SNS

My Photo

My List

BooksBooks

無料ブログはココログ

« 「黄泉の犬」(藤原新也)を読んでいく(3)--あの年の記憶 | Main | 「黄泉の犬」(藤原新也)を読んでいく(4)--麻原・水俣病説への疑問 »

December 30, 2006

オーマイニュースを巡る匿名性の問題について---小倉弁護士に答える

私の記事「朝日に報じられたオーマイニュース苦戦の深刻----問題はアクセス数激減だけではない」に小倉秀夫弁護士からコメントをいただき、さらにエントリーも立てていただいたので、それについて触れようと思う。

 しかし、オーマイニュース日本版のオピニオン会員によるコメントには、内部告発や危険水域からの匿名での発言なんてものはなかったわけです。むしろ、匿名性の高いコメントを可能とすることによって、自分とは相容れない思想傾向の記事を掲載する市民記者に対して執拗にネガティブな言葉を投げつけることによってその種の市民記者がさらなる記事を投稿する意欲を奪おうという一種の言論封じのためにコメント欄が活用されたとすらいいうる(bigbanさんの言い回しを借用するならば「最初から匿名が許容されることによって封じられる記事がありますが、言論機関の長であるが故にその点を斟酌せざるを得なくなったということでしょう。)。さらにいえば、オピニオン会員は、少なくとも編集部との関係で「どこの誰であるのか」が明らかにされていなければ、コメントにより市民記者または第三者との間に訴訟問題が起きた場合のリスクを負わなくて済むわけです。 (コメント欄もwikipediaも内部告発の場ではない(la_causette))

問題はオピニオン会員のコメント権を実名化したことにあるのではない。オーマイニュースは、創刊当時から、「匿名投稿」を排除し、「実名投稿」を推奨する姿勢を持っていた。それが、鳥越氏の一連の2ちゃんねる批判に繋がったし、その延長に、コメント欄の炎上があり、オピニオン会員制度の見直しがある。汚いコメントが飛び交ったので、実名推奨したのではない。順序が違うと思う。このメディアはスタート当初から実名を重んじ匿名を嫌う立場のメディアなのである。理由は「信頼できないから」「無責任だから」「悪意の投稿があるから」としているが、その発想のベースには「2ちゃんねらー」への敵意がある。これは鳥越氏の経験的実感から形成されたものであり、創刊当時、あるいは創刊前にまで遡ると思う。
小倉弁護士は、「オーマイニュース日本版のオピニオン会員によるコメントには、内部告発や危険水域からの匿名での発言なんてものはなかったわけです。」と言われるが、これは「オピニオン会員」によるコメント欄の方向転換当時から限定して考えるべきものではなく、むしろ市民記者を募集した当時から、オーマイニュースが匿名投稿に対して極めてネガティブであったことまで遡らなければならない。

また、「内部告発や危険水域からの発言」が無かった理由は明快であり、オーマイニュースが表面的にはそうした「スクープ」を口では志向、推奨しつつも、これらの投稿が市民記者からされるための、あるいはコメンターに対しての環境を整えたり、彼らを防衛したりする意志が全くと言っていいほど、なかったからであることの当然の帰結ともいえる。そして今後も、そうした記事やコメントは、ほとんど望めないであろう。

問題は記事やコメントの質であり、実名・匿名の問題ではない。匿名で口汚い投稿が増えるリスクを唱えるなら、それに対峙して実名では思い切った発言や記事が寄せられにくくなるという、市民メディアの理念の根本に関わる問題、そして記者や投稿者の立場保全の問題が同時に語られなければバランスを欠くが、これまでのところ鳥越編集長にはその姿勢が感じられないと思う。

さらにいえば、全てのCGMが内部告発や危険水域からの匿名での発言を行う場である必要はないわけです。オーマイニュース日本版のコメント欄(正確にいえば「この記事にひと言」欄)についていえば、市民記者による個別具体的な「記事」に対する「感想や意見交換、質問など」を行うための場であって、内部告発や危険水域からの匿名での発言を行う場として用意されているものではそもそもありません。市民記者に対する「感想や意見交換、質問など」を正常に行うにあたって匿名である必要はないし、むしろ、市民記者に対する「感想や意見交換、質問など」は理性を保った状態でなされた方が建設的で有益であるといえます。

匿名が許されないのは、「コメント欄」に限定された問題だけではない。※1本編の市民記者の記事に関しても、実質上匿名でのエントリーは書けないのであり、それに加えてオピニオン会員への措置があるのである。つまり論者も評者も実名を晒す勇気がないとオーマイニュースには関わることができない。その問題も、上記の考察からはすっぽりと抜けているように思う。(加筆参照)

これは発言者の「勇気の問題」ではない。もとより、弁護士であるとか、あるいは大メディアの記者であるとかいう場合なら、組織や法的立場の強さ、あるいは成熟した対抗の精神やテクニックを持っているのであり、一般市民よりは遥かに悪意から保護されやすい環境にある。自営業者(私もそうであるが)も自分の責任である程度の発言をすることができる。
しかし、これが一般的な職場の勤め人であれば、どうか。実名で、自分の職場や関連する官公庁などの問題を扱うことができるか。それでなくても人の実名をネット晒して言論に圧力をかけることに異様なエネルギーを持つ人たちが横行している昨今である。それを押し切って実名で発言しろと主張すること自体が最初から無理がある。

やはりオーマイニュースにも、小倉弁護士にも、このあたりの水域から発言する人たちの微妙な立場への理解は少ないように思えてならない。現状、告発の発言が少ないことをもってそれらのウォンツが少ないと早々に諦めるなら、それこそ何のための市民ジャーナリズムなのかと思う。

記事にしろコメントにしろ、問題は「質」なのである。それを実名匿名の問題に一元的に落とし込んで、表面的な見え方を一時的に整えても、何の解決にもならないと思う。

自分とは相容れない思想傾向の記事を掲載する市民記者に対して執拗にネガティブな言葉を投げつけることによってその種の市民記者がさらなる記事を投稿する意欲を奪おうという一種の言論封じのためにコメント欄が活用されたとすらいいうる。

「コメント欄の罵倒によって投稿意欲がなくなった」という市民記者の「悲鳴」は私も何度か耳にしたが、それではこうした記者に伺いたいのは、一体何を期待してオーマイニュースに登録して記事を「目立つところで」書かれたのかということである。こうしたメディアで、見解の分かれる政治的な問題を論評したり、甘い論理の記事を投稿したりすれば、攻撃の言葉を浴びるのはあらかじめ覚悟を決めてかかるべきなのであり、それによって「やる気がなくなる」なら、その記者の発信のモチベーションが、元々その程度のものであった、それなら無理に発信するほどのものではあるまい。と言えば言い過ぎだろうか。

口汚く荒れるコメント欄への対応ということなら、オピニオン会員制度の改革などという、制度的かつ小手先の対応ではなく、これらに対応する技術や精神的面での向上、記事を書くということがどういうことなのかという、市民記者の意識向上、そしてネット上での議論スキル、適切なスルー力といった、これまでネットで語られてきた基本が、粛々と再確認されるべきであったのではないだろうか。

加えてWikipediaの問題。

「wikipedia」もまた、内部告発や危険水域からの匿名での発言などというものを掲載する場ではありません。むしろ「『内部告発された事実』という編集者等が容易に検証することが不可能な記述をwikipediaに持ち込まれてもそれは困りものだとすらいえます。そういう意味では、wikipediaにおいて匿名性を維持する必要はないし、むしろ、匿名性が保たれた環境ではその党派性を剥き出しにする人が少なくない我が国においては、wikipediaにおいて匿名性を維持する限り、イデオロギー闘争の場として編集合戦が行われるという悲劇が発生する虞が高度にさえあります。

これも少々論理がおかしいと思う。「編集者等が容易に検証することが不可能な記述」は匿名によってのみなされるわけではない。Wikipedia編集においても、歴史的な事象はともかく、現実的なテーマに関するディープな情報提供は、むしろ事象に関わる利益を持つ、あらかじめ推定可能な人物によってなされる場合が多いのであり、それらの利害対立から問題がゆがめられることはあるが、匿名だからといって提供される情報が「検証しづらい」わけではない。ここでも実名性と情報の質との相関関係はそれほど単純ではないのである。つまり情報の「検証しやすさ」と投稿者の「実名性」の関連を必然化するには考察が足りないと思う。

いずれのケースにおいても実名の人物は信頼できて匿名は信頼できないという先入観が先行し、「情報の質を検証する」という、より重要なプロセスへの考察が後回しにされているところが気になるのであり、「悪意の匿名の2ちゃんねらーたち」はその理論構築ためのツールに使われているように思えてならない。



【12/31加筆】

※1 この部分に関して、投稿に際しては「ペンネーム」は認めているので、「匿名でエントリーは全く書けない」というのは事実誤認であるというご指摘が市民記者に登録されている方からあった。確かに「場合によっては実名以外で投稿することもできます。」とは、既に早大のシンポジウムでオーマイ側から説明があったように記憶しているが、それが実際に運用されているかどうかについて認識が無かった。加筆訂正させていただきます。オーマイの編集部に実名を重んじ、匿名を排除しようとする姿勢があることは変わりがないので、全体的な記事のトーンは修正しない。

« 「黄泉の犬」(藤原新也)を読んでいく(3)--あの年の記憶 | Main | 「黄泉の犬」(藤原新也)を読んでいく(4)--麻原・水俣病説への疑問 »

Comments

あっはっは。初笑いですw
内部告発はオーマイは保護する気はない、と編集次長自ら自社の事例で言い切ってます。
これじゃ市民記者に告発形のスクープなど夢のまた夢でしょうなw
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000004326

ゆーすけさん。あけましておめでとうございます。当該の記事は、佐々木さんのオーマイニュースへの批判手法に関するものへの反論であり、「内部告発」全般を保護しないという趣旨ではないと思います。
が、ようやく出た平野さんの反論。自分でも散々言っているようですが、なぜこれほど遅くなったのかと思います。少なくとも彼が佐々木さんの言説をどう受け取っているかということは、わかります。
松永さんのジャーナリズム観も念頭アップされたし、思うところもありますが、このあたりはまた別に考えて見ます。

見てられたかもしれませんが、小倉さんのところにちょっと行ってきました。
話になりませんねこの人w
松永いじってたほうが、屁理屈こくだけまだ面白いですw この人はなんかもう、どっか別の宇宙に行ってますねw
なんなんですかね。弁護士なんだからなんらかの意味で頭はいいんでしょうが。
事実は確かめない、論理はない、他人の話は聞けない、論敵への攻撃は思いこみによるレッテル貼りだけ。
なんというのか、「正義」か「悪」か、「良い人」か「悪い人」かの二元論でしか世界を見られないんでしょうなあ。

とにかくこの人の「二択ぐせ」には笑いました。なんでもかんでも2択なんですね。別の可能性があって3択なのか4択かもしれない、そもそも設問が間違っている可能性、とかは考えられないようです。
世の中のすべては「良い」か「悪い」かの2択で決められと考えていますねw

この方はもう誰が見たってヤバイとわかるし、もう関わる必要もないかと。
松永は論理的にも哲学的にも間違っていますが、もしこういった人と関わってきたのなら同情する余地もあるかもしれませんなあ(笑

しかし鳥越氏だの平野氏だの、あっちに行っちゃった人で重要なポストについてる人って多いんですかね?
はてなサヨクなんて感じで若い人にも論理の通じない人が多いし、日本は大丈夫なんでしょうか?w

*以上、まあ正直な感想です。この投稿も内容はないんで、消去していただいてけっこうです(^ ^)
 小倉氏はどうせ匿名の「わるもの」が「悪口」を言っているとしか見られないんでしょうし。

小倉さんのところ、無論見てましたよ。
 グローバルスタンダードとか連発され始めると、もういいかなという感じになってきてしまった。

#ゆーすけさんのコメントは、いつも返し方に困る。苦笑

finalventさんもちょっと触れられましたね(笑
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070109/1168304061

The comments to this entry are closed.

TrackBack

» [ブログ] 土俵の覚悟 [けろやん。メモ]
https://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/12/post_b0a9.html BigBangさんらしい緻密なエントリ。私は、参加型ジャーナリズムについて、期待していないというよりも、その構造自体に嫌悪感を抱いている。そのことについては、来年に書く。 さて、私が、上記エントリ... [Read More]

» オーマイニュースに2ちゃんねるの亜流になることを望んでどうなるのか。 [la_causette]
 私の「コメント欄もwikipediaも内部告発の場ではない」というエントリーに [Read More]

« 「黄泉の犬」(藤原新也)を読んでいく(3)--あの年の記憶 | Main | 「黄泉の犬」(藤原新也)を読んでいく(4)--麻原・水俣病説への疑問 »

-