「没後120年 ゴッホ展」 来るのが遅すぎると画家の声は聞こえなくなる
国立新美術館「没後120年ゴッホ展ーこうして私はゴッホになった」を観に行った。目玉となる作品が少ないという評判は、おそらく正しいだろう。有名な「ひまわり」は1点もない。印象に残ったのは「自画像」「ゴーギャンの椅子」「アルルの寝室」「サン=レミの療養院の庭」というところだったが、先日オルセー美術館展に出展されていた「星月夜」などのような強烈な作品もない。どちらかというと地味な作品展だろうか。(アルルの寝室の再現や安住紳一郎の音声ガイドというような工夫はされてはいる)
タイトルに表されているように、この展覧会はゴッホの人生。それも「ゴッホがゴッホ
になっていくプロセスを見せること」が主題だと悟る。そのために同時代の作家たちの作品がかなり出展されていて、多くの画家たちに影響を受けながらゴッホが画家としての成長していった様を見ることができる。
また、画家となるべく彼が積んだ途方もない研鑽の素描、ミレーなどの模写が多く展示されている。それはもちろん地味なものであり、アルルの輝く光の中で狂気寸前に画家として頂点を迎えたゴッホ、いわゆる我々の知っているあのゴッホとは違う時代のものだ。
若くして人生に挫折を重ね、27歳で画家になることを決心してから狂気のうちに自らの生涯を閉じるまでのたった10年あまりしかないその画家としての生涯。決して早くないスタート故にじれるように焦るように、奔るように、狂ったように模写を繰り返し時には悪評を得ながらも独自のスタイルを激流のように身につけていくゴッホの画業のプロセスを見ることができるのは貴重な機会だ。実際その10年も大半は研鑽にあてられ、本当に「絵を描いていた」のはその半分ほどでしかないことも知る。
オランダからパリに出てきてロートレックやゴーギャンに出会うまでのゴッホは、おそらく武骨な垢ぬけない「オランダ的」な画家であったのだろう。農夫の労働を執拗に描く姿はゴッホが生涯引きずる「ヒューマニズム」臭なのだけれど、この人は孤独な人であったのだ。自らも描いていた「じゃがいも」はその時代のゴッホの分身だったろう。
弟テオへの手紙については「ゴッホの手紙」としてよく知られているけれど、パリに出てきて共に暮らしていた兄弟は、日本の浮世絵を収集していたのだということも知った。歌川国芳や国貞などの作品も現在ゴッホ美術館に収納されているとのことで、同時に見ることができる。
胸が苦しくなるほどにストイックな画業のとば口から入って、パリ、アルルでのまぶしい光、共同体幻想を結ぼうとしたゴーギャンとの確執と失意の耳切り落とし事件、そして最後の時を過ごすことになるサン=レミ療養所。順に作品を見ていくことは、最後の悲劇的なエンディングを知っていながら、敢えて物語の終わりが予想したものでないことを祈ってしまうような錯覚に陥る。
だが結末はもちろん変わらない。やがてゴッホはあなたの目の前で命を絶つ。
生涯に1枚しか絵の売れなかった孤独なオランダ人の作品はあろうことか、たった120年の後に、浮世絵を生んだ東の果ての国の我々の目にまで触れるようになった。ゴッホの死からたった1年で後を追うように病死したテオのできなかったこと。それが結局は絵を描くことのほかには何一つできなかった兄を最後まで支えることだったとすれば、その善良な弟の希望もかなえられ、会場を出れば、我々の前には溢れるほどの俗っぽい「ゴッホグッズ」が並んでいる。それでも僕はそのいくつかを買い、分厚い図録まで抱えて美術館を出てきた。
きっと人は、心の一番揺れている若い時代。心の苦しい時代にこそ、この画家の絵を見るべきなのだろうと思う。画家が背中をどちらに押してくれるかはわからないけれど。だが、我々はしばしば人生の一番しんどい局面を切り抜けて生活を築き、時間に余裕ができてから美術館に訪れる場合が多いのだ。今日も初老の客が多く声高に語り合いながら満足げに帰っていく。
でも来るのが遅すぎると画家の声は聞こえなくなるのだ。そういうことがわかるのもずっと後になってからのことだったけれど。
何度来ても思うことだが、夕暮の新美は本当に美しい。
僕には何かが聞こえたのだろうか。
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