天皇制がわからないことについての、短いぼやき
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本田美奈子: アメイジング・グレイス (DVD付)
移動途中の銀座線の車内の空間がふいに色相を変え、彼女の声が響き渡る。あのころはぎりぎりまで、何か折れてしまいそうな繊細さと痛々しさすらあった、振り絞るような彼女の声は、いつの間にか少し穏やかな丸みを帯びた大人の女性の歌声に変わっていた。僕は長い間、この歌声を忘れていた。
生きる者は死んだ者に煩わされてはならない。
そんな言葉は嘘だ。
僕はあなたの「ミス・サイゴン」を生涯忘れない。
本田美奈子の死-----僕は「ミス・サイゴン」を忘れない
(★★★★★)
レニ・リーフェンシュタール: Triumph of the Will / (意志の勝利)
ナチズムの強烈な存在感と、貫かれた徹底した様式美である。ナチズムの善悪について考える余裕もなく、観客はレニの卓越した、しかも隙のない演出手法に息を飲む。記事はこちら。
(★★★★★)
西 加奈子: さくら
さくらという雑種の犬と、ある家族の苦難の、そして再生の物語。なぜだろう。人間の悲しいところや柔らかいところが、くっきりと浮かび上がる。後半の泣かせパワーはセカチュウの比じゃないよ。記事はこちら。
(★★★★★)
ロバートキャパ: キャパ・イン・ラブ・アンド・ウォー
20世紀を駆け抜けた世界でもっとも有名な報道写真家、ロバート・キャパの半生を、写真、ニュース映像、日記、著名人のインタビューなどで構成したドキュメンタリー。キャパの知られざる素顔や恋愛観、人生観に触れながら彼のメッセージが伝わってくる。
素晴らしいドキュメンタリーです。
サイト関連記事は
ロバートキャパのこと---キャパ・イン・カラー (★★★★★)
柳田 邦男: 犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日
ぎりぎりの家族状況の中で自死した息子への想い。脳死や臓器移植へのアプローチは鬼気迫る。タイトルはタルコフスキーの映画「サクリファイス」から。 (★★★★★)
こうの 史代: 夕凪の街桜の国
原爆体験を伝えていくということの、新しい世代としての一つの形を示し、そのことが希望を示していると思う。物語の悲しみの深さにも関わらず。
サイトでの関連記事は
「夕凪の街 桜の国」----穏やかでスローな悲しみ
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)-(4) (★★★★★)
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わからないからこそ…、なんでしょう。
「不条理ゆえに我信ず」という言葉もあるし。(引用が見当違いか)
「なにごとのおはしますかは知らねども忝さに涙こぼるる」という歌(BY 西行法師)もあるし。
そういえば「万世一系」とニュース番組で無前提に言っていたなあ。ニュース原稿を書いた者もアナウンサーも意味が分っていっているとも思えません。誰にもわからないんじゃないかしら。
『冗談ばっかり』(永六輔)と言う本に、戦前の小学校で教師に「4歳で海に沈んだ安徳天皇に子供がいたの?」と質問して教師に殴られたという話が載っていました。
Posted by: kuroneko | February 09, 2006 08:01 PM
こんばんは。まあ、わからんわからんと言っていて解決するものではないし、元々「わかる」ことを前提に構築されているシステムでもない。「わかる」ということがもしも合理的理解なら、合理を離れたところにこのことのコアはある。それはわかります。
ところが、あたかも合理的解があるかのように、この問題を整理しようとする、基本的な部分に何一つ手をつけようとせず・・・これが世論の今の形で、これを「わからんけどいい」と言い切るには、世界は甘くないのではないかなあ。
Posted by: BigBang(>kuroneko さん) | February 10, 2006 02:23 AM
BigBan様
前のコメントは半分ネタみたいなので、もう少しシリアスモードで考えてみます。
男系万世一系が日本の伝統という議論。Y染色体を持ち出して、まああまりよく知らないんだけどアメリカの「クリスチャン・サイエンス」のように信条と科学を混淆しようというみたい。
日本の家制度は男子優先だけど「婿養子」を補完機構として持っていたから、たとえ秋篠宮家に男子が生まれても、「あれ、本家を差し置いて分家筋が跡をとるのけ」という感覚は多少残るでしょう。まして宮家に血統をたどって男の養子をとるというのは、ずっと民間人だった人が天皇職につくわけで、「天皇家は特別」という観念の人に違和感があると思う。
一方、男子でも女子でも長子相続を原則にして血統連続の確実性を増すほうがよりよい選択、という人はプラグマティカルではあるけど、血統の根拠や両性の平等を考えているのではなく、大衆社会で女性にうけがいいとか、そのほうが跡取りが決めやすいみたいなご都合主義。
そこにニヒリズムを感じて男子優先論の保守派は憤慨するのではないかしらん。(わたしには小泉首相はファシストやポピュリストではなくニヒリストだと思える)
男の子がいれば“跡取り”があって、財産も扶養も介護も「家」で担えるような時代ではないですね。家産のある家は少ないし、長男だから海外勤務はできませんなんて会社に言える社会ではない。皇室に家族幻想をみて自分の家族と類推するのは多く女性で、側室なんて肯わないでしょうし、きっと次男の家の跡取りと長男の家の総領娘とを比べて喋喋と世間話をしだす。「愛子様がお嫁に行って」、公団住宅に住んでスーパーでお惣菜を買う主婦になるのは、国民感情としていかがなものか、という議論もありそう。
「日本の伝統」と「国民の意識」という曖昧なものを自分の都合で立論の根拠にしているのだから、皇室後継の議論はわけがわからなくなるのでしょう。
Posted by: kuroneko | February 10, 2006 06:48 PM
次のエントリーで一部引用させていただきました。皇族を通常の家族と見立てて、ある程度は自己解決していただく方策も探るべきではないかと思うのですが、そのあたりを。
Posted by: BigBang(>kuroneko さん) | February 11, 2006 03:21 AM
こんにちは。
ご無沙汰しております。
>1つの命の誕生が告げられただけで
>1つの命が降り立つだけで
>全ての論議がリセットされる
>その摩訶不思議
この部分になんだか妙にうなずいてしまいました。
結局、天皇という「制度」「政治的存在?」は、なるべくなら触れない方がいいタブーであって、現行法では今の皇族の家族構成だと将来に問題が生じる可能性があるから「議論」されていただけのものなのかな、というのが現時点での僕の感想です。
ただ、次のエントリーなどを読ませていただくと強く気付かされますが、BigBangさんは、皇族(やそこに「嫁いだ」女性)という属性を持つ一個の個人の人格が完全に無視されているといった、制度が存在すること自体の「不合理」そのものまで直接問題にしようとされているのですね。
どこか「国家機関」みたいな用語で天皇の存在を認め現状を追認してしまっている僕は、無自覚のまま罪を押し付けるひどい奴なのかなと思ったりします。「議論されることが大事」みたいなプロセス論で押すのも、この場合は「逃げ」に近い部分もあるのかな、とも。
えっと、なんだかまとまらなくてすいませんが、このまま送信しちゃいますね。
Posted by: ボクシングファン | February 12, 2006 06:12 AM
別エントリーですが。
まとめてここで。
>積極的に「限界」近くまで言及しようという志を持った「非天皇の皇族」が現れ、意見を表明しようとした場合、批判しようとするなら、元来この問題のグレーゾーン性を意識した観点から、深い考察が伴わなければならないのではないか。
無自覚に「人間を機関とする制度」を受容することが大前提になっている僕(多分朝日新聞やそれに賛同する論者も)には、公の制度について国民的議論が起きることこそがきわめて「健全」であるという認識があるんだと思うんです。
(ここでは立法府の意思と国民の総意を同視します)
そうすると、「皇族」という属性を持った個人の発言には、フリーハンドであるべき国民一人ひとりの意思形成過程にバイアスをかけることを結果すると認識してしまうわけですね。「僕らからの視点で」論理的に考えた場合、むしろ「深い思慮」とさえ思えてしまう。
自分たちの中にある「差別観念」は当然の前提として疑いようのないものなのですから、皇族という個人が構造的に押し付けられている属性は、もう完全に計算外になります。それを「浅薄」とするBigBangさんのご指摘は、世界観を大きく揺らがす可能性があります。
「皇室典範は政治的なものなのか」
「特定個人の家族構成は議論の対象となるのか」
僕はそれを論じないことをして「タブーだから論じられない不適切な状態」だと思ったわけですが、さらに突き詰めていくと、実は論じることが無理であったものが「正常な状態に戻った」可能性すらあるわけですね。
「議論がなくなった」ことがおかしなことであるのは明らかであるとして、「議論をやめてしまうこと」がおかしいのか、「最初からするのがおかしい議論であることが浮き彫りになった」のか。
う~ん、これはどう「処理」すべきなのか。「非人道」に近いような、割り切れない苦しさを覚えます。
えっと…。さて…
Posted by: ボクシングファン | February 12, 2006 06:59 AM
今晩は。
>無自覚に「人間を機関とする制度」を受容することが大前提になっている僕(多分朝日新聞やそれに賛同する論者も)には、公の制度について国民的議論が起きることこそがきわめて「健全」であるという認識があるんだと思うんです。
(ここでは立法府の意思と国民の総意を同視します)
確かにここが大きな違いですね。お察しの通り、私は「人間を他と峻別して代々機関とする」制度なるものが、一貫してして理解できないわけです。子供の頃から強い違和感を感じていた。もっともそれは天皇制あるいは天皇家に対する反発ではないわけです。政治的影をいまだに引きずるものとして、皇室典範における女系男系問題などを、政治的議論の場でとりあげている体制が、ただひたすらにこの国の政治的制度の未熟の表出なのではないかと考えている。独自の固有文化、国民統合の象徴としての天皇制を文化的にリプレイスすることは、おそらく日本人はできないでしょう。これからも。しかし、政治制度から距離をとることは戦後あらかじめ宣言されている。距離をとるということは、政治的に「普通の国民になる」ことであり、政治的・言論の自由において国民より劣位の地位を与えることではないとと私は理解しているのですが(まして寛仁さまは一皇族であり天皇自身ではありません)、どうもここのところに世間と解釈の差があるようではありますね。
>僕はそれを論じないことをして「タブーだから論じられない不適切な状態」だと思ったわけですが、さらに突き詰めていくと、実は論じることが無理であったものが「正常な状態に戻った」可能性すらあるわけですね。
文化的立場と政治的立場を区別して皇族を扱えるようになることが、しいてはこの国の政治意識、政治制度の成熟に繋がるのではないかと思うのですよ。為政者が責任をどこかいつも曖昧にしてぼかすことの裏には、「元首」さえ定かでない「特殊な政治体制」があると思う。特殊であって良いものは文化であって、政治体制に特異なものは私は求めていないのかもしれませんね。タブーも。この領域でタブーや禁忌を言う人は全て幼稚に見えてしまう。私がドライに過ぎるのかもしれませんが。
#ところで、書く機会がなかったので、ここに書きますが、最近お書きになったボクシングのスパーリングのエントリー、読み入りました。他でもそういう感想を耳にしました。まさにあなたしか書けない世界が迸っていたように思います。で、ちょっと感想を書きたかったんですが、こういうとき「さるさる日記」は不便ですね。ボクシングファンさんは、あの場所に強いこだわりをお持ちのようだから、それはそれでそのまま残してフィードバックを受けられる場も、別にお持ちになる方向というのはどうかなあと僭越ながら思いました。
Posted by: BigBang(>ボクシングファン さん) | February 14, 2006 12:17 AM