「この悲しみの意味を知ることができるなら 世田谷事件・喪失と再生の物語」------スティグマを背負って
理不尽なとしか言いようのない犯罪、世田谷一家殺人事件に巻き込まれた家族の、隣の敷地に暮らしていた姉が、匿名で書いた「この悲しみの意味を知ることができるなら」は、あの日、凄まじい暴力に殺された家族は、宮澤みきおさん一家以外に、もうひとつあったのだということを知らせてくれる。そしてそれは、犯人によってのみならず、メディア、そして我々によってもなされたと言えるのだ。
ここには、今までほとんどメディアに登場してこなかった、みきおさんの妻泰子さんの姉(仮名:入江杏さん)が生きてきた軌跡がいかに厳しいものであったかが、あの日の事件現場の迫真の状況とともに、書き込まれている。
あの事件と自分との微かな関わりについては、「「世田谷一家殺人事件」と、あの時代の「深い浅ましさ」について」で書いた。宮澤さんは、私が一時籍を置いた企画会社の契約社員として、その名刺を持って動いていた時期があったのであり、捜査の対象範囲の中に当時の同僚達がいた。現場の風呂場には私たちの会社の幾人かの名刺も他に混じって投げ込まれていたという。
今回この本を手に取ったのも、何かほんの些細なことであっても、何かその中に見えるものがないかと思ったのがきっかけだった。他の全ての人たちが見落としても、自分の目に引っかかる何かがあればと。残念ながら、そうしたことには遭遇しなかったが、それでも読んでよかったと思う。
入江さんは、降りかかった事件の悲しみを冒頭でこのような比喩で表現する。
「私というミクロコスモスを照らしていた大きな星がいきなり4つも消えてしまったとき、私をとりまく星空はすっかり姿を変えてしまった。星ひとつが消えたことで、その星をとりまく幾多の星雲もまた離れ、光を放たなくなってしまった。美しかったタペストリーはずたずたにされてしまった。金糸も銀糸も鮮やかな糸は断たれ、布は裂かれ、織り出されていた模様も定かではない。どんな物語が織り込まれていたのか、これからどんな美しい絢を織り成すつもりでいたのか、断ち切られてしまった布からは読み取れないのだ。」
入江さんが口を開いたことにより、おそらく社会が初めて臨場感を持って知ることのできた事実が満載されているはずだ。宮澤さん一家と、入江さん一家は、開発が進む近隣で孤立し、周囲に家もなくなってしまった状況に治安の悪化を懸念し、まさに転居する直前だったことがわかる。また不明にして私は知らなかったが、宮澤さんの長男、礼君が発達障害を持ち、それを悩みつつ奮闘した宮澤さん一家のの娘への慈しみ、さらにはそれも、一家の転居が遅れたと一因になっていたこともまた知らされる。
事件は、さまざまな要因が噛み合って、この一家に降りかかったのであろうが、それが見えない。入江さん達が脅かされたのは、妹一家を全滅させた悪意の正体が全く見えないこと、そしてそれがあるいは本来は自分達の上に降りかかったかもしれない悪意であったという観念によってである。つまり妹一家は、誤って自分達の身代わりになったのかもしれない。当然のことだが、その可能性を捨てることができず、そのことによってまた苦しむ。
「警察には、いつも身辺に気をつけるように言われてきた。「もしかしたら、宮澤さんたちはご主人と間違われたのかもしれません。」誰でも、そんなことを言われれば、たまらなく心配になるだろう。でも、ただ「身辺に気をつけるように」というばかりで、具体的にどうしたらよいかの指示はない。私たちの身辺にとりわけ気を配ってくれている様子もなかった。いたずらに恐怖をかきたてられるばかりだった。」
すさまじいメディアスクラムに一家がどれほど悩まされたかということも詳しく書かれている。道行く人がみな自分達を指して不幸が降りかかった「忌むべき者」として眺めているような気がするという節も。心無い言葉も多く浴びせかけられた。
次のような心に響く一節がある。
「私もそうだったように、多くの人々は、人間は幸福であるべきであり、不幸はよくないことだ、という価値観にしばられている。幸福であるときは、不幸になることを恐れ、忌み嫌う。でも不幸、あるいは不幸に伴う苦悩は、人生に不可避なものだ。もし、こうした価値観に囚われていると、不幸であること自体がいっそう不幸を助長させる。不幸を、苦悩を、意味あるものと受け止める勇気さえ捨てて、不幸であることを恥ずかしく思ってしまう。」
あるいは次の箇所
「スティグマ」という言葉がある。他者やその社会集団によって押し付けられた負の表象であり、社会的な汚名のことで、もともとは奴隷や犯罪者であることを示す。刺青などの肉体的な烙印をさす言葉だ。犯罪者として十字架に架けられたキリストの掌にある傷も、スティグマータと言うそうだ。」
過酷な負の汚名を負った人であれば一つ一つが心に響くだろう。
突然の災害や事件に巻き込まれた人たちを目にするたびに、「なぜ今回は彼らであったのだろう。なぜ自分ではなかったのだろう」という思いに駆られる。ほんの数センチ、数ミリ、あるいは数秒の時間のずれがあったなら、彼らは自分であったろうし、自分は彼らであったろう。それなのに、ひとたび「不幸になった者」が決定してしまうと、社会は自分達と、その者達との間に、厳然とした境界線を引き、「スティグマ」を課すのだ。
どんなに同情的な言葉を投げかけたとしても、彼らは彼らであり、自分達ではないのだ。入江さん達が苦しんだのは、この厳然として容赦のない見えない境界線であり表象=スティグマであった。単に「偏見」とか「差別」とかまとめて終わりにするには、与えられた運命と同時に、このスティグマは余りに苛烈だったことがわかる。
入江さんは、そうした絶望と悲しみの深い淵から、立ち上がってくる。かねてより行っていた子供達への童話の読み聞かせや、童話の執筆、そして犯罪被害者の遺族としての経験を、他の人々と語り合うことによって。
本書後半には、その入江さんの自己再生の過程が、穏やかな文章で綴られており、このような凶悪な事件の記憶の中にあっても、人が必ず回復して行けるのだという希望へと繋げる内容になっている。どん底に落ちたときにも、人は這い上がっていけるのだ。
「この本を書くことで私は、自分自身と和解することができました。やっと自分に対しても他の人に対しても心を開くことができたのです。それまでは心のそこで自分を責めていました。あんなに辛い思いをして亡くなった妹たちを思うと、私が生きる喜びに向こう事が許されるのだろうか、とずっと自分に負い目を感じていたからです。」
入江さんが絶望の淵からここまで這い上がってくるのには、決して短くない時間を必要とした。その過酷な時間については、本書でも描ききれまい。
しかも事件は解決していない。未解決のまま、間もなく2007年の12月31日で7年目を迎えるのである。
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メリークリスマス!
今でもしぶとくいろいろやってるボクシングファンです、
お久しぶり、こんにちは。
このエントリに、なんとなく、
僕がつい最近書いた日記と重なる部分を感じて、
コメントしてみようと思いました。
犯罪、それも悲惨な結果を伴う凶悪犯罪では、
被害者が被害を受けました、
加害者が罰を受けました、
だけでは済まない様々な影響が生じますよね。
直接的ではない部分にまで
たくさんのスティグマが刻み込まれてしまう。
その結果、「境界線」が引かれてしまう。
僕は、そのような解決しがたい問題に対して、
悲しい、どうすればいいかわからない、と、
中学二年生でも言えそうなことしかいつも言えなくて。
それだけに、
BigBangさんが紹介される「本書後半」が、
とても具体的な示唆をしていることに
強く興味をひかれました。
またBigBangさんに勉強させてもらったな、
と思いました(勝手に)。
これからもよろしくお願いします。
Posted by: ボクシングファン | December 25, 2007 05:22 PM
ご無沙汰しています。ボクシングファンさん。日記は時折拝見しています。この本は悲しみに途方に暮れているのでもなく、また型どおりの恢復の過程を描いているのでもありません。
亡くなった妹さんはもちろん、このお姉さんの生き方だとか、知性だとか、色々なものを感じましたし、隣家にあって何も気がつかなかった悔恨と恐怖も感じます。
もしお読みになっていなければ、ぜひお勧めします。
Posted by: BigBang | December 27, 2007 02:19 AM