映画「100,000年後の安全」-- 「忘れ去られるべきこと」を忘れないこと。放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」の挑むもの。
「ロケットに乗せて太陽に打ち込んでしまう事も考えた。しかし打ち上げに失敗するかもしれない。海底深くに埋める事も考えたが、地形が変わらないとは限らない」(映画より)
原発に賛成の立場を取ろうと、反対の立場を取ろうと、我々が忘れてはならないことがある。それはすでに人類が生み出した、世界中で25万トンとも言われる放射性廃棄物の存在である。この先。我々がどんなエネルギーを選択して生きていくにしても、既に生み出されたこのデーモンは容易には消え去る事はない。それらが完全に無害になるのは、気の遠くなるような未来。およそ10万年先であるということをあなたは知っているだろうか。
果たしてこのデーモンを我々はどうしたらいいのか。フィンランドは、この問題に真っ向から向き合っている極めて特異な国家である。この国は、海外からのエネルギー依存に頼る事なく、自前で確保するためにあえて「過渡的な形態として」原発を選択した。しかし、その思索のフレームは、我々日本人とは全く異なっている。
「100,000年後の安全」は、フィンランドのオルキルオトに建設中の、原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場“オンカロ(隠された場所)”と呼ばれる施設に、世界で初めてカメラが潜入したドキュメンタリー作品。安全になるまで10万年を要するという高レベル放射性廃棄物を、果たして安全に人類が管理できるのかという問題を、フィンランドの最終処分場の当事者たちに問うている。SF映画のような非現実感と、どうすることもできない現実との間のバランス。その強烈な対比の中でこの映画は出来上がっている。同時に私たちの心の奥深くに、知のゲームを挑んでくる怪しい魅力にも包まれているのだ。
「オンカロ」(隠された場所)と呼ばれるこの施設は栄光を刻むものでも、未来の人間と対話するためのものでもない。それはひたすら「忘れ去られる」ために作られている。ではどうしたら、忘れ去られることができるのか。
ある学者はこの施設のゲートに警告の表示をすべきであると考える。「この先に行ってはいけない。戻れ。ここは来てはならない生命に関わる危険な場所である」ということを、「侵入者」に伝えるべきだというのだ。しかし、果たしてそれをどのようにして伝えたらいいのだろう。現存する世界各国の主要言語でそれを記する事はたやすい。しかし、その全てが解読できなかったら?10万年は気の遠くなるような未来だ。今から10万年前のことを考えればそれがどれほど遠い未来なのかわかる。地球で最古の建築物はおそらくピラミッドだというが、それもせいぜい1万年もたっていないのだ。遠い未来の人間が我々の文字など理解できるだろうか。そもそも、我々の考えている事など理解できるのだろうか。いやいや、もっと恐ろしい想像が誰にもよぎる。
果たしてそこにいるのは人間だろうか。
文字に信頼を置けないなら、ビジュアルで伝えたらどうかと考える者もいる。不安や危険、立ち入れば死に繋がる意味を伝える記号(例えばドクロマーク)などを配した絵で危険を伝えるというものだ。たとえ言葉が通じなくても、潜在的な恐怖をそそるビジュアルは必ず時代を超えて「彼ら」に伝わるだろうという考えだ。(ここでムンクの「叫び」をその例に引く人がいて興味深い。「叫び」こそがその恐怖を伝えうるのでゲートに掲げるべきだというのだ)
これらに反対を唱える人もいる。こういった表示をすること自体が、侵入者の興味を引き、かえって危険に繋がる。あるいは売却して(!)一儲けを企む者もいるかもしれない。一切の表示をしないことこそが、唯一のソリューションだという立場だ。
そもそも、未来の「人間」はこの時代のメッセージをどれほど理解できるのだろうか。放射性物質が危険だということはわかるのだろうか。10万年後にはおそらくすべてのウランは掘り尽くされてこの世には存在していないかもしれない。そういった時代にあって、10万年も前の「危険物」、10万年前の人類からの絞り出すような警告が届くのだろうか。
「我々はピラミッドが作られた意味だって全てを正確に理解していないかもしれない。全てを伝えるなんてとても無理だ」
と首をすくめる科学者もいる。
「放射能が危険だということも理解できないならここまで奥深く掘削する技術はないのだから心配はない」
と主張する科学者もいる。未来の文明が我々よりも進んでいる保証はない。文明はもしかしたら、我々をピークに退化するかもしれないのだ。しかしこれにも反論が出る。
「14世紀の南米を見てほしい。そのころは金鉱を掘り出すために掘削技術だけが異様に発達していた」
放射性物質の意味や危険性を全く理解できないまま、何千メートルもの地中を訪れる事のできる者などいるのだろうか。ないようにも思える。しかし、それでも絶対にいないという保証はない。(そして、もう一度言うがそれが人間であるという保証すらない。)
「忘れ去られるべきこと」を「忘れないこと」。これが安全が継承される唯一の道だという。では、果たしてそんなことをどうやって実現すればいいのだろう。思考のポジションによらず、これを真っ向から尋ねられた人々は誰もがちょっと苦笑して首をひねる。しかし、まぎれもない事はフィンランドの国民も国家も、この一見トンデモな計画こそが、未来を守る唯一の方法だと長い試行錯誤の末にたどり着き、信念に達し、今もそれを真剣に考え続けているという事実だ。
自分が生きている時代にすら責任がとれないのに、あなたは10万年後の「何か」のために知を尽くす覚悟があるか。もう逃げたくなるような思考のパズルに延々と向かい合わせられる映画なのだ。しかしこれはSFではない。福島を経験した我々はこれが現実の一部であることを知っている。
放射能。それは一体何なのだろう。
オンカロの完成までには100年を要するという。
※渋谷「アップリンクファクトリー」上映中。鑑賞料は、一般=1,600円、学生=1,400円、シニア=1,100円ほか。そのうち200円を東日本大震災の義援金として寄付する。
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