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October 08, 2005

Time is on my side(3)-----どちらが孤独なのか。


ainsyut

「光とは何か?人類が100年間も騙され続けた相対性理論の大嘘」は凄い本だった

これを書いた後、長い時間がたってようやく最近読み終えたのだけれど、確かに「凄い内容」だった。本も凄ければ、そもそもこれを書籍にして出してしまった徳間書店も「凄い」と言われているけれど、確かにそう言わざるを得ない部分もある。

アインシュタインですら光については何もわかってなかったというのは本当であろう。そのわかっていないご本人が唱えた相対性理論など信用ができないと言われれば、確かに説得力もなくはないが、この本は何しろ「光速」というものを根本的に否定している。速いとか遅いとかではなく、光に速さがある、あるいは光が新幹線のように虚空の宇宙空間を何万年もかかって「移動する」そのあり方そのものを否定しているのである。

つまり、700光年彼方にあると言われているオリオン座のリゲルから光が700年かかってあなたの目に届くなら、それはあなたが700年前のリゲルを見ていることになる。同様に夜空に散らばる殆どの星は遠い過去に「そこにあった」としか言えないのであり、真空中で299,792,458m/s(≒30万キロメートル毎秒)と言われる「光速」を信じるならば、自分の手ですら10億分の1秒過去の手である(!!)ことを認めなければならなくなる。

光に速度があると信じるから、人はあらゆる「現在」を認識できなくなる。この不自然な世界観はどうなのよ?世界の「過去」しか認識できないなんて?というのが筆者の趣旨。あらゆる「過去」に囲まれて生きている人間存在などというものこそ奇妙奇天烈だとして、ここから「光速」自体を否定にかかるのだから、確かに強引にも強引。

現代の物理学では、確かに「光の実態」(エーテルを伝わるとか、いや電磁波だとか)は完全に解明はされていないけれど、その速度はかなり緻密に計算されていて、そのことはどうなんだ?と突っ込みたくなるが、筆者は「哲学」あるいは「認識論」から入って光速を否定してるのだから、これはもう物理学でも天文学でもなく、思想というべきであろう。

で、じゃあ光はどうやって「伝わる」のかというと、「発光部」に「受光部」が「正体のわからない理由」によって瞬時に(光った瞬間)伝わるという説を展開している。そうなればリゲルは過去のものではない。今この瞬間の「リゲル」であるし、あなたの両手が10億分の1秒前のものであるなどという、「不可思議な」ことを言わないでもいいではないかと展開される。これは思想としか言いようがないでしょ?

最後まで「科学的には」甘い本で、一部でトンデモ扱いされちゃっているみたいだけれど、あらゆる「過去」に囲まれて生きているという相対性理論の世界は、居心地で言えばそれほどいいものではないというのもわからないではない。

誰が「過去」の恋人の顔を見たいだろうか?誰が「過去」の娘の顔を見たいだろうか?
目の前の恋人としっかり抱き合いたいと思うのは、両者の距離を0ミリにして、伝わらぬ心を持ち寄りながら、せめて「時」だけは共にしたいという悲しい試みか?

君の「今」に永遠に寄り添えないなんて!

人は過去ではなくて今この瞬間を共にしてくれる存在を探して、渇望して今日も生きているものであるとすれば、光は何億キロメートルもの彼方からでも「瞬時に」伝わってくれたほうが、「幸せになれる」のかもしれない。

だが、僕たちは、恋人の顔はともかく、宇宙的には、あまりにも相対性理論の世界にどっぷりと漬かって生きているから(なに?あなたは漬かっていないって?笑)、今更「全てが過去ではない」と言われても、逆に戸惑うのみ。

無限の「過去」に囲まれて生きること
無限の「今」に囲まれて生きること

幸福を一つの観点として見るなら、どちらが幸福なのか。
孤独を一つの観点として見るなら、どちらが孤独なのか。

異論も諸説も出る分野ではないか。

無限の「過去」に縛られているこの自分を思えば、今更光の速度が無限大になったとしても、直ちに「今」と添えるかどうか。直ちに君と寄り添えるか。

それすらわからないのである。

(4)へ続く


【参考記事】
●Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
●Time is on my side(2)-----光は今でも味方しているのか


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Comments

BigBanさん、おはようございます!
確かに凄そうな本ですね。
私は相対性理論のことも光のことも何もわかっていないのですが、
光はあるとわかっていて、光の存在を信じてます。
今ここにあるのですから。

BigBanさんの記事を読んで、あの星の光はやっぱり今の光だと確信できました。
光って今みたいなものですよね。
確かにあることはわかっているけど、つかみようがない。
この手のなかにあるけど、つかみようがない。
もしも光の速度があるとしたらそれは瞬時あるいは同時。
わけもわからずそう思っています。
いつもわけのわからないコメントで申しわけありません。

きょうもよい一日を。ではまた!

こんばんは。
この本は、「科学の体裁」をとって書かれる必要はなかったように思います。
chiikoさんの文章を見て思い出したんですが、ここに書いてある光の話は、いつもchiikoさんが書かれている「光」だし、私が書いている「光」の話だと思うんですね。

ただ、これを科学にしなければいけないと考えたとき、とめどもない混迷が始まるというか、混乱が始まるというか、そういうことを思いました。

で、科学の領域でも、詩の領域でも、「光」というのは、かなりborderなのではないかと思うのですよ。人間の限界というのかな、可知と不可知のborder。今のところ限りなく不可知な存在に近いと言ったほうがいいのかな。だから惹かれる。

そんなとりとめもないことを考えました。

「Time is on my side(2)-光は今でも味方しているのか」、と「Time is on my side(3)-どちらが孤独なのか」、を読みました。二、三度読みましたが、まだよく分らないところがあるので、もう少し読み続けるつもりです。
BigBanさんはこの本の中で、「光とは何か?人類が100年間も騙され続けた相対性理論の大嘘」という本について書いています。それは、この本の一番大事な部分が十分に書かれています。実は私はこの本の著者ですが、本当にそう思って感心しております。そして私は、そのことに心から感謝しております。 
BigBan さんは、この本の一番大事な部分を次のように書いています。「700光年彼方の星を見る時に、700年前のこの星の姿を見ているはずだ・・・という相対性理論の基本中の基本について、つまり光について当たり前のように語られてきた事実に切り込んでいる。もしもこのことが当たり前であれば、私達は、宇宙の「現在の姿」を永遠に見ることができないことになる。なぜなら星はそれぞれ700光年あるいは1万光年、時には何十億光年も彼方にあるのだから、「現在の世界」を私達は何も認識できないで生きていることになる」。
私がBigBan さんの書いたこの部分に、何故たいへん感心し、感謝しているかというと、上記のアンダーラインの部分を、BigBanははっきりと書いているからです。
というのは、現在の天文学者と物理学者は上記のアンダーラインの部分を決して書いたり、言ったりしないのです。それを書いたり言ったりしたならば,彼らにとって極めて重大な事態となるからです。彼らが、宇宙の姿を永遠に見ることが出来なくなる、ということは、彼らが、宇宙に存在する星の姿を永遠に観測することが出来なくなることです。それは、現代天文学・物理学の存亡に関わる重大な事態であります。なぜならば、宇宙に実際に存在するすべての星を観測できない天文学・物理学などあり得ないからです。そして、そのような天文学・物理学者などあり得ないからです。 
ところで、この重大事態は、「700光年彼方の星を見る時に、700年前のこの星の姿を見ているはずだ・・・という相対性理論の基本中の基本」から、必然的に、そして極めて容易に導かれる重大事態であるからです。この重大事態を引き起こしたのは、現代天文学・物理学それ自身であります。この本の著者とは全く関係の無いことです。
BigBanさんはこの本を時間をかけて丁寧に読んでくれました。ブログの途中に(まだ全部読んでないよ)、(悪いね、まだ読み終わっていないんだ)、という言葉が挟まれており、そして次のように書いてくれています。「これを書いた後、長い時間がたってようやく最近読み終えたのだけれど、確かに「凄い内容」だった。本も凄ければ、そもそもこれを書籍にして出してしまった徳間書店も「凄い」と言われているけれど、確かにそう言わざるを得ない部分もある」。これを読んで著者の私は、初めて「凄い」という言葉が使われたことに、驚き感謝しております。しかし、本当に凄いのは、現代天文学・物理学によって、私達は、宇宙の「現在の姿」を永遠に見ることが出来なくなっていることであります。

森野さん、ようこそ。まさか著者の方に来ていただくとは思いませんでしたので、驚いています。ご著書を引用しつつも、いささか勝手な自分史に展開してしまいましたので、ずいぶんと違和感を感じておられると思います。
私は幼少のころからの天文ファン、宇宙ファンではありましたが、物理学的な知識もありませんし、学会の動向もわかりませんので、感銘を受けたポイントがずれているのかもしれませんが、森野さんの著書にはむしろエントリーで書きましたように、思想や哲学の域に属するものを感じ、それが自分の内面でのインスピレーションに繋がりました。
同時に存在する現実の姿、現象を観察することができないという事実を事実として受け入れるのか、それとも受け入れないのかという分岐で、我々の世界に対する根本的な姿勢が問われるのだというメッセージだと受け取りました。
理論的な部分は正直理解が難しい部分もあったのですが、今後も発展的に研究を進めていかれることと思いますし、引き続き関心を保たせていただければと思っています。

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