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March 04, 2006

ホテル・ルワンダ---喧嘩両成敗?それは防衛のための幻想であろう。

そろそろこの問題もクロージングしたいと思っており、その旨知人にも伝えているところであるが、

■「喧嘩両成敗」的議論に潜む危険…町山氏のパンフ所収の文章に問題はあったのか?

ここで引用されている発言は明らかに私のブログのものであり、また上記事中で

「ホテル・ルワンダ」関連の議論で、うまく問題が整理できないのだが、今のタイミングで提起することに意味があるので、某所のコメント欄で書いた事を抜粋してそのまま掲載する。」

の「コメント欄」とは私のところのコメントであるので、エントリーでは(おそらく)
煙さんに向けてもう一度だけ触れておく。

「僕にとっては離れた問題であると思える震災の話題を差し挟むことによって巻き起こった議論の数々を、彼自身があるいは周りがどう評価するのかというところが、一番大事なように思う。」という発言は、問題の発生を町山氏に負わせるのに等しい発言で、それは今の雰囲気の中では受け入れやすい意見かも知れないけど、きちんとした事実関係の確認なしにされているのだとしたら、そういう「喧嘩両成敗」的な発言は相当危険だと思いますよ。」

この「僕」も私であるが、「喧嘩両成敗」は私ではなくあなた=煙氏の視点である。私の発言は、「件の彼女」に対しての反論ではなく、状況へのコメントを町山氏にいただければと思うと町山氏への希望を言ったものであり、それを「喧嘩両成敗」と解釈して批判するのはあなたの恣意的な見方である。ここの議論を見ている人であればわかるであろうが、中途から入った人が、私が何か今回の件を「喧嘩両成敗」ではないかなどという下らないオピニオンを立てているように思われたら非常に迷惑である。ここに厳として明言しておくが、ブログスフィアで他に今回の件について、批判的な立場であれ「喧嘩両成敗」という観点を出された方は私の知る限りあなた以外にいない。(もしも過ちであればご指摘いただきたい。)「喧嘩両成敗」はあなたの内なる防衛心が生み出した幻影ではないのか。

既にこのブログのコメント欄でもそれを表明したはずである。そして私の町山氏への「希望」を表明することは、私の絶対的な内面の自由でありそしてこれを拒絶するのも、無視するのも町山氏のみが対応できることであり、あなたがコメントできることではない。もしもコメントできるとお考えであればその論拠は何であろうか。

次に、「映画を見ていない」「パンフレットを読んでいない」にも関わらず提示された、町山氏への「違和感」に対してあなたは一貫して批判を重ねてこられた。そして町山氏の許可を得て、パンフレットの全文掲載をされた。この行動には私は敬服する。パンフレットを持っている私は読んだ時点でこれが掲載されれば、双方の誤解が歩み寄るかもしれないと思ったが、町山氏に連絡をとることまで思いつかなかった。その意味で、あなたの行動には感服する。

しかし、ここからである。

私は「映画を2回見」「パンフレットの文章を読み」その上で、文末に短く記載された関東大震災のコメントに違和感を持った。違和感の理由も表明した。パンフレットを全部読んだ今でもそれを撤回することはできない。
さて、お答え願いたい。ここまで行った私の「違和感を表明する自由」は、あなたの基準では許可されるのか許可されないのか。いずれか。

「喧嘩両成敗」は繰り返すがあなたが持ち出した概念であり、私はその論点には興味がない。むしろ私にとって問題となるのは、一つの言論を擁護しようと過剰になる余り、周辺の多くの言論を抑えることにもなるかもしれない、一つの事象について、である。
その多くのニュアンスをはらんだ言論は、それぞれがそれぞれの人生や世界に関する見方の中で出されてきた提示である。極論に走った1ブログが原因で、他の多くの批判の声が一からげにされて、同レベルで批判されることに対して、私は拭い去れない不快感を禁じえない。

それを表明しておきます。

【関連リンク】
内的絶対性は絶対的に不可侵であること(愛に史観を)
ホテル・ルワンダのパンフレット(人生とんぼ返り)
いや、そうではないと思うのだ (finalventの日記)
それほど関心ないんで言うのもなんだが(finalventの日記)

【追加リンク】
決定稿だと思われる。そろそろこの記事あたりでお開きにしたい。
ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる(finalventの日記)


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Comments

>さて、お答え願いたい。ここまで行った私の「違和感を表明する自由」は、あなたの基準では許可されるのか許可されないのか。いずれか。

当然許されるでしょう。今の時点で、貴方は元テキストを読んだのだから。

>むしろ私にとって問題となるのは、一つの言論を擁護しようと過剰になる余り、周辺の多くの言論を抑えることにもなるかもしれない、一つの事象について、である。

その「周辺の多くの言論」が実際に「パンフの文章」を読んだうえでなら、そのとおりでしょう。しかし少なくとも3月3日時点では、パンフの文章を引用した上で町山氏を批判している人は、私の見る限り少数、というか件の彼女を除くと皆無でした。
私の「喧嘩両成敗」的議論に潜む危険…」は、まだ私がパンフの文章を転載していない、転載できるかどうかもわからない3月4日0時18分の時点でupしました。ですからこの文は「パンフの文章を読んでいない」で発言している人間に、そして手続きを欠いた言論が多数である状況に向けたものです。

ですから、論点の一つは「元テキストを読んでいない周辺の多くの言論」を抑えることは「一つの言論を擁護しようと過剰になる」行為か否か、ということです。私は「過剰」とは思いません。Bigbanさんは過剰とお考えですか?

ちなみに、私がパンフの文章を全文転載したのは4日の03:33です。

次、「喧嘩両成敗的」について。

コメント欄の私の発言の冒頭でこう述べています。再掲しましょう。

>「差し挟む」という表現を、パンフの文章を目にしていないBigBanさんが使われることに、この騒ぎの深刻な一面を見る気がするのですね。

パンフの文章を読んでいない貴方に、「挟み込む」という、文脈上価値中立的とは言い難い表現をする資格はあったのでしょうか。
この時点の貴方は、町山氏の「日本でも…」という一文の前に、「ポール・ルセナバギナ氏は…」という文があることを知らない。そしてポール・ルセナバギナ氏のメッセージが、この映画の主題の「一部」を構成することは否定できないでしょう。その意味では日本の事例に言及する事は、映画の主題の一部に鑑みて
その上で、「日本でも…」という言及が、「挟み込み」という表現が適切なのか否かは微妙な問題です。解釈が分かれるでしょう。しかし、読んでいないBigBanさんがこれを「挟み込む」と表現する資格があるのか。
私はないと思います。

そして、こういう文脈上価値中立的とは言い難い表現の次に「彼自身があるいは周りがどう評価するのかというところが、一番大事なように思う」という発言があり、「こうなってよかったのか、あるいは悪かったのか、いずれでもないのか。僕にはこの騒ぎが本質から人の目をそらしていないかということが気にかかるのだが、かえって彼我の状況を考える契機になったと評価する方もおられるでしょう。」
この文章の流れは、「元テキスト」及び「書き手」にも問題があったから騒ぎがおこり、本質逸脱をBigさんが憂慮するような事態が起こった、と読み取られる「危険」(Bigさんの真意とは離れて)に満ちています。だから私は「危険」と言及しました。読み手ではなく書き手にも責任があった(=喧嘩両成敗的)と読み取られる「危険」を。
だから私はこの言説が「間違い」とは述べていません。「危険だと思う」と述べた。しかも「きちんとした事実関係の確認なしにされているのだとしたら」という前置きをつけて。

もちろん、元テキストを読んだ上で、書き手にも責任があると表明されるのは問題ないでしょう。しかしその手続きなしに、そのような表現をしたり、そうととれる表現をすることで安易な「喧嘩両成敗」論に流れる「危険」がないのか。

さて、私の「危険だと思う」という発言は、煙の「内なる防衛心」が生み出した「幻影」かという指摘ですが、これが「幻影」だと指摘されても私は構いません。むしろ、幻影にこしたことはありません。
しかし、読んでもいない多くの人によって「書き手」にも責任があるかのような言説が流布されていく「危険」は、「全文掲載」以前の時点ではなかったのですかね。私はそうは思えなかったのですが。

もう一つ。

>しかし、読んでもいない多くの人によって「書き手」にも責任があるかのような言説が流布されていく「危険」は、「全文掲載」以前の時点ではなかったのですかね。私はそうは思えなかったのですが。

たとえその「危険」があったとしても、あなたが向かっている相手が違うように思います。前のコメントに書いたように、読んでいないことだけが問題ではなく、読んでいないことによって明らかに町山さんの原文を誤解している場合に、あなたの言う「危険」は成り立つと思います。

直接読む前にも、ある程度の情報は取捨選択できます。私は読んだ後でも、それ以前に自分がそうした「大幅な誤解をしていたとは思えないし、あなたが批判していたuki_gumo氏もそうした大幅な誤解をしていたとは思えない。
ただ、あなたにとっては元テキストを読んでいないことが大きな意味があるようでしたので、その手続きは踏みました。

踏んだ上で、大幅な誤解がなかったことを確認した上で、それでも元テキストの未読既読経験にこだわり続けるのは、やはり過剰だと感じざるを得ません。

書かれてもいないことを、読みもしないで勝手に捏造して、言説の中心においている書き手に(捨てコメントやはてブを欠き捨てる人達にそういう人たちもいることや、その危険があることは認めます)その批判は向けられるべきでしょう。

私にしてもおそらくuki_gumo氏にしても、それらと同一視されるのは心外です。

少し勘違いされているようですが、私が批判してきたのは発言の内容ではなく元テキストを読まずに批判する人に「批判を述べる資格があるか」ということですよ。手続きなしの批判は無効だよ、批判は読んでから言うべきものだとということです。そして私は全文転載の許可を著者からとって、拙ブログで転載した。つまり私は、町山氏のテキストを「読める」状況にし、批判する「資格」を多くの人に提供したわけです。
それでも私は「町山氏を過度に防衛」している人間ということになるのでしょうか。過度に防衛するのなら転載などしない、「資格を与えない」戦術をとると思うのですけど。
なんだかわけわからなくなってきました。

いや、少しも勘違いしていませんよ。発言の内容をあなたは批判されていないし、手続きを問題にされているということを。

で、私はそのあなたの「手続きにこだわる問題意識」が、町山氏の言論(つまり最後の一文を提示したこと)への支持の故に出たのではないかと。そしてそれは他のブロガーとの議論の中で少々過剰なのではないかと感じた。と。

そういうことです。

で、私が言うのも変ですけれど、これは私がそう感じたということであり、なんら一般的敷衍性を持つものではありません。あなたがご自分でそういう意識がおありにならないなら、ご参考程度にお留めください。

私としてもあなたのことを批判ばかりしているわけではありません。それは過去のエントリーやコメントを落ち着いてお読みいただければわかると思います。

#それから「批判する資格を提供した・・」という表現は個人的にはあまり好きになれませんね。これは余計なことですけれど。

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