民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(5・終章)六本木の空の上のほうで
延々とほとんど休み無く続いたシンポジウムもようやく終わり、懇親会で49階から51階へ移動する。(前回のこともあるからここのことも書いておこう)。飲み物は豊富に用意されていましたが、食べ物はつまみ程度(ほんっとうにつまみ程度)。顔見知りのAaさんや安曇さん、突如登場したマルセルさん、そして松本政調会長と少し言葉を交わす。
場所は六本木ヒルズの51階。目を外にやれば東京の大夜景が広がっている。「成功者」と呼ばれる人たちが、ヒトの社会を高層から見下ろすことを好むのはなぜだろうとちょっと考える。ヒトの上に立つこと、ヒトの視線を遥かに超えたところで、少しだけでも「神の視線」に近づくこと。そんなところに憧れを持つのだろうか。そういえば「バベルの塔」の逸話もあった。神に近づくために天へ、天へ。
今ここに身を置いている「民主党の空間」は正直なところ、居心地がいい。民主党の議員の方たちは皆真摯で紳士。物腰が柔らかく居丈高ではない。何よりも知性と真面目さが真っ直ぐに伝わってくる。僕は自民党の政治家とももちろん何人か会ったことがあるし、そうした中にもいろんな方がいるけれど、今の民主党の「生え抜き」の議員の持つ雰囲気には、それに比しても新しいものを感じるし親近感を感じる。そう、「政権」以外の全てがあると言っていいかもしれない。
しかし僕は、プラトン理事長の仙谷議員の言いかけた言葉がずっと心に残っていた。それは選挙後にマキャベリの「君主論」を最近読み直しているというもので、「そこには(政治家は)誠実である必要はないが、誠実であるようには見せなくてはならないというようなことが書いてあった。」という言葉だ。この言葉を聴いたときには何だかどきっとして、この人はこの後何を言うのだろうと思ったのだけれど、仙谷議員はこの後あまりこれについては深めることをせず、他の話題に持っていったように思う。
先日のブロガー懇談会以来、僕たちのフロントに出てきて下さっている議員は、この間の懇談会で大塚議員も言っていたけれど他党にしがらみのない、生粋の民主党議員が多いのだが、周知の通り民主党には旧社会党系もいれば、自民党から来た人々もいる。
もしも「権力」に対するあくなき執着が政治家を構成する要因だとするならば、旧自民党や他党から来た人々、小沢氏はもとより管氏や鳩山氏などのほうが、ピュア民主党の議員に比べて遥かに「政治家らしい」。つまり別の言葉で言うと「ギラギラしている」(鳩山さんですらね)。それに比べて何かここに集う民主党の新しい世代は「植物的」だ。
もちろん、一概にそれをもってして「過去型の」政治家に軍配を上げるということではない。しかし、彼らを欠いた所で将来の民主党を考えるときの、このどこか不安な感覚は何だろう。
思えばこの間のブロガー懇談会で大塚議員は「極端な話、民主党が政権をとれなくても、民主党の政策を自民党が取り入れることで政治がいいほうにいけばそれでもいいと思う」というような意味のことを言われた。出自が自分と非常に近い大塚議員だから肩を持つわけではないが、この人はおそらく本気でそう考えているのだろうなと思ったし、あの場にいた人たちも同じ感想を持ったと思う。それは好印象にもなったが一方で、先に触れたような得も言われぬ不安に繋がったことも確かである。本当に血を流すような思いで、信じる政策の実現に、あるいは政権奪取に本気で向かえるのか、と。
そもそも「シンクタンク」とは何だろう。政党のつくる「シンクタンク」は、プラトンの場合霞ヶ関に依存しない政策のストック、人脈のストックを作るためという風に説明されたけれど、そのプロセスで政権奪取を目指さない政策立案は意味がなかろう。それはどこかで現政府から政権を奪い、自らの理想とする政策を実施する---霞ヶ関のオルタナティブとしての政策のストックを用意して、選挙民に信を問うためのシステムでなければ意味は半減しよう。アカデミックな議論だけをしている賢人会議では不足するはずである。民主党のシンクタンクは今、政策のストックのみならず、政権奪取へのアクティブプランをも描くことをミッションとして運命づけられているはずである。その具体案や運営計画が今日のシンポジウムからは見えづらかった。ここのリアリティに期待していた聴衆やメディアは多かったと思うがどうか。
さらに、今回のシンポジウムの主要な目的は、緊縮財政下、地方交付税が国によって大幅に切り捨てられる中、「地方と中央」あるいは「地方の切捨て」に対して批判的に対峙し、「地方分権」/「コミュニティ・ソリューション」の提示で、自民党政権との差異を印象づけることが主眼と見た。地域社会への「きめの細かさ」を言うというのがあったろう。確かに、霞ヶ関との延々たる癒着が自民党政権の弊害の一つといわれて久しい中、霞ヶ関と本当に手を切れるのは民主党政権である=そのためには官僚ではなく地域に住む一人ひとりの市民によるコミュニティ力を結集して、新しい地域社会を作り上げるというコンセプトは、国が巨額な財政赤字に疲弊している中、そして小泉政権の方向が強引な「官から民へ」路線に偏重されていることから考えれば、一定の支持を得られる土壌はあるだろう。
しかしその反面、今日のシンポジウムでは、外交や憲法と言った重要課題については、ただの一言も触れられなかった。また、現実は、霞ヶ関と今最も激しく対峙して緊張関係を作り出しているのすら、当の自民党の小泉政権ではないかという、皮肉な事象もある。
「コミュニティソリューション」が国の重要課題と比して、地味であると言うわけではないが、この重要時に船出するシンクタンクの「危機意識のありかた」としてどうであったか。もう少しバランスをちりばめる、あるいはもう少し戦闘的な政党としての顔を見せることはできなかったか。
実際クロージングセッションでも、飯尾潤・政策研究大学院大学教授が盛んに「自民党でもできることではないのか」と挑発していたポイントはここにある。
2大政党体制下での難しさは、2つの政党の間に政策に関して決定的な違いがないということであり、実際外交や憲法に関する考え方は、与党である公明党よりも前原民主党のほうが自民党に近い。そこから大連立などという暴論が出てくるわけだけれども、そうした中で苛烈な政策論争を行うことが困難であるとすると、どうしても力(=資金)と情報力、そして政治運営のノウハウに長けた現与党が有利になるのは当然である。僕などに言われるまでも無く、まさにそこに今の民主党のジレンマがあると思う。
であれば、「プラトン」の志向する方向も、プラグマティックになりすぎるくらい、貪欲なくらいでちょうど良いのではないかと考える。比較的穏便で、地方の支持も得やすい「コミュニティソリューション」のテーマは、初回のシンポジウムテーマとして民主党への好感を醸成することには大いに貢献すると思うが、それを超えた「強力な支持」を集めるための道具立てにには役者不足ではないか。経済をやるなら中央の行財政改革をもっとガチンコでやればいいし(情報を徹底的に集めて)、外交や憲法も別部会で(実際に行う予定でいるようだけれど)アクティブにやればいい。その全体的なビジョンがが見たいところである。
視点を変えれば、今回のように、インターネットに中継を「気ままに」発信しても、受け取る選挙民がそのアドレスを自然に知ることはありえない。それがいい内容であれば自然に人々が集まってくれると思えば大違いなのであり、発信する前から周到な計画と準備が必要なのである。これはインターネットのことだけを言っていると思われるとすればそれは違う。
一時が万事なのである
畢竟メッセージは本気でなければならないし、届けるための命がこもっていなければならない。
リアルもネットも同じである。
時に鬼になることが必要なことも。
ではこのへんで。
【参考記事】
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッション
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッション
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(4)クロージングセッション
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