April 18, 2007
「失われた町」が導いてくれた場所---与那覇大智さんの個展に行ってきた
以前ここで、三崎亜記さんの「失われた町」についての書評を書いたのだが、(「失われた町」(三崎亜記)---澄み切った不条理な悲しみ)それをきっかけに、この書を読んで下さったという、画家の与那覇大智さんから、創作上のインスピレーションを受けることができたというメールをいただいた。で、与那覇さんの個展が銀座で開かれているというご案内もいただいたので、風の気持ちのいい日、銀座の個展会場に行ってきた。
会場に与那覇さんらしき方をお見かけしたが、こそっと入って一通り見てからおもむろに(笑)ご挨拶でもと思っていたが、気がつくと資料を手に持って与那覇さんが目の前に立っておられた。
「BigBangです」と挨拶すると、「わかっていました。なぜでしょう。」と笑っておられる。どうも会場に入ってきた瞬間にばれていたようです。ほんとになぜでしょう。ぎゃふん。
それはともかく、ひとしきりお話をすることができた。
与那覇さんの作品は、「自分が暮らした事のある場所の地図や、航空写真に穴を開け、そこから絵具を押し出し転写された点々を、水や絵具で押し出す」という手法で創られていて、点描が、やがて町を上空から見たものだと気がついてくるまでは、夜空に散らばる星のようにも思える。「HOME」と名付けられた、一連の作品群は、フィラデルフィアにしばらく滞在しておられた時に、自分の生まれた沖縄の町と、フィラデルフィアのその町並みとの間の距離や齟齬、そして同一なところに刺激を受けて、こうした作品を生み出すことになったらしい。
ご本人の話では、それ以前に筆で書いていくことに対しての、息苦しさ、つらい状態があったという。
「これなんですよ」と指さしていただいた作品は、キャンバスのほとんどを黒が占め、そこにほのかな光と見える白い描画がなされていたものだった。「失われた町」のイメージはその作品でもっともあらわされているということらしい。滞在中の夏の夕暮れに見た、庭の芝生の蔭から光の粒のように立ち上る蛍が印象的だったという記憶も、重ねあわされている。
与那覇さんがその作品を見ながらこんなことを言った。
「残照・・でしたっけ?」
「そうだったかな?」
与那覇さんが語りかけてくれたのは、あの作品に描かれる「失われた町、月ヶ瀬」に蜃気楼のようにまとわりつき、夜になると輝き、それを残った人々が見つめるうちにやがて消えていく光のこと。(あとで小説で確認したら「残光」と表現されていた。)そういえば、あの作品にも町の記憶をひたすらキャンバスに繋ぎ止めていこうとする、絵を書く青年が登場する。
「書かれているものは儚いけれど、航空写真というのは実はすごい情報量ですよね?そこから何か(力のようなものを)受けてしまって疲れてしまいませんか?」
などと理屈っぽく聞くと、与那覇さんは、故郷である沖縄の町を上空から見つめている視線は、空爆をしようという米軍の視線である。そのこともどうしても意識してしまうんですよ、というような話をしてくれた。そういえば、暗いキャンバスに点描で描かれた町は、絵具で炎に包まれているようにも見える。僕はどうしてもそういう話になると東京大空襲とか思い出してしまうなあなどという話をした。
それはともかく、会場に訪れる、与那覇さんの知己と思われる方々は、彼の「作風の変化」に軽い驚きを感じておられるようであることが、聞こえてくる会話の中から察せられた。同時にみな、創作者としての与那覇さんのことを、案じながら暖かく、大切にしておられる様子が伝わってくるようであった。与那覇さんは、そうした一人一人に対して丹念に創作の意図や、こういう作品を創るに到った経緯を説明しておられたが、私と与那覇さんは同じ小説を読むという「共通体験」があったおかげで、門外の抽象的な作品を制作者と共に囲むという緊張に接しながら、どこか安らいでリラックスして通じあえたような気がする。少なくとも私と与那覇さんは「月ヶ瀬」を知っているからである。これは与那覇さんにも話したけれど、もしも三崎亜記さんがこれらの作品を見たら、どんな感想を示すだろうか。それほど、与那覇さんの作品は、三崎さんの物語世界に通じるイメージがあったのである。もちろん、離れた場所にある魂が想ったものの仔細は違うものなのかもしれないけれど、三崎亜記さんの小説にも、「戦い」の影は確かにあったのである。
与那覇さんはしばらく、この手法の創作を続けるという。いつかどこかの「町」で、また一面の光の粒と蛍、そして彼の描く「月ヶ瀬」に会うことができるだろう。
外に出ると、風が気持のいい午後だった。光も穏やか。
それにしても、ブログでの出会いというのは不思議なものである。
【関連リンク】
与那覇大智(与那覇さんの経歴と今回の個展の会場が見られる)
2007 04 18 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
November 11, 2006
「生演奏でもお布施を払え」というJASRACの生々しい主張について
かつて「JASRACブロガーBigBang」などと史上に残るメチャな呼び名で呼ばれた身としては、これはどうしても気になったニュース。
ビートルズ演奏で逮捕! 「なぜだ」という素朴な疑問
再三著作権を侵害して演奏
JASRACによれば、この男は81年にスナックを開業し、85年から著作権を侵害する行為に及んだ模様だ。JASRACは再三にわたり注意したが、男はそれに応じず、同協会との対話も拒んだという。同協会は01年に東京地裁に提訴し、同年には裁判所からJASRACが著作権を管理する曲の演奏を禁ずる仮処分が下された。その後しばらくは他の曲を演奏していたが、再び著作権を侵害する行為をしたため、協会は06年9月に警視庁石神井署に刑事告訴したという。
JASRAC広報部はJ-CASTニュースの取材に対し、
「本来ならばこうしたことはしたくなかったが、公平性の観点からもこれ(刑事告訴)以外に手段を取ることはできなかった。これほど悪質なケースは珍しく、JASRACとしてもやむを得なかった」
と答えた。
同協会によれば、1948年からこれまでに刑事告訴したのは146件だが、最近では極めて稀で、都内でもここ20年で4件ほどしかない。あきらかな著作権侵害が確認されても、そのほとんどが訴訟の段階でなんらかの解決に至るケースが多い。しかも、逮捕するか否かは警察の判断によるため、今回のケースは「よっぽど悪質」と判断された可能性が高い。(J-CASTニュース)
え。生演奏でもJASRACに金を取られるのか?と知らなかった私はぐぐってみたら、こういう記述が見つかった。
使用料規定では、演奏での音楽のご利用に2つの算定方法を設けています。
(1)1曲ごと(曲別)に算定する方法
算定基準: 平均入場料・会場の定員数・演奏作品ごとの演奏時間・ご利用形態
算定方法: 演奏時間に応じた1曲ごとの使用料の合計(2)入場料・定員数などから包括的に算定する方法
算定基準: 平均入場料・会場の定員数・公演時間・ご利用形態
算定方法: 上記の算定基準による公演1回ごとの使用料
はあ、そうなんですか。来週ライブハウスでビートルズをやろうと思ったら(いや別にビートルズではなくてもいいんだ。氷川きよしでもいい)、上記2つの基準のいずれかで収入見込み等を算出し、JASRACにお届けしなければならないんですか。そうですか。知らなかった。
単純に考えて、学園祭なんかで教室で演奏する学生コピーバンドはスルーだが、その学生コピーバンドが、少し規模を大きくしてやろうよなんてことになって、大学の近くのライブハウスを貸しきって、友達に入場料500円程度で券を売ったとすると、これはもうJASRACの「利益機会」になるわけですね。何だかなあ。まさか、それで「もぐりの学生コピーバンド大会」かなんかを告発はしないとは思うが、原則論はそういうこと。
もっと困るのが、路上ミュージシャンの皆さんで、路上でオリジナル曲をやるならいいが、コピー曲をやって、志程度のお金をギターケースか何かにチャりんと入れてもらった(古い?)場合はどうなるんでしょうね。お布施みたいなもんでしょう。これでもやはり商業利用だから事前にお届けしなければならないんでしょうか。貧乏な路上ミュージシャンから鬼畜の取立てか。知らんぞ。そんなの。僕も似たことを昔(たぶん)やったことがあって、サザンとか(恥)コピーとかしまくっていて、時には僅かなお金を頂いたような、頂かなかったような、頂いたような・・記憶がおぼろげにあるぞ。元学生コピーバンドドラマーBさん4?才は語る。(時効だろ、もう。っていうか小物過ぎて集めにも来ないだろうが)
ネタのような話ではあるが、笑ってばかりもいられないのは、先の男性に関しては「悪質」ということで(何が?)刑事告訴されてしまっているし、こんな凄い例もある。
生演奏でも楽曲無断使用はダメ JASRACが1600万円賠償請求
日本音楽著作権協会(JASRAC)は、音楽の使用料を払わずに生演奏を続け、著作権法違反罪で有罪が確定した名古屋市の元飲食店経営の女性社長に、使用料など約1600万円支払いを求める訴えを名古屋地裁に起こした。
協会によると、生演奏の使用料で賠償請求に発展するのは珍しい。
訴えでは女性社長は同市中区の繁華街にあった店で2月まで、音楽の使用料を支払わずにバンドで生演奏。使用料は1曲180円、1カ月約11万円の計算。協会が愛知県警に告訴し、女性社長は2月に逮捕された。<サンケイスポーツ>
ひえ。1600万円!?1ケ月11万円ということは、1年で132万円で・・10年で1320万・・12年くらい無断で生演奏をしていたと?それを遡って払えと?1日あたりだと(どうでもいい計算だが)3800円くらい、つまり20曲くらい毎日この「女性社長は生演奏をしていたわけだな。ずいぶん沢山・・いやまあそれはいい。
実際にプロの歌手が演奏したCDやDVDを、無断でイベント使用や番組使用などして、それで入場料や広告料を取ったと。あるいは不正にコピーしたと。それはないだろうというのはまあわかるが、どうなんでしょう。生演奏というのは。
人が自分の作った楽曲を覚えてくれるまでになり、コピーしてくれるまでになって、演奏してくれる。そこに人が集まる。無料ならいいけれど、そこでお金を取ったら俺にも還元しろと?その上JASRACにも落とせと?・・・思う?うーん。どうだろうか。ここの考え方。割り切れないものを感じざるを得ない。曲を創る立場の人からするとどうなんだろうか。
話が「生演奏」とかの次元でネット配信に比べてアナクロで、妙にそれが文字通り「生々しい」ニュースだったのですがどうですか。
2006 11 11 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック
September 26, 2006
花魁、そりゃァあんまり袖なかろうぜ---「籠釣瓶花街酔醒」
人に薦められて、歌舞伎座9月公演「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)を観て来た。能はよく観るけれど、歌舞伎は本当に久しぶり。何年ぶりかの歌舞伎座(何十年?)
一幕見席は1100円(安い)で、17:45から発売。予想していたことではあるのだけれど、着いたときには長蛇の列で、立ち見になってしまったが、2時間、苦にならず。
今更だけど、歌舞伎座には沢山の外国の人が観にくるんだねー。一幕見席という性格上、冷やかし(?)っぽい人も多数。で、最初は「Ohーーーーー」とか言っているけれど、挫折して去る人も多し。英語表示はもっと多いほうがいい。
一幕見席は4階なので、花道は見えず。悔しい。花道近くに座っている人が上級市民のように思えた。
「籠釣瓶花街酔醒」
佐野次郎左衛門 吉右衛門
八ツ橋 福助
立花屋女房おきつ 東蔵
下男治六 歌昇
七越 高麗蔵
釣鐘権八 芦燕
九重 芝雀
繁山栄之丞 梅玉
立花屋長兵衛 幸四郎
話題とみどころ
江戸のみやげ話にと、軽い気持ちで下男の治六(歌昇)と吉原を訪れた下野の絹商人、佐野次郎左衛門(吉右衛門)は、今をときめく傾城八ツ橋(福助)の花魁道中に行き会い、八ツ橋にひと目惚れしてしまいます。以後その座敷に通いつめ、身請け話もまとまろうとしていましたが、八ツ橋の情夫栄之丞(梅玉)の横やりが入り、突然八ツ橋から愛想づかしをされてしまいます。ショックを隠せぬ次郎左衛門は、いったんは故郷へ戻りますが、数ヶ月後に上京。水ももらさぬ名刀籠釣瓶で、八ツ橋を斬り殺します。謹厳実直な男が、美女の微笑みひとつで、人生を狂わせてゆく悲劇。胡弓の悲しげな響きにのせた次郎左衛門の「花魁、そりゃあんまり袖なかろうぜ」など、名せりふ名場面に事欠かない、初代吉右衛門の代表作。定評ある吉右衛門の次郎左衛門に、幸四郎が引手茶屋立花屋の主人長兵衛役で登場するのも楽しみです。
吉右衛門・佐野次郎左衛門と八ツ橋の出会いのシーンは、背筋がぞくっとした。止まる姿が言いようもなく美しい。ぴたり。
聞かされてはいたけれど、花魁・八ツ橋の愛想つかし「兵庫屋広間縁切りの場」。やっぱり泣けたなあ。自分がふられているみたいだった。(月並み)
一体八ツ橋の心はどこにあったのか。どこにもなかったのか。間夫(まぶ)だと言っても、栄之丞にそれほど愛情があるとも思えない。次郎左衛門にも、愛着はあれども、それも愛情ではないようにも思える。
そもそも、次郎左衛門は、リッチなんだから、栄之丞の差し出した証文なんて、どないでもできただろうに。満座の前で恥を欠かせなくても、次郎左衛門は、引っ込んだだろうに。
なぜなぜなぜ。若者にはわからないことだらけ(嘘)
そして次郎左衛門、未練の名台詞。
花魁、そりゃァあんまり袖なかろうぜ。夜毎に変わる枕の数、浮川竹の勤めの身では、昨日にまさる今日の花と、心変りがしたかは知らぬが、もう表向き今夜にも、身請けのことを取り決めようと、ゆうべも宿で寝もやらず、秋の夜長を待ちかねて、菊見がてらに廓《さと》の露、濡れてみたさに来てみれば、案に相違の愛想尽かし。そりゃもう田舎者のその上に、ふた目と見られぬわしゆえに、断られても仕方がないが、何故初手《しょて》から言っては下されぬ。江戸へ出るたび吉原で、佐野の誰とか噂をされ、二階へくれば朋輩の、花魁方や禿にまで、言われるようになってから、指をくわえて引っ込まりょうか。そこの道理を考えて、察してくれてもよいではないか。
そして最大の驚きは数ヶ月立ってから、八ツ橋に妖刀・籠釣瓶で復讐を遂げる、次郎左衛門の不思議な間(ま)。謎。故郷に帰ってから、少しずつ壊れていったんだろうか。善人の崩壊は徐々にやってくるのか。されば、どれほどに、ぐにゃりと壊れていったのだろうか。怖い。
どこまでかは、八ツ橋を許していたんだろうか。あるいは、どこから許せなくなったんだろうか。
なぜなぜなぜ。若者にはわからないことだらけ(嘘)
まるでカフカの不条理劇を見るような思いもあった。後、全く関係ないけれど、Enrico Carusoは、この舞台にも似合うように思いましたよ。どうだろう?
わあ、素人な感想だ。されど人生は不可解。舞台は深い。
明日まで。急げ。
2006 09 26 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
August 24, 2006
岡本太郎「明日の神話」が汐留の俗世から語っていた1969年など
岡本太郎の壁画「明日の神話」が汐留の日テレブラザに、今月一杯展示されるていると、人づてに聞いたので、見に行ってきた。この汐留のエリアは、最近とんと見に行っていなかったのだけれど、一言で言うと、まあ新日テレのお膝元ということもあり、相当に俗っぽいエリアであったわけだが、そうした環境に「原爆炸裂後の希望」を描いたというこの壁画が収まっている様は、ミスマッチの如くでもあり、いやそれがマッチだという考え方もあるであろうとも思え、不思議な経験をした。
1969年、岡本太郎は万博の太陽の塔の製作をする傍らで、メキシコオリンピックを当て込んで建築されていたホテル「オデル・デ・メヒコ」に掲げるためにこの壁画「明日の神話」を製作していた。
ところが、その後ホテルは経営上の問題に接し、完成を見ることなく放置され、壁画も行方不明になっていたものを、2003年になって岡本太郎のパートナー岡本敏子によって発見され、公開されることになったという。
「明日の神話」は原爆の炸裂する瞬間を描いた、岡本太郎の最大・最高の傑作である。
猛烈な破壊力を持つ凶悪なきのこ雲はむくむくと増殖し、その下で骸骨が燃え上がっている。悲惨で残酷な瞬間。
逃げ惑う無辜の生きものたち、虫も魚も動物も、わらわらと画面の外に逃げ出そうと、健気に力をふりしぼっている。
第五福竜丸は何も知らずに、死の灰を浴びなが鮪を引っ張っている。
(中略)
タイトル「明日の神話」は象徴的だ。
その瞬間は、死と、破壊と、不毛だけをまきちらしたのではない。残酷な悲劇を内含しながら、その瞬間、誇らかに「明日の神話」が生まれるのだ。
岡本太郎はそう信じた。この絵は彼の痛切なメッセージだ。絵でなければ表現できない、伝えられない、純一・透明な叫びだ。
この純粋さ。リリカルと言いたいほど切々と激しい。
(後略)
----パンフレットより「岡本敏子の序文」
1969年、大阪万博の開催を目前にしてこの国は騒然としていた。70年安保闘争のさ中。東大安田講堂陥落、アポロ11号の月面着陸、新宿フォークゲリラなどの騒然とした世相、そしてその当時の革命前夜のような異常な状態が小学校の授業にまで及んでいたということなど、この頃の時代の私的経験については、おぼろげな記憶を元に以前
アポロが月に行ったことを含め、確かなことは何一つない。(BigBang)
で書いたが、「革命勢力」からすれば、日本万国博は「唾棄すべき」権力の象徴であり、反万博闘争というのがあり、その象徴として岡本の太陽の塔は、1970年4月26~5月3日の7日間、赤軍を名乗る男によって「左目」が占拠されるという事件が起きている。
そんな時代にあって岡本太郎は、同時期にメキシコで、こうした創作活動をしていたわけであるが、件のホテルもやはりメキシコオリンピックと言う近代商業主義を象徴する(と反万博勢力からすればみなしたであろう)行事に乗ろうとして破れ、その後壁画も放置されることになったあたり、何やら複雑な因縁を感じる。
思えば岡本太郎と言う人物の創作の姿勢には、いつもこうした国家的規模の開発や行事が見えており、滑稽なまでにエキセントリックな個性の捉え方もあり、当時の一般的な日本人の感覚からすれば、すぐれた芸術家ではあるが、いささかトンデモな言動をする人であるという捉え方がされていたことも事実である。
「芸術は爆発だ」
「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」
などと、彼が目を剥いて迫ってくるTVCMの映像は、岡本太郎のこうしたトンデモな個性を過度に強調した嫌いはあり、それらを目撃してきた僕などからすれば、岡本太郎が生きていた頃にこの人物がほとんど見えておらず、死してその偉大さを社会も「再評価」しているようにも感じ取れるのであるが、どうだろう。もちろん岡本の影に岡本敏子という最大の理解者があったことは重要であり、この壁画も彼女の「再発見」無しには、ここにはなかった。
冒頭に書いたような「俗な空間」の中で、壁画は当然ながら異彩の存在感を持っていたわけであるが、展示のあり方としては、周りにカフェなども配置され、というよりもカフェや大道芸も演じられる広場に佇立し、ステージの上にあがって、壁画を鼻先に見つめることもできる。
ステージに上がって暫し作品を凝視するものがあれば、記念写真を撮るもの、黙って腕組みをして立ち尽くす若者など。
自分とこの壁画が、孤独に向かい合う夏の夕暮れ・・などというものが実現できればそれはそれであろうが、この俗な空間で人々が思い思いに壁画と向かい合っている様を見るのも、これはこれで興味深いものである。
果たして究極の絶望の中から生まれてくる希望とはどんなものなのだろうか。核の破裂などと言う究極の絶望から立ち上がれるなど言う岡本の「妄想」を信じていいのだろうか、その「究極の絶望」と、我らの今直面している「卑小な現実の絶望」とは、何が異なるのだろうか。
そんなことを考えながら、壁画前面に左から激しく走る赤と、中央にたぎる太陽のような骸骨を、そして画面下におもちゃのように配された第五福竜丸を、かれこれ1時間ほども見ていただろうか。
とは言っても、壁画と対峙する時間の半分ほどは、正面に向かい合うドーナツ屋の2Fの席に座っていた私なのであるから、ここで展示空間の俗を厭ういわれも資格もないのであるが。
展示は8月31日まで。
2006 08 24 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック
December 29, 2004
精神の在り場所-石垣りん逝く
不明ながら先日亡くなった石垣りんという人を知らなかったのだけれど
友人から教えられて、数編読んでみた。
H氏賞をとった「表札など」の、収録詩がとても気に入った。
高等小学校を卒業して日本興業銀行に入り、75年の定年まで勤務。 戦後は職場の労働組合で文化活動に携わり、組合の壁新聞や機関誌 などに精力的に詩を発表して、銀行員詩人と呼ばれた。 (12/26朝日新聞サイトより)
ということだけど、この世代の方としては強烈な言語感覚。
名前どおりの凛とした誇りの感じられる詩風。
詩集も一時絶版だったが復刊されているということ。
友人は高校の教科書で知ったとのことだった。
「表札」より
表 札自分の住むところは
自分で表札を出すにかぎる
自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない
病院へ入院したら
病室には石垣りん様と
様が付いた旅館に泊まっても
部屋の外に名前は 出ないが
やがて焼き場のかまにはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろうそのとき私がこばめるか?
様も
殿も
付いてはいけない
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない石垣りん
それでよい
石垣りん
「精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはいけない」
敬服。かくあれかし。







