底が知れない
2011年のことをぼんやりと思い出すと日常に降ってきた突然のそれも激烈な災禍であるということがある。それも3月11日の午後の時点では東京にあって、ことの大事には気がついていなかった。テレビの映像は遠い世界のようで、たくさんの人が死ぬとは思ったがその夜のメルトダウンには夜中過ぎまで気がつかなかった。
GWに閣僚がこぞって外遊に行き、平和そのものの渋谷の雑踏にまみれて、通常の連休とただ違うのはミサイル発射の報でメトロが緊急停止になったこと。東京にミサイルの標準を合わせている国が確実に存在し、場合によっては迎撃しなければならないこと。その際には頑丈な建物に避難しろと政府が人ごとのようにどこか遠いところで言っていること。
これは何なのだろう。圧倒的な非日常が圧倒的な日常の隣にある。
あの311を思い出すのは、災禍の凄まじさに反比例した正常化バイアスの凄まじさ。もちろん自分も含めて。
現代の戦争というのは、きっと過去のあらゆる戦争とは異なる。それがどのように始まるのか。開戦後にも109で買い物を続ける若者がいるのかいないのか。メトロが何度もJアラートで停止し、それにも慣れてサラリーマンは会社に急ぐのか。そんなプロセスを飛び越えてある時に閃光が走るのか。。何もわからない。経験したことがない。
1930年代から敗戦まで15年以上にもわたって進行したことが、現代の戦争では一瞬にして、たとえば10日間ほどで進行するのかも知れない。
予測不能(いや予測はしようと思えばできた。しようとしなかった)であった福島の大惨事すら、「あっちでよかった。こっちでなくて」と流そうとする者がいる。あれは皆の本音だとうそぶく者がいる。
自分の頭上の1発の閃光などたぶん、ない。ないはずだ。あるとしても考えてもどうしようもない。ならば今日のこの時を、楽しいことだけ考えて暮らす方がいい。終わるなら終わるでみな一緒だろう。仕方がない。
底の知れない刹那というかデカダンというのだろうか。自分たちがたどり着いたのはこういう世界だ。ここまではそう。これからはわからない。どんな世界になるのか。わかったところで抗しきれるのか。
GWの戯言である。
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