Time is on my side(2)-----光は今でも味方しているのか
最初に
Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
を書いてからずいぶん時間が経ち、いろんなことがあった。この記事が最初の記事の続編としてふさわしいのかどうか、僕にもよくわからない。時間を順に追う自分史にも全くなっていない。なっていないのはわかるのだが、今が書くべきタイミングだと思うので、書いてみる。
変な話だと思われるかもしれない。そして現実逃避だと言う人もいるかもしれないけれど、人と人との関係、自分と人との関係、自分と社会との関係。
そうした事柄で迷ったりひっかかったりしたとき、
「そう言えば光はどうなっていただろうか」
「そう言えば素粒子で言えばどうなっていただろうか」
などと考える。いや、本当だよ。
はああああ?と思う人が大半だろうけれど、複雑な人の心とか、複雑な(というよりガサツに混乱した)人のシステムの問題にぶつかったとき、僕はどういうわけか全てを、つまり、一回物質に戻して頭の中でバラバラにして考える習性があるようなのだ。
初めてこの記事から読んだ人は、「こいつは相当電波の入った奴だ」と思うかもしれないが、おそらく、これは何か自分の原点にもどろうとして戻れず、それでも戻ろうとして苦肉の策として行き着いたところが、光や素粒子であったと言う・・・・・(ここまで書いてもドン引きしていく人たちの顔が見えるようだ)自分の特殊性にも依存する思考の性癖かもしれない。
もう少し懇切に書けば、つまり僕は生まれとかいろいろあって、「原点に戻る」という行為が困難というか不可能なので、通常の人間(というものが果たしてあるのかどうかわからないが)であれば戻っていくような、この世に出てくる瞬間のところから始まる歴史というようなものというか出発点が、結構面倒臭いことになってしまっているので、気軽に戻る場所がないのである。
そんなもの、自分だって関係ないぞと思っている人は多かろうが、そんなあなたであっても瞬きの間であれ、数秒のことであれ、この世界に、この世の中に行き詰ったりしたときに、必ず心理的に「そこ」に回帰しているはずである。
で、回帰ができない僕は、というか、この回帰ができないことは、もうそれはそれでいいのだけれど、現実にはやはりどこかに、がらがらっと今ある全てを精神的に崩して、最初から積木を積み上げて、今いる自分の場所のところまでを組み立て直して戻ってきたいわけだ。
そして、その後ようやく自分と人との関係を考えられるようになる。
道徳とか、この世の決まりとか、人が人に教える人の道とか、そうした一つ一つは、多くの場合自分の道筋には当てはまらず、この砂土のような、クレイのような自分と人との関係の根本の場所に戻って考え直さないと、動くことも考えることもままならないという、ある意味大変に面倒くさい構造になっているわけだ。
で、光である。
「光とは何か?人類が100年間も騙され続けた相対性理論の大嘘」
(著者: 森野 正春・まだ全部読んでないよ)
では、「第10章 オリオン座の星リゲルの光は、本当に700年前のものか!?」で、700光年彼方の星を見る時に、700年前のこの星の姿を見ているはずだ・・・という相対性理論の基本中の基本について、つまり光について当たり前のように語られてきた事実に切り込んでいる。
もしもこのことが当たり前であれば、私達は、宇宙の「現在の姿」を永遠に見ることができないことになる。なぜなら星々はそれぞれ700光年あるいは1万光年、時には何十億光年も彼方にあるのだから、「現在の世界」を私達は何も認識できないで生きていることになる。
孤独なことに人は過去の世界だけを見て生きているのである。そして千年後に千光年先を見てようやく、今のこの時代に呼吸をする私達に出会うことができるわけだ。
そんな馬鹿な話があるだろうか?一体認識とは何なのか?
という話からこの本の論はスリリングに始まっている。
(悪いね、まだ読み終わっていないんだ)
この本を読むと、光のことも、宇宙のこともいかに人間はわかっていないか、を思い知らされるような仕掛けになっている。かのアインシュタインですら、光のことは実は何も分っていなかったという、興味深い逸話も語られている。
相対性理論の頭の痛い話を、稚拙な理解のままにここで展開する気はさらさらないが、つまり言いたいことは、
●僕は原点に戻るとき、一気に物質まで戻らないと、すっきりと考えられない厄介さを抱えているということ。
そして
●心もシステムも所詮は移ろうものであり、その姿を時間軸の中で捉えることは所詮できないし、誰の責任でもない。結果の全てに対して、責任を持てるわけが無いということだ。
こうした思考方法は多くの場合頭が痛いことばかりだが、いい点もある。
それは、人の心。悩む人、傷つく人の心も体も、究極は素粒子のせいにできる(爆)ということなんだ。
何かに人がひっかかっているとき、何かにぶつかっているとき、何かに傷ついているとき自分のことなんだから責任を持てという人があろう。自分で責任を持って決断しろと。
因果応報の責任論は一見すがすがしいが、問題は、あのいやな言葉!
何かあったら「自己責任」を言われることである。何かがうまくいかないと、自分の過去の素行の、こことここが悪かったと勝手に解釈し、時を遡っては自分をあげつらって人は苦しむ。
無責任な人であれば、全てがうまくいかない理由を他人のせいにするだろう。
あるいは何かの宗教を信じている人なら、信仰心が足りなかったからだと言うかもしれない。運命論者であれば、ほんのちょっと運が悪かったんだ・・で全てを片付けようとするだろう。
そうした様々な、もっともな、あるいはいい加減な解釈と同じように、僕は人とのいろんな関わりが混乱しそうになったり、自分の気持ちが自分で読めなくなったとき、
「さて、光と素粒子はどうなっていただろうか」
などと考えるのだ。
自分もこの宇宙を構成する物質に過ぎない。少々複雑なように見えても、たかが素粒子の集合体。肉体の中で飛び交う中性子を想像すれば、生きているうちに自分ができること、自分が自分をどうかすることができる比重なんて、限りなく小さいと思えてくる。
ならば、悩みあぐねる時間は、そこそこで切り上げよう。傷も自然の治癒に任せよう。
心の傷も体の傷も、だ。両方だ。
こういうものの考え方は、もしかしたら、以前Salieriさんが教えてくれた「トランスパーソナル心理学」(少しだけ基礎的な本を読んだけれど)に通じるものがあるのかもしれないと最近少し思っているのだけれど、(違ったらごめん)欠損している「原点」の代償が、自分にも人並みに必要であるという渇望感が、宇宙や天体への原始的な関心と有機結合(?)して、ある意味追い詰められて、ここに至ったのではないかと自己解釈している。
人が
人に惹かれる気持ち。
人を拒絶する気持ち。
ある体制を選択する気持ち。
ある体制を拒絶する気持ち。
ある事柄を信じる気持ち。
ある事柄を拒絶する気持ち。
破壊。恋情。執着。冷酷。
愛情。後悔。愚考。嫉妬。
ぜんぶ物理的で化学的な反応に過ぎない。
そこに正解も間違いもない。
悪も善もない。
暫し、道徳にも文学にも、頭の世界からだけでも退場願って、全てをこの身に駆け巡る無数の中性子のエネルギーであると考えたとき、どこかで確かに救われる思いが目覚める。こうして見切ることが、僕にとっては前に進む力になっているのは確かだし、他の人の心と自分の心の距離を測る基準にもなる。
これが全ての人に薦められる方法であるかどうかは知らないが、迷う心が十分にあるのなら、少々乱暴かもしれないが、光すら味方にすることはできるのである。
アインシュタインすら、完全な説明ができなかったという、あの光をだ。
【参考記事】
最初の記憶----辿れない道
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