧であったが、周囲の状況を見抜くこと、人の心の狡猾さを見抜くことに関しては、天性の勘を持っていた。この世の人たちは、暴力よりも権力よりも、こういう人間を恐れるのだ。決して相手を恐れない人間を恐れるのだ。過ちを犯すことを恐れず、相手の反撃を恐れず、ただ、ただ主張を続ける人間にこそ怯えるのだ、と僕はこの人に学んだ。もちろんそれがまた、新たな理不尽を生んだのだけれど。厄介といえば実に厄介な人だった。
おそらく強さは限りない孤独を生むのだろう。自分にも周囲にも。そしてそれは美しい孤独であるとは限らない。強さと孤独は背中合わせの関係なのだということも、この2度の大戦と限りない死者を超えてきたこの人に学んだ。あなたのような生き方を肯定するのか否定するのか、僕は今でもそれに関して言いよどむ。そこには何か、大きな道筋が隠れていたようにも思うが、今はまだ定かではない。
昨夜、祖母の心臓は、あらかじめ止まる時が、ずっと前から決まっていたかのように、今まであれほど長い長い時間、鼓動を刻んできたのが嘘のように、あっさりと止まった。病室に入り、直線になって反応しなくなった心電図を見ながら、ああ、この人の命もこうやって尽きる時があったんだなあ、それは今日だったんだと今更のように思った。何かがあらかじめ今日のこの時間に向けて全てがセットされていたのではないかという、不思議な感慨を持ったのだ。それほど永遠に、彼女はこの世界にこの先永遠に生きているのではと思っていたのだ。ついこの前まで。
十分に長い人生だったと思う。
涙は、不思議とまだ出ていない。
あるいはこの人を送るにふさわしい強さをもってなそうと、僕は無理な努力をしているのかもしれないのだが。
2008 02 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (9) | トラックバック
January 06, 2008
「人間の価値を賃金の多少で差別したがるのは誰か」を読んで。
「人間の価値を賃金の多少で差別したがるのは誰か?(404 Blog Not Found)」
その後、私は合州国に留学する。そこでも目にしたのは、むしろ「下層」の人々ほどより「下層」を差別していた現実だった。人種差別意識は、低所得、低教育な人々ほど強かった。私がいた北カリフォルニアでは、露骨な人種差別は滅多にお目にかかれなかったが、それでもあるところにはあった。
昭和の頃に留学した米国社会の人種差別エピソードが、現代日本社会の「格差社会」を語るに参考になるかは別として、ここに続くレストランでのエピソードに反証するには、たった1人の「人間をその財布でしか見ることのできない差別意識の強い日本人の金満家」の例を上げれば問題なく、それはきわめて容易な作業である。低所得、低教育な人々のほうが差別的であるというのは、論拠の甘い推論でしかない。
また
さらに月日は流れて、私は成金になった。他の金持ちとの交遊も増えた。やっていることも言っていることもてんでばらばらで、強いて共通点を探せば金 持ちであるということぐらいしかない彼らなのだが、もう一つの共通点は、金持ちをより強く自覚している人ほど(残念ながら実際に持っている金の量に比例す るわけではない)、人の価値を多面的に推し量ろうとしていることだ。それも当然かも知れない。なぜなら彼らにとって人を見抜くのは、商売以上に死活問題な のだから。
仮に「金」に全てを換えて見ているのだとしても、彼らは「賃金」という氷山の一角だけではなく、まだ現金化されていない海面下まで見ようとしているのは確かだ。
ここに引かれている弾さんのお友達は、等しく事業に成功した優秀な方たちなので、人間の価値を「現在のカネの価値」でのみ判断せず、相手を「未来に(自分の事業のために)生むかもしれないカネの価値」まで見通して賢明に判断しているだけ。つまり、ことの是非は別として事業家として、相手が自分にもたらすかもしれない、中長期的な経済価値で判断しているのだろう。「商売以上に死活問題」とあるが、結局は商売上の死活問題ではないのか。それ以外の意味があるのかもしれないが、これでは読み取れない。もちろん商売的な観点で判断するのは当然でありそのことを批判する気はない。ないが、ただそれはそれだけの「凡庸な」ことであり、そのこと自体に過剰な評価は与えられないということである。「まだ現金化されていない海面下」に眠る金塊に注目しているだけであろう。
もちろん私は人間の価値を経済的にではなく、「多面的に判断する」徳の高いIT事業家が、世界に皆無であると言っているのではないから誤解なきよう。
構造的な貧富の固定構造は、本人の努力や姿勢でどうにかなるというのは、ユニークな例を数件あげたところで救いにはならない。弾さん自体が優秀でユニークであったとしても、それは弾さんの固有の状況である。皆が優秀でユニークであれば問題ないとするなら、おおよそ全ての社会的な問題がそれで肩がつくだろう。優秀でもなくユニークでもない集団の処していく道を探るのが公的な発想であると思う。そういう意味ではfinalvent氏の言説に賛同する。
弾さんみたいに社会的な成功者、というか内心は違うだろうし、その内心の部分で私なんかと共通的な世界観や人間観はあるだろうと思う、そういうスタンスからは、それは、なんというか身内的な近さのある人への言動としては有効かもしれない。
でも、公的な場への言動としてはほぼ無効なのではないか。
そしてそうした無効さが、反面では歪んだかたちで成功のノウハウのようなものに固まりつつある。
人はたぶん凡庸だ。100人1人くらい物を考えるために本を読む。また、10000人に1人くらいが社会的成功につながる能力を示す。
大半は凡庸だし。それが社会というものだ。
堀江氏については何度も論評したから繰り返さないが、彼の唱えていた「出自や家柄は不平等であるが金は稼ぐチャンスが誰にでも与えられているから平等だ」というような物言いは、出自や家柄、そして教育水準が金によって構築され、金によって固定化されていくという現実を見ない、レトリックでしかないと思う。
個々人の評論は自由であるべきだが、現状の問題解決には寄与しない考え方であると思う。
2008 01 06 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
謹賀新年----ツラツラと年末年始を
遅ればせながら新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
脈略もなく年末年始の様子をツラツラと。
今年は昨年末から東北の某地方都市、親類の家で過ごしていたが、当然ながら空の色が東京とはまるで違う。特に今年の年末年始は荒れ模様の天候。鈍色の空から舞う雪は、本当に絵に描いたような綺麗な六角形をしていた。きっと空気が澄んでいるのだろう。肌を刺すような寒さとまではいかなかったが、空を繰り返し仰いでも、重い雲は切れず、切れず。
考えてみれば、正月を東京以外で過ごすのは初めて。この時期の東京の空は青く、どこまでも青く澄み渡っていることが普通なので、こうした新年も新鮮でもある。
身内の決して軽くない問題に気を乱されながら、予定していたビルマ関連の原稿を仕上げ、取材先にチェックをお願いしたのがやっと大晦日。大幅遅れ。相手先にお詫びをする。年賀状も結局東京で書き切れず、プリンタ含めて滞在先まで持ち込み。どちらも年を跨いでがちゃがちゃやっていた。それが終わると、恒例の年賀メールの方の原稿書き。このあたりまでやったら3日になっていた。ましょうがないか。
ストックを持つのが面倒くさいのでここ何年も専らショートスキー。一時スキーとスノボに混じって、この中途半端なツールもゲレンデに相当数見かけたように思ったが、今年はほとんどお目にかからない。1日しか滑らなかったので、調子が戻ってきたころに終わり。この前滑ったのはいつだったかな。去年か、一昨年か。例によってあまり記憶無し。しかしスピード出ないんだよね。
商店街は軒並みシャッターが降りている。それも正月だから一時的にという風情でもなく、何ヶ月も営業していないような店がほとんど。東北地方の景気は相当に悪いとも聞く。もっとも他の地方も似たりよったりかな。
紅白は長すぎてだらだら。もういいんじゃないか。合間に雪片付け。ざっくりと重い。
戻ってきて今日は恒例の高校時代の有志による同窓会。昨年行かなかったので2年ぶり。いつも集合場所になるHの家にまたまた犬が増えていて驚いた。チワワの子犬が可愛すぎる。最初はモルモットかと思った。踏みつぶしそう。気をつけないと。
お開きの頃。10人でワインのボトルを11本も空けたとわかってこれも驚いた。ミュージックビデオがかかっていたが、昔のコブクロを見てあまりの今との違いにもびっくり。話題は毎年変わり映えがしないよ。いや、緩やかに爺臭く、婆臭くなってるか。やれやれ。
2008 01 06 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック
December 16, 2007
王様の耳がロバの耳であるなら
はてな界隈で話題になっているなら、最近は、かえってなるべくコメントしないようにしているのだけれど。
ドリコム退職にあたり-宮崎謙介⇒加藤謙介(@ドリコム)の誰にも見せないつもりの日記
と
「王様の耳はロバの耳」とブログで言うなかれ(404 Blog Not Found)
と
ちょっとへえな話。(finalventの日記)
退職後に自分の所属している会社のことを悪く言わないのは不文律であり、ましてやブログで言うべきことか、自分は何をしてきたのかと問うのが弾さんのエントリー。立派に普通に仕事をしてきた、年相応の人間であれば誰でも思うことであり、それについては異議はないが、この件で思ったことが3つばかり。気になるから書いておく。
まず申し訳ないが、弾さんのエントリーを読んで、どうしてもライブドアの件が重なって頭をよぎってしまったことがひとつ。いや、批判じゃないですよ。批判じゃないですが、そうか、そうした「仁義」をおそらく弾さんはあの時も守り通したのかと私は思った。これが1つ。
もう1つは、最初のから続く話なのだけど、ここでヤクザと比べてしまっちゃダメでしょということ(苦笑)。何も「礼儀正しいヤクザ」である必要はないのだし、ヤクザの仁義と比べるなら、通常の企業の退社後の守秘義務の遵守などをベースに語れば済むだろう。
という流れで考えても、件の加藤氏は、何も守秘義務違反に触れるような、重大な情報の暴露を行ったわけではない。単にもとの会社の経営者への愚痴を、抽象的ないい口で書いただけ。この行為は確かに幼いかもしれないが、関八州にお触れが飛び交うような話ではないし、これも駄目だというなら、内部告発はそもそもされなくなる。
3つ目はつまらない話で、急速に成長を果たし上場を行った企業であれば、ごろごろしている話をたまたまブログに書いた人が1人いただけの話と思えること。この後、finalvent氏がほのめかすようなところにつながる話が出てくれば別だけれど、そうした重大性が加藤氏のブログから今後出てくる気配もない。
個人的にはドリコムという会社自体にあまり関心がないので、これ以上は言及しないけど。
要は大人として加藤氏が責任をとればいい話で、粉骨砕身尽くした会社のトップに関して、ここまで言うからには、ある程度の覚悟をもってしたことだろう。その結果生じるすべてを自分で引き受けて、これから生きていけばいいのだろう。
自分の所属する、あるいは所属した組織を悪く言わないというのは、時と場合による。同属意識で際限のない隠蔽がされるよりは、まだ救いかもしれないし、おそらくこうした精神をこそ求める組織も、まだあるだろうと思いたい。
2007 12 16 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
December 02, 2007
スポーツジムとネルソン・マンデラとMTV
MTVを見ながら、しばしばジムで、だらだらマシンをやったりしているんだけれど、今日のMTVはいつもと様子が違っていた。
どうも↓これをやっていたらしく
[字]Staying Alive: Meeting N.マンデラ◇<MTV THINK LOUD:HIV/AIDS 2007 世界 エイズデー 24時間SP>南アフリカ共和国全大統領ネルソン・マンデラとビヨンセがホストを務めHIV/AIDSの正しい知識を伝える特別番組。 1日 (土)16:00~17:00<初回放送> 12/1はHIV/AIDS問題への意識向上を目指して全世界的にキャンペーンが展開される、世界エイズ デー。今年もMTVでは、世界中のMTVでこれまでに制作されたHIV/AIDS問題に関する番組を集め、1日午前6時~翌2日午前6時迄、24時間にわ たる世界エイズデー・SPを放送。 MTV Mobile & PC >>> http://mtvjapan.com
僕が見ていたときには、世界で「悩みを抱える」4人の若者が、ネルソン・マンデラに教えを請いに行くというようなコーナーをやっていて、その内容に引き込まれてしまった。
4人の若者というのは、1人はウガンダでエイズ救援のボランティアをしている。貧しい中でボランティアどころか、自分の食べるものも怪しいというか、そんな状態で医療も教育も、資金のないない尽くしでやっていて、エイズ患者はどんどん死んでいく。明日が見えないというか、希望が見えない。自分も実はエイズ検査では陽性が出ている。もう彼はやめたいと思っている。
もう1人は、ビルマの民主化運動に関わり、タイで亡命生活を送りながら祖国の活動を支援している若者。親類や友人が捕まって拷問にかけられたり、収容されたりしている。それも自分の活動のせいで。その迷いで自分を責めている。
後の2人はイスラエルに住む青年と、パレスティナ人の若い女性。2人も肉親を「相手に」殺された経験を持っている。双方の和解に絶望的な気分になっており、また恨みの気持ちから自分を解放することができない。
マンデラは、彼らそれぞれに、自分の体験を基にしたアドバイスを与えるんですが、これが結構重みがありました。このあたりでぐっと引き込まれてしまったんだけれど、民主化運動とか、平和運動、あるいはエイズ撲滅もそうなんだけれど、「絶対的に正しい」はずの行為においても、というかそういう行為ならではというか、「サタン」が至るところにいるわけですね。つまり肉親との確執とか、友情や恋人との板ばさみとか、ただただ現実が過酷で無力感や挫折感、時には罪の意識に苛まれるとか。
思うに、そうした部分は人間の弱みであるし、そうした活動のためにはマイナスになると一般的には思われるから、当事者も出さないし、そうした悩みに答えられる人も、またあまりいない。
そういう意味で、この番組が得がたいものであったのは、そこをしっかり出していること。少々世界が拡散気味ではあったけれど、マンデラの一言一句は説得力があり、そうした「サタン」を乗り越えてきた人間だけが発することのできる重みがあった。つまり、言葉が上滑りしていない。4人が4人とも明らかに力をもらっていく様子が見て取れたし、人が絶望の中から、ほんの僅かな言葉で救われていく様子に、少しぐっときてしまった。
で、僕は知らなかったのだが、マンデラが大統領になった後、南アフリカでは、全国いたるところで市民の集会を行い、そこでかつての被害者と加害者、たとえば黒人を牢獄でひどく痛めつけた収容所の職員と被害者とか、その家族とかの対面と対話を行った。何百箇所となくやったらしい。そこで、当然被害者は加害者を罵り、恨みを吐く、加害者は時に泣いて詫び、あるいは当時のどうしようもない事情を訴える。
驚きなのは、こうした集会のほとんどで、加害者と被害者とが和解というか互いを理解し許すことになったとマンデラが言っていたこと。実際、南アの人種差別政策=アパルトヘイトからマンデラの黒人政権樹立という激変の中で、ほとんど血が流れていない。これは奇跡であったと彼自身も言っている。27年の獄中生活の末に、そうした奇跡に辿り着く。南アを「奇跡を起こした国だ」と言っていたけれど、それは確かに奇跡というか稀有なことだったと思うし、現在逆境にある人に対して希望を与える。
そして、この加害者=白人、被害者=黒人というのが我々の定式だけど、その逆も行ったこと。つまり被害者としての白人が黒人を追及するというような図式もあったということ。いわく、彼のやったことは「すべての黒人支配と白人支配に反対することだった」と。うーむ。
細かいところはきりがないけれど、いい番組でした。
後から番組表を見たら、ビヨンセも登場していたのか、それは見たかった。それにしても、ジムで運動している皆様。いつもは2人に1人くらい、MTVを至るところでつけているのに、今回の番組は音楽も流れないし地味だったのか、番組が始まると、軒並浦和レッズかバラエティ番組に逃亡?(笑)し、室内を見渡す限りこの時間にMTVを見ているのが、僕しかいなかったのが、残念というか複雑な気分でした。
まあジムで運動をしながら見るにふさわしい番組じゃなかったか。僕が変なのかもね。
2007 12 02 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
November 10, 2007
メメント・モリ
僕はなぜいつも、渋谷のスクランブル交差点まで差し掛かると死について考えるのだろうか。
その源は何なのだろうと不思議に思うのだけれど、自分でもその理由がわからない。あるいはこの交差点が、深い谷の中でもいちばん低いところ、かつて水底の街であったからなのだろうか。
それとも原色に飛び交う光の中、これでもかとばかりに年々数だけ増えていく大型モニターのどぎつい光の照らす中をを歩いていく男女の群れが、死後の世界の霊魂にみえるからなのだろうか。あるいは自分はもうどこか、この空間の時相とずれ始めているのだろうか。
そう考えると死に近いのはどちらのほうかわからなくなる。(いや自分なのだ。それはわかっている)
この土地に行きかう若い命の群れが、その若さの醜さが、かえって僕に死を思わせるのかもしれない。むき出しの若さ、みっともない若さ、無残な若さ、未熟の命、ただ、ただ己が生きることしか考えていない若い命の冷酷。思い上がり。無知。醜悪。
いつか仮想の命が、仮想の空間を行きかうときに、その仮想の地にも、むき出しの命が(それはもう偽装の命なのだけれど)行きかうこんな世界が生まれるのかと、ぼんやりと考える。その時代のCPUはどれほどのものなのだろうか。
いやいや、そういう話ではない。
メメント・モリ(死を想え)。
メメント・モリ(死を忘れるな)。
昔、そう言った作家がいた。
きっとそういう話なのだ。
2007 11 10 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック
October 29, 2007
雨と名画座と歌姫
風の強い日には傘を壊す。それならいっそささなければいいのに、人はそれでも傘をさし、強い風にあおられて、これも予想通りに傘を壊す。
飯田橋の名画座に行ったのは台風が近づく風の強い日だったのだけれど、学生時代に確か何度か来ているはずの、その外観のたたずまいは、すっかり記憶の中で薄れていた。ただ、こんなに入口は狭かっただろうかと思っただけだ。どんな映画をここで見たのか、それも忘れてしまった。実際飯田橋の界隈の変わり方といったらどうだろうか。表通りにあったもうひとつの名画座は、とうの昔になくなってしまった。
仕事できたはずなのに、そこの名画座の社長の話が多岐に渡り、いつか話は映画と戦後文化とかそういうところにまで広がっていき、次第に時間を忘れていった。
で、社長がふいにこの秋始まったドラマの題名を口にした。
「歌姫」----。
長瀬智也と相武紗季が出演するそのドラマは、昭和30年代の土佐清水を舞台にしている。記憶喪失になって流れ着いた長瀬智也演じる主人公は、土佐のオリオン座という高田純次が経営する古い映画館で面倒を見てもらい、映画技師として働いているが、とにかく破天荒にトラブルを起こし、土佐の街で暴れまくる。相武紗季演じる映画館の娘が、彼に思いを寄せると、そういうドラマだ。『花より男子』の脚本家として知られるサタケミキオの台本。
題名にそぐわず全編乱暴な土佐弁が飛び交い、元々が演劇の本のためか、出演者はいつも怒鳴りまくっていて、とにかく落ち着かない。タイトルもどこでどう効いてくるのか今のところ、さっぱりわからない。三丁目の夕日のような物語の展開を期待すると見事に裏切られる。そのためか、評判もあまりかんばしくないようだ。もっとも第三話で佐藤隆太の「クロワッサンの松」に異様な可笑しさが出てきていたので、ここのところだけは少しだけ期待している。
で、なぜ社長がこのドラマの話をしたかというと、劇中の「土佐のオリオン座」の映写室におかれている映写機は、この社長の名画座にあったものをテレビ局から請われて貸したと、そういう縁があったからだ。そうか、あの映写室かと、訪ねた日の前日に見た情景が浮かんだ。
年代物の高価な映写機とあって、最初は社長は固辞したそうだが、スタッフの「熱意」に押されて貸した。素人に乱暴に扱われては困るので、映写技師も毎回収録に立ち合わせ、毎回収録時に組み立て、その後分解して箱にしまう。その繰り返しは、毎回数時間に及び、簡単なことではないとか。
「それなのにあれだよ」
と社長が言う。やはりドラマの出来には相当不満な様子だった。昭和30年代のレトロな映画館の雰囲気をどこまで再現してくれるか、それに期待していたらしい。映画館の独特の雰囲気と空間、そこにやってくるお客と映写技師との触れ合い。うむ、「ニューシネマパラダイスと三丁目の夕日を足したような?」と口を挟むと、そうそうとうなずく。
「いや、夕べあたりからいい味も出てきていますよ」
などとわけのわからぬフォローをするが、クロワッサンの松の話はしなかった。もう観てないよ俺は。と社長が笑う。「名画座」という言葉の意味がわかる世代も、どんどん少なくなっていくのだろうな、と思う。
ほかにもここに書きたいような話をたくさんしたのだが、ようやく彼にお暇を告げて外に出る。飯田橋の街に雨風が一層激しくなっていた。
2007 10 29 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
June 25, 2007
水の呪縛-----渋谷シエスパの爆発事故
円山町の「ユーロスペース」のカフェに、映画上演前の時間、しばらく座っていたことがあった。カウンターに、パンフレットがいくつか置いてあって、その一つを手に取ると、「シエスパ」というスパのものだった。「渋谷にスパか。へー」と興味を持って見始めた。パンフレットの写真がそれなりに豪華であり、なかなか興味深いものだったからだ。が、女性専用だという。「なんだ。」それを知った途端に興味がなくなり、それっきりそのことは忘れていた。
今回の事件で、最初てっきりユーロスペースも爆風を受けたのではないかと思った。ユーロスペースとシエスパが至近距離なのを記憶していたからだ。実際、後で調べたところでは、シエスパの本館とユーロスペースとは100mくらいの距離だった。もっとも今回悲劇が起きたのは、従業員用の別館だったので、実際の距離はもう少し離れている。住所もシエスパは円山町ではなく、松濤だった。自分と微かにニアミスした事故現場・・ということだけだったら、それもよくある話だったのだろうが、私の心に引っかかるものがもう一つあった。
ここで話はいささか飛躍するが、1997年に起きた猟奇的と言ってもいいあの事件、「東電OL殺人事件」と呼ばれた殺人事件に飛ぶ。事件のルポであるノンフィクション、佐野眞一「東電OL殺人事件」には渋谷の円山町に関して次のような記述がある。いま手元に本がないので、ネットの情報参照と記憶に頼るが、それは次のような話である。
渋谷の花町、円山町を興したのは 岐阜県荘川村に昭和35年に完成した御母衣ダム工事に伴って水没した村の人たち、通称「岐阜グループ」とい呼ばれる人々であった。彼らは莫大な補償金を手に円山町にやってきて、経営が傾きかけていた料亭などからこの辺りの土地を買占め、連れ込み旅館やラブホテル次々と建設していった。岐阜グループは春秋会という組織を作って、年中集まりを持つなど、結束が固い。この辺りのホテルに「白川」など川の名前が多いのは水没した村のことを忘れないように、という彼らの気持ちの表れであるとか。 ここからは因縁話めくのだが、御母衣ダムの建設主体は東京電力。そしてその東電に勤めていたのが殺された女性であり、直接、御母衣ダムの建設にはタッチしなかったが、彼女の父親もまた、東電に勤めていた。
佐野は、彼女が円山町に通ったのは、「彼女を吸引する強い磁力のようなもの」がこの街にあったとし、
「そして彼女は、湖に沈んだ奥飛騨の村のように、この街の底に水没していった。」
と結んでいる。
佐野の話は、「水」と「円山町」そして東京電力の因縁を軸にこの事件を総括していこうというところがあり、正直強引さにどうなんだろうという気もした。この事件のミステリアスな部分を、言うに言えない因縁の話としても処理しようとしているのではないか。だが確かに、そうでもしなければ理解のできない暗闇が被害者の女性の奇異な行動に感じられたのではあるが。
さらにここで渋谷という町の歴史と由来にも通じてくるものがある。
渋谷は元々入江であり、また渋谷川は今では渋谷駅付近で暗渠になっているが、以前は神宮内苑の池や新宿御苑の池、代々木上原や参宮橋など、いくつもの支流や泉の水を集めて流れていた。
渋谷という地名は、江戸時代に作成された文献により二説に分かれる。ひとつは、『新編武蔵風土記稿』によるもので、昔、この辺りを「塩谷の里」と呼称したことに由来するという説である。その根拠は、土中を掘ると青い砂や、貝が出土するなど、昔この辺りが海辺であったことである。そこから塩谷の名が生まれ、その後塩谷が渋谷に変わったとされている。
もうひとつは、『金王八満神社社記』にみえる河崎重家の改姓に由来する伝承である。桓武天皇の孫高望王の子孫で秩父党の一人である河崎冠者基家は、永承6 (1051)年、前九年の役に源頼義に従って功をたて武蔵国豊島郡谷盛庄を与えられた。基家の子重家が源義家に従って京都にいたときのある夜、宮中に盗賊が入り、これを生け捕りにした。賊の名を聞くと、渋谷権介盛国と答えたので、堀川天皇は重家の武勇をほめて、姓を渋谷と改めたため、重家の領地「谷盛庄」のなかに「渋谷」という村が出来たといわれる。
実際、佐野の本を読んでから、道玄坂を上りきったところに立って、109前のスクランブル交差点の方向を見下ろすたびに、交差点を行きかう若者の群れが僕には、イメージの谷底を泳ぎわたる小さな魚の群れに見えることがある。実際、あのスクランブル交差点のあたりは渋谷の谷の中でも低くなっているところ。宮増坂、道玄坂、そして桜ヶ丘のいずれの方向からも見下ろせる低い窪みにあたる。
話を戻す。
今回のシエスパ事件の原因は、関東ガス田と呼ばれる広大なメタンガス層からのガスの流出を、リスクとして配慮しなかった関連企業の人為的なミスであると、今のところ報じられている。「東電OL事件」で、渋谷という町と水との関わりを、過度に水を軸とした物語に昇華させて衝撃的な事件に重ねたのが佐野眞一であるとすれば、ここでもう一度シエスパの事件を引き出して因縁に重ねるに類した私の行為もまた、遙かにこじつけめいているかもしれないが、佐野の本に描かれた渋谷の伝奇的な描写がどうしても頭の中で重なってくるのである。それはあるイメージの連携のようなものであり、それ以上説明は難しい。
そもそも、1500mも掘ればいたるところで温泉と、それに伴うメタンガス層にぶちあたるのが、東京においても通常のことであるという。であれば、ここで何もことさら渋谷と水の因縁を持ち出すことも無理があるだろう。
だが、目に見えぬ地中の暗渠に広がる、メタンガスの巨大なリスクを見過ごした「ユニマットビューティーアンドスパ」の経営者は、そしてユニマットグループは、渋谷という街の地下に広がる暗のような水の空間と水にとりつかれた過去について、思いをしたことは、おそらくなかったのではないか。街の因縁を知ることが、そこで営む人の行動様式に影響を与えることは容易に想像しうる。渋谷の「水」について、そして「地下の水」にとりつくように、まとわりついている「メタンガス」を無視したことが惨事につながった、と考えていくことは、あながち意味のない行為にも思えないのである。
2007 06 25 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック
May 19, 2007
世界の再構築を「3番目のもの」に関して考える
綴っていく立場、語っていく立場というものがある。語らなければならない立場というものもある。ここで、なぜ「なければならない」のかについて考えると、そこに至った内的な、あるいは外的な要因は必ずある。批判に対する反論、攻撃に対する防衛、反撃。釈明。あるいは外的なことではなく、自らの内的な要請に基づく他。
対して、この者に対して、継続して批判していく立場もある。
これらは両輪である。論は批判を経てこそ昇華される。論は批判されてこそ、その先を目指す。一方、批判は起点となる言論があってこそ成立する。声をあげるものがなければ、批判という行為は存在しない。そういう意味で批判は批判対象に依存し、論者も批判者に依存している。一方批判は批判として流通されたその段階から、今度は「言論」としての責務を負うことになる。新たな批判者の登場を招く。役割はダイナミックに変動し、スタティックではない。
このサーキュレーションをひとたび頭に描けば、1つの論を論じることも、批判を行うことも、同じくらいに意味があり、同じくらいに無意味である。世界のサーキュレーションの一部として消費されるという諦念がないのであれば、だ。それはSLで雲の高さまで舞い上がり、地上のアバターたちの銃撃戦をつぶやいて批判する、「私の孤独」と同じくらいに、意味がない。
どうやっても、あなたに神の視線は与えられないのだ。当たり前のことなのだが、そういうことだ。
つまり、反する側は反すればよいし、語るべき側は、粛々と語っていけばいい。世界はそれで「なるように」なっていく。こう言うと、いかにも日和見な印象だが、全体世界の構成はそれによってこそ再構築されていくのであり、その蓄積にしかない。そのことに今更気がつかないわけもない。
そういえば。昔の偉い人の言葉だと、「止揚(アウフヘーベン)」というのがあった。
渦中にあれば、「敵」と自らの言説に血をたぎらせながらも、つまりアタマに血が昇りながらも、どこかでこの世界の再構築の作業の一部になっていることを意識すべきだろう。
鈴木宗男事件に連座した佐藤優は、「獄中記」でそれを「愛」と表現した。敵に対する「愛」と彼が読み込んだのは、彼のキリスト教への神学者としてのアプローチである。彼はもちろん、ヘーゲルも隅々まで読み込んでいるのだが、「止揚」と「愛」に関する解釈を聞いてみたい気がする。
それはともかく、凡夫たる私はここで、「3番目のものたち」を意識せざるを得ない。それは、あたかも私の大嫌いな納豆が、歯の間に挟まって腐臭を放っているかのごとき、存在である。「3番目のものたち」は、世界の再構築に、参加しない。というより、一見、益よりも害を及ぼすことしか頭にないと思われる者たちのことである。
彼らの興味は「オンリー破壊」であり「オンリー荒らし」であり、「オンリートラブル」であり、「オンリー自己愛」である。それら、歯の間に挟まっていることに人生を、存在をかけているような立場は、確かにある。稚拙で半端なロジックであなたをかく乱する。
私はそれでも考える。遠景から見れば、それらもまたこの世界を再構築していく過程に、何らかの寄与をしているのだろうか。それとも元々「本当に必要のない」ものなのだろうか、と。それらはおそらくゴルゴダの丘でイエスを挽きたてた兵士の中にはなく、もちろんイエス自体の中にもなかった。イエスから最後まで離れなかったのは、そして彼の悲惨な最期をどこまでも見届けたのは、ほとんどが女性だったそうだが、それらの女性の中にいるというわけでもない。
ではその時、それら「3番目の者たち」はどこに佇んでいたのだろうか。
類似の妄想は、映像でしか見たことのない、アウシュビッツに続く長い鉄路の風景にも思う。鉄路は延々と収容所に続く、ユダヤ人にとっては「死へのロード」だったわけだが、あの究極の世界の中で、「3番目の者たち」はどこに佇んでいたのだろうか。鉄路を取り巻く群衆の中にいたのだろうか、それともいなかったのだろうか。
こうして彼らの存在の不要を言いながら、一方でその存在に意味を見出そうとする私は、あるいはそうすることで、そこに自ら、何かの救いを求めようとしているのだろうか。その精神のマッピングがなかなか自分でも整理できない。
心を離れて一般化すれば、「止揚」される(であろう)世界の中で、あなたと私の立っている場所。彼と彼女の立っている場所。そして、それをとりまく「3番目のものたち」の場所に、何らかの意味づけをすることは可能なのだろうか。あるいは無意味なのだろうかと。
論者と批判者との間の、拭い去れない相互依存の関係を超えるものを、あるいはこの「非道な」3番目の者たちによって提示できるとすれば、彼らにも一定の「意味」がある。だが、そうでなければ、それは本当に意味のないものなのだ。
いったいどちらなのか、私には未だわからないでいる。
2007 05 19 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
March 15, 2007
桜開花予想で気象庁計算ミス。野暮な話ではある。
桜開花予想で見込み違い--原因は入力計算ミスだとか。桜の開花予想も、「電子的に」なされていたのだと、あらためて感心するとともに何とも妙な気分ではある。
気象庁は14日、桜(ソメイヨシノ)の第1回開花予想(7日)で、全国で最も早い開花を予想していた静岡市のほか、東京、高松市、松山市の計4地点について、計算ミスから、本来より3~9日早い予想日を発表してしまったとして謝罪し、訂正した。
そのうえで第2回開花予想を発表、56地点のうち40地点で第1回予想よりも1~6日遅れるとした。
第2回予想で、最も早く咲くと見られるのは静岡市、福岡市の21日で、平年よりそれぞれ7、5日早い。横浜市が22日、東京と名古屋市が23日と続き、平年より5~6日早いとしている。
(Yahooニュース 桜開花予想、気象庁が謝罪・訂正…静岡市は21日に)
それから、これは昨年の記事だけれど、ウェザーニュースと気象庁の開花予想の出し方の違い。熾烈な戦いが繰り広げられているそうだ。
桜の開花予想は55年間気象庁だけが行っていたのだけれど、2002年からウェザーニューズが参入。以来、熾烈な予想合戦が繰り広げられているのだ。東京 の開花予想では、一昨年、ウェザーニューズが実際の開花日と比べて4日差で2日差の気象庁に軍配が上がり、昨年は同じ日を予想(開花日と1日差)。しかし 全国的に見ると、ウェザーニューズの的中率のほうが高かったそう。
気象庁の開花宣言は、東京では靖國神社にあることで有名な「標準木」を基準としている。「標準木」は各気象台の敷地内やその付近に全国で89カ所あり、開 花予想もこの「標準木」を対象としているのだ。一方、ウェザーニューズは各都道府県で1カ所ずつ選んだ桜の名所を対象に予想。これに加え、全国約1000 地点のデータを組み合わせて精度を高めているのだとか。(narinari.com)
ふーん。標準木のところだけ読むと、ずいぶん風流なやり方で決めているように見えるんだけれど、要は89ケ所の標準木の開花状況をコンピュータに入力し、計算して開花時期を予想すると。その標準木関連のデータが入力ミスになったのだろう。
開花予想が狂って、商売に影響している人達もだいぶいるようだけれど、本来咲くべき時期がいつかなどということは、それこそ「桜の勝手。」待っていればい つか咲くものを、あらかじめ予想して当たった外れたと。いやこれもよく考えてみると、せわしいというか「風流でない」話である。
ところでウェザーニュースと言えば、ピンポイント予報で、イベント屋時代によくお世話になった。急に降ってきた雨で台無しになる大道具とか、セットとかあ るから、人間が濡れるというだけでは済まない大惨事になることがあるので、保険をかけるわけだ。ピンポイント予報は結構高いんだけれど、確度も非常に高いのでよく利用した。一度、確かつく ばで大太鼓の引き回しのイベントをやっていて、ウェザーニュースから1時間後に雨が降ると「速報」が入って、あわてて中止。ぴったり1時間後に降り始めて 驚いたことがあった。高いだけのことはあると感激したものだ。
どうも桜の開花予想も、このところウェザーニュースが押し気味の様子。
2007 03 15 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
March 10, 2007
更新
更新しました。
「携帯電話の番号登録機能が使える銀行員は50%」という怪説は本当か。トンデモか。(CNET Japan IT's Big Bang!!)
2007 03 10 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
デジタルカメラへの長い道のりをぐだぐだと。
今日はあまり書かなかったカメラの話。
大学を出て最初に就いた職種がスタジオマンという僕は、スタジオでアシスタントをしながら、ブツ撮りの技術を徹底して教え込まれた。当時のスタジオマン、それも新米の仕事はどんなことかというと、まずは掃除とブツ(撮影物)の運び込み、セッティングと磨き。セットの解体と組み立て。後片付けと掃除。となっていて、ライティングや露出、フィルムの詰め替えなどという「高等技術」に手を出させてもらうには、ざっと1年近くはかかる。それまでは、カメラの近くに寄ることも許されない。
数々のドジを乗り超えてようやく、カメラマンの視線で、カメラの横から被写体を見ることを許される。この時点までで、僕のいたスタジオはブツ撮りが多かったけれど、たまには広告写真でヌードなどというのもある。そうした場合にはチーフ以外は外に出るのが決まりなのだが、「血気盛ん」な年頃でも不思議と、それでどうこういうことはない。もはや連日の疲労と寝不足で、浮ついた気持ちになる余裕もないのである。淡々と本番時には外に出て、撮影が終わるのを待つ。終わった合図が来ると、粛々と中に入って後片付けをする。
こうやって書くと淡々としているが、朝入社して午前中スリッパ磨きをさせられた新人が昼休みにそのまま逃げ出したり、昼飯はいつも歩きながら食べたり、毎日1足の「軍足」を履きつぶして、経費で落ちないことを愚痴ったり。まあ、一言で言えば最悪の職場環境。
だが、さすがにそうした生活を1年近くもすると、ポラを見ただけで(ああこの懐かしい響き!)絞り1/4くらいの精度で適正露出からの差がわかるようになる。職人の卵の出来上がりである。ポラを黙ってカメラマンから渡されて、「プラス1/2です」などと答え、そのまま採用してもらえるようになれば、「スタジオマンとして」1人前である。
もちろん、それが一流のカメラマンに少しでも近づいたということではない。言うまでもないことだが、いい写真ということと、露出が適正に判断できるということとは違う。
その後、独立して何台もカメラを持った。小学校の頃に買ってもらったOLYMPUS PEN、初めての一眼レフであるPENTAX SP、PENTAX67、そしてCONTAXの何台か。MAMIYAの大判カメラ・・・しかし、カメラマンをやめてから何年かの間に次々と手放したり、金が無くて売ってしまったり、流してしまったり。CONTAXもいつか生産中止となった。
この時点では、写真を撮ること自体が何か精神的な負担になっていたこともある。やがてカメラを持たなくなった。(経緯は今は略。)
カメラがデジタル時代になったとき、あの苦労は何だったのかと、様々な分野で多くの人が味わうのと同じ思いを持った。コンパクトカメラはさすがにデジタルを使ったが、どうしてもデジタル一眼を使う気にはなれなかった。
パソコンはすんなり乗っかったくせに、どうしてもデジタルカメラには、アイデンティティが重ねられない。JPEGがどうとか、PCでは当たり前の用語が、カメラで使われると、途端に嫌になる。
その「呪縛」が今年、ふとしたきっかけで、すとんと落ちた。久しぶりにカメラを見に行き、カタログを読みあさったのだが、デジタルも悪くないとようやく思えるようになってきた。良く見ればすごいじゃないか。最近のデジタルカメラ。1000万画素で10万以下で買えるんだね?この境地にたどり着くまでに何年だろう。
ただ、詳しい知人に聞くと、レンズの個性が銀塩カメラよりも出にくいのだという。切れ味はあるけれど、難すぎるニッコール、甘いけれどボケ味があるプラナー、そして何と言っても憧れのズミクロンなどなど。レンズのブランドで好き嫌いを言い争った時代は終わったようだ。むしろ、手ぶれ防止機能や、連続撮影機能など、別の観点の価値評価が主流なのだそうだ。
ライカもデジタルを出していると聞いて、調べたら、松下へののOEMだった。sそもそもパナソニックのライカカメラってどうよ。
新顔としては、SONYなどがデジタルカメラを出しているわけであるが、世界のSONYといえども、何だかSONYのカメラというのはいただけない。ぴんと来ない。本来はビデオカメラだろ。1コマ撮に機能を落として、カメラでございとやられているようだ。
そういうわけで、久々にデジタルの一眼を持ってみたいと思っているのだが、やはりこう書いてみるとこの長い長い逡巡は全く表現できていない。できていないのだが、これ以上書いても他人には退屈なだけなので、このあたりにすることにする。
2007 03 10 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
March 03, 2007
僕が「意志を持った悲観主義者」でありたいと思う理由。
■悲観主義とオプティミズム(My Life Between Silicon Valley and Japan)
アランの「定義集」には少々関心を持ったが。
間違いなく僕は悲観主義者・ペシミストであるだろうと思う。物事の未来を、楽観的には考えない。まず最悪の状態を思い描き、心のレベルをずんと落とす。落とすところまで落とした薄暗い井戸の底に降りて、密かに心の中で線を引き、時には陽光の差す上方を見上げる。
自分が落とすところまで落としてしまったその線よりも、多くの場合、現実はほんの少し浮上した場所を流れていく。少しましであることが多いと言ってもいい。心象よりもほんの少し浮上した現実を流れていく未来を、僕は線の場所から眺めて、「予想よりも遥かに良かった」展開に安堵し、散々嘆いて絶望を口にする周囲に向かって、言う。
「ほら。大したことはなかったではないか。」と。
あるいは、またしても僕の過去が、この線を引かざるを得ない人格を育てたかも知れず、そうして時を過ごしてきたのかもしれないし、そうすることで心のバランスを保ってきたとも言えるだろうし、それは不可避であったとも思える。
それに対して、手の届かないような眩い上方に線を引き、楽観的な未来に目を眩ませながらも歩いていくような人を、僕は「オプティミスト」と呼ぶのだが、僕はこういう人たちを羨むことはあったけれど、その危うさもどうしても見過ごすことはできない。
彼らは手の届かないような「楽観的な」未来を描いたかと思うと、姿を現し始めた未来が、いささかでもそれに足りないと、身も世も終わりであるかのように嘆いてみせる。いわく、自分が馬鹿だ、いわく、周囲が馬鹿だ。それでもその呪詛や愚痴すら、どこか無用心に明るい場合が多く、時には笑ってしまうようなこともあるのだが、座り込んでひとしきり大声で愚痴を言い終わったかと思うと、いつの間にか立ち上がって、また新しい場所に向かって歩き始めている。
それが僕にとっての「オプティミスト」のイメージである。
オプティミズムとは、まったくもって「意志」の問題なのである。死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである。「これから直面する難題を創造的に解決する」ためには、我々一人ひとりがオプティミズムという「意志」を持つことがどうしても必要不可欠なのだ、ということを、僕はいまも相変わらず言い続けたいのである。(同上)
いや、そうではなく。僕にとっては、ペシミズムこそが「意志」なのである。僕が遥か下方に引いた線は、僕自身の「意志」であり、上方に対して視線を保持するための、言わば兵站のようなものであるからだ。僕の視線からは、ふらふらと太陽に向かって無用心な歩を進めていく、あなた方のほうが、遥かに本能的であるかのように思えるのだ。その本能的な、そして迂闊な(僕にとっての)歩みは、僕には生来備わっていないものである。
「経営者はオプティミストでなければならない」というのは、ここ十年(あるいはもっと昔から)小賢しいベンチャーキャピタリストの常套句ではあり、この性格のために、ずいぶんと肩身が狭い思いもしたように思うが、それもどこか違うと今は確信的に思っている。シリコンバレーのリッチマン達が描いた底抜けな未来のビジョンの傍らで、ブッシュはイラクに進んだのだから。ブッシュはその文脈の中で、徹底的に「馬鹿なオプティミスト」ではなかったか。
そそもそ、何といわれても、この年になれば、生来の性質はせいぜいサブルーチンを一つか二つ追加するくらいしかできないのである。メインルーチンを書き直す時間的な余裕もないのである。ならば生来の「ペシミスト」たる僕は、オプティミストの無謀で滑稽な楽観主義に、やれやれと肩をすくめながらも、彼らの歩む道の危うさには勤めて自覚的であろうと思う。自分は「意志を持ったペシミスト」でありたいと願うのである。(最近の出来事に接してもまさしく自分はこの原則で動いているなあと今思った)
しかし、梅田さんのこのエントリーに大量についているぶくまの殆どが、彼の
「死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである」
という一節に感じ入って、揃って右に倣えとリピートしているのを見ると、みんなシンプルに若くて、オプティミスティックでいいねえと素直に思う。いや、これは皮肉ではない。(多分)
2007 03 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック
February 15, 2007
サプライズのチョコレート
バレンタインデーから日が変わってしまったけれど、「サプライズなチョコレート」ってもらったことがない。いや、チョコレートをもらったことがないと言っているんじゃないよ。誤解するな。曲解するな。「サプライズなチョコレート」だ。
義理チョコであれ、本命チョコであれ、友チョコであれ、昨今流行のの自分チョコであれ、あれ殆ど「予定調和のチョコレート」でしょ。
ほとんどのの義理チョコは、然るべき人から来る。
ほとんどの本命チョコも、然るべき人から来る。
他は略。
そうじゃなくて。思いもかけない人からチョコレートが来る。こちらも驚く。相手もガチガチに緊張している。こちらも持つ手が震える・・・・なーんていうの を「サプライズのチョコレート」という。(BigBang用語)幸福なごく一部の人が遭遇することが出来る至福のチョコレートであり、その永劫の魅力の前 には、そのチョコレートが手作りであるか、モロゾフであるかなどということはどうでもいいことである。・・・こうしたチョコレートに出会うことが出来るの は、ごく一部の幸福な男だけであり、ごく一部の勇気ある女子だけである。違いますか?違う?そうですか?自分らのわけー時には、あんまりメジャーじゃな かったからなあ。バレンタインなんて。へっ。
こういう「サプライズのチョコレート」が渡されている場面。ドラマや映画ではよく見るけれど、実際にはついぞいただいたことがない。またそういうものをもらっている友人も見たことが無い。
彼女からもらうとか言うのは駄目だぞ。その人が彼女である時点で、次のバレンタインには、おそらくその人からチョコレートが来るであろうというのが、予測 されている。これは予定調和のチョコレートであって、サプライズのチョコレートではない。(来ないサプライズがある?それはいまは置いておく)
たぶんあの子から来るぞなんて言うのも駄目だぞ。予想がついた時点で、その子のチョコは、予定調和のチョコレートへと変貌している。もう取り返しがつかないのだ。飛び出すな。チョコは元へは戻らない。人生はつらく過酷である。
どうですか。サプライズのチョコレート、もらったことありますか?皆さん。
もしもチョコレートをもらうとすれば、気配も見せず、前振りも見せず、まだ見ぬ人から唐突に人生の時間の平穏を打ち破って、降りてくるチョコレートがい
い。
そうしたサプライズのチョコレートには恵まれなかったけれど、何だかんだ言いながら僕はチョコレートが嫌いではな
い。
バレンタインデーの前にこういう記事を書くと、このブログを読んでいるリアルの知人に対して、いかにも催促をしているように思われるので、バレンタインが過ぎた夜中にそっとこういうことを書く。嗚呼手遅れの美学。これが奥ゆかしさというものである。である。
聖バレンタインデー。
あなたにはサプライズのチョコレートが来ましたか? いや、この際それが、正しくチョコレートであるかどうかすら、どうでもいいことなのだけれど。もっと大事なことがあるというお話。
2007 02 15 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (8) | トラックバック
February 08, 2007
3人の物語
1日忙しくてパソコンを見ることも出来なかった。夕方になって、ようやく車を止めて、携帯でブログを読んでいた。夕べから今日にかけて、ずいぶんなことになっているなあと溜息をついたときに、電話が入った。
見慣れない番号。出てみると、か細い声の女性の声。
「あの・・・・XXX社長さんでしょうか?」
「はい?・・そうですが」
「私、Eの母親です」
E。
3年ほど前に、僕の会社で働いていた。プログラマーになるべく、頑張っていたが、ちょっとしたことで人間関係に問題が起き、退職した。胸騒ぎがする。
「こういうことをお聞きするのは心苦しいんですが、Eと親しかった・・Sさんの連絡先をご存じないでしょうか?」
Sも、僕の会社で働いていた。Eを僕の会社に連れてきたプログラマーだ。Eは彼の親友だった。というか、親友以上で、彼らは僕の会社に来る前から、もう1人の友人と3人で小さな会社を作っていた。会社を作ったときには、3人ともまだ学生だった。会社と言っても3人のサークルのようなものだ。売上はほとんどなかったが、売り上げよりも夢というか、得体の知れない「明日」みたいなものに引かれて集まっている3人だった。金銭的な成功を夢見ていたという月並みなものではなく、もっと文学サークルがITをたまたまやっているという様子の集団だった。
2人が僕の会社に来てからも、この小さな集団はそのまま存続していた。プログラマーとして優秀だったSは、早くに結婚して幼い子供がいたが、EはSの子を自分の子供のように可愛がっていた。九州の実家に帰っても、Sの子供に会いたくてすぐに東京へ戻ってくるほどだった。
だが、ちょっとしたことで、彼らの関係は崩れた。SとEの間に亀裂が生まれたのだ。プログラマーとして先行していたSは、友人ではあるがアシスタントをしていたEの飲み込みの悪さに、時に激しくEを面前で罵った。Eは笑って流していたのだが、蓄積したのだろう。我が強く、自意識が激しく攻撃的だったSは、他の2名の前に絶対君主のように君臨していた。それでいてそのエネルギーは、商売の方に向かうのではなかった。言わばそれは、行き先不明のエネルギーだった。Eはある時、突然退社してSとの連絡を一切絶った。Sは怒り狂ったが、どうにもならなかった。
Eが去ってからしばらくしてSも僕の会社を去り、僕と3人との縁は切れた。だから現在の連絡先といわれても、当時のメールアドレスくらいしか知らない。
「会社におられたのはずいぶん前のことですし・・・」
「どうしても、Sさんと連絡をつけたいんです・・勝手を申し上げて申し訳ないのですが」
「あの・・Eさんは・・」
もしかして、と言葉を詰まらせる僕に、母親は言った。
「Eは亡くなりました」
「え・・・・あの・・失礼ですが、ご病気か何かですか?」
「はい・・」
そのとき、僕の頭に「自殺」という2文字が突然ことんと降りた。
Eは、実際僕のところを去るときには、かなり精神が不安定になっていた。プログラマーが行方不明になったりすることは、この世界珍しいことではないが、Eは正確にはプログラマーではない。時に難解な数学を解くのが唯一の趣味といった具合で、親しい友人は、あの小集団の2人以外には僕は知らない。ただ、そんなEも、会社を退社してからしばらくして、女性と暮らし始めたという話を聞いたことがあった。あの女性の名前は・・・何だったろうか。
いや、自殺と決め付けるのはまだ早い。そんなことを考えていると、母親が続けた。
「荷物も、1週間くらい前に返ってきたばかりでして・・お友達にどんな人がいるかまるでっわかりませんで・・ただ、御社の名前と、SさんとXさん(と母親は3人組の最後の1人の名前を告げた)しか、わからなくて。」
でも、どちらにも連絡がつかないのだという。荷物・・・。あるいは孤独に部屋の中で死んだか。
「S君のメールアドレスくらいしかわかりません・・それももう変わっているかもしれないし」
「・・・そうですか」
メールアドレスにはあまり母親は反応を示さない。メールで連絡をつけることに思いが及ばないのだろう。僕は、件の女性のことは、伏せておくことにした。実際、伝えようと思っても、彼女の名前も出てこないのだ。それにしても・・・と僕は、引っかかる点を口にした。
「あの・・S君たちに連絡をつけたいとおっしゃるのは・・E君が亡くなったことを連絡されようとしているのですよね?」
馬鹿みたいな質問だったが、母親が一瞬言葉を詰まらせる気配が伝わった。
「ええ・・そうですが・・Sさんにはお聞きしたいこともあって・・」
「・・わかりました。調べてみて、何かわかることがあったら、ご連絡します。お役に立てないかもしれませんが」
「・・・・・はい」
「あの・・何と言っていいのかわかりませんが、どうか・・どうか、お力を落とされませんよう・・」
「・・・ありがとうございます」
礼を言って、母親が電話を切った後、僕はすぐに昔の彼らの会社のサイトに、ノートパソコンからアクセスした。サイトは表示されている。ということは、彼らのドメインもWebサーバも生きているということだから、ドメインのメールも生きている可能性が高い。Sの携帯電話の番号ももうわからなくなっているのだ。
僕は、S宛に、Eが亡くなったこと、母親がSに連絡をとりたがっているから、電話してほしいという短いメールを書いて、パソコンから顔をあげた。車の窓からコンビニが見える。若いカップルが袋を抱えて出て行く。彼らを照らす青白い光の中で、Sと訪ねたEの部屋を思い出す。
部屋には誰もいなくて、ずいぶんと散らかっていた。Eが帰ってきている様子はあったが、生活感というのとは遠い、荒廃した雰囲気が立ち込めていた。
彼らの小集団の物語が終わったんだと思った。僕に比べてずいぶん年の若い3人だった。いや、小集団どころか、Eという一人の人物の命も終わってしまった。母親の電話があった瞬間に、僕はEが亡くなったのではないかと思ったのだ。なぜかそう思わせるような、命のか細さが、Eにはあった。
「死ぬと終わるんだな」
と思った。人の物語は死ぬと終わる。つまり、人が生きている限りは物語は続く、終わらないということだ。昨日から今日にかけて見ていたネットの風景に重ねて僕はそんなことを思った。そんなに簡単に終わりはやってこないんだよ。
無駄かもしれないとわかっていても、それが本当に無駄なことかどうかは、そもそもいつわかるんだろうか。おそらく、人が、そして自分が生きている限りはあらゆるその人の物語が続くんだろう。それに結論が出るとすれば、その命が途絶えたときだ。命が途絶えたときに初めて人の物語は終わる。途中で何かの結論が出たように見えても、あるいは頓挫したように見えても、それは言わば途中でしかない。だから、無駄であるとわかっても、生きている限りは、足を前に出すんだろうな、とぼんやりと思った。無駄であっても、足は前に出すしかない。あきらめるのは、もう足が動かせなくなった時でいいではないか、とも思う。引きずるように重くても、それでも足は前に出していかなければならない。いつかその足は止まるのだから。あなたも、僕も。
Sからはまだメールの返事がない。
【2/11 追記】
この記事を書いた翌日、Sからメールに返事があった。とても驚いたこと、知らせてもらってありがたかったこと、お母さんにも連絡が取れたということが短めに記されていた。とても参っていることも。
2007 02 08 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (13) | トラックバック
February 03, 2007
はてながメンテだと
影響大きいねえ。ココログメンテなんかよりも、応える。ほとんどの御馴染みのブログが見られないというのは、すがすがしいほどだ。(?) コメントもぶくまも読めないし。僕はmixiもあまりやらないし、結構はてな依存率の高い生活だなあ。とこういうときにわかりますね。
なーんて言う「戯言」を、ぽそっと書くのはやっぱり「はてな」なんだよね。ココログじゃなくて。
2007 02 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
January 29, 2007
新宿シティハーフマラソンに出たぞ
新宿区民の皆さんの交通に多大なる影響を与えてすみません。横断歩道至るところで止めちゃったけど何か?やくざさんも怒ってました・・よ。知りません。
・・・の新宿シティハーフマラソンに、何と実は私も出場しました。
4,000名余りの出場者の中、スポンサーのうちの1社である、丸正さんの店前を通過すること3回。四谷三丁目と通い親しんだ国立競技場との距離って、こういう感じなのかと感慨を持つこと3回。給水所に来るたびに足を止めて水を飲みまくる素人は誰だよの視線にさらされること、およそ6回。
1時間くらいしか走ったことのない私にとっては、生まれて初めての長い長い道のりであったのですが、10Km近くまでは大変に好調。ところが14-15Kmあたりで、膝の痛みに襲われて、運命の東京国際・高橋尚子並の(嘘)大ペースダウン。いやもちろん遥かにひでー。
何とか競技場までたどり着きましたが、20.5Km付近で惜しくも制限時間に・・(以下略)あと500mじゃん、ゴールさせてくれよ、ケチ!
このままじゃあ引き下がれねーよなあ。
という「年何とかの何とか」な一日でした。
「ブロガーの皆さんも、パソコンの前ばかりにかじりついていないで、たまには外に出て遊ぶんだぞ!」(偉そう)
あーあ。じぐじょう。
2007 01 29 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
January 18, 2007
不二家の「ペコちゃん焼」についての、ちょっと風変わりな話
その頃のガールフレンドとは、よく高田馬場から新宿まで歩いた。ビッグボックスの横を通って、線路の下をくぐり、山手線の線路と付かず離れず、ずんずんと歩く。今だったら考えられないが、時間もあったし、体力もあった。何より、ずんずんと大学の帰りに歩くのが気に入っていたのだ。僕が、というより彼女がね。
で、ある日のこと。
いつものように山手線の下をくぐると、僕たちの前から歩いてきた、見知らぬ男。どちらかというと立派な身なりとは言えない彼が、「これあげる」と言うなり、すれ違いざまに茶色の紙袋を僕に押しつけた。
驚いて振り返ると、もう男はどんどん歩いていってしまっていた。
恐る恐る彼女と2人でその温かい茶色の紙袋を覗き込んだ。
「・・・・・・・・ペコちゃん?」
と彼女が言った。紙袋の中には、ほかほかのペコちゃん焼が3つばかり入っていた。ぺこちゃん焼きというものがあることを、僕たちは2人と


