ツイッターとマストドン---有限と終焉と分散
ツイッターが始まった時に描いた衰退と終焉のイメージは地球上の人間の数と個人の時間が無限ではないこと。凄まじい勢いでフォローを重ねるといつかフォローすべき人がいなくなる。また投稿を読む時間もなくなる。誰も互いをフォローをしなくなればそこでツイッターの成長は止まる。そういうものだった。
現実はほぼその通りに動いている。国家の管理も露骨に見えてきて、アドには深くまで踏み込まれている。それでも「成長しない数億のコミュニティ」であっても健在だから、直ちに滅びては行かない。
だが終わったものは終わったものであり、「最近ツイッターがつまらない」という日常感覚はこの背景があると思っている。
本体に比べてまだ芥子粒のような規模だけれど分散SNSであるマストドンが出てきたのはこの流れにも関係している。小さなコミュニティだけれど、どのインスタンスも(品性はともかく)活気に満ちている。数億の管理された成長の止まった大海よりも数百人のアクティブなコミュニティがあれば、実はそれでいいのではないか。そんな試行錯誤の1つの枝だと思う。
これらがさらに分散を重ねるのか、いつかツイッターのように集積されていくのか、単に衰えるのか。まだ全くわからないけれど、自分のインスタンス1つさえあれば制限を受けることなくそこから世界のインスタンスに対して窓を開いておける。
5月のあの日本のマストドンの熱狂の中で衝動的にインスタンスをつくって以来、費用というより自分のメンテ負荷は半端ないが代え難い自由の快感があることだけは確かである。
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