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March 11, 2005

「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(4)---東京大空襲60年

kusyu
【関連記事】
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(2)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(3)

3月10日は東京大空襲から60年である。

小さい頃から、東京大空襲の記憶は祖母に聞いて育った。その頃、我が家は浅草にあったのであるが、祖母と幼かった父とは、祖母の郷里である三重県に疎開していて、浅草には祖父が残っていた。
寡黙にして、あまり口数の多くない祖父であったが、この空襲に浅草で遭遇した。祖母は、東京に戻り、あまりの惨状に祖父の死を確信したそうだが、奇跡的に祖父は空襲の中生き延びた。

どのような「地獄」があったのか直接聞く機会はなかったが、先日放映されたNHKスペシャル「東京大空襲60年目の被災地図」では、この人類史上に残る大虐殺の一端が紹介され、様々な事実が紹介されていた。

====================================================================
3月10日未明のB-29爆撃機344機による爆撃は、40km2の円周上にナパーム製高性能焼夷弾を投下して東京の住民が逃げられないようにした後、東京市の隅田川沿岸地区を中心にその円の内側を塗りつぶすように約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下された。当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。(Wikipedea 東京大空襲より
=====================================================================

番組では、この恐るべき大量殺戮について以下の説明がなされていた。

●当初、B29編隊の目標は隅田川沿岸の約30Km2だったものが、米の思惑を超えて火が強烈に燃え上がり、結果的に40Km2にまで類焼したこと。

●上空はすさまじいばかりの、火炎による上昇気流が発生し、攻撃する側のB29も飛行を保つのがやっとのパニック状態の中で焼夷弾を落とし続けたこと。そしてそのことが、当初の「延焼予定地域」外にも大量の焼夷弾をばらまく結果となったこと。

●そして、この対日戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将が、日本の木造家屋を想定した焼夷弾による焼却訓練を、事前に十分行い、これを実行したこと。米軍は家屋が燃えやすいように焼夷弾を“改良”し、市民の命より戦争終結促進を優先させたという。

さらにWikipedeaによれば、この被害を、低気圧による強風が甚大に広げたとして以下も紹介されている。

・警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅らせた

・「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所も)。

・火勢を猛烈に煽り、延焼を助長した

・近郊の飛行場に配備されていた戦闘機の発進を妨げたため、ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った)

投下された100万発(2000トン)もの焼夷弾は(NHKスペシャルでは32万発と紹介された)およそ2時間半の間、東京の隅田川沿岸を焼き尽くし10万人もの犠牲者を出した。
仮に32万発としても、この途方も無い数は、毎分2100発もの焼夷弾が2時間半にわたって降り注いだことになる。まさに狂気のなせる業である。その上逃げ惑う市民には超低空のB29から機銃掃射が浴びせられたのである。

番組では猛火の中で娘を、あるいは妹を失った、すでに高齢になった被災者が、今なお、親族の死について自分を責め、あの日から60年経っても苦しみ続けている姿が紹介された。ここまでの地獄を経験した人の悲しみを癒すには60年は短すぎるのである。

無辜の非戦闘員の上に地獄の業火を落とし、大量の人々を生きながら焼き尽くした米軍を恨むことなく、「(戦争だから)しょうがなかったんですが・・」と言いつつ、最愛の者をを守れなかったことについて、自分に対してだけは、自分に対してだけは、その「無力の罪」を免責しない「普通の」証言者のあまりに素朴な姿に涙が出た。

とかく広島や長崎の影に隠れがちな東京大空襲であるが、ここで指揮をとったカーチス・E・ルメイは、明らかに非戦闘員を大量虐殺した狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」(東京を爆撃せよー作戦任務報告書は語るー 三省堂選書<奥住喜重・早乙女勝元>より)

全てが軍需工場だったというのである。民家ではなく。

このような許しがたい、でたらめな言い訳に終始するルメイに対して、こともあろうに日本は佐藤内閣の時代、昭和39年に「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、勲一等旭日大綬章まで贈っている。
(何ということだろう。)

東京大空襲が、災禍の歴史として語り継がれることはあっても、加害者としての米国への追求が全くなされなかったどころか、このあまりにも、あまりにも愚かな勲章授与は一体どうしたことだったのだろう。

当時、米国の極東戦略に巧みに組み込まれながら、再武装への道を歩んでいたこの国には、もはや「魂を売る」と評されてもしかたがない決断しかなかったのか。
あの隅田川に、業火から逃れるために飛び込み、あるいは生きながら焼かれていった数十万の人々を思うとき、東京大空襲は、決して忘れてはならないこの国の記憶である。

既に「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)ー(3)」で書いたように、私達には、加害の罪悪感はあっても、首都の上空に、あるいはナガサキにヒロシマに、人類未曾有の大量殺害兵器を招き入れてしまった国であることが忘れられている。
この記憶を、美しく人類共通の平和観に昇華させるのはまだ早い。その記憶を、ゆがめて、あるいは消去して世界に対峙すれば、この災禍は必ずもう一度繰り返される。

それが、仮に我々の国家、我々の民族の上に起きることではなくても、もしも我々が沈黙を続けるのなら、我々の責務は加害の国家にも増して大きいと言わざるを得ない。アフガニスタンを、イラクを思うとき、東京大空襲は過去の物語ではないのである。我々の上空に再び、B29が飛来していないだけである。そして、業火に焼かれるているのが我々の国民ではないというだけである。

自らの被害の苦しみを封印しては、同じく苦しむ者たちの悲痛は、耳に入らない。

今、もう一度言う。

ヒロシマは、ナガサキは、トウキョウは終わっていない。

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Comments

こんにちわ、はじめまして。TBどうもありがとうございます。
「批判の限界(1)」から、じっくり読ませていただきました。

BigBanさんの
>あの隅田川に、業火から逃れるために飛び込み、あるいは生きながら焼かれていった数十万の人々を思うとき、東京大空襲は、決して忘れてはならないこの国の記憶である。
>この記憶を、美しく人類共通の平和観に昇華させるのはまだ早い。その記憶を、ゆがめて、あるいは消去して世界に対峙すれば、この災禍は必ずもう一度繰り返される。

というのに私も同感しました。

私の父は、あの悲惨な空襲の真っ只中にいて、母と姉妹3人は空襲で亡くなりました。

「正義のための武力行使」といった大きな目標達成のためなら、一般市民の犠牲が出ても仕方がない
、といった論理は今でも繰り返されていると思います。

私のつたない文章ですが、実際に東京大空襲にあった父のことを書いた私のブログ(“Tea time diary”)をトラックバックさせていただきました。

はじめまして、岡枝と申します。同じく東京大空襲について少しばかり自ログに書いてみました。その後、他にもこの史実について触れられている方を探し求めてこちらに辿り着きました。

‘「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」’

↑非道い。あんまりです。実際は、ある家がお豆腐を作り、隣の家が煙草を売り、向かいの家では子育てをされていた…のが事実なのに。軍人さんとして戦時に自国の利益に繋がる作戦を思案されたことは責められないかも知れません。けれどもその後、人として自分が犯した罪を正直に認められないとは…

大変勉強になりましたログを読ませて頂き、有難うございます。私の方のログからも後ほど、リンク&TBさせて頂きます。今後も宜しくお願いいたします。

TBありがとうございました。
とりあえず、戦勝国に占領された敗戦国として、いまだに手も足も出ない日本です。今でも属国です。
でも、このままじゃ日本は終わっちゃうな…という思いが日々強くなる今日この頃です。

はじめまして。記事でもかいていらっしゃいましたが、「東京都慰霊堂」に行かれた方、結構おられるのですね。私は一度も行ったことがありませんが、興味を持ちました。

>私のつたない文章ですが、実際に東京大空襲にあった父のことを書いた私のブログ(“Tea time diary”)をトラックバックさせていただきました。

読ませていただきました。

実はまだ祖母が存命なので(97歳!)もう一度空襲のことをしっかり聞いておこうと思う今日この頃です。
段々と先の大戦の記憶を受け継いでいくことの大切さが自分の中で大きくなってきました。

どうしてなのだろう?と思うのですが、一つには、ほんの少し自分自身も死に近づいたのかもしれません。もちろん直接体験してはいないわけですが。何かの力を感じます。

今後ともよろしくお願いいたします。

はじめまして。サイト拝見しました。

>我らが日本軍はバカ正直にも敵国・アメリカさんの本土を
爆撃しなかったのでしょうか?

小規模では、確か、唯一米国本土に向かい、爆撃をした日本軍の戦闘機があります。昭和17年9月、伊號第25潜水艦搭載機が2囘に亙りアメリカ本土を爆撃したとのこと。史上唯一のアメリカ爆撃です。

パイロットは米国では英雄になっているという不思議な話を何年か前にテレビで見たことがあります。
ほとんど相手方に被害を与えることはなかったようです。

リンク集にも掲載していただきありがとうございました。

今晩は。

よさんのサイトの記事を拝見しました。

>東京が壊滅したという知らせを軍隊で受け、急ぎ実家に戻ったあたしの父親は、同じく出征先から戻った兄上と2人で協力して、そこら中に放置されているたくさんの死体の中から自分の父親と姉(兄上にとっては妹)を探したんだけど、真っ黒焦げでどうにも判別がつかず、歯を調べて「これかなぁ…これでいいか…」ということにしたらしい。

>そんないいかげんな…と思ったりもするが、何分あたしは、身の回りに大量の黒焦げ死体があって、その中に家族が紛れてる…という状況に遭遇したことがないんで、そういう極限状態での心理が想像できない。
もしかしたら、そこまでスゴイことになっちゃうと、「これでいいか…」って感じになっちゃうのかもね…。


淡々と書いていらっしゃいますが、想像するだに、すさまじい光景が目に浮かびますね。両国の慰霊堂に参られる方が、結構多いということを知りました。
僕はいつも祖父につきあわされて正月には靖国神社に行かされていました・・人それぞれなのですね。戦いの記憶の受け継ぎ方は。

今後ともよろしくです。

今更遅くなってすみません。
私は俳句で詠んじゃっただけで終わりにしてしまったのですが、それは知り合いに東京の出身者(近親者に、という意味です)がいないからなのです。
誰も空襲の被害を受けていない。
だから、リアルに体験を聞くことはできません。

けれど、この東京大空襲には、広島長崎にも劣らぬ怒りを持っています。なぜって、たとえば、ドイツは石造りだから爆弾を(石を砕くため)、そして日本は木造だから、油で焼いたわけですよね。木造家屋であれば明らかに「民間の家」と分かるようになっている日本の都市をね。最適な方法で!
ほとんどのなくなった方は焼死ではなく、瞬間的にものすごい勢いで燃え上がった炎による、酸素不足での窒息死と聞いています。
新聞で読みましたが、あまりの低空飛行での爆撃に、「B29の下が(焼夷弾の)油で汚れているのが見えた」そうです。

民間人に対してここまでやっておいて、「軍需工場だった」?さすがアメリカ人ですね。
今からでも「人道上の非道行為」で、国際裁判所に三点セットでうったえてやりたい気分です。

少々違う視点のTBを入れておきますが、アメリカがいかに卑怯で、そして日本人を「ひと」と思っていなかったかについての記事を以前書きましたので、よかったらご一読ください。

日本はこの敗戦で矜持を失いました。
けれどアメリカは何も学んでいない。アメリカはアメリカです。この傲慢さが、私には耐え難い。

BigBanさん初めまして
トラックバックいただきありがとうございます。
コメントがやや遅くなってしまいましたが記事を読ませていただきました。大変読み応えのある記事ばかりで感心すると同時に、感情的な表現やおちゃらけに走らない中立的な姿勢に共感いたします。(私は時折おちゃらけますが)
あの戦争を実体験している人は、私の両親や親戚も含め皆高齢となっており、今聞いておかなければ後世に伝えて行く事が出来ない。彼らの体験談の一端をWeb上に残しておくのも良いかも。と、そんな気持ちも手伝って、拙文ではありますが母親の体験談を載せてみました。
終戦後、母親は進駐軍の施設に勤める事となり、紳士的で垢抜けた米軍人の姿に接して意識を大きく変化させていったようです。
政治的な駆け引きや取引は当然行われた事でしょうが、一方当時の大方の日本人にとって、「敗戦と占領を受け入れる」と言う避け難い現実と共に、アメリカ文化に対する羨望から時として過度の寛容が働いた事も有ったかも知れない。或る意味致し方ない事だとは思います。

 こんにちは、はじめまして。
 T・Bありがとうございました。
 僕のBLOGでは意図してかなりやわらかく書いたのでこちらを拝見し恐縮します。
 
 実際は薄らいできている感は否めないこの記憶、日本人として決して忘れてはならない、語り継ぐべき責任があるとの認識は共通していると感じます。
 加速する超情報化社会のおかげで、こうした認識をもつ人の輪の拡がるスピードも数年前とは比較にならないものとなりました。

 戦後60年、日本人の血を振り返る機運がもっと高まることを期待する一人です。

 
 

というわけで、結局書いてしまいました(^_^;)
いくつもTB飛ばしてしまいまして申し訳ありません。

丁重なコメントを頂き、ありがとうございます。
今までの日本は、加害者としての立場だけを強調させられてきたと思います。
私の祖父は、戦時中は工場で働いていたので、具体的な戦争体験談などを身内から聞く機会がありませんでした。
広島・長崎も含め、被害者でもあった事実を忘れず、語り継いでいかなければなりませんね。

こんばんは。
「FDクラススタッフ控室(地下2階)」管理人cyroです。
TBありがとうございます。
この記事を書いたときは、
「一体どれだけの人が反応してくれるだろう?」
と心配していました。
でも、骨太な反応が多かったので、安心しています。

ここで触れられていた日本軍によるアメリカ本土爆撃について、昨年夏に拙文でも書かせていただきましたので、よろしかったら、ぜひこちらもお訪ねください。
http://kitadai.air-nifty.com/fd/2004/08/62.html

これをきっかけに、また時々遊びに来てください。
では、今後ともよろしくお願いします。

TBありがとうございました。
なぜか?下書きの最中にコメントもいただいたようです。
まちがって途中で「公開」にしてしまったのかどうかわかりませんが、先ほどやっと書き上げました。
「『非人道的』とはどういうことなのか」シリーズは興味深く読ませていただいています。触発されることが少なくありません。
私のほうは印象を書きなぐったような態ですが、なるべく自分の考えを掘り進めるように努力しているつもりです。
こちらからもTBをお送りします。
よろしければ拙い完成稿ですが、ご覧ください^^)

コメントありがとうございます。

>終戦後、母親は進駐軍の施設に勤める事となり、紳士的で垢抜けた米軍人の姿に接して意識を大きく変化させていったようです。
>政治的な駆け引きや取引は当然行われた事でしょうが、一方当時の大方の日本人にとって、「敗戦と占領を受け入れる」と言う避け難い現実と共に、アメリカ文化に対する羨望から時として過度の寛容が働いた事も有ったかも知れない。或る意味致し方ない事だとは思います。

そうした気持を単なる「憎しみ」とせず、羨望であったにせよ、アメリカの文化や制度、考え方を柔軟に取り入れてきたからこそ、日本の今があると思います。
ですが、私達は、今それをも越えなければならないところに来ているのではないか。

今年の3月10日に多くの人がこうして声をあげていることもその表れの一つのように思います。

はじめまして。

>実際は薄らいできている感は否めないこの記憶、日本人として決して忘れてはならない、語り継ぐべき責任があるとの認識は共通していると感じます。

空襲の記憶を直接持っておられる方たちが、高齢化している中にあって、両親や祖父母から記憶を聞かされた私達の世代の責務は高まっているように(つい最近ですが)おもうようになりました。

> 加速する超情報化社会のおかげで、こうした認識をもつ人の輪の拡がるスピードも数年前とは比較にならないものとなりました。

本来であればデモをするようなことなのでしょうが、今はこうしてブログという手段で連携し、アピールを行うことができます。オピニオンの表現の仕方も、ある種の「運動のあり方」も大きく変わりつつあるように感じています。

夜中の「ローレライ」のプロモーションをテレビで横目で見ています。

>ほとんどのなくなった方は焼死ではなく、瞬間的にものすごい勢いで燃え上がった炎による、酸素不足での窒息死と聞いています。
>新聞で読みましたが、あまりの低空飛行での爆撃に、「B29の下が(焼夷弾の)油で汚れているのが見えた」そうです。

別の方で、操縦席が見えるほどの低空だったという証言をしている人もいますから、信じられないくらい低空で攻撃していますね。こんなことを考えるようになったのも本当に最近で、ずっとはるか彼方の上空にあるB29から爆弾がばらまかれている東京の空---を想像していたんですが、調べるにつれ、どれほどすさまじい殺戮であったかが見えてきます。

米国への遠慮があり、国レベルでの記念館ができないのかもしれませんが、一方で沖縄にも戦争資料館があり、ヒロシマ・ナガサキにも原爆資料館があるわけですから、東京大空襲にも記念館が必要だと思います。

彼の大陸の国のように、それを相手を恨むためだけの材料にしてはならないとは思いますが。


そうです。そうです。
これを探していました。藤田飛曹長です。
ありがとうございます。

藤田飛曹長は、爆撃を行った街では(といっても下記にあるように、ちょっと木が燃えただけだったらしい)今でも英雄として尊敬されているという話をテーマにつくられた番組を見ました。敵ながらあっぱれということだったようです。

ゆっくり見させていただきます。


>アメリカ大陸爆撃物語
第二次世界大戦で米本土を爆撃した藤田飛曹長のはなし
http://www.wetwing.com/documents/to_oregon/oregon_index.html


お久しぶりです。
そうなんです。どうも一瞬そちらで書かれている途中の原稿がが見えてしまい、それにコメントなどつけてしまいました。今もう一度、伺って読み直しました。
すみませんでした。

1人1人の兵士を責めることはできません。たとえ生き残っていたにしろ、どれほどのトラウマに苦しめられるだろうと考えると想像がつきません。

実際に、自分がこの手で加担したとすれば・・
恐ろしい想像です。


遅くなりましたが、トラックバックありがとうございました。
「考えなきゃ」と思いつつ頭を整理できず、自分の文章はなるべく「素朴な感想」にとどまるように書きました。
難しい問題ときっちり向き合ってそれを文章化していることに感銘を受けました。
逃げてはいけない問題ですよね。

返信おそくなりました。


>難しい問題ときっちり向き合ってそれを文章化していることに感銘を受けました。
逃げてはいけない問題ですよね。

非人道・・・の一連の記事は、自分の力的にも相当背伸びをして書いていますね。苦笑。しんどいです。
書いているうちに、その帰結がどの方向に向かっているのか、あるいはどこへも向かわないで終わるのか、自分でもわかりません。

ひろさんのサイトの


>だから、当時から「基本的には民間人は攻撃しない」という考えがあったと知ったときには驚いた。なんかだまされた、みんながだまされていた気がした。私たちが「戦争」だと思っていたものは、本当はそこから微妙にずれた「虐殺」だったのだろうかと。

戦争だからしょうがない・・というのが、多くの戦中の体験者の実感であり、その実感の諦念が、子や孫の世代である私達に引き継がれてきました。
今、ようやくその呪縛から逃れ、見直しをできる時期になってきたともいえましょう。

ただ、これが過度の復讐念につながるなら本意ではありません。これが、「この思考の方向」に関して難しいところです。そんなことを今考えています。


こんにちは
はじめまして。
思わぬところから拝見することになりました。
最初は、右翼的なブログかと思ってました。
私も東京空襲や原爆投下は戦争犯罪だと思っています。
だからといって日本がアジアで行った行為が許されるわけではありませんが。
日本はアジア諸国に対し受け容れられる謝罪を行い、同時にアメリカの戦争犯罪も
追求すべきです。
それができないのは、日米安保という米国の言いなりになるリモコンがあるからです。
私はナショナリストではありませんが、国家の主権が確立
しない限り、米国の犯罪を問うことは不可能だと思います。
ところで、私は沖縄の出身ですが、地元の琉球新報社という
新聞社から「沖縄戦新聞」というのが発刊されました。
読み応えがあります。日本兵が、米軍が沖縄で何を行ったか
知ることが出来ます。
沖縄は、私の小学校低学年ごろまで米国の占領下にあり、その当時の記憶があります。
祖国復帰後も、米兵の犯罪行為は日常茶飯事のようにあり、県民感情が抑えきれないと
ころまできたのはつい最近のことです。それまではずっと泣き寝入りの状態でした。
繰り返しになりますが、私の記憶をたどっても主権が本当に回復しない限り、米軍の戦争
犯罪を叫んでも精神的なものでしかありません。
原動力としてはその精神が大事ですけれど。

 いまさらナンですが、BigBang(BB)さんが書かれたテキストは時事性を超越していると思いますので、いくつか質問させてください。

 原爆投下について、東京など大都市の無差別爆撃について、何をすべきだとBBさんはお考えなのでしょうか。

 私はいま米国にいますが、BBさんがお書きになっているように、原爆投下については、被爆者の方々の営々たる努力にもかかわらず、そもそも被害の「実態」を知る人は決して多いといえません。「キノコ雲」は知っていても、その下の状況には思い至らないわけです。世論調査などを見る限り、「やむを得なかった」と答える人が多数派です(一方で核兵器の所有、使用に反対する人も多数派ですが)。東京大空襲などは、当地でもそれなりに話題になった映画「The Fog of War」でマクナマラが「脅威に比べ攻撃の程度があまりに均衡を欠いている」との旨の批判をしていましたが、存在自体を知らない人が多数派でしょう。

 BBさんの主張というのは、「被害者」たる我々は事実を正確に伝え、米国に対しても、赦すだけではなく、批判すべきは批判しなければならない、ということですか?

 仮にこの解釈が正しいとして、そのこと自体は意味のある、重要な行為だと思いますが、それによって何を達成しようとするのか、どんな手段を取るのか、というあたりのお考えが知りたい。

 最終目標は、米国民の認識を変えることなのでしょうか?その達成には、米国の核の傘の下で日本が繁栄を享受してきた戦後61年の日米関係の土台からの転換が必要であり、さらに言えば、米国の拠って立つ根本原理の一つである「力の信仰」を、世界のありようを変えることが必要になるのではないか、と思います。我々自身が、まず変わる必要があるでしょう。

 この壮大な目標をどう達成するのか。その価値があるのか。我々に、その覚悟と能力があるのか。私にはよく分かりません。魅力的なideaだとも感じますが、多くの人々が第2次大戦を超える辛酸を舐める事態になるような気もします。

以上、お邪魔さまでした。

>harmoniker さん

ずいぶん前のエントリーにコメントいただいてありがとうございます。

>BBさんの主張というのは、「被害者」たる我々は事実を正確に伝え、米国に対しても、赦すだけではなく、批判すべきは批判しなければならない、ということですか?

そう考えていただいていいと思います。


>仮にこの解釈が正しいとして、そのこと自体は意味のある、重要な行為だと思いますが、それによって何を達成しようとするのか、どんな手段を取るのか、というあたりのお考えが知りたい。


このシリーズやその他のものをお読みいただければわかると思いますが、僕の主張の根本は、米国からの段階的な「独立」です。同盟関係を保ちながらも、米国に対して対等に批判ができる国を理想と考えています。

原爆や東京大空襲にこだわるのは、なされた事実が明白であるにも関わらず、批判の言論からタブーとして除外していることで、現在の米の所持する大量破壊兵器に対しても、他の国のそれら兵器の所持志向に対しても、真っ当な言論をなすことができない現状を不満に思っています。

>この壮大な目標をどう達成するのか。その価値があるのか。我々に、その覚悟と能力があるのか。私にはよく分かりません。魅力的なideaだとも感じますが、多くの人々が第2次大戦を超える辛酸を舐める事態になるような気もします。


確かに簡単なことではありませんが、この状態を放置するほうが「2次大戦を超える辛酸を舐める事態」になる可能性もあると私は思っています。


ちなみに「非人道シリーズ」は、その工程の可能性を少しずつでも自分なりに提示できないかと思って書き始めました。今は、中途で中断していますが。

BigBangさん、お返事ありがとうございました。

 米国との「同盟」は維持しつつ、「対等」にものが言える関係ですか。なるほどなあ。

 私の考えでは、日米「同盟」は、日本が第二次世界大戦の敗戦国であることを大前提の一つとしたものであり、したがって、現行同盟下での両国は「対等にものが言える」関係には、そもそもなり得ないと思うのですよね。日本側にはどうしたって負けたという劣等感がある。米国側には、卑怯な攻撃を仕掛けてきた敵の民主化と経済発展を助けたという優越感がある。対等になりようがない。

 対等にものを言いたいという気持ちは、よく分かります。私もそう思いますから。しかし、そのためには、私の考えでは、独自の安全保障策がどうしても必要になる。自分で自分の面倒を見られる必要がある。

 駐留米軍には出て行ってもらわなければならない。当面の仮想敵である中国やロシア、北朝鮮に自力で対抗する国防体制の整備もいりましょう。核武装の検討も必要かもしれない。

 そうした未来が、日本国民にとって、望ましいことなのか。日本国民が本当に求めていることなのか。経済的コストはどうなのか。社会的コストは。日本は、資源や国土の制約、地政学的な位置から、「国々の間」で生きていかざるを得ない国だと思いますが、その条件下での「独立」は可能なのか。

 我々は戦後、いわば誇りは神棚に上げて経済的復活に専念する道を選び、大成功したわけですが、その、まがりなりにも実現した大成功は、実は大変な僥倖でもあるのではないのか。それを失わない「独立」は可能なのか。

 BBさんのテキストを拝読しながら、改めてそんなことを考えました。

終わっていないというよりは終わらせたくない。
終わらせてたまるかという激情が、そのまま文章に宿っているように感じました。

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・・・いくつかの興味深いエントリーをメモしておきたい。 ▼「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界 @BigBang https://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/01/post_6.html https://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/01/post_12.html https://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/01/post_13.ht... [Read More]

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