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December 06, 2005

Time is on my side(4)-----Jの死から25年

tree

その人が銃弾に倒れてから間もなく25年が経つ。それまでこの国では、「真珠湾攻撃の日」として認知されていた日の意味を変えた衝撃の事件が起きたのは1980年12月8日。今年も間もなくその日がやってくる。

25年前。

僕はそのニュースを、確か所属していた音楽サークルの、ラウンジで聞いたような記憶がある。誰かがテレビかラジオのニュースでそれを聞き込んできて、薄汚い長椅子でその日も時を無為に過ごしていた僕たちに伝え、大騒ぎになった、と思う。思うというのは、どうにもその瞬間の記憶はおぼろげなのである。

それを聴いた瞬間は確実にショックを受けたのだが、その記憶は苛烈であるのに、今となると不思議とぼんやりとしていて、心の奥の、古ぼけて淡い器に溶け込んでしまったような感じなのだ。だがその後、やはり毎日のように通っていた薄暗いあの喫茶店の2階に行き、友人に興奮してそのニュースを伝えた時のことは、はっきりと覚えている。

「Jが撃ち殺された」という言葉の響き。
それを聞く1分前まで予想も出来なかった、世界の未だ見ぬ獰猛な姿。想像もできない挙動に走った、チャップマンという男への恐怖が強烈にあった。

会ったこともなければ、人生が実際にクロスすることもない、雲の上のカリスマの胸にめり込んだ鉛の銃弾のイメージが、匂いが、自分の胸に血の色と一緒に突き刺さったように感じた。あれ以後、いろんな有名人や芸能人が亡くなったけれど、バーチャルな銃弾が胸に突き刺さったような、あの重苦しさと痛み、そして「焦げ臭さ」を感じた経験は、それ以後ない。

ところが、興奮している僕に比べて、喫茶店で会った友人たちは押しなべて平静だった。彼らには音楽をやっている者は少なかったし、中には「S&Gが殺されたっていうならショックだけれど」とか、エルビスが死んだときのほうがショックだったと言う者もいた。

僕はどちらかというと、興奮する気持ちの行き場を失ったような状態のまま、ふらふらとその日は電車に乗って帰って、家で深夜まで、「ダブル・ファンタジー」を、ラジオで繰り返し聞いていた。世界中のラジオがあの夜はJの曲しかかけていなかった、と思う。暗闇の中で。

その後しばらくしてから、当時自分で主催していたミニコミ誌(この言葉の響きと言ったら!!)に、Jの有名な曲と同じタイトルの、今思うと(今でも時々甘ったるいが
)相当に甘ったるい短編を書いた。思い出すととんでもない話だ。

やはりJの死を受け止められずに、ふらふらと歩く主人公が、Jの音楽を自分に教えてくれた大切な女の子に電話でその悲報を伝える。Jの大ファンで、彼の話になると、一晩中でも酔った様に語り続けた彼女が、今この時間にどんなにショックを受け、打ちひしがれているかを気遣った彼の思いをよそに、やっとつかまえた彼女は「眠いから」と、迷惑げに冷たく電話を切る。
1人で放り出され、一体どうしたことかと混乱する彼の元に、その日の深夜遅く無言の電話がかかる。(彼女と思われる)無言の電話の向こうではJの音楽だけが静かに聞こえ、いつもは多弁な彼女が何も言わず、何も言葉では嘆かず、ただ無言で音楽のみでJを追悼していることを知り、その悲しみのとてつもない深さを、彼が知るという、今覚えば相当に恥ずかしく「くさい」恋愛短編である。

若かりしころの勇み足(今でも同じようなことばかりやっているが)の代表のようなその短編は、それでも狭い範囲の人たちにずいぶんと受けが良かった。この短編を読んで感動したと言って、一緒にミニコミをやりたいと言ってくる女の子も多く、また、たまたま家に来た父に見せたとき、ずいぶんとその文章を褒めたのがくすぐったかった。(父は文学部出身で新聞記者の経験を持っていた)しかし、その甘ったるい短編を書いたその同じ号に、僕が別のペンネームで書いた全く雰囲気の違うもう一つの短文には、眉をひそめた。そして

「こっちはだめだ」

芯から読むのが苦痛なように、ただそう言った。

そこには、仮想のロックスターに恋するうちに、次第に現実と仮想の区別がつかなくなり、正気を失っていく女の子の断片が書かれていた。人の「名前」というものに異常に違和感を持ち、自分の名前を呼ばれることをかたくなに拒絶するあまり、恋人との関係が崩壊していく女の子の狂気が、行き詰った、暗く狂った構成の文章で書かれていた。

今思えば、メディアの中で偶像視され、スターとして持ち上げられる者への甘美な依存と、それへの疑問や違和感あるいは不快感のようなものの、両方を僕は書きたかったのだろう。そして、それがそのまま、あの当時のJへの僕の心理だったのだろうと思う。
そして、あのころは全く気がつかなかったのだけれど、Jとの距離を見失って狂気に突き進んだ犯人、ホノルル出身の精神疾患を患ったマーク・チャップマンにすら、どこか深層の中で寄り添っていたのかもしれない。

チャップマンが、ロックスターに憧れながらも、世界と自分の位置がつかめないでもがいていたとすれば、僕の立っている場所も今にも崩れ落ちそうだったのである。それは、あれから数年たってからようやく僕は知ることになるのだ。この社会に出るときに。

さらに。

平和や飢餓に対して若者らしい甘美な夢を見ると同時に、崩れ落ちるように瓦解していった、一つ前の世代の敗北もしっかりと僕は記憶していた。Jとその思想に憧れながらも、無条件に彼を称えることも、無条件に拒むこともできなかった。自分が抱えていた、あのときの矛盾は、その後25年経っても基本的なところはほとんど変わっていないような気がしている。

Jの死から25年。

矛盾だらけだったのはJも世界も同じだった。もしもああいう形で最期を遂げなければ、Jは一体どんな姿で我々の前にいただろうか。
彼が生きていれば世界の何かが変わったと言う人もいるが、あの有名な曲で歌われた世界を、今でもあの時代のまま、本気で信じているとすれば、それはとんでもない大馬鹿であろう。だが世界は本当に何も変わらなかっただろうか。それもまた、わからない。果たして大馬鹿であり続けることが絶望であるのかどうか。それも僕にはわからない。

この25年で何かが動いたのか。進んだのか。変わったのか。変わらなかったのか。

街に輝くクリスマスツリーを見ながら、彼のあの曲を聴いて、今夜そんなことを考えた。



【参考記事】
●Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
●Time is on my side(2)-----光は今でも味方しているのか
●Time is on my side(3)-----どちらが孤独なのか

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Comments

お久しぶりです。

私も覚えています。この第一報を聞いたときのこと。
私は自宅の茶の間でニュースを見ていたのでした。
あの時の映像で出てきた、○コタハウスのエントランスの暗さや、
オ○ヨーコサンの表情なんかが焼き付いていて、
今も思い出すことが出来ます。
25年もたったのですね。

 わたしは和歌は作るけど俳句に感性を欠いていますが、12月8日を「イマジン忌」と勝手によんで
 赤ワイン 血の色とみる イマジン忌
とつぶやいたことはあります。
 思わせぶりな。まあ、しかし、俳句というジャンルへの嫌悪が潜在的にあるのかも。

ご無沙汰しています。私に合わせて伏字で(?)・・w ありがとうございます・・・って、何でイニシャルなんだか自分でもよくわかりませんが。25年なんてあっという間ですね。

今晩は。「イマジン忌」か・・和歌に感性があり俳句に感性がネガティブというのが、僕などにはよくわかりませんが、それは別のことなのでしょうね。素人ですみません。

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