相対化と平準化-関東大震災の朝鮮人虐殺
小池都知事の言う「哀悼の言葉は震災で亡くなった全ての人に哀悼を捧げるのであり特定の民族に捧げるものではない」というような論理で「そのこと」に触れないのなら、アウシュビッツの大虐殺も広島長崎への原爆投下も相対化され平準化されてないことにされていく。美はディテールに宿ると言った人がいるが、歴史の真実もまたディテールの蓄積にしかないのではないかと思う。
小学生の恐ろしい作文
寿小 学年不明 男子
(略)僕はねえさんと弟といもおとをつれて、山ににげたが、だんだん日がくれて.米をはないためおなかがすいてきたが、たべるものがないから、そこにあったとんもろこしをおり、それをなまでたべていたが、夜となると、あちらでもこちらでも朝鮮さわぎとなってきたから、僕が竹やりをもってまわりをかこっていると、むこうでは朝鮮人をころして万歳々々とさけんでいる。そおすると、又むこうで、朝鮮人が行ママたぞと云うと、「ずどん」と一ばつうったから、僕はおどろいて、一正ママけんめい又まわりをまもっていると、すぐまいに朝鮮人がいたと云うを、みんなは「はあー」とさけんで、たちまち朝鮮人をやすけ、僕は人ママあんしん。遠をみるとまたどんどんもえているが、まもなくけいた。(略)
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