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January 18, 2018

その人を飢えさせてはならない

この人を飢えさせていては絶対にだめですよ皆さん。と言われて深く同意する。なんとかしなけれゃだめだと思う。圧倒的な才能。今日ここに来ている人たちが頷く。みんなそんなことはわかっている。

そうだ。だからこんなむくつけきオジさんの追っかけを俺が長年やっているのだから。そうなんだ。才能に惚れているのだよ。すとんと言葉にしてもらった。

この人が食べられないなんてあり得ない。俺が飢えてもこの人は飢えてはならない。

でもその人を使って金を稼ぐ方法なんて一つも思いつかない。その人の書くものが今後爆発的に売れる未来も申し訳ないけれど想像がつかない。この人とつきあってもきっと金になど全くならない。儲からない。

けれどそれがなんだというんだ。

この世には金になどならない、できない圧倒的な才能というものがあるのだ。これを芸術というのかな。元来文化というのは本来そういうもので、金に換え易い文化ばかりがもてはやされるのはどういうことだ。だからあの人が飢えるのだ。

自分は儲けたり倒れたりの垂れたりするだろうけれど、文化として保全する意味など全くゼロだ。こういう人間は好きにの垂れても誰も悔いる必要はない。保全する文化的価値は全くない。

けれど彼を飢えさせては絶対にだめだ。ならどうすればいいのか。うだるほど金があればパトロンになるのかな。そんな金はないし、そんなことはきっとその人は望むまい。

とオロオロいつも追っかけているわけだ。まるでストーカーだ。

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January 12, 2018

汚れてもいない。美しくもない。

汚れているもののことを汚れているとは認めない。

美しいもののことも美しいと認めない。
美しくもない。汚れてもいない。
世界はただそこにあって、人の営みも含めて全て罪などない。
だから。
あるがままの、罪なき世界に対峙する自分だけが傷つく必要もまたない。

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January 09, 2018

明日のクリエイターを育てるはずのあなたに言いたいこと

クリエイターなら残業代など言うなというあなたのオピニオンを見てちょっとがっかりしています。あなたはクリエイターを育てる方のはず。創造と言う名のもとにあなたの教え子が社会から搾取されることを望まれますか?法は法です。いいですか?残業代は払われなければならないんです。それ以外の解釈はありません。ないんです。仕事の種類は関係ありません。

そして創造を欲する心と、それを持続する経済的サポートは両立させなければならないのではないですか?あなたがこれをお読みになるかどうかわかりませんが、そして僭越ではありますが。考えてみてください。アシスタントはクリエイターではないのです。あなたは明日のクリエイターを望む若者の味方ではないのですか?

どれだけの若者が創造という大義名分のために強者から搾取されていますか?どれだけの報われぬ明日のクリエイターがいますか?そういう人たちが明日のこの国を作るのではないですか?私達の世代がすべきことは何ですか?

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January 06, 2018

まだ会えていない同志の記録-家族最後の日




すっかり植本一子さんの世界に嵌ってしまい、連作を全て読んでいっている。よその家族の物語であると同時に、一部は自分の物語でもあり、さらに311以降の日々を生きた「まだ会えていない同志」の日記でもあり、また同時に近くて遠い魂の歴史でもある。

様々なリスクもあるだろうに吐露してくれる壮絶なそして私的な記録から自分達が受け取るものは測りきれぬほど大きい。

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December 28, 2017

写真を撮るということ

ある写真家の人の日記を延々と読みながら、そうだ。自分はカメラマンになりたくて、新卒でスタジオマンにまでなったんだと、今更のように、改めて思い出す。今考えると、まるで別の人生のようだ。

で、なぜカメラマンにならなかったのか、考えてみるが、本当に別の人生のように遠い日の記憶で、よく覚えていない。どこかでカメラを仕事にすることを断念したのかもしれないし、だらだらとなれなかったのかもしれない。成り行きだったかもしれないし、そのあたりのことは、あまり覚えていたくもないのかもしれない。

とにかく自分は写真を仕事にする人にはならなかった。それだけの話だ。

それでも、今でも、というかこの頃になって休みの日にはできるだけカメラを持って歩くようにしている。スマホを使えば誰でも写真など撮れるようになって、かえって写真を撮ることの意味を考えることは難しくなった。というより、今の自分にはそんなことの意味などどうでもいい。

ただ撮りたくなったら撮る。何のためという目的などはない。それでいいのではないかと思うようになった。こういうのを世間ではさかしら顔で「好きなことは仕事にしないほうがいい。趣味にしたほうがいい」などと言うのだろうか。

「趣味」という言葉の、どこか、どん詰まりの享楽感(苦笑)も自分は好きではないのだ。撮りたくて撮る。趣味ではない。そのことによって金が入らないだけだ。

何を撮ればいいのか、なぜ撮るのか。そんなことに迷っている間は、結局は撮ることの自由を獲得できていなかったのだろうと思う。

たどり着いた場所は、たいした場所ではないのだけれど、ここまで随分と時間がかかった。そんなものなのだろう。

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December 16, 2017

伝説の犬

犬の健康が不調。

犬の一生は人のおよそ1/5くらい。とすれば、犬にかける時間が1ヶ月だとすれば、それは人にとっての5ヶ月には相当するはず。そう思って徳を積むつもりで自分に言い聞かせる。

好きな話は、殆どの犬にとって飼い主は不老不死と思われているという寓話。5世代に1匹くらい、その飼い主の死に立ち会うことのできる伝説の犬が現れる。それは犬にとってとても稀な、選ばれた犬だけが立ち会える聖なる経験なのだという。そういう話。

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December 12, 2017

他のどこにも似ていない街



松崎の伊豆の長八美術館 に行ってきた。

松崎というところは不思議な街だ。他のどの街にも似ていない。西伊豆のどん詰まりにあって交通はどう行っても不便。東伊豆の喧騒とは遠く離れて、独特の鄙びた時間が流れている。
ここに来たのはおよそ30年ぶりで、あの時見た長八美術館はあんなに美しくクールだったのに歳月の流れは壁面を薄黒く痛めていた。この国はどうしてこういう至芸の源に金が集まらないのだろう。

松崎プリンスホテルは伊藤園ホテルと名前を変えてあの日と同じ場所に佇んで、同じ海を見ていたが、こちらも何だかしおれてしまっても必死にその場に立とうとする花のようだった。

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December 02, 2017

日本が中国に完敗したならそれを利用すればいい

すごく刺激的な質の高い論考記事なのでお薦め。


日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと

中国に100万以上の都市が300以上あるという話を聞いたのはずいぶん前だけれど、それを言っても多くの日本人はポカンとしている。自分が上海に行った時は、東京よりも遥かに大きな大都会だと認識した上で行ったので、そんなにショックは受けなかったが、その前提無くして行けば驚くだろう。

中国はもちろん、今やアジアには東京など遠く及ばない大都市はたくさんある。例えば韓国には釜山という韓国第二の都市があるが、ここの巨大さときたら、東京の比ではない。人口も最盛期は400万である。

いつまでも世界に冠たるNo. 1日本だとか幻想を持っている人たちは中国でもアジアでもどんどん行ったほうがいい。この記事を読んで自分も深センにぜひ行きたくなった。

もう一つあるのは、別にこんなこと悲しむ必要もないということ。日本人のしたたかさを僕は信じる。理性的でも品格高くもないかもしれないし、人権も民主主義もわからないかもしれないが、この国はしたたかである。だから戦後の奇跡の大復興を成し遂げた。

周辺にこれだけ巨大な経済圏が次々と出来上がっているのだから、日本にとってはある意味チャンスである。同胞と若い人たちの今後のしたたかさを自分は信じる。

また中国の発展は目を覆うばかりの凄まじさだが、中国の大地は都市だけでできているわけではない。何十億という、日本の高度経済成長以前の生活をしている人たちもいる。漢民族以外の人たちもいる。それらも考えてこの国を見ないと見誤ると思う。

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November 18, 2017

逃げ場のない街

#japan #shinjuku #shiodome #tokyo

路地を抜け、すっと逃げ込めるような場所がいくらでもある街と、どこにも逃げ場のない街。



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November 17, 2017

「人間万事塞翁が馬」に繋がっているような、いないような話

自分の話。

何か、自分のやっていることを親の仇のように攻撃する人がいる。一方でまるでそこまで言うかというくらい、褒めそやす人がいる。

通常の、平凡な人生というものが仮にあるとしたら、その定義はどちらの目にも合わず、「可もない不可もない」というような曖昧模糊とした優しい言葉に包まれ過ぎていく人生のことなのだろう。

自分の場合はそれとは程遠い。とにかく持ち上げられやすく、とにかく落とされやすい。毀誉褒貶の激しい人格という方に属するのかもしれない。もちろん「毀誉褒貶」という言葉を使われること自体が、あまり良い印象とは言えない。

この世にある世間というもの。いわゆる「世間がそれは許さない」とか「世間様に申し訳が立たない」という時の世間は、自分にとっては、自己を称賛したかと思えば突然攻撃をかけてくる世間であり、貶めたかと思えば(特に儲かる話でも持っていけば)手のひらを返して擦り寄って褒め称える世間である。

毀誉褒貶の激しい自分としては、このような状況でいちいち弄ばれては叶わないとある日思ったのか、防御の一形態なのか、「自分の評価者は自分だけである」というドグマをいつからか持つようになったと思う。

もちろん元より宗教的ではなくて、道徳的でもない。神も世間も特に何もみていないし、何も正しいことを言ってくれるわけでもないのだから、そこは評価者である自己が決めますからよろしくね。という立場である。

大学を出てから久しく哲学の勉強などからも遠ざかっているのでよくわからないけれど、こういう考え方の人間は「実存主義的」とでもいうのだろうかな。よくわからない。宗教的信念のある人からは哀れに見えるかな。

客観的に考えると、物事の自分なりの合理には酷くこだわるが、世間の理や道徳にはたいして関心を示さない。元々毀誉褒貶の激しい身であるから武装したのかもしれないのに、それがまたループして一部の人たちの神経を逆なですることで攻撃に繋がるという仕掛けである。

自己に利を図ることにも、自己を正当化することにも実はそれほど関心がなく、評価者である自分は自分に対して最も良き理解者であり、一方で最も激烈な批判者でありたいと思うだけなのだが、どうもこうした心理構造は必ずしも一般的ではないようである。

現実的に言うと、このような心性に似合う生き方と、似合わない生き方がある。似合う職業と似合わない職業がある。似合う野山と似合わない荒野があるのである。
時には酷く人を傷つける。しかし助ける時もあるはずだし、あったと思う。奥の方を覗き込んでしまった人にはごめんね。お気の毒にとしか言えない。

仮にそれぞれのこうした構造に「問題」や「苦労の種」があったとしても、何十年も溜まった風雪じゃなくて澱のような心の奥のその塊はどうすることもできない。今更治療や修正の道がないのであれば、せめて賢くマネージしたいと思うのみである。

元々世間など、自己の運命や幸福、帰結に対してなんの責任も負ってくれないではないかと考えてしまうところが、やはりその心性はほらまた出ましたこの殺伐がと思うだろうけれど、この世はそんな千差万別の育ち方と生き方の帰結の失敗作が満ち溢れているであろう。

それでも生きている。

※ここまで書いてから不似合いな「人間万事塞翁が馬」という故語を思い出した。自分はこの最初の2文字を「にんげん」と呼んでいたが、下記の引用によれば「じんかん」と読みこれは世間を意味するのだそうだ。知らなかった。

話が繋がっているのか繋がっていないのか。これもよくわからない。


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人間万事塞翁が馬

中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

 この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。

「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。
「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。

「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」
という事です。

https://mizote.info/image/02profile/30kaisetu_jinkan.html

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