May 10, 2008
ビルマ・サイクロン被災者緊急支援窓口リンク集(転載歓迎)
ビルマサイクロン被害緊急支援窓口リンク集です。一部を除き、クレジットカードやPayPalでの送金が可能。
●日本ビルマ救援センター( ビルマ情報ネットワークメールマガジンより転載)
大型サイクロンの直撃で死者数が2万2980人、行方不明者が4万2119人
(7日軍政発表)に達したビルマへ、世界各国からの緊急援助物資が到着し、国連 世界食糧計画(WFP)など一部国際機関の現地事務所やミャンマー軍事政権に よる被災者支援活動が始まりました。しかし、国外の国連救援スタッフには入国 許可が出ないなど、限定的な支援にとどまっています。日本ビルマ救援センター(BRCJ)では本日よりビルマ国内の被災者への支援基金 を募らせていただきます。皆さまからの善意の基金が、決して軍政の手に渡らず、 一般の市民を救済する方法をここ数日探してきました。日本ビルマ救援センター の創設者であり、現在仏教救援協会の代表であるカワサキ ケンさんが寺院を通 じての支援基金を開設しましたので、BRCJで集めさせていただいた支援金はこち らに送らせていただきます。
BRCJ(日本ビルマ救援センター)への送付方法
支援金振込先:
○郵便振替:00930-0-146926 BRC-J
○りそな銀行 金剛支店(普通)6553928 日本ビルマ救援センター
************************************
ビルマ・サイクロン被災者緊急支援基金
5月3日(土)ビルマを襲ったサイクロンで、6万人以上が亡くなり、
少なくとも百万人が家を失いました。
多くの人びとは仏教寺院に避難しています。
(以下のURLのサイトに写真があります)
仏教救援協会ではいくつかの支援依頼により、サンガを通じて支援を送るネット
ワークを設立しました。すべての基金は直接、確実に寺院に届き、そこに避難し
ている人々に分けられます。
ご寄付を希望される方は、こちらのサイトで行うことができます。
http://
ありがとうございます。
ケン、ヴィサカ
Emergency relief assistance for victims of the cyclone in Burma
We are sure that you have been reading and seeing the news of the
cyclone which struck Burma on Saturday, May 3. the latest report is
that more than 60,000 people were killed. At least one million are homeless.
Many have taken refuge in Buddhist monasteries.
In response to several requests, Buddhist Relief Mission has
established a network among the Sangha to send relief assistance into
Burma. All funds will go directly and safely to monasteries and to
the destitute being sheltered in them.
If you would like to make a donation, you may do so at this site.
http://
Thank you very much.
With metta,
Ken and Visakha
●セーブ・ザ・チルドレン・緊急援助基金
ミャンマー・サイクロン災害緊急支援の活動へのご寄付。
口座番号 00980-7-57019
加入者名 セーブ・ザ・チルドレン・緊急援助基金
※通信欄に「ミャンマー・サイクロン」とご記入ください。
- 振込手数料は5月13日(火)より無料です。但し、この口座を通じてお振込みいただく場合には、必ずゆうちょ銀行(旧郵便局)窓口で手続きをし、払込手数料が無料の口座であることをお申し出ください。
- 領収書ご希望の方は振込用紙通信欄にその旨ご記入ください。
- 当団体へのご寄付は、特定公益増進法人に対する寄付金として、一定の要件の下に税金控除の対象となります。
●国際NGOワールドビジョン
http://www.worldvision.jp/material/news_0042.html?banner_id=ggl&gclid=CJagm8mUm5MCFRQsagodUEmpwA
●日本ユニセフ協会
http://www.unicef.or.jp/kinkyu/myanmar/2008.htm
●特定非営利法人グッドネーバーズジャパン
http://www.gnjp.org/reports/rpt-myanmar-cyclone-01.html?gclid=COH1x8SVm5MCFQY_agoduhaBww
2008 05 10 [ビルマ] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック
ビルマ国民投票 当局による不当な圧力・脅迫行為の例 (転載歓迎)
サイクロンによる、ビルマ史上空前の大災害の混乱の中、ミャンマーの新憲法案の賛否を問う国民投票が強行されている。
投票は午後4時(日本時間同6時半)に締め切られ、開票作業に入 る。サイクロンの被害が大きかったヤンゴン、エヤワディ両管区の一部地域では24日に投票が行われ、その後、結果が公表される見通し。軍事政権は圧倒的多 数の賛成による承認を目指しているが、被災直後の投票強行には強い批判が出ており、投票に影響を与えそうだ。
旧憲法は1988年の国軍によるクーデターで停止された。ミャンマーで投票が行われるのは90年の総選挙以来18年ぶり。僧侶ら宗教関係者を除く有権者の過半数の投票で国民投票は成立。総投票の過半数の賛成で新憲法案は承認され、2010年に総選挙が行われる。 【バンコク10日時事】
以下にビルマ情報ネットワークが英語資料等からまとめた、「ビルマ国民投票 当局による不当な圧力・脅迫行為の例 」を転載。
※オリジナルを確認していただければニュースソースはわかると思いますが、判断の上転載を歓迎・推奨します。その際には、末尾の配布条件に従ってください。
ビルマ国民投票 当局による不当な圧力・脅迫行為の例
http://
ビルマ情報ネットワークまとめ
2008年5月7日現在
*以下、日付はすべて2008年
ミャンマー軍政、公務員に賛成投票を強制、反対投票したければ辞表を出せ、と脅す
当局の監視下で投票用紙に記入させられる
ロイター(5月2日)[一般]
http://
s-to-vote-for-charter-aung-hla-tun/
タイ国境近くのミャワディで期日前投票、既に記入済みの投票用紙の配布も 公務員
には賛成投票を命じる
イラワディ(4月30日)[カレン州]
http://
ラングーンの美容院など100店の所有者、反対投票をしたら店舗閉鎖命令を出すと
当局に脅される
DVB (4月30日)[ラングーン]
http://
軍政がこの3日間で活動家70人を逮捕、とビルマ政治囚支援協会 シュエダゴン・パ
ゴダなどで
ミジマ(4月29日)[一般]
http://
ested-in-3-days-aapp
軍政、賛成票を動員するために脅迫や不当な圧力を利用 投票結果も最終集計結果の
みをネピドーから発表(各投票所での集計結果は公表されない)
ミジマ(4月28日)[一般]
http://
ious-means-to-win-support-for-constitution
マグエー管区で教師が期日前投票しようとしたら、既に本人に代わって賛成票が投じ
られていた
DVB(4月28日)[マグエー管区]
http://
軍政は賛成票を組織するため不正行為を働いている、と国民民主連盟(NLD)
AFP(4月25日)[一般]
http://
-trying-to-force-yes-vote/
ビルマ当局、国民民主連盟(NLD)の青年部メンバーに脅迫や警告
DVB(4月25日)[一般]
http://
軍政当局、ラングーンの工場労働者に「一人3票」の賛成票を入れるよう指示、すで
に「投票済」
DVB(4月25日)[ラングーン]
http://
チン州で軍政当局が「民主化してほしいなら『賛成投票』を」と住民に呼びかけ 講
習会を開き「賛成」を「正しい投票方法」だと教えた例も
ミジマ(4月25日)[チン州]
http://
シャン州東部で軍政が中国国籍の住民に身分証明書を発行 国民投票での投票を期待
か
シャン・ヘラルド・ニュース(4月25日)[シャン州]
http://
ens
国民投票に関して報道の自由がない、と国境なき記者団 軍政は憲法案に反対する運
動の報道を禁止
AFP(4月24日)[一般]
http://
stitution-vote-rsf/
軍政が公務員に「憲法案に賛成しなければ解雇」と脅している、と国民民主連盟
(NLD)その他の脅迫為も 賛成しなければ農民の土地を接収、学生は退学に
イラワディ(4月24日)[一般]
http://
当局がラングーンやマンダレーの国民民主連盟(NLD)党員の自宅を襲撃、投石も
国民投票で反対投票を呼びかけるキャンペーンを始めてから悪化
イラワディ(4月24日)[ラングーン、マンダレー]
http://
ビルマ 国民投票で反対票を投じる運動の報道が禁止される
国境なき記者団(4月24日)[一般]
http://
アラカン州でムスリム住民に「賛成」投票を促す 賛成すれば市民としての身分証明
書を発行すると約束
ナリンジャラ(4月23日)[アラカン州]
http://
-muslims-in-arakan-state/
インド・ニューデリーのビルマ大使館でも期日前投票が始まる 反対票を入れたら報
復があるのではないかという懸念を持つ人も
ミジマ (4月22日) [海外]
http://
シャン州民族南部で当局が国民投票についての講習 憲法案を支持しなければ民主化
はない、と賛成票を促す
シャン・ヘラルド・ニュース(4月21日)[シャン州]
http://
t-for-draft-charter
シャン州北部では 反対票を入れたら身元がばれるかについて住民が懸念
シャン・ヘラルド・ニュース(4月21日)[シャン州]
http://
e-to-track-us-down
ラングーンでの商人らが「NO」の文字の入ったTシャツを回収 憲法案に反対する動
きを警戒する当局からの報復を恐れ
ミジマ(4月21日)[ラングーン]
http://
カチン州では当局関係者が「賛成」などのロゴ入りのTシャツを着て賛成投票を呼び
かける
ミジマ(4月21日)[カチン州]
http://
軍政の宗教副大臣がチン州南部を訪問、賛成票投票を促す
Khonumthung News(4月21日)[チン州]
http://
igns-for-referendum-in-western-burma/
軍政、憲法案に反対する勢力への締め付けを強化 水かけ祭り以来、シットウェでは
約60人が逮捕される
ロイター(4月21日)[アラカン州]
http://
e-on-no-campaign-%e2%80%93-aung-hla-tun/
海外在住のビルマ人でさえ「反対票」投票を恐れる
アジア・ニュース(4月21日)[海外]
http://
-to-vote-%e2%80%98no%e2%80%99-in-referendum/
カチン州ミッチーナで 軍政当局が憲法案を支持する住民のリストを作成
カチン・ニュース・グループ(4月17日)[カチン州]
http://
Ajunta-compiles-list-of-illiterate-citizens-in-myitkyina&option=com_content&
Itemid=59
チン州で軍政、村長らを国民投票の運営についての訓練に強制的に参加させ、憲法案
を支持するという誓約書に署名させる
Khonumthung News (4月17日) [チン州]
http://
nal-training-for-government-employees
軍政、シットウェで軍政の憲法に抗議するデモ参加者約20人を逮捕 ヤンゴンでは国
民民主連盟(NLD党員でアウンサンスーチー氏側近の男性も逮捕される
ストレーツ・タイムズ経由AFP(4月15日)[アラカン州、ラングーン]
http://
軍政、スーチー氏の側近を逮捕
ガーディアン(英国)(4月15日)[アラカン州]
http://
軍政、カチン州で投票者名簿に未成年市民も加える
カチン・ニュース・グループ(4月14日)[カチン州]
http://
Ajunta-includes-underage-people-in-voters-list&option=com_content&Itemid=59
軍政、アラカン州で国民投票運営について講習を開く 地元当局や連邦連帯発展協会
(USDA)など向け
カラダン(4月12日)[アラカン州]
http://
Itemid=2
軍政、国営紙で憲法案を支持するよう国民に呼びかけ
ミジマ(4月11日)[一般]
http://
アラカン州の 国民民主連盟(NLD)党員が逮捕される 国民投票についてのNLDの声
明を手にしていたため
ナリンジャラ(4月11日)[アラカン州]
http://
or-statement/
シャン州の多くの郡で、当局が住民に憲法案支持を命じる 反対する者がいたら逮捕
するなどと脅す
シャン・ヘラルド・ニュース(4月11日)[シャン州]
http://
raft-constitution
アラカン州で当局、「反対票」を入れないよう住民に警告 反対票を入れれば多大な
苦難が待っていると脅すカラダン(4月11日) アラカン州
http://
ies-warn-villagers-not-to-cast-%e2%80%9cno%e2%80%9d-vote/
国民民主連盟(NLD)、国民投票への国際監視団を求める 憲法案への反対を呼びか
ける活動家への襲撃が続いていることを指摘
ロイター(4月10日)[一般]
http://
aign-begins-opposition-%e2%80%93-aung-hla-tun/
シャン州で 当局関係者が国民投票についての説明会で「賛成」投票のやり方だけ教
える
シャン・ヘラルド・ニュース (4月10日)[シャン州]
http://
ss-his-wish-secretly
インセイン刑務所に収容されている僧侶に、一般市民としての身分証明書を発行 国
民投票で投票させるため 全ビルマ僧侶連盟のガンビラ師談
DVB(4月9日)[ラングーン]
http://
軍政、国民投票スタッフにハンドブックを配る 票数は投票所で数えるが、合計数は
公表しないと規定
DVB(4月9日)[一般]
http://
ラングーン・フラインタヤー区で国民民主連盟(NLD)関係者(50)がオートバイに
乗った2人組に襲われ、20針も縫うけが 民主化活動家が襲われるのは3人目
DVB(4月7日)[ラングーン管区]
http://
アラカン州マウンドー郡当局、18歳以上のロヒンギャ民族女性に憲法案を支持する
よう圧力 賛成票を入れれば移動や結婚の制限をなくす、と
カラダン(4月7日)[アラカン州]
http://
to-support-draft-constitution/
民主化活動家が軍政寄りの暴漢に襲われる事件が続く
イラワディ(4月4日)[一般]
http://
検閲局、国民投票関連の報道を制限 報道する場合には厳しい規則
DVB(4月4日)[一般]
http://
strict-media-reporting-on-referendum/
ビルマ当局、憲法案に反対する勢力への弾圧を強める 活動家の逮捕を米国務省が非
難
イラワディ(4月3日)[一般]
http://
軍政寄りの暴漢が国民民主連盟(NLD)党員ら民主化活動家を襲う事件が相次ぐ
イラワディ(4月2日)[一般]
http://
インセイン刑務所で当局が「国民投票で『賛成票』を入れれば刑を軽減する」と誘う
DVB(4月2日)[ラングーン]
http://
国民民主連盟(NLD)のラングーン・フラインタヤー区議長が何者かに襲われ重傷
ミジマ(4月1日)[ラングーン]
http://
軍政、「試験の成績が悪かった者は、賛成投票を入れれば合格にする」などの手法
脅しも
DVB(3月31日)[アラカン州]
http://
アラカン州で軍当局が国民投票に備えて翼賛団体などに軍事訓練を施す
ナリンジャラ(3月28日)[アラカン州]
http://
eferendum/
シャン州で国民投票の予行演習 賛成票以外を入れたら禁固刑か罰金、と脅される
シャン・ヘラルド・ニュース(3月24日)[シャン州]
http://
国民投票で「反対票を入れよう」という動きが勢いを増す 各地で呼びかけ
イラワディ(3月20日)[一般]
http://
シャン州東部で 軍政当局、憲法を支持するよう各家を回って住民を説得、脅迫
「反対したら憲法上の権利すべてを失う」などと
シャン・ヘラルド・ニュース(3月19日)[シャン州]
http://
ans-to-support-charter
軍政、国民投票で「賛成票を入れろ」と政府職員らに指示 憲法草案は非公開のまま
イラワディ(3月17日)[一般]
http://
マンダレーで国民投票の投票所役員になる人々を一方的に指名 指名した人に「賛成
票をなるべく多く取るように」と指導
http://
軍政、住民に国民投票で賛成投票するよう働きかけろとラングーン管区当局に命令
イラワディ(3月12日)[ラングーン管区]
http://
イラワディ管区ニャウンドン郡で当局が国民投票に反対している住民を特定、リスト
を作成
DVB(3月3日)[イラワディ管区]
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国民投票について発言した3人が逮捕される ラングーンの市場で
イラワディ(3月3日)[ラングーン]
http://
国民投票で「反対票」が有効とされるかについて疑問の声
ミジマ(3月3日)[一般]
http://
軍政の国民投票関連法 国民投票に反対したら禁固刑、僧侶や尼僧は投票禁止
DVB(2月28日)[一般]
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配布元: BurmaInfo(ビルマ情報ネットワーク)
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連絡先: listmaster@burmainfo.org
バックナンバー: http://
※BurmaInfoでは、ビルマ(ミャンマー)に関する最新ニュースやイベント情報、
参考資料を週に数本配信しています。
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▽転載について
・再配布と転載は、原則として出典明記の上で自由に行ってください。
・ただし不特定多数に配付する印刷物や、新聞、雑誌、機関紙(誌)などの
刊行物に掲載の際には事前にご一報ください。
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2008 05 10 [ビルマ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
May 06, 2008
ビルマのサイクロン被害は死者15,000人以上の大惨事に
ビルマを襲ったサイクロンは、当初の死者350人程度という予想を大きく外れ、今日まで、10万人以上が家を追われ、少なくとも1万5千人が亡くなったという、想像を超える大災害となっている。
被害状況などを知らせる情報をまとめてみた。なお、10日に予定されていた憲法の国民投票は被害地域に関してのみは24日に延期されたということであるが、指定地域以外では予定通り投票を強行すると軍政は発表している。
サイクロン被害の状況(2008年5月6日)
http://www.burmainfo.org/relief/CyclonNargis_20080505.html
5月3日に大型サイクロンがビルマに上陸し、最大都市ラングーンやイラワジ・デルタ地域全域、バゴー(ペグー)管区、カレン州、モン州で大きな被害が出た。ラングーンでは家屋の半数近くが破壊され、屋根が吹き飛ばされた家屋も多い。特に被害が大きかったのはラングーンのフラインタヤー、シュエピタ、ダゴンミョーティッ北、ダゴンミョーティッ南の各地区。イラワディ(エーヤワディー)管区ではチャイラッ郡とラップッダ郡が壊滅的な被害を受けた。ハインジー島では10万人近くの住民が住居を失った。
ピャーポン郡ピンシー村では住民3000人のうち少なくとも2000人が行方不明とのこと。軍政は4000人が死亡したと発表したが、実際の死者数はもっと多いと見られる。(ビルマ情報ネットワークによる注(以下の注釈も同様):なお軍政のニャンウィン外相は6日、国営テレビを通して、全体の死者数は最低1万5千人であり、エーヤワディー管区ボーガレーだけで死者1万人と発表した。)
(配布元: 配布元: BurmaInfo(ビルマ情報ネットワーク)
http://www.burmainfo.org
軍政の非民主的支配により、現在では世界の最貧民国にも数えられるビルマの住民たちには、さらなる打撃となっているようだ。深刻な米不足も懸念される。
ラングーンでは多数が住居を失い、飲料水や電力の供給も途切れている。電気や電話が再び通じるようになるまでに数週間かかると見られる。
イラワジ・デルタ地域はビルマで主要な米の生産地で、サイクロンに襲われたのは米の収穫期直前だった。このため深刻な米不足が起きると予測される。日用品の値段も既に2~3倍に上がった。(注:現地からの情報では、首都ヤンゴンのガソリン価格は1ガロン(約3.8リットル)あたり2万チャット(2千円)を突破している。リットル計算では5000チャット(500円)を超えている。これはサイクロン前の約10倍にあたる。)
(同上)
また、インセイン刑務所ではパニックになった囚人に軍が発砲し、36人が死亡したという。
刑務所の一部で被害が特にひどかったため、約1000人の囚人が刑務所内の第一ホールに集められた。外から鍵をかけられ、どこにも行くことはできなかった。
囚人らは雨でぬれて寒かったため、火を起こして暖を取ろうとした者がいた。不幸なことに、この火から大量の煙が出て、火は消えたが囚人らがパニックに陥った。状況は悪化し、無秩序状態になった。これに対応するため、ビルマ軍兵士や暴動鎮圧隊が出動し、ホール付近で囚人に向けて発砲した。36人が死亡し70人がけがをした。(同上)
日本政府の動きとしては下記。緊急援助の額は2800万円となっている。
政府は6日までに、死者が1万5000人にも達するなどサイクロンで大きな被害を受けている ミャンマーに対し、テント330張、発電機50機(計約2800万円相当)の緊急援助を行うことを決めた。
シンガポールの備蓄倉庫から拠出し、7日に現地に物資が届く予定。 緊急援助はミャンマー政府が要請した。日本政府は、人権抑圧を理由にミャンマーへの 政府開発援助を絞っているが、今回は緊急性と人道的観点から支援が必要と判断した。 (http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008050600204 )
※また、日本ユニセフ協会は ミャンマーで発生したサイクロンによる被害を受けた子どもたちを支援するため、50万ドル(約5200万円)を緊急支出することに決定したという。募金の窓口は下記。
http://www.unicef.or.jp/children/children_now/myanmar/sek_my06.html
【その他ビルマの被害状況を伝えるリンク】
サイクロンの被害に関する写真・データ:
・ミャンマーのサイクロン被害(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/world/graph/myanmarcyclone/index.html
・サイクロン被害の惨状(BBC、英語)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_pictures/7383733.stm
・サイクロン・ナルギスの被害状況 (ニューヨーク・タイムズ、英語)
http://www.nytimes.com/slideshow/2008/05/05/world/0505-MYANMAR_index.html
・ニューヨーク・タイムズ:サイクロン被災地と初期被害に関する図(英語)
http://www.nytimes.com/interactive/2008/05/05/world/asia/20080505_MYANMAR_GR
APHIC.html
・ReliefWeb:被災状況に関する地図資料ほか(英語)
http://www.reliefweb.int/rw/dbc.nsf/doc108?OpenForm&emid=TC-2008-000047-MMR&
rc=3
2008 05 06 [ビルマ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
May 04, 2008
ビルマ、パゴダの影で-----ビルマ憲法国民投票を間近にして
ゴールデンウィークに暗い話に触れたくはない。触れたくない気持ちはわかるのだけれど、それにしてもあまりに小規模な催しだった。5月2日に「ビルマ、パゴダの影で」を上映した渋谷のApple Linkは、確かに小さな小屋だったけれど、その小さな小さなスペースですら、空席が目立ったのである。
スイスのジャーナリスト、アイリーヌ・マーティがこの映画を撮影したのは2004年である。当時、この映画で取り上げたビルマ、タイの国境付近に追いつめられた少数民族の苦境に対して、世界は全くの冷淡だった。アイリーヌは、ビルマの観光映画を撮りたいと偽ってこの国に入り、幾重もの軍事政権に対する警戒心をくぐりぬけて、特にカレン、シャン、ロヒギンジャーを中心にした少数民族の受けている、ビルマ国軍による徹底した弾圧の実態を世界に伝える役割を果たした。
ビルマの反軍政勢力と言えば、アウンサンスーチーを精神的主柱とする国民民主連盟(National League for Democracy; NLD)をまず思い起こすが、この映画には、アウンサンスーチーも、NLDも全くと言っていいほど紹介されない。この映画での主役である、少数民族からすれば、NLDもまた、ビルマ族の反政府権力の一つにしかすぎないのである。彼らの直面している苦難は、その次元を異にする。軍政の目指すところは、ナチスの目指したユダヤ民族に対するところのふるまい、徹底した民族浄化にあるのであり、村々は何の合理的な理由もなく焼き払われ、ジャングルの奥に追われる。たどり着いた場所もまたいつかは焼き払われる。国境を越えてタイ側に逃げ込む少数民族の難民の数は100万とも言われているが、国際社会は今なお、彼らを救う「功利的な」理由を見い出せずにいる。
連休で賑わう渋谷の街角にあって、この彼方の少数民族の少女たちの涙、少年たちの涙、親を理由なく参殺されたビルマ国軍に対する徹底した復讐心の絶望感は、ひたすら空気中で孤立していた。
手法として、疑問の点は多々ある。その陥りやすい報道の死角については、上智大学の根本敬教授により、解説のパンフレットに明らかである。それにも関らず、この映画の淡々とした、あまりに演出が施されていない素の映像に見るところは大きい。ビルマの抱える問題のただ事ならない複雑さ、入り組んだ問題の深さが伝わってくる。
映画の後にトークショーとして、強制送還の危機を幾度と乗り越えた、在日のビルマ人、テーテーイスェさんの話があった。テーテーイスェさんは流暢な日本語を操り、ビルマの少数民族の苦境をあらためて訴え、日本人に対しての支援を呼びかけた。
【テーテーイスェさん プロフィール】
1979年ヤンゴン生まれ。幼少期をビルマで過ごした後、1991年に祖国を出国し、タイ
を経由して家族で日本に移り住む。オーバーステイによる強制送還の危機を乗り越
え、二十歳の時にようやく難民申請が受諾され、その過程は幾度もマスコミに取り上
げられた。現在「ビルマに自由と融和と民主主義を」をモットーにウェブ上のコミュ
ニティー"Change Burma Community"を運営。
世界が国家単位である民族の苦境に手を伸ばすのは、残念ながら国家がその問題に関わることで何らかの外交的、経済的、政治的な利益が得られる場合に限られるのが実情である。それを超えて人道的に動くのは、言うのは簡単だが、とてつもなく難しい。世界の各所で人々は見捨てられ、世界の各所で今日も路傍で息絶えている。なぜなのか。
それを考えるとき、我々人間存在の根本にある無力感を思い知らされるし、賽の河原のように前途にあるとてつもない障害の深さに心は萎縮する。
テーテーイスェさんが幾度も、幾度も「出来るところからでいいですから、無理のない範囲からでいいですから」と呼びかけていたのが、つらく心に刺さる。
5月10日に承認を問う国民投票が行われるビルマ新憲法は、議会の1/4を軍関係者が占めることに合法的保証を与えるものであるが、これらの少数民族たちは、それらの点について何の説明も受けていない。のみならず、憲法草案は英語とビルマ語にしか翻訳されていないし、文案を印刷した冊子もほとんど用意されていないのである。
ビルマに対するODAもどうか止めてほしい、私たちにはまったく利益がないどころか、軍政支配を延命させるエネルギーにしかならない。テーテーイスェさんは振り絞るようにして訴えていた。
2008 05 04 [ビルマ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
January 21, 2008
アウン・サン・スーチーという意志-----第2章 「写真物語Ⅱ」
(参考リンク)
アウン・サン・スーチーという意志-----第1章 「写真物語Ⅱ」
宮下さんは、ご本人も言われているとおり、ずっと美術畑を歩んでこられた。オックスフォードに行かれることになったのも美術がきっかけだし、英国でのアウン・サン・スーチーさんの親代わりになったゴーブース卿と知り合ったのも美術を学ぶ願望が因である。
私に会う前に、宮下さんは自分がビルマの政治的な状況を語る立場ではない、と気にしておられたが、スーチーさんの英国時代の話を少しでもお聞きしたいのでと、無理を聞いていただいた。おそらく宮下さん自身、スーチーさんをめぐる現在の不思議な運命の展開に戸惑っておられる面があるのだろう。
人が人に出会うときには、不思議な力が働く。宮下さんのお話を聞いて思ったのは、まずそのことである。英国で紹介された、ビルマ出身で少々変わってはいるが、そして美しくはあるが普通の夫婦。小さな子供を抱え、子育てに邁進する、どこでにいるような普通の主婦。それが宮下さんの、アウン・サン・スーチー氏の第一印象だったという。宮下さん自身、その後、スーチー氏がここまで世界的な注目を浴びるような立場になるとは夢にも思っていなかった。その後の展開が、どれほど彼女にとって驚きであったかは、想像に難くない。
例として適切であるかどうかはわからないが、ご近所の普通の若き母親が、突然厳しい表情をたたえて、世界史の表舞台に突然現れた。自分の知っているあの、若くてこまめな母親の優しい表情をかなぐり捨てて。一体何がどうなってしまったのか?推測するに、それが、宮下さんの正直な戸惑いであったと思う。
我々は、ともすればスーチー氏を別次元にいる、自分とは関係のない別の世界の人だと思っている。そうとでも思わなければ、これほど過酷な運命の中で、ただ1人十年以上にも及ぶ軟禁状態で戦っている彼女の実像を理解することは難しい。特にこの国にあっては。地理的な問題はおいても、ビルマが精神的に遠い国であるからでもあるし、身近に感じるには、あまりにアウン・サン・スーチー氏の厳しい表情は、平穏な日常を送る日本の我々にとって遠いからでもある。
英雄の娘に生まれたという、拭い去れない運命の必然はあっても、普通に暮らし、普通に恋愛し、普通に子供を育て、普通に母親の看病に帰国していた彼女の運命を一変させたものは何だったのだろうか。そのことについて考えてみたいと思ったのが、宮下さんにお会いしたいと思った私の動機である。
しかし世界は、かように簡単に個人の感傷が通じる世界ではない。我々は幾度も中途半端な理想を掲げては虚しく現実に跳ね返され、打ちのめされ、時には完膚なきまでに叩きのめされる。無力な私達である。過酷な世界の現実の前に、私たちのできることは殆どないと言ってもいい。
実際、年が明けてからビルマ関連のニュースが入ってくることはほとんどなくなった。軍政とスーチー氏の間では、対話がなされているはずだが、我々には、その仔細もほとんど知ることはかなわない。思えばあの軍政は過去何十年もそれを繰り返しながら、支配体制を温存してきたのだ。悪い意味で賢いのである。スーチー氏の健康状態も非常に気遣われるところである。
絶望だらけの世の中で、こんな端っこのブログで何かを伝えることなど出来るのだろうか。意味があるのだろうか。事実、こうした現状を、そして試みまでもただ嘲笑うしかしない者もいる。救いようのない現実はこの国にもあることも、おそらく我々は知っている。だが、良いではないかとも思うのだ。そんなことは気にする必要もない。あなたが今日もあなたの一歩を何らかの形で刻むように、私も宮下さんも、それぞれの一歩をそれぞれの形でまた今日も刻めばよい。おそらく世界はそうした試みの無限の積み重ねでしか変わるはずもない。他の道はないのだ。
宮下さんには、彼女以外にもアウン・サン・スーチー氏の人となりを知る方のお名前を何人か伺わせていただいた。私の気持ちとしては、ペースがあがらずとも、これからもそういう方たちに一人でも多くお目にかかり、あるいは消えていくかもしれない、貴重な記憶の数々を言葉にしていければいいと思っているが、どうだろうか。そこで私の決心やら覚悟やらも問われるのだろう。まあそれは私の問題として、今回はこの記事を何とかお届けするところまでである。今はそこまでだ。
この週末、実家から引き揚げてきた書籍を整理していたら、その中に「韓国からの手紙」という岩波新書が出てきた。1972年10月に韓国に戒厳令が布かれて以来の緊迫する韓国の政情,民主化を求める知識人の動き,そして民衆の声を生々しく伝え、「世界」に連載されて大きな反響を呼んだ著作である。金大中氏拉致事件を含む激動が生々しく報告されている。(著者はいろいろ取り沙汰されているが、日本在住の韓国人の書いたものであることがわかった。)
久しぶりに古ぼけた茶色く変色した「韓国からの手紙」をぱらぱらとめくり、現在のビルマの状況が、その当時の韓国の状況に類似している点が多いことに、今さらながら格別の思いを持った。
ここに書かれている韓国は35年前の世界の一遍である。
あせらず、それでいて歩を弛めることの決してないように。
【参考】
※宇田 有三氏略歴
1963年 神戸生まれ。
1990年 27歳で教職を辞し、フォトジャーナリストの勉強のため渡米。
1992年 中米の紛争地エルサルバドルの取材を皮切りにフォトジャーナリスト
としての仕事を開始。
現在は、東南アジアのビルマ、中米、オーストラリアを中心に軍事政権下の人々、先住民族を中心にドキュメンタリー写真を撮影し続ける。1995年 神戸大学大学院国際協力研究科修了(国際法修士)
1998年 「平和・共同ジャーナリスト基金」奨励賞受賞。
※宮下さんは、「写真物語Ⅱ」への出演をきっかけに、アウン・サン・スーチー氏の貴重な記録写真を盛り込んだDVDを制作された。売上金は、ビルマ難民など、現在のビルマの現状に苦しむ人たちへの支援に充てられると言うことであるので、ここで紹介させていただく。関心のある向きは、宮下さんの「ビルマ応援の会」からご購入ください。
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(紹介文から)
「本年10月6日、「写真物語Ⅱ」(フジテレビ)に、アウン・サン・スー・チーと、夫・マイケルの友人として出演して以来ビルマ(ミャンマー)で迫害されている人々を以前よりなお一層案じるようになりました。隣国タイの国境には現在14万人のビルマからの避難民が過酷な状況下にいます。また、私たちの住む日本にも多くの政治難民が滞在しています。
スー・チーとマイケルの友人として私が出来ることをと考えたとき、私が撮った写真を
もとにDVDを作製し、その売上金を困っているビルマ人に寄付しようということでした。この構想を彼女たちの親友であった田崎明氏に話しましたところ、亡きマイケルから預かっていたという貴重な写真の使用を許してくださいました。また、この数年ビルマに滞在し、写真を撮り続けているカメラマン・宇田有三氏がこころよく彼の作品使用許可をしてくださいました。
美しく聡明なスー・チーを中心にビルマ建国の父・アウン・サン将軍、元インド大使の母キン・チー、スー・チーの夫と二人の息子を紹介するDVDです。」
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アウン・サン・スーチーという意志-----第1章 「写真物語Ⅱ」
(参考リンク)
アウン・サン・スーチーという意志-----序章 「写真物語Ⅱ」
品川・高輪台にある宮下さんの事務所をお訪ねしたのは昨年の11月3日だったのだが、私の多忙から、その後インタビュー記事をまとめるのに、長い時間がかかってしまった。しかしながら、ビルマからの情報はほとんど入ってこなくなった現在だからこそ、これを公開する何らかの意味があると信じたい。それを言い訳にしながら、この記事を公開したい。
当日は、宮下さんが自ら車を運転して、品川の駅まで迎えに来てくださった。第一印象としては、非常にてきぱきと動く方であるという印象を受けた。海外で長い間生活をされた方であるということも影響しているのかもしれない。そして、宮下さんが語ってくださったアウン・サン・スーチーさんの印象と、どこか宮下さんのイメージも重なるところがあったような気がする。
宮下さんの事務所の周りは閑静な住宅地だけれど、周囲には大変にお寺が多い。高輪には行く機会もかなりあったけれど、いまさらながらこんなにもお寺が多い所なのかと驚いた。宮下さんのお祖父様は画家でおられたのだが、そういう関係でか、宮下さん自身も早いうちから美術に親しんでおられたらしい。アウン・サン・スーチーさんとの出会いも、この美術がきっかけだった。
美術史家。元明海大学講師、日本根付研究会理事、米国プリンスィピア大学奨学金生、卒業。BA取得。英国ロンドン大学大学院で東洋美術史を3年間学ぶ。この他、ロンドン大学コートードル・インスティテュートにて西洋美術史、オックスフォード大学・北京大学で中国語、ミュンヘン大学でドイツ語、ハーバード大学でアメリカ文学、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で西洋絵画、彫刻史を学ぶ。2007年、フジテレビ番組「写真物語Ⅱ」にアウンサン・スーチー女史の友人として出演する。
BB 「宮下さんは、フジテレビの「写真物語Ⅱ」に出演されましたが、スーチーさんとの関わりは、スーチーさんの親代わりになっておられた、ゴーブース卿(Lord Paul Gore Booth)を通してということですね?」
はい。ゴーブース卿とゴーブース夫人は、卿が戦前に日本大使館につとめ、ゴーブース夫人が日本で生まれたこともあり、日本とは関係が深く、大変気さくな方たちでしたので、よくお食事に招かれました。ゴーブース卿とスーチーさんの関係ですが、ゴーブース夫人がビルマ大使をされていた時、8歳のスーチーさんとお会いしたそうです。ゴーブース夫人は地位のある方ですが、困った人や体の不自由な方には特に手を差し伸べていました。親切な人ですから、スーチーさんの身元引受人にもなったんだと思います。スーチーさんのお母様のキンチーさんは凄い方で、国会議員でインド大使も務めておられますし、お父様のアウンサン将軍は、ご存じのようにビルマの英雄ですから、人々にそれはもう尊敬されていて、会うこともなかなか自由にならないくらい、大変な方だったそうです。
BB「宮下さんが最初にスーチーさんにお会いになったのはいつ頃なんでしょうか」
スーチーさんとお会いしたのは1984年だと思います。ゴーブース夫人に「オックスフォードに行くのなら、ぜひスーチーさん夫妻に会いなさい」と言われました。最初にオックスフォードのご自宅でお会いした時は、スーチーさんは普通の母親で、日本料理に大変興味を持っていらっしゃったので、ご夫妻とはお稲荷さんを作ったり、のり巻きを作ったりしました。
BB「マイケルさんとスーチーさんが知り合ったのも英国ですね」
ゴーブース夫妻の息子、クリストファーと同じ大学の友人が、スーチーさんの夫、マイケル•アリスでした。ロンドンのチェルシーにあるゴーブース邸にマイケルが招かれるようになり、そこで21歳のスーチーさんと20歳のマイケルは初めて出会いました。彼女は大変にきれいな方ですから、マイケルはすぐに彼女に惚れてしまったそうです。もし、私が男性でしたら、きっと同じようになったでしょうね。スーチーさんはオードリーヘップバーンのような、それはもう妖精のようにきれいな方でしたから。
スーチーさんにとってもマイケルは魅力的に映ったようで、二人はその後、文通を続けました。
マイケルは大学卒業後、ブータンへ行き、ロイヤル・ファミリーの家庭教師となり、滞在中に博士論文の準備をしました。一方、スーチーさんは国連本部に勤務し、1970年、クリスマス休暇にマイケルが彼女の元に訪れ、二人は正式に婚約します。式は1972年1月にゴーブース邸で執り行われ、8ヶ月後にスーチーさんはマイケルのいるブータンへと移り住みました。
BB「当時、宮下さんは彼女がアウンサン将軍の娘であることなどはご存知だったんですか?」
いえ、全然知りませんでした。
スーチーさんはマイケルの妻で、二人の息子の母親。お料理が上手で、動きが早く、家事をてきぱきこなす女性でした。マイケルは優しいので、そんなスーチーさんの言いなりでしたね。マイケルは本当に優しい夫でした。だから、アリス家ではスーチーさんが家庭をリードしているような感じでした。
ですから、彼女がビルマに帰国して、軟禁状態にあっても、マイケルに持って来て欲しいものを色々と指示していました。彼女が最初に軟禁状態になった時、困ってしまったのは食べ物だったらしいんです。彼女は日本の食べ物が好きなので、私も力になれないかとうどんや、長持ちする鰻など、彼女の好きな食べ物を色々詰めて、マイケルに持って行ってもらったこともありました。
彼女が京都大学に来ていた時も、夫妻で私の住む東京まで会いに来て下さり、一緒に写真を撮りました。それが三人で撮った唯一の写真です。
ゴーブース卿が亡くなった時も、それはもう凄く豪華な式だったんですが、スーチーさんもいらっしゃって、よもやま話をしたりしました。それからしばらくして、スーチーさんはどんどんテレビに出てくるようになっていて、私は確実に彼女はビルマのリーダーになるのだと思っていましたが…
BB「1988年以降、スーチーさんが自宅軟禁されて以降、マイケルさんとはどんなお話をされていたのですか?」
マイケルとは始終、毎月のようにお会いしていて、「スーチーさんはどうしているだろう」など、色々な話をしていました。
面白いエピソードがありまして、ある時、マイケルとアフターヌーンティを飲んでいましたら、ファックスが届いたんです。送り主を聞いたら、当時、大統領夫人だったヒラリー・クリントンさんでした。「このメッセージをスーチーさんに伝えて欲しい」といった書き出しで、「私達、アメリカ国民は、決してあなたのことを忘れていません」といった内容でした。目の前でそういったメッセージが届いたことに私は驚きました。また、元国連弁務官の緒方さんと、マイケルはメッセージの交換をしていました。そういったことからもやはり、スーチーさんがノーベル平和賞をいただいたことに、マイケルはとても貢献していると思います。
マイケルは貴族の家系や特殊な家ではなく、普通の家に生まれたのですが、不思議なことにマイケルの祖父母は明治時代に日本に来ていたことがあったそうです。ですから、私の伺ったオックスフォードの家には日本の印籠と根付が綺麗に飾られていました。「これは祖先のものなので、絶対に売れないよ」と、マイケルはとても大切にしていましたね、そういったルーツからも、彼はアジアに興味を持ち、スーチーさんにひかれたのかもしれませんね。
テレビで彼女を見かけるようになって、驚きましたけれど、英雄の娘とはいえ、こちらにしてみれば、友人の奥さんが急に演説を始めるという印象でした。スーチーさんの育ちを聞いてはいましたが、頭の中でうまく結びついていなかったんですね。
BB「マイケルさんは本当にスーチーさんを支えていたんですね」
ええ。それで、スーチーさんをなんとか援助しようとマイケルとは色々な話や相談をしました。「今、スーチーさんはどんな風に暮らしているんだろうか」とか、「今度は何を送ろうか」とか。彼は辞書や本を彼女に渡していたみたいです。他にも、化粧品や下着類は「ここの会社のこういうもの」と、指定が細かいんですって。女性ならではのエピソードですよね、お洒落な人ですから。
最初はマイケルも自由にビルマに出入りできたんです。入国を拒否されても結局は許可されたり。スーチーさんと一緒に軟禁されたこともあったんですよ。(1989年の一時期、スーチーさんは夫のマイケル、2人の子供も一緒に4人で軟禁されていたことがあった。この時マイケルはスーチーを訪ねようと降り立った空港からそのまま連行されて拘束され、一時行方がわからなくなり欧米のメディアでも騒ぎになっている)
けれども、そういった入国の許可が軍事政権の大きなミスだったんですね。スーチーさんにマイケルがオックスフォードに戻ってくるようにと説得すると思い、入国を許可したのですが、彼は彼女を尊敬し、彼女の活動を応援していましたから、逆にビルマで頑張るようにと励ましたらしいですね。
二人の息子、長男アレクサンダーと次男キムは大事な時期に母親がいないということで、みんなで心配をしていました。けれども、アレクサンダーは現在、アメリカ国籍のビルマ人でお医者さんをしているお嫁さんをもらい、オレゴンに家を買い、キムはオックスフォードで絵の額縁を作る工房で働いています。二人ともすっかり落ち着きました。アレクサンダーが34歳、キムが30歳ですからね。兄弟二人とも、今は政治的な活動を行っていません。
BB「マイケルさんが亡くなる頃の話を聞かせてください」
※マイケルが癌になってからは、軍政はスーチーさんに対して、国外に出るなら対面は自由だが、呼び寄せるなどの許可は一切出さなかった。彼女は、一度国外に出れば二度とビルマに入国できなくなることを警戒して出国はしなかったため、夫婦は会うことはなかった。当然彼のイギリスでの葬儀にもスーチーさんは出席できなかった。
マイケルが癌になったという知らせは日本で聞きました。カナダにいるアレクサンダーに会いに行って、その帰りに飛行場で突然、身体に異変が起きたと聞きました。体調を崩し、這うようにして帰って来たそうです。99年に亡くなってしまったんですが、3ヶ月くらいの闘病だったと思います。あんなに元気だった彼が…と信じられませんでした。
マイケルが病気になってからは一度も会えませんでした。ゴーブース夫人から容態を教えていただき、そばに行ってあげたいと思ったのですが、オックスフォードには彼をサポートしてくれる人は沢山いましたから…そうこうしているうちに彼は亡くなってしまって。
BB「ビルマの現状をご覧になってどう思いますか」
私の本業は美術ですし、できるだけ政治に関わらないようにと思いましたが、スーチーさんの力になれればと思いまして、新たに行動を起こすことにしました。カメラマンの宇田有三さんが撮影したビルマやスーチーさんの大変素晴らしい写真や、私の持っている彼女のプライベートな写真等を使い、スーチーさんのDVDを制作、販売し、売上でビルマの人々に支援できないかと思っています。
今、私がスーチーさんの友人として一番心配しているのは、スーチーさんの健康状態です。ガンバリ特使との写真が掲載された時、彼女の本当に不健康そうな顔を見て、驚いてしまいました。
それだけではなく、話し相手もメイドさん一人で、そのメイドさんが全ての買い物に行き、食事の面でも彼女が作ったものを召し上がっているらしいんですが、それでは精神的にも、身の回りのことも不十分だと思い、心配です。家も、荒廃して雨漏りも激しいのに、それを直す人もいない状況です。
ビルマはデモもすぐに鎮圧されてしまいますし、反政府活動はなかなか長続きしないですね。今後、ビルマの中からスーチーさんに代わるようなリーダー的存在が現れないと、この先、どうにもならないと思います。スーチーさんにビルマという130以上もの少数民族が集まる国を治めることができるのかという否定的な意見もありますが、軍事政権の弾圧により、国外へ逃亡している優秀なビルマ人達を呼び戻し、彼らをブレーンとすれば、スーチーさんはしっかりと国を治められると、私は信じています。スーチーさんには本当にがんばってもらいたいと思っています。
(続く)
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November 26, 2007
アウン・サン・スーチーという意志-----序章 「写真物語Ⅱ」
アウン・サン・スーチー氏とビルマ軍政とは、幾度となく会談を行っているようだが、依然として軍政の言う「民主化へのロードマップ」は明確ではなく、彼女の解放も実現されていない。国内のビルマ関連報道も最近は、少々低調になってきたような気がする。
過去、この軍政は幾度となく同種の虚偽的な時間稼ぎをして、事態を先延ばしにしてきた経緯がある。1988年の民主化デモの直後、そして1990年の総選挙、NLDの勝利の直後にも直下の独裁体制は民主化へ移行するための、緊急避難的措置であると言明し、そのたびに国際世論を惑わし、反対勢力を無力化してきた。アウン・サン・スーチー氏に関する度重なる監禁と開放、彼女の自宅前のロックアウトの解除と再配備。同じような手口はビルマのこれまでの歴史の中で繰り返し使われてきた手法である。
今回の一見軟化した姿勢の裏で、またこうした意図的な時間稼ぎがなされないことを切に望むし、それを国際社会は騙されることなく見続けていくべきだろう。
ところで。
「写真物語Ⅱ 宿命を背負ったアジア人女性 激動の人生 アウン・サン・スーチー」という番組がフジテレビ系で放映されたのは、今年の10月の連休のことだった。アウン・サン・スーチーの波乱の人生を1枚の写真に象徴させて描くこの番組を、僕は偶然見ていたが、そこで取り上げられていたのが、冒頭の写真である。
アウン・サン・スーチー氏が偶然母親の看病に戻ったビルマで政治動乱に直面し、ついに彼女がイギリスに帰ることないまま、残されたご主人は亡くなってしまったという話までは聞いていたが、番組でコーナーの最後にアップされた写真は始めて見るもので、日頃ニュース番組で見ている彼女の厳しい表情とは全く違った、夫マイケルに寄り添う「普通の温和な女性」としての表情が、印象的だった。
だが、それはそれで、その番組を見たこともしばらく脳裏から離れていた。
10月の終わりに、大学同窓のMLでビルマ関連のコミュニティをSNSに立ち上げたことを告知すると、マスメディア関連含めて多くの友人が関心を示してくれたのだが、その中のある友人からメールが届いた。それは、アウン・サン・スーチー氏をよく知る人物を知っているので、会って見る気はないかというものだった。どんな方かと聞くと、彼自身ももう何年も会っていないし、そうした話を昔ちょっと聞いただけなのでよくわからないと言う。詳しい経歴もよくわからない。ただ、最近その方がテレビでアウン・サン・スーチー氏関連の番組に出演したという。お名前は、宮下夏生(みやしたなつお)さんとおっしゃるそうだ。
何分にもそれだけの話しかわからない。茫漠とした話ではある。友人に、すまないけれどもう少し確認してもらいたいと一旦返信した後で、頭にフラッシュバックが走った。
「写真物語Ⅱ」で、あの写真をお持ちになり、番組中でアウン・サン・スーチーのロンドン時代の話をされていた女性。それこそが、あの宮下夏生さんではないか!
僕はすぐに友人に連絡を取り、宮下さんにお会いして詳しいお話を聞ける機会を頂けるよう頼んでもらうことにした。
自分の心に深く残っていたのは、いつも戦場にあるように厳しい表情で演説を行う、繰り返し流されているアウン・サン・スーチー氏と、宮下さんがお持ちになった柔和な若い彼女の写真とのギャップの深さである。アウンサン将軍というビルマ建国の父を持つ彼女は、それだけで生まれながらの「選ばれた人」であったが、番組中で宮下さんは、英国でのスーチー氏はそれとは全くかけ離れた人であったとも話されていた。だが宮下さんの話は僅かな時間しかオンエアされなかった。
どういう状況で、どのような過程を経て彼女の表情があのようなものになっていったのか、そしてあの立場に立つに至ったのか、詳しく宮下さんにお聞ききしたいと思った。これも縁かもしれないとも思えた。
宮下さんには、マスメディアの取材ではないこと、お聞きした内容はもしかしたらブログでしか発表できないかもしれないこと、そして関心を持った理由について書いたメールを送ってそれでも快く了承をいただいた。
宮下さんにお話をお聞きしたのは11月始めの土曜日である。もっと早く公開したかったが、その後私のほうでなかなか手が回らなかったこともあり、原稿を起こすのが遅れた。この作業が現在のビルマを巡る状況に対してどんな意味を持つのかはわからない。また、こうしたことに関わることによってその後、私がどのような場所に行こうとしているのか、それもまだ整理がついていない。ただ私は、宮下さんに聞いてきた話を、愚直にここに記することから、始めていこうと思う。
これを記していく作業そものが、私自身のこの問題への不勉強と無力感を炙り出すことになるのかもしれない。この作業で万能感を持てるとは、私も期待してはいない。こんなことをして、何になるのだろうという迷いも、まだ持っている。
それでも、記していこうと思う。元来私にできることはそれほど多くはないので。理屈や批判は自ら後で口にしても、遅くはないだろう。
未だに原稿を起こしながらの作業になるが、アップはゆっくりと何度かにわけて行っていくつもりである。よろしければ気長に、お読みいただきたい。
こちらに続く
【参考リンク】
●ミャンマーのこと---相対主義の地獄を超える(BigBang)
2007 11 26 [ビルマ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
October 15, 2007
「ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会----これまで何がおきてきたのか」(JVJA主催)出席報告(3)
出席報告の3回目である。急いでまとめなければと思いながら、なかなか時間が取れず、少し間があいてしまったが、引き続きお読みいただきたい。
●ビデオ映像:「遠く祖国を離れて--在日ビルマ人・ティンチの旅--」 土井敏邦制作
ここで、次に土井敏邦氏が2000年10月に制作した「遠く祖国を離れて--在日ビルマ人・ティンチの旅」が上映された。ティンチ氏はビルマを亡命した後、「ビルマ青年ボランティア協会」という在日の抵抗組織に属して、抵抗運動をしてきたが、入国すると逮捕されるために本国には入れない。ティンチ氏が目と鼻の先のタイ国境から祖国を眺め、さらに大量に発生した難民の元を訪ねて、涙するシーンが上映された。尚、ティンチ氏は2003年に米国に拠点を移してそこで活動しているという。
【参考 土井敏邦氏の経歴 BigBang調】
1953年佐賀県生まれ。1985年以来、パレスチナをはじめ各地を取材。1993年よりビデオ・ジャーナリストとしての活動も開始し、テレビ各局でパレスチナやアジアに関するドキュメンタリーを放映。著書多数。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)正会員。広島大学総合科学部卒業後、中東専門雑誌記者を経て、現在フリージャーナリスト。1991年より1年間、週刊誌『朝日ジャーナル』の嘱託記者。1985年以来、断続的に延べ5年以上、イスラエルとその占領地(パレスチナ)の難民キャンプや村に滞在して取材を続けている。また1986年からのべ12カ月間、アメリカ各地でユダヤ人、パレスチナ人を取材し『占領と民衆──パレスチナ』『アメリカのユダヤ人』『アメリカのパレスチナ人』の三部作を完成。
1990年の湾岸危機ではアメリカのユダヤ人社会とアラブ人社会の反応を、また翌年1月の湾岸戦争ではイスラエルで占領地のパレスチナ人とイスラエル国民の反応を取材し『朝日ジャーナル』に連載。3月から2カ月間、NHKスペシャル「アメリカのパレスチナ人」制作をコーディネイト。
1993年の「中東和平合意」を機に再びパレスチナ・ガザ地区の難民キャンプやイスラエル国内に長期滞在し取材、ETV特集「失業と解放の1年── パレスチナ難民エルアグラ家の場合」(94年)「パレスチナ和平の陰で──ある家族の6年」(99年)、また「ニュースステーション」の特集で6回にわたって現地報告。
●写真と報告「ビルマ民主化の足を引っ張り、民衆化勢力の期待を裏切り続ける日本政府 少数民族弾圧とアウンサンスーチーの封殺から見える軍政のメンタリティー。」
報告:山本宗補氏
【山本宗補氏の経歴】
1953年、長野県生まれ。アジアを主なフィールドとするフォトジャーナリスト。1985年からフィリピン取材、1988年よりビルマ(ミャンマー)の少数民族問題、民主化闘争の取材開始。 1998年、アウンサンスーチー氏のインタビュー直後、秘密警察に身柄を拘束され、国外追放となる。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)会員、「ビルマ市民フォーラム」運営委員。
著書に「ビルマの子どもたち」(第三書館)、「ビルマの大いなる幻影 解放を求めるカレン族とスーチー民主化のゆくえ」(社会評論社)、「また、あした 日本列島老いの風景」(アートン)、「世界の戦場から フィリピン 最底辺を生きる」(岩波書店)など。共著に「フォトジャーナリスト13人の眼」(集英社新書 2005 年)などがある。現在、国内各地で「老いの風景」、「戦争の記憶」をテーマに取材を続ける。
(これからお見せする映像は)軍事政権の残虐さ、反対する者は容赦しないということを感じさせることができる映像だと思っています。また今回、日本政府は、日本人のジャーナリストがあのような形で、映像もしっかり残っている形で、射殺されている。そのために、厳しく抗議している姿勢を見せています。
しかし、よく考えてみると、もし長井さんではなくて、あのジャーナリストがタイのジャーナリストだったらどうだったか、フィリピンのジャーナリストだったらどうだったか。日本政府ははたして、ビルマで来ている軍政下の状況に対して、どのような毅然とした態度をとるか。非常に疑問だと言えると思いますね。そこらへんをちょっと、具体例をあげながら説明したいと思いますが、この残虐性ですね、それはまず少数民族であるカレン族に対して、ある意味で日常茶飯事に起きているそういう状況です。
例えば、今回の大きなデモは、19年ぶりなんですが、少数民族であるカレン族の難民、タイ側に逃げている難民はは、19年前には18,000人でした。現在、どれだけいると思いますか?140,000人です。これはタイ側に逃げ出している、難民キャンプで生活しているカレン民族の難民です。19年の間にこれだけ増えたんです。これが少ない数でしょうか。さらにですね、この数字に含まれていない国境を越えることができないまま、カレン州の山中で逃げ惑っている国内の避難民は、少なくとも100,000人はいると見られています。
現在も、昨年から始まったカレン族に対する軍事作戦は続いています。その点を、この数字を頭に入れておいていただきたいと思います。もう一つは、アウンサンスーチンさんのことですね。軍事政権にとっては、もっとも手ごわい、つまりこの人さえいなければ、現在の状況を、市民をコントロールできるということで、強い意志で、圧力で動きを封殺するということをしています。先ほど根本先生が言われたように、19年間のうち、合わせて11年以上、自宅軟禁です。全く活動できていない状況です。それ以外の期間、スーチーさんが、自由に活動できた部分というのは非常に短い。その一部ですけれど、お手元の資料で98年、9年前ですね。スーチーさんがかろうじて活動できた頃に、自宅からビルマの南部のほうのNLDの関係者を訪問する際にとった行動、これは軍事政権が、道路を完全にブロックして、完全に彼女の動きを止めます。2度にわたってハンガーストライキを彼女はするんですが、その時に取材したもの、インタビュー記事がお手元の資料にありますので、読んでいただければと思いますが、さらに2003年5月30日、軍事政権は、アウンサンスーチンの命を狙った形でエネルギー関係者、一般市民、合わせて少なくとも70人から90人は、このときに殺されている、亡くなっていると思われます。それ以降、現在に至るまで、完全に政治活動が封殺されているわけです。
そして最初のほうのカレン民族の難民の状況、去年撮影したものがありますので、それをご覧ください。
(ここから、写真の上映と説明)
彼は、40歳の農民で、ビルマからタイ側に逃げてきたんですが、ビルマ軍に捕まって、殴られたり、ナイフを首につきつけられたりして、軍は、隣に座っていた一緒に捕まっていた農民を目の前で射殺したそうです。
さらに銃口が、こういう感じで(自分に突き付ける動作)されて、たまたま彼は(射殺は)免れたんですが、そういう感じです。
これはタリム湾のダウイン(?)という場所の(よく聞き取れず)建設予定の水力発電ダムの現場ですね。水力発電のダムを造って、軍事政権は電力をそれでお金を稼ぐという計画をしています。
この人は、やはり耳がちょっと欠けているんですが、ビルマ軍に捕まった時に、拷問されて耳を食いちぎられてということです。彼は現金から食糧とか市場に行って自分の村に戻る途中だったわけですが、その際に運悪く全部奪われてしまったのです。
この人は、夫が、ビルマ軍に捕まったまま、帰ってきません。つまり殺されてしまったと、そういうことです。
これは、2002年の4月ですが、先ほどまでの避難民とは違って100Kmばかり南に下がったところなんですが、2002年12月に夜間ビルマ軍の襲撃によって殺されているということです。12名のうちの6名が子供で、さらに1名は妊婦だったということです。この写真がなぜあるかというと、写真を持っている彼がたまたま隣の村にいたということで、翌日




